身体の境界
友人に誘われ、有楽町で行われている「わたしのからだは心になる?展」へ行った。
HPの記載はこう。
色々な作品が8点ほど展示されていて大ボリュームだったのだが、中でも花形槙さんのUber Existenceという展示が印象に残った。
Uber Existenceとは自分の体が「そこにいること」自体を提供する存在代行サービス。アプリで存在代行者(アクター)に登録すると、利用者(ユーザー)は自宅にいながら依頼したアクターに指示を出す。
たとえば「お祭りにいきたい」という指示が、ユーザーから入れば、アクターは帽子にカメラをつけてお祭りを訪れる。ユーザーはそのリアルタイムの映像を観ることで、まるで自分がその場に存在しているような感覚を得ることができる。(展示概要抜粋)
この展示を目にしてから、しばらく考えていた。
何をもって自分は自分であると言えるのだろう。
普段意志と身体は自分のもので、自分で自由に制御できると思っているが、実は常識や人々の認識が変わればそうでもないのかもしれない。
自分の身体自体を他者に委ねている映像。右に進めとゲームのようにコマンド操作されたら右に進む。ユーザーの友達を実際に前にしながら自分はただそこにスピーカーとして立っている。ユーザーの友達と、自分についているスピーカー越しに部屋のユーザーが会話する。その時ひとりの人格や感情を持った人としてではなく、ただ運んできた身体として立っている。無名の存在として。
少なくともアクターの身体に関しては、その瞬間自分のものではなかった。
普段行っている労働とはどう違うのだろうか。
仕事もある意味、自分の時間と思考と身体を提供し、代わりに対価として賃金を得ている。
ただ、Uber Existenceでは時間と身体のみを提供し、自らの意思はアクターとして登録するとき以外は無い。一度サービスが始まれば、その後はただ指示に従って予測不可能なまま動くだけであり、むしろ意思は邪魔となる。自分の名前を呼ばれることはない。そこが大きな違いではなかろうか。
普段認知されている名前を持った自分。
自らの意思では制御できない身体。
まだ抵抗感があるのは、自分は意思によって身体を動かしていて、全て含めて一つの個体であるという意識があるからなんだろうなと思う。
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