子育てパニック 凄い言語環境
今日は、日本語教室ボランティアとして、インドの方の学習サポートをしてきた。
6年前に来日されて、日本語を勉強し始め、日本語検定4級も合格している。
先日も地域の子どもたちにインドの遊びを教えるイベントで上手に日本語を使って説明してくれた。
要するに日本語教室に於いては、中級者以上のレベルの方なのだ。
先週は中国の方と一緒に「中級テキスト」を使って学習サポートをした。
今日は、中国の方がお休みだったので、彼と1対1になり、彼の困っているところも聞く事ができた。
実は、日本語検定を受けた2年前はよく分かっていた「ひらがな」が書けなくなっているという。
確かに、「す」「の」「お」などの丸が含まれるものは同じような字になってしまっていた。
「ひらがな表」は全て埋める事ができなくなっていた。
学んでできていた事が2年経って出来なくなると言うことはよくある事だ。短大までしか英語を習わなかったし、得意でもなかった真愛なんかは、中学校の一年生レベルも覚えていない。
ただし、中1の時に筆記体で視写する事を褒められた真愛は、未だに内容は全く分からず全く音読できなくても、「美しく視写」することができる。好きでたくさんやったから身についたのだろう。
「ひらがな表」を覚えさせられるだけ、日本語検定4級に受かるだけの「テスト対策学習」では、6年も経ったら忘れるのも当然だと思った。
初めて彼とたくさん話が出来て気づいたことがある。
ネパールの子を教えていた時も、中国の方と話す時も同じ事を感じた。
外国の方は、単語はたくさん覚えていらっしゃるが、その単語を繋ぐ格助詞
「が・の・を・に・へ・と・から・より・で」
のような体言に付いて、文の中での意味関係(格)を表す、格のくっつき助詞が使えない。
並立助詞
「の・に・と・や・し・やら・か・なの・だの」のような2つのものを並立させる助詞も…。
副助詞
「ばかり・まで・だけ・ほど・ぐらい・など・
なり・やら・か・がてら・なぞ・かり・ずつ・
のみ・きり・や」
のように体言や副詞、格助詞の後などにつき全体として副詞的に働く副助詞も…。
係助詞(けいじょし、かかりじょし)
「は・も・こそ・でも・しか・さえ」
のように、「ついた語」に意味を添えて強調する助詞を使うことも難しい。でも、「しか」は多くの方がよく理解してくれる。
真愛の貧しさが超現実的表現をするので、心に残るのだろう。
接続助詞
「ば・と・でも・けれど・が・のに・ので・
から・し・で・ながら・たり・つつ…。」
終助詞。間投助詞・・・!
ここまで書いて、気分が悪くなってきた。
日本人の真愛ですら、こうなるのだから、きっと外国の方には辛い、難しい部分なのだと思う。
ところが、言語とは不思議なもので教えるつもりがなくても、我が孫は2歳6ヶ月ごろに
「私は、忖度しますだね。」
と,片言で言った。
意味は分かっていなかったと思うが、滅多に会わない真愛ばあちゃんには、「お利口さん」と褒められたいと思うのか、とても聞き分けの良い子になった。
それを見ていたママが、笑いながら
「〇〇は、忖度するんだから…。
私は、忖度します、だね。」
と、真愛ばあちゃんと楽しそうに話していた。
そんな環境にいたから、覚えてしまったのだ。
恐ろしい言語環境でもあるが、素晴らしい言語生活環境なのである。
厚洋さんは、学生時代アルバイトで通訳をするほど英語は話せていたようだ。
だから、一時期、英会話教室に通っていた真愛に向かって、
「本当に使える英語が学びたかったら、
アメリカかイギリスに1・2年。
一人暮らしをすれば確実に覚えるよ。
金があって時間があったらのことだけどな。
一切、その言語でしか生活できなくなれば、
必死で覚えるんだ。
そして、最終的に口喧嘩ができたり、好きな人
に気持ちを上手く伝えたりできたら、
まあまあかな?
でも、帰って来て使わなくなったら忘れるね」
と言って笑われた。更に
「日本で育った人がブラジルに移住して
英語もポルトガル語も完璧に話し、地域の有力
者になった。
その人が年を取り、亡くなる最期の譫言の様な
言葉が日本語だったそうだ。
近親者は何を言っているか分からなかった。
凄いだろう。三子の魂って言うけど、
幼い時の言語生活は最大の教育なんだよ。」
と付け加えられた。
この言葉から、真愛は「言語教育について」研修をすることになり、教研病になるほど持論を発表した。もちろん支援してくれたのは厚洋さんであり、千葉大の首藤先生だった。
「言語生活者」として学び方を身に付ける事は、生涯を通じて「幸せ」に生きられる事だと思う。
「学習させる」「教える」なんて言う無理矢理ではなく、「学びたい心」が繰り返す努力も苦ではなくなる。
極端な言い方かもしれないが、
【幼児の言語取得能力】こそが、【学び】のあり方なのなもしれない。
受胎して、羊水の中でも母親の声を父親の声を家族の声を聞いて育つ。
生まれて、まだ眼が見えなくても泣き声と会話する養護者の言語を聞くのである。
母国語というより幼児言語環境語である。
脳と言語の関係は、言語野が運動性言語中枢〔ブローカ中枢;主に話すことを担う〕が前頭葉にあり、聴覚性言語中枢もしくは感覚性言語中枢〔ウェルニッケ中枢;おもに言葉を理解することを担う〕が側頭葉にあるという。
また、字や絵を見て口に出して喋るための視覚性言語中枢が後頭葉にあるそうだが、それらがどの様に発達していくのだろうか。
とても難しそうなことなのだが、子どもたちは最も簡単に言語を獲得していく。
そして、日本語検定を受けなくても、英語検定を受けなくても育った地域の言葉を覚えるのだ。
孫の初めてのお遊戯会。
クリスマスの劇をした後、
Jingle bell, jingle bell, jingle bell rock
Jingle bells swing and jingle bells ring
Snowing and blowing up bushels of fun
Now the jingle hop has begun
と、ジングルベルロックを踊り出した。
近くでビデオを撮ったからだろうか、なんだか凄く大きな声でノリノリで歌いながら踊っているのが我が孫だった。
伸びやで我が息子の小さい時を見ている様で、たまらなく可愛かった。
更に、彼女がはっきりと英語で歌っていることに驚いた。
しかし、それはなんの不思議もなかったのだ。
ママは英語が得意で、小さい頃から英語の絵本を読み聞かせたり、英語で話しかけたりしていた。
孫が小さい時に息子が言っていた事。
「お母ん。孫たちはバイリンガルになるかも?
嫁が英語で話しかけてる。」
と笑っていた。
孫たちは当然、日本語も達者に使う。
言語生活者になる時に多くの言語に触れたら、前頭葉・側頭葉・後頭葉と活発に反応するのだと確信した。
英語が苦手な真愛は、耳で覚えるのではなく、
読んで覚えるのだ。
良い耳が良い言語活動をする事になる。
カムカムエブリバデイ…🎶も曲に合わせて覚えたのだ。会話も耳でラジオを聞いたのだ。
言語取得に「聞くこと」の環境は大切なのだと思う。
Jingle bell, jingle bell, jingle bell rock
Jingle bells chime in jingle bell time
Dancing and prancing in Jingle Bell Square
In the frosty air
What a bright time, it's the right time
To rock the night away
Jingle bell time is a swell time
To go gliding in a one-horse sleigh
Giddy-up jingle horse, pick up your feet
Jingle around the clock
Mix and a-mingle in the jingling feet
That't the jingle bell,
That's the jingle bell,
That's the jingle bell rock
孫のお尻ふりふりに合わせて歌ったら、ちょっと覚えた。
「覚えたい」「学びたい」「楽しい」
孫の言語環境の素晴らしさにママに感謝である。
今日の日本語教室のボランティア活動の中で、その時のことを思い出した。
助詞の使い方を伝えるのに、例題を一つ二つではわからない。その助詞を使わなければならない場面の想定が必要なのでは無いだろうか。
「日本人でさえ正しい日本語が使えないのだから
しばらくお休みしてしまったら、
忘れるのは当然です。
ゆっくり楽しく復習しながら進めましょう。」
と彼に伝えたいし、彼用の副教材を作りたいと思う。
言語取得にとっては、まず、「一斉指導より個別学習」をした方が良いと思う。
要旨がバラバラになってしまったが、
「幼児の言語取得能力の素晴らしさ」と
「幼児の言語環境を作っているママやパパの
素晴らしさ」に感動である。
世界中の子育て中の方に、
「あなたは素晴らしい先生です。
未来のために、
たくさんの素晴らしい言葉を
話してあげてくださいね❣️」
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります