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雛祭りの後

「後の祭り」ということわざの解釈には、二つの考え方があるそうだ。
 一つは、「六日の菖蒲あやめ十日の菊」と同様に、比較的軽い意味で時機に遅れたたとえとするもの。
 五月五日は、端午の節句で「菖蒲」を飾る。九月九日は、重陽の節句で「菊」を浮かべる。
 いずれも1日遅れで用意をしても意味をなさないことの例えだ。
 現在でもこの意味でよく使われている。
 もう一つは、「死んだ後の祭」と同義とするもので、明治前期のことわざ集「国民の品位」(1891)では、織田信長の教育係を自任した平手の爺(平手政秀)が自刃して諫めた話を引き、信長が大いに悔いて寺まで建てて供養したのも後の祭としている。
「悔やんでも後の祭」とする用例がいまもあることを考慮すると、底流には、死者を祭るときの後に残された者の「悔恨の思い」であるとされる。
 真愛のは「祭りの後」である。
 美空ひばりの「お祭りマンボ」のラストである。
🎶お祭りすんで 日が暮れて
 つめたい風の 吹く夜は
 家を焼かれた おじさんと
 ヘソクリとられた おばさんの
 ほんにせつない ためいきばかり
 いくら泣いても かえらない
 いくら泣いても あとの祭りよ🎶

「お祭りの後」の「後の祭り」なのである。
 ぐずぐず書いてきたが、

お雛様にお供え


 雛祭りのために、菱餅・ビーンズ・ゼリーなんて可愛くて綺麗なものをお供えする。
 それは、46年間続けてきた。
 3月3日が終われば、お雛様を仕舞いお供えしたものは、真愛のお腹の中である。
「また太っちゃう。」
と言いながら処理している真愛を見て
「飾らなければ良いだろう。」
という厚洋さんに
「菱餅には意味があるんです。
 1番下は緑。上巳節でゴギョウを練り込んだ草餅
 を食べてたことから、魔除け。
 白い雪の下には若々しい緑の大地があること。
 ピンクは桃の色。桃って、黄泉の国から逃げて
 帰れたのは、イザナギノミコトが桃を投げた
 からでしょ?だから、これも魔除け。
 ちゃんと飾って、ちゃんと食べなくちゃいけ
 ないのよ。」
と、学級通信に書いた能書きをタラタラと話すと
「ふーん。分かった。
 雛祭り後の女はみんなデブになるんだな。
 健康、健康!
 でも、自分でも後悔してるだろ?」
と付け加えられ、何も返せなかった。
 飾るお菓子を買いすぎて、毎年後悔していた。
 真愛の場合、季節の行事をする度に「食べすぎ」で気持ち悪くなる。決して健康的だとは思わない。
 雛祭りのお菓子とちらし寿司・蛤のお吸い物・菜の花とイカの酢味噌和え。
 厚洋さんは目で楽しみ少しだけ。
 残りはみーんな真愛のお腹の中。
 5月5日は、ちまきと柏餅。
 お祭りではないけれど、お彼岸・お盆も御供物をたっぷり供えて、全て真愛が食べる。
 無くても良いのだろうが、やらなかったら「不健康」になると思うので、供えた後下げたものを頂いて「不健康」になる。

ビーンズ・菱餅・菱ゼリー


 今年も、下げたものを見ながら、厚洋さんが笑っていた。

フルーツゼリー

 雛祭りだからフルーツゼリーも食べたのだ。
 食べてしまってから、「後の祭り」なのである。
 おりしも、2ヶ月に一回の糖尿病の検査結果を聞きに行き、
「うん。検査結果良いね。
 安定してる。
 食べ過ぎないことだね。」
と主治医に言われて帰って来たのに…。
「後の祭りだ!」

「後の祭り」にしないためには、考えることだ。
注意深くすることだ。
 後悔しないことだからだ。
 真愛は、ほとんど後の祭りで生きているとするならば、それも良い。
 後であっても、祭りをしているのだ。
 弱冠の賞味期限は過ぎているが、楽しんでいるには違いない。
 後悔ばかりしているということは、それだけのことをやっているということだ。
 行動的に生き生きと生きているには違いない。
 雛祭りの後の甘い菱餅を青汁と一緒に食している。
 しばらくの間、雛祭りのビーンズやゼリーを消費しながら、春のお彼岸が来るけれど、「牡丹餅」は、【一個だけ買ってこよう。絶対作ろうなんてやらないぞ。】と自分に言い聞かせるのだが、
また、小豆から煮込むんだろうなあ。
 本当。愚かだなあ。

お雛様の片付け

 ここからは、「祭りの後」の話。
 厚洋さんが元気な時から、お雛様は翌日にはしまった。
「出しっぱなしは婚期が遅れるの。
 お嫁に行けなくなっちゃう。」
と言いながら、片付けているお馬鹿な真愛を呆れ顔で見ていた。
 厚洋さんが逝ってしまったので、同じ事を言ったら、彼が悲しむと思うのでここ数年は、
「厚ちゃんが買ってくれたお雛様。
 また来年会いましょう。
 それまで、2人で仲良くお話ししてね。」

二人寄り添う

と、二人を出来るだけ寄り添うようにして仕舞う。
 飾る時はウキウキしながら、鼻歌混じりで飾るのに、仕舞う時には無言である。
「祭りの後」の切ない感じがするのだ。
 お祭りのお囃子山車が通り過ぎて、去っていく姿と遠ざかる神楽囃子の音をひとり置いて行かれたように聞いている。
 あの時の感じに似ている。
 また、来年見る事ができるだろうか。
 生きているだろうかと思うようになったのだ。
「祭りの後」は、虚無感を抱えながら、片付けるのだが、デレデレはして居られない。
 厚洋さんに買ってもらったお雛様の収納場所は納戸の奥である。
 ひと冬で、ごちゃごちゃと詰め込んだ荷物を全部出して、一つひとつ「必要」「要らない」と確認してあるべき場所に入れていく。
 今年は、10年間分の家計簿や領収書をゾッキリ捨てた。捨てながら、2階にある文庫本も選んで捨てようと考えた。
 お雛様をしまいながら納戸を片付けること4時間。随分と物を捨ててスッキリした。
「お祭りの後」の片付けは、来年のための準備であり、周り片付けでもあるのだ。
「お祭り」があるから、祭りの前に大掃除。
「お祭り」があるから、祭りの後の大掃除。
 家が綺麗になるのだ。
 掃除が上手で好きな女の人がいいお嫁さんになるのは間違えないことであると思う。

角を隠したお嫁さん

 厚洋さんが、
「そうだね。
 真愛は、いい嫁さんだよ。」
って笑っていた。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります