金木犀
金木犀が咲いた日にあいみょんの「金木犀」という曲が流れてきた。
「身をよじる 朝になる 途切れますように」の歌詞に少しのエクスタシーも感じた。金木犀の香りには、独特の思いを抱かせる。「あなたには逢えない」の言葉にも、厚洋さんに逢えない切なさが身を捩った。
いつもの喫茶店で流れてきた言葉に、心惹かれた。
渡辺淳一氏の「冬の花火」を読んで間もないので、どうもそちらの言葉に反応してしまう。
小説のような文字言語で語られるのなら、秘事として書いてもいい気がするが、喫茶店で「まぐわいのあとの一刻…」なんて聴き取ってしまって、ひとりドキドキした。
アイナさんの歌詞は、真愛が昔(30代)作った詩に似ていた。
文芸同人「玄の会」に入会し、先輩方に
「言葉遊びで、実態がない。
哲学が、思想がない。
読み手の気を引く言葉の羅列だ。」
と、痛烈に批判された。
お年を召された先輩達は、直喩で無く暗喩でも無く。哲学でならなかった事を思い出す。
アイナさんは、まだ二十代だ。
やや、あなたと私の関係や影について掴みにくいが、「金木犀の甘やかな香り」は、秘めやかであり、纏わりつく想いも感じる
なんとも好きな表現だった。
私の曲解かもしれないが、eroticな感じがいい。暗喩されている行為を想像してしまう。
「読み手の気を引く言葉」に酔ってしまう。
おばあさんは、可愛いお姫様に
「あんたは、何歳(いくつ)だい?
なかなかいい女だねぇ。」
と失礼なことを言ってしまいそうだった。
真愛の好きなさだまさしさんの「柊の花」も香りだが、「銀木犀」と言われるだけあって、情念では無く、浄念である。
詩でも小説でも、もちろんnoteに書いたものも、書き手の手から離れたら、読み手の解釈に委ねなければならない。
逆に言えば、読み手の私が使われている言葉や表現からどのように読みとっても構わないのが文章だ。
読み手の心情や状況によって、同じ作品を好きになったり、嫌いになったりする。
気づいているようで、気づかず。
覚えたようで、直ぐ忘れる。
言葉と文章と読み手と書き手と…。
文章修行中であったことを思い出させてくれた「金木犀」だった。