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畑終い 

 物事には必ず初めがあり終わりがある。
 その間は無限と思われる宇宙の終始かもしれないし、睡蓮の横の泡沫のように一瞬だったりする。
 愛猫が死ぬ前日、さやえんどうの畑を片付けた。最期の豆を採り、根っこから引っこ抜き、ネットから外し、支柱を外し、ネットを畳み、裏手の棚にしまった。

 周りの草取りをして、枝垂れ桜の枝も払った。

 畑終いである。
 奇しくも、この桜の木下に愛猫のお墓を作る事になるのだ。
 もし、畑終いをしなければ、猫は死ななかった未来もあるのかもしれないと思ったりもしたが、それは別の次元で進行している世界なのだろう。
 今は、畑終いをしておいて良かった。
「チャーちゃんの葬いを
 一人でもちゃんとすることができた。」
と思うことにしている。
 この写真を見ながら、「しまう」について考えた。終活っていうのも「人生の終い」であるが、何やら物を綺麗に捨てる事を強調している。「生活を片付ける事」なのではないかと思った。
 荷物を片付けるなら「仕舞う」という言葉もあるではないか。「終活」ってなんだ?

「仕舞う」と「終う」の違いは、「仕舞う」は物事を終わらせたり、使ったものを片付けたりすることを意味するのに対し、「終う」は何かが完結したことを強調して表現する意味を持つという違いだそうだ。

「終う」という漢字は、どのような時に使用するかと言うと、何かを完結させたことを強調したい時などに使われることの多いものである。
 例えば「今日で店を終いにする」「これにて授業を終いにする」というように。
 完結という意味を強く持たせたい場合に「終う」という字が使われ、特に文学的な表現をする際、小説や物語などで好んで使われる。

「しまう」という言葉は、一般的には「仕舞う」または「しまう」とひらがなで表記されることが多く、どうしても特別に完結していることを強く伝えたい時以外には、「仕舞う」または「しまう」とするのが良いそうだ。
「しまう」という言葉が使われる場面としては、物事の完結を示す他にも「忘れ物をしてしまった」や「お風呂に入ってしまいなさい」など、様々な表現で使用される。
 どれもひらがなで表記されることが多いものである。
 したがって、終活は、「人生のお終い」「人生を完結させる活動」なのである。「完結」を強調しているのだから、その後は「死」の状態なのだ。
 真愛は、「終活」はできない。
 この歳になって、まだやりたい事がある。明日も、なんらかの発見をして「生きててよかった」と思いたい。きっと、死の瞬間まで、ジタバタとしていると思うからだ。

 ただ、毎日、毎晩
「明日の朝、
 起きる事なく死んだとしても
 悔いはない。」
と、完結の状態で眠りにつきたい。
【今日は、お終い。】
 そして、明日の朝、生きて起きられたら、
【今日の命、大事に使いたい。】
と思いたいものだ。



ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります