オードリー若林さんの本音を運ぶ箱船とは?
『スキルのこと反省してるじゃん、もう人間全体鍛えないと、そこの伸び代ないよ』
「たりないふたり2020〜春夏秋冬〜春」で、若林さんが山里さんに自然体で届けた言葉を聞いた瞬間、長らく探していたパズルが「カチッ」っとハマる音がした。
「そうか、、こういう全体像か、、」
組みあげたパズルを前に込み上げた万感の思いが、若林さんの人気を確たるものにしている思想に触れた悦びを表した。
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「さよなら たりないふたり」(2019年秋)の漫才の反省点をノートにしたため、いつものように自虐的に話を展開する山里さんに対し、
『変な風にショック受けないで欲しいんだけど、もうこれ以上おもしろくならないよ。もう俺たち、反省してもこっからおもしろくなんない。山里亮太って、もうこれ以上おもしろくなんないよ』
と諭した若林さん。
この段階で、見覚えのない切り口にワクワクが止まらない。
『諦めたら終わりよ!』と拘りを見せる山里さんの反省内容を一通り聞いた上で、若林さんから届けられた言葉が、
『スキルのこと反省してるじゃん、もう人間全体鍛えないと、そこの伸び代ないよ。山ちゃんはもう、奥さまの親戚の方とかと、いっぱい喋るってことした方がいい。そんなスキルのことやってないで』
「若林さん、さすが切る角度が違うな〜」と独自性への痺れを感じると同時に、今まで整理してきた事象との関係性を紡ぐことで若林さんの思想に近づける予感が走り、パズルがハマる音がした。
本日は、若林さんの「スキル」「人間」の解釈を整理し、「こっからおもしろくなんない」「伸び代」の真意を紐解くことを通じて、若林さんの思想と、若林さんが山里さんに届けた言葉の裏に流れる背景の言語化を図ってみたいと思う。
1. 発想の限界
情報は、事実・見解・発想の3つで構成される。
① 事実 : ありのままの事象・事柄
② 見解 : 事実に対する意見
③ 発想 : ゼロイチのアイデア
✳︎詳しくは「オードリー若林さんの『おもしろい』の正体とは?」をご覧ください。
この情報の内部構成は、お笑いのコンテンツでも、朝のニュースでも、友達との話でも同じであり、
「たりないふたり」で例えると、
事実 : エピソード
見解 : エピソードに対する意見
発想 : 事実・見解を起点としたボケ・ツッコミ
となる。
発想こそが芸人さんの主たるオリジナリティであり、『おもしろい』の源泉であることから、山里さんに限らず芸人さんは一心不乱にここを磨き上げる。
若林さんの言う「スキル」も発想と整理でき、「こっからおもしろくなんない」は、発想を主体とした『おもしろい』には伸び代はない、と読み取れる。
発想のみを極限まで磨きあげる漫才において、南海キャンディーズもオードリーも『おもしろい』に伸び代がない、のは肌感の通りだ。
山里さんも若林さんも、漫才において発想を磨くことで行き着ける境地に達しており、それは平場においても同じだ、という若林さんの主張に違和感はない。
同志として「たりないふたり」のマイクを囲む山里さんと若林さんは同じ漫才の出だが、その後の芸の積み上げ方は対照的とも言える。
山里さんには、漫才の中の山里さんを磨いてきた軌跡が見える。
独自のボキャブラリーによる鋭角のツッコミと話題の展開力、磨き上げられた発想には隙がなく、淀みないトークの改善点を見出すのは困難だ。
若林さんは、その山里さんを、限界を迎えても尚、発想にのみ向き合う視野の狭い完璧主義者と捉えた。
一方で、若林さんは人間「若林正恭」を表に出してきた。
2012年に放送された「たりないふたり」、そこでの若林さんは、山里さんに負けじと発想を披露していた。
そこから8年の月日が経ち、「たりないふたり2020」には人間「若林正恭」が鎮座し、披露する発想は奥行きのある事実・見解と共に、人間「若林正恭」に乗せられて届けられた。
若林さんが意識して鍛えてきた情報の箱船"人間「若林正恭」"に乗せられてだ。
「人間」から取り出される情報、その中で事実と見解は、「人間」が鍛えられてきた強度がダイレクトに反映される。
2. 情報の上位概念としての「人間」
「人間」を鍛えるのは「経験」と「思考」だ。
「経験」は「思考」により抽象化され、「人間」の血肉となる。
若林さんは『あちこちオードリー』において、ゲストの「経験」を引き出し、その中の「思考」を探ることで、ゲストの「人間」が築き上げられたプロセスを紐解く。
若林さん自身がラジオやエッセイ、noteで共有してくれるのも、エピソードで括られる「経験」の披露や「経験」に対しての「思考」に留まらない、その先の人間「若林正恭」への消化プロセスだ。
「経験」と「思考」により鍛えられた「人間」から取り出される事実と見解こそ、選び抜かれた具体的な「経験」と落とし込まれた「思考」であり、写鏡としての構造を見せる。
情報の『おもしろい』は、事実・見解・発想の『おもしろい』の総量であり、発想による限界を、鍛えあげた「人間」を源とした事実と見解の上積みで越えていく。
ここが若林さんの表現する伸び代だ。
若林さんが山里さんに勧めた奥さまの親戚との会話も、「経験」の幅を広げる一助であり、その未知の「経験」が山里さんに新たな「思考」を走らせ、人間「山里亮太」が鍛えられていく。
鍛えられた人間「山里亮太」からは、発想偏重であったトークとは一線を記す別口のエピソードトークと、それに伴う奥行きのある見解が生み出される。
若林さんの見据える山里さんの伸び代である。
3. 『信頼』を積み上げる本音
『おもしろい』と並んで、今や芸人さんにも求められるのが『信頼』である。
人は「人間」に乗った情報を受けとり、「人間」に対して『信頼』を与える。
『信頼』の積み上げの肝となるのが、見解の扱いだ。
「人間」の本質は、見解を通じて表現されるが、見解には本音と建前が存在する。
理想の自分や表現したいパーソナルブランドの為に、人は偽りの「人間」を通じて建前としての見解を表現することがある。
最近、若林さんも『あちこちオードリー』で少ないながらもこの事象(ゲスト)に出くわし手を焼いた、と話していた。
損をしても偽りなき本音を差し出す人もいる。
人々はその本音と建前の違いに敏感であり、建前で塗り固められた人間への支持は深まらず、一発のスキャンダルで表舞台から去っていく。
人は不器用でも本音を差し出してくれる人間には『信頼』を寄せる。
一方で、本音の提出により支持を得るには相応の土台となる「人間」が伴う必要がある。厚みなき「人間」から取り出される安っぽい本音ほど危うく侘しいものはない。
若林さんが差し出してきた本音の見解は、原体験となる「経験」を基礎に、深く落とし込まれた抽象化「思考」で、本音の提出に耐え得るまでバキバキに鍛え上げた人間「若林正恭」から取り出されたものだ。
若林さんが意識的に鍛え上げていったのは、至高の事実と本音の見解を運ぶことで、発想による限界を越えた『おもしろい』を醸成し、確たる『信頼』を積み上げる情報の箱船"人間「若林正恭」"である。
これが「たりないふたり」で若林さんが山里さんに届けた言葉の裏に流れていた背景の構図ではないだろうか。
4. 若林さんは何と言うか?
「んー、なるほどね〜。山ちゃんへの言葉には表現しなかった信頼の要素まで噛み砕いてきたってことね。ここはちょっと外では言いづらい部分なんだよね〜」
「なによ、言いなさいよ。焦らさないで」
「いやさ、んー、例えば星野源さん。星野さんを例に出すこと自体おこがましいんだけど、俺はもの凄い星野さんへの信頼を積み上げてるわよ」
「そうね、相当積み上げてるよね」
「あ!?てめーなんかに分かんねーだろ!タコ!ブチ殺すぞ」
「いや、そういう相槌になるでしょーよ」
「笑、俺は星野さんの、ここで言う事実と見解にもの凄い共感させてもらってて、もう俺の話なんじゃないかってくらい。当然、人間「星野源」の奥行きもすごい感じるし、それはやっぱ色んな経験を積まれてきてるのと、ホントに深いとこまで考えて、思想として固めてこられた軌跡が見えるってのもあるんだけど。でさ、星野さんの言葉には建前がないのよ。だからスッと話が入ってくるし、俺の話も分かってくれるんだろうなって、そういう意味でももの凄い信頼させてもらってるわけ」
「そうね、星野さんからは建前を感じないよね」
「お前には建前だけだからな。食事の誘いとかも間に受けんなよ。クミにも言っとけ、あいつそういう感性鈍いから」
「おい!なんて言い方すんだよ!」
「まぁさ、で、山ちゃんなんだけど、やっぱさ、山ちゃんは漫才師「山里亮太」なのよ、いまだに。俺の前でも完全には人間「山里亮太」じゃなくて、本当に奥にある本音ってのは出してないのよ。それってまだ人間がついていってないっていう部分があると思うんだよね。そういう意味でも奥さんの親戚とかとも話して、色んな経験して、人間鍛えたら、人間と本音が合ってきて、俺はそこに信頼を積み上げられる気がすんだよね」
「うーん、なるへそね」
「分かったふりすんじゃないよ、信頼とは何かについて知った顔しやがって。そもそもお前って人間がピンクベスト着たテクノカットの虚像で、世間から積み上げてる信頼自体が偽りなんだから」
「うぃ」
本音で生きる為には鍛え上げられた「人間」が必要なのは、どの社会でも同じですね。