MAAちゃんパニック 書けない
久々にnoteが書けなくなった。溜め込んでいた記事を小出しにして毎日公開しているが、こう長いこと外に出ないと、思考停止になる。
辛うじて息をし、生理現象をこなしているが、気をつけないと(面倒だなぁ。汗もかいてないし…。)とお風呂に入るのが面倒になりそうな時がある。
慌てて思い直す。
亡き夫と彼方で再会するときに
「お前、老けたな。」
と言われたくない。
『死ぬまで綺麗でいたい】と思っていたではないかと。
そのためにお風呂も入るし、シャンプーもパックもする。
「誰が来るか分からないんだから、
家の中でも、綺麗にしてろ!」
って、厚洋さんに言われたことを守っているから、服も着替えるし、髪も櫛削る。
汚れたままは、嫌いなので洗濯もすれば、掃除もする。
綺麗好きだった厚洋さんの教えで、朝のルーティンは、トイレ→口濯ぎ→水飲み→換気→部屋のモップかけ→ゴロゴロゴミ取り→洗濯→朝食準備。と決まっている。
最近は、朝食抜きになってきたので、
→お仏壇のお水取り替え、般若心経を上げる。
→水を飲み・サプリメントを飲み・薬を飲む。
何も話さず、TVも付けず、CDも聞かず、笑いもしない。(愛猫もあちらに逝ったので…。)
洗濯を干す時に、畑を見、空を見上げるが、何も感じない。
コロナ禍で自粛生活をし続けて、心が動かなくなったのだ。
筋肉は、暫く使わないと細く少なくなっていくと言う。
心も頭も同じ気がする。暫く使わないでいたから、小さく硬くなったのだ。
きっと、冷蔵庫に長く置いた「脱臭剤」みたいになっているのだと思う。
そのうち消滅するのかな。
↑これは、
先週入れ直したので、やや減っているぐらいで収まっているけれど、そのうち干からびる。
真愛の心は、下の方にちょこっとあるだけ。
↑見っけた。
ビーズの消臭剤だ。ふっくら丸いプチプチがいっぱい入っていて、爽やかな香りがいていたのに、
真愛の心だ。
小さく固まって香りなんてない。
ここまで書いて、776文字。
暫くぶりで、何も書けなくなった。
パニックである。
原因を探る。
・動かないから、外に出ないから、草取りをして
も毎日だから、
「発見」できない鈍感な心になってしまった。
家の周りでも散歩に行かなくちゃと思うが、
虫が嫌で、膝が痛いのを理由に外にも出ない。
・今、私に出来る事を見つけられず、ボーとして
る。
・食べる量が増えて、食べたら昼寝したくなる。
満腹になると人は思考停止になるのだ。
鋭い思考をする人は、結構痩せている人が多い
かな。
心が肥満してしまったのかもしれない。
・生活バランスを崩し始めたんだ。
心のバランスも崩れた。
やっぱり「人」って人間が支え合って生きてこそなんだと思う。一人でいる時は「霊長目ヒト(類人類)上科のヒト科に属する動物」でしかなく(Homo sapiens)である。
ホモ・サピエンスって、ラテン語で賢い人の意味らしいが、今の世界を見て「賢いひと」なんていないと思う。もちろん真愛も酷い。
家に一人でいると類人猿Hominoideaになる。
バスタオルを巻かずにリビングに出ちゃったり、2回まで駆け上がっちゃったりする。厚洋さんが居れば絶対にしなかった事だ。いや、彼が出掛けていても「ハシタナイ」ことはしなかった。
Hominoidea、ホミノイドだ。
羞恥心を持たない自分に気づき、「おっと!」と反省する。
「人」が「人」と認識するのは、自分以外の「人」がいてこそなのだ。
真愛が「ヒト」でいられたのは、厚洋さんがいてくれたからであって、彼がいない今は、真愛が外部との接触を持たないと「ヒト」として存在しない。
優しい嫁が孫の画像を送ってくれたり、息子が心配してLINEをくれたりすると、(あっ。真愛は、母親だったし、祖母なのだ。)と自分の存在を確認する。
人は「人を思った」時に、人になるのだと思う。
可愛がってもらった従兄が、2ヶ月前に厚洋さんの所に逝った。彼のお嫁さんを「姉さん」と呼び「お従兄ちゃん」同様に可愛がってもらった。
その姉さんの事を考えれば、真愛は妹のように彼女に会いたくなる。
「ひとりで寂しい、鬱々としている」と息子に愚痴った時に言われた。
「明子おばさんや洋子おばさんに電話したら?」
と。
そうなのだ。自分が「人」でいるためには、積極的に「人」になろうとしないと、ホミノイドにすらなれない。「無」になってしまうのだ。
そして、(誰からも必要とされてない。)などといじけてしまう真愛なのだ。
考えてみれば、この「note」も真愛が、「人」であるための積極的な行動の一つのはずだ。
「書けない。」のではなく。
「書かない。」だけなのだ。
何かやらなくなったら、やろうと思ってもやる気が出なかったら、
「取り敢えず…。やらなくちゃいけない事の
道具を出す事だ。」
と聞いたことがある。
ずっと、「絵のコンクールに応募したい。」と思って8月に作品は作ったが、最後の詩を書き入れるのが出来なかった。
昨日、取り敢えず別の紙に詩の散らし文字を書いてみようと始めたら、なんと3時間をかけて、作品の細部の彩色と詩を書き入れ、応募票にも記入し、後は投函するだけになった。
手をつければ、やらなかったことがスルスルとこんがらがった糸が解けるように気持ちよく。
「書けない。」から始まった自己不信と、二千文字まで書き進んだ。
「やる気」が出なくて不安になったら、なんでも良いから、まず、動くことだ。
スマホと暫し睨めっこになっても良いから…。
真愛の「取り敢えず」はとても長い。
日本画が描きたくて始めたのに、コロナ禍で展覧会が無くなったら、ピッタリと辞めてしまった。
病床の厚洋さんに
「貴方が元気になったら日本画を勉強したい。」と言い、
「いいね。日本画!
俺はお前の白い花の絵が好きだ。
日本画にしたらもっといいね。
日本画描いて!」
と応援されたのに、「水仙」を描いてお終い。
(厚洋さんに約束したのに!)ってずっと思っているのにやらない。
仕方がないので、一昨年、取り敢えず「額」だけ買った。
今年、取り敢えず「和紙」だけその大きさにカットした。
描きたい構想はある。ずっとずっと…。
しかし、取り敢えず「下描き」まで進んでいない。と言う事は、取り敢えずも真愛にとっては、「真愛真愛(まあまあ)な方法」なのだ。
真愛の「〆切」が来ないと始めない性格がそうしているのだと思う。名前からしてそうだ。
〆切不明な人生を進んでいるにも関わらず…。
突然、〆切が来たら「慌てる」んだろうなあ。
なかなか取りかかれないものでも、やりたい事は、なんでも、取り敢えず手をつけておかないといけないのかなと思う。
そうだ。以前読書について厚洋さんに言われたことがある。
「忙しくて本が読めなくても、
読みたい本は買っておけよ。
積ん読(つんどく)って言ってね。
後で、アレ(本)のどっかに書いてあるかも
って探し読みできるだろ?」
厚洋さんは、たいてい5、6冊積んで読んでいたし、彼は積んだ本は全て読んだ。
彼の真似は出来なかったけれど、積読は重宝した。今では、厚洋さんの本棚が真愛の先生になる事もある。
取り敢えず、なんかしよう!
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります