消息不明だった友
消息不明だった大学の頃のお友達の奥様と連絡がとれた。亡き夫の数少ないお友達だ。
占いに《今日は、昔の写真を見たら懐かしい思い出に嬉しくなる日》と出た。
だからといって、古いアルバムを開いたわけではない。
趣味の「生さだ」への投稿葉書を作ろうと思って、写真用紙を探していたら、小指を引っ掛けてバサって落ちた古い財布の中に、古い写真と一緒に46年前のミニ電話帳が挟まっていた。
厚洋さんが北海道の懐かしいところを巡ってくれた時の古い写真も見つかった。
小さい頃、警察官だったお父様のお仕事で、駐在さんをやっていた頃の「上士幌中央交番」の前で撮った写真だ。
お父様の車(左のグレーの車は60歳で免許を取ったお父様の物)を借りて、彼の思い出話と一緒に沢山の場所を巡った。
上士幌小学校の横の駄菓子屋さんで、カステラのお菓子を買ってくれて、
「美味かったんだぞ。」
と、言い訳をするような厚洋さんが可愛かったのを覚えている。
車の中で、沢山の思い出話をしてくれた。
沢谷さん・武田くんは、高校の頃のお友達。
男の人にとって、高校時代の友達はかけがえの無い青春を共有した友なのだろう。
饒舌に話す厚洋さんの横顔も思い出す。
高校の時のカバンの中には、麻雀牌しか入ってなかった話。
寒いのにキャンプした話。
グランドを凍らせてアイスホッケーした話。
あんころ餅を食べてた話。
奈良漬工場の手伝いに行って酔っ払った話。
幣舞橋の夕日の美しかった事。
ダイヤモンドダストの神秘的な事。
でも、鉄道マンになった武田さんは彼が20歳の時に、車両に挟まれて亡くなったという。
「人の命ってなんなんだろうな。
俺が女を抱いていた時、
アイツは、働いていて、
車両に挟まれて死んだんだ。
俺が生きてて、アイツが死ぬなんて
間違ってるよな。」
この話は、真愛が厚洋さんと付き合い始め、沢山の人に反対されても、離れられなくなった頃に話してくれた。
泣きそうになりながら、話してくれた切ない友の死の話だった。
それからも、武田くんの話は何度も聞いたが、この車の中では、武田君と遊び回ったヤンチャな厚洋さんの楽しかった懐かしい思い出話になった。
この車で出かけた時は、一歳半の息子をお義父さんとお義母さん・義妹さんに預けて出かけた。
「真愛ちゃんは、北海道を知らないでしょ?
厚洋。良いところに連れて行ってあげなさい
よ。」
お義母さんの一言で、彼の思い出の地への旅が出来た。
結婚した年の夏休みは、「結婚の報告」で、北海道の親戚や友達を訪ねる旅だった。
真愛のお披露目である。
武田さんには会えなかったが、沢谷さんに会った。
「たかおちゃん家は、近くでさ、
『たかおちゃん学校行こう。』
って、迎えに行ったさ。
平気でたかおちゃん家に入り込んで
メシ食わせてもらってた。」
沢谷さんは背の高い方で、優しい目をした人だった。
釧路の駅のエンタシスの柱の側に立っていた沢谷さんが凄く大きな感じがした。厚洋さんが可愛く見えた。
「おー。」
と手を挙げて
「元気か?」
それだけで二人の時間が戻る。
「俺の嫁さん。」
まだ、結婚されていなかった沢谷さんに
「可愛い嫁さんもらって、逃げられるなよ。
奥さん。
コイツは見た目よりいい奴だから、
よろしく頼みますね。」
って言われて、何も答えられず頭だけ下げたのを覚えている。
沢谷さんは笑顔が素敵で、厚洋さんのお兄さんの様だった。
釧路駅で数分しか会わなかった方なのに、厚洋さんが自分のお兄さんのように慕っているのが手にとるように分かった。
男の人はいいな。
何年も会ってない友なのに、数分であの頃に還れるのだと羨ましく思った事も覚えている。
沢谷さんが釧路市役所にいた頃までは、連絡が取れたのだが、我が家の引っ越しと彼のお母様の具合が悪くなったのとで、連絡が取れなくなった。
去年、高校の卒業生名簿つくりに寄付金を出して、「連絡がほしい」と広告を出したが音信不通のままだ。
卒業生名簿には、死亡欄に「武田くんの上に厚洋さんの名前が並んでいた。
「あっ。漸く一緒に高校時代に戻れたね。」
と言えた。
でも、沢谷さんは、消息不明だった。
釧路で沢谷さんと別れた後、訪れたのが
「網走」の松本さんのところだった。
厚洋さんは、「マツケン」と呼んで、大学時代の仲間だったようだ。
厚洋さんが大学に行ったのは、「奨学金」をもらう日だけだったというほど、「アルバイト三昧」の日々だったらしい。
単位が欲しくて頑張った日もあったらしいが、「喫茶店の雇われマスター」
「夜はバーテンダー」
「休みの日には釧路港に降りた外国人の通訳」「荷揚げの仕事」
「新聞社の仕事」
なかなかのキャリアである。
それでも、大学の仲間も多く、松本君・今河くん,高草木君の名前も聞いた。
その一人、マツケンの所に真愛のお披露目に行ったのだ。
無口な厚洋さんが饒舌に話す姿に、
「やっぱり男友達の付き合い方は素敵だ」
と羨ましく思った。
「網走の上手いもの」をって、「炉端焼き」に連れて行ってくれた。
初めて食べたホッケのひらきの大きかった事と美味しかったこと。
それ以後もホッケのひらきを食べたが、あんなに美味しかった物とは出会っていない。
マツケンとは、その後もお付き合いがあり、千葉で北海道の学習をするから…と。
「ヨウ。悪いなあ。
流氷送ってくれよ。」
なんていうお願いの電話をしていた。
「釧路にも流氷来ててな。
着岸すると悲しい声で、流氷が泣くんだよ。
アザラシが乗って来たり、
子どもが流氷ごと流されたり…。」
毎年、流氷が着岸したというニュースを聞く度に故郷への思いを語る厚洋さんに
「退職したら、北海道に帰ろう。
真愛も行くから。」
というと、
「お前なんか、寒くて住めねぇよ。
俺だって、寒いのが嫌でこっちを選んだ。
まあ、成田闘争に参加出来るとは思ったけど、
K市に来ちゃってな。」
と笑った。
「良かった。来てくれて、あなたに会えて❣️」
ってちゃんと真愛も言えた。
流氷のやりとりの後、何年か電話も手紙も出していた。
しかし、この10数年、音信不通になった。
厚洋さんも退職し、真愛も退き、流氷の時期の話題には
「マツケンさん。どうしているの?」
「分かんねぇ。携帯にしてから電話番号も
忘れちゃったんだ。」
で、おしまいになった。
さっき見つけたその小さな電話帳には、マツケンの電話番号が書かれていたのだ。
奥様の美容院の電話である。
ダメ元で、5時を過ぎて直ぐに、電話をした。
ー 出た ー
奥様が出た。
10数年前に離婚したという。
「でもね。嫌いになったんじゃないの。
いろいろあってね。
彼は今、闘病中。」
厚洋さんから聞いていた奥様の話を沢山した。
真愛と同じ名前だったからだろう。
厚洋さんは、 よくマツケンの奥さんの話をしてくれた。
「アイツは良いよな。
アイツは幸せ。
「髪結の亭主」って自由で最高だよね。」
真愛にも奥さんの様に懐の広い人になれってことだったのだ。
ホッケのひらきの話。
流氷の話。
奥様は
「あの人から、聞いたことのある名前だったので
思い出せました。」
と沢山話してくださった。
真愛の書いた本を読んでくれるという。
お仏壇の前に飛んでいき、
「マツケン元気だって、闘病中だって、
ちゃんと元気にして、奥さんのところに
返してあげて。」
と報告ができた。
彼に繋がる人達がずっとずっと、元気で幸せでいて欲しいと心から願う。
そして、コロナ禍が終息したら、厚洋さんと一緒に思い出の地・網走・釧路・帯広・札幌・函館・岩内・余市を訪れたい。
出来れば沢谷さんの消息が知りたい。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります