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わたしのいない季節

 具体的な地名はここではあげないことにする。これを読んだ知らない誰かが、あの土地をうっかり訪れたりしないように。
 都内にいくつか存在する「幽霊坂」の、これはそのおはなしのひとつだ。
幽霊坂と云えば、本郷やお茶の水、三田あたりがその名の知れた土地だとおもうけれど、わたしの場合、ちょっと異なった。
 内緒とは云えあまり意地になっても窮屈だ。おおまかな場所をあげるとするなら、そこは奥沢と上野毛、そして桜新町をそれぞれ頂点にした三角地帯のなかに存在する、とだけ云っておく。そんな場所聞いたことがない、と云うひともいるだろう。何代かにわたりその土地に暮らしたひとに訊ねても、はかばかしい返事はこないかもしれない。しかし、雑木が左右に鬱蒼とした、昼間でもどこかほの昏い、人家の裏から裏へと抜ける、どこか人目を忍ぶような小道はたしかに実在し、そこは知る人ぞ知る幽霊坂としてひそかにその名前がつけられた。
 わたしがその場所に足を踏み入れたのは、大学に入った年だから、もう三年も前になる。きっかけは母だ。母に頼まれ、その土地にある親戚の家まで荷物を持っていくことになった。風呂敷に包まれ、結び目もきりっとかたく締められ、六畳の畳の間ですっと滑らせるようにわたしの前に差しだされた。それを母の妹である、わたしの叔母に届けろと云う。叔母さんとはもう何年も会っていない。その家に最後に訪れたのはいつだったか、記憶はずいぶんおぼろげだ。
「これって、なに」とわたしは母にたずねた。
「茉希はべつに知らなくていい」と母は云った。それからぷいっと横を向き、「とにかく、おばさんの家に届けるの。分かった?」
 わたしとは目もあわせない。手ではもう別のかたづけものをし始める
 わたしの母は昔からこういうひとだ。高圧的で、娘のわたしとでさえ同じ視点に立つ、ということがない。
「風呂敷なんて、古臭いなあ。ちょっと恥ずかしいよ」
 荷物を手元に引き寄せ、指で軽くつつく。縮緬の手触りがさらりと伝わってくる。
「別の入れ物、何かないの」
「そんなのあるわけないでしょ。ただ運ぶだけのおつかいなのに、あんたそんなことも出来ないの」
 口調がさらにきつくなる。わたしはむっとして黙り込む。今に始まったことではない。まったくいつものことだ。わたしももう何も云わず、風呂敷を乱暴につかむと部屋から飛び出した。
 出て行ったものの、叔母の家までの道順にふと、不安になる。しかしいまさら、母に訊ねに戻るのも業腹だ。叔母の娘、つまり、わたしのいとこからの年賀状を文机の奥から引っ張り出し、ワンピースのポケットに押しこんで家を出た。
 電車に乗り、バスに乗る。季節は八月で、夏休み真っただ中だ。街中にこどもの姿が多い。笑ったり叫んだり、友だち同士でつるみ、騒々しくも楽しそうだ。ラズベリー味のメントールキャンディを口中で転がし、そんな彼らを観察する。女の子同士、男の子同士のグループなどいて、しかしわたしにはそういう経験がない。ただでさえ少ない友だちと、夏休みに連れ立って遊びに行くということは、わたしにはほぼなかった。映画を見に行ったりもしない。区営のプールに行ったりもしない。遊園地や動物園に行くなんて、別の世界のおはなしだ。わたしの狭く、ちいさな世界は、自分の部屋と図書館と、本の中でだけで出来あがっていた。
 檸檬色ワンピのポケットを探り、いとこからの年賀状を取りだす。住所を確かめる。バスのアナウンスが記憶に残っている地名を読み上げる。近づいていることは間違いない。わたしはブザーを押し、降車する用意をする。近くにいた小学生女子グループのひとりが、わたしに振り向く。何歳くらいだろう。十一歳か二歳くらいか。髪をうしろでふたつ括りにし、ヘアゴムのチャームの林檎がぴかぴかに光って、真っ赤だ。なにを感じてか、わたしを見てにこりとする。わたしもつられてにっこりとする。今のわたしなら、こういう愛想も振りまける。わたしはきっと、ひとより十何周も遅れてグラウンドを走る、出来損ないの運動選手だ。
「さようなら」
 降車口の手前、すれ違いざまにその女の子はわたしに小声で云った。
「さよなら」
 わたしもそれに短く返事をする。少しわたしのこころが明るくなった。風呂敷の結び目をもう一度きゅっと、握りなおす。
 バスから降りる。路上には緑陰が濃く、深い色でひろがった。日差しは刺すように照り、影とひかりのコントラストが強い。蝉の鳴き声が空から降るように響いた。こんなに暑いのに、鳴き方に迷いがないのは大したものだ。首筋がちりちりと焼けるように痛んだ。
 電柱に貼られた番号を確かめながら歩く。地名と地番と、記憶の中の風景とを頼りにして歩いた。古い町だ。板塀が反り返って、ところどころ穴が開いて連なった。今のご時世あまりもう見ない、大谷石の門柱がある。ブリキ看板の虫よけ広告はすっかり錆び朽ちた。こういう場所だっただろうか。暑さに少しもうろうとして、不安になる。
 猫が道端の影のなかに長く伸びて、眠っている。わたしの足音を聞きつけると、むくりと頭を持ち上げる。黒猫だ。ほっそりとして、毛並みがつややかで、多分今年に生まれた若猫だろうとおもう。彼(彼女)はわたしを不審そうに見つめる。わたしはおもわず歩みを止める。一瞬目が合ってから、彼(彼女)は、ぱっと起き上がり、寝ぼけた様子もないまま、道の奥に歩いてゆく。わたしはそのあとをついてゆく。 
 道がぐっと細くなる。車はもう入れないだろう。黒猫に道案内されるようにわたしは進んだ。
 幼児の嬌声がどこからか聞こえてくる。ゆったりとしたカーブを曲がると、道から少し下で区切られた、小川の堰がある。見あげると、上はこんもりとした山でなにか落葉樹が密に生えている。水はそこから人工の川床に乗り、ここまで流れてきているのだ。雑排水の入らない小流れらしく、水は透明で清く、綺麗だ。幼児はそこで母親と遊んでいた。水は浅い。流れはゆるく、幼児でも危険なことはない。飛沫く水がこまやかに、霧になって、木漏れ日の中できらきらと光った。風に乗って吹いてくる木の香りが肌にひんやりとして、ほっと息がつく。
 わたしは見ていてたまらなくなり -こういう性格が母から叱られる原因だ- サンダルを脱いで小流れの中に入ってゆく。堰のわきの、水にぬれない場所を選んで、荷物の風呂敷を置く。水に足を浸すと、一気に熱が持っていかれた。流れる水の冷たさに、暑さがたちまちしぼんでゆく。心地よさにおもわず声が出る。
「気持ちいい」
 子供と遊んでいた若いお母さんが面をあげ、わたしを見る。ショートパンツにノースリーブ、水の流れに露わにした脚がすらりと伸び、色は青白いほどだ。大きな帽子にサングラスをかけて、一見表情が分からない。すぐに私に興味をなくしたように、ふたたび幼児と -よく見るとこの子は女の子だ-  一緒に遊び始める。
 わたしは彼女を見て、ぎくりとした。背筋になにか、冷たい電気のようなものが走った。背格好といい、全体の雰囲気といい、サングラスをしていてもそうだと分かる。このひとはわたしに、なんてよく似ている。なんとなく嫌な気持ちになった。水の冷たさの心地よさもなくなった。女の子は、はしゃいだ声を響かせる。あたりは森閑として、その声だけが大きい。わたしはそのお母さんの方を見ないようにして川から上がり、サンダルをつっかけ、風呂敷を手に取った。小道まで出て、駄目なのに、わたしはそれでもつい振り返ってしまう。母娘は堰の水の流れのなかにいる。彼女はふたたびわたしの方に向け、面をあげる。わたしは目が離せない。彼女は帽子を脱ぐ。肩下までの髪がさらりと揺れる。サングラスを片手ではずし、その顔がさらされる。わたしはその顔を見る。身体の全部が冷たい水を浴びせられたように寒くなった。見なかったことには出来ない。わたしはそこから一刻も早く離れたい。風呂敷を胸に強く抱き、引き剥がすような勢いで走り出す。こんなことある訳ない。ある訳がない。わたしがもうひとり、そこにいるなんて。
 小道は両側から迫った木々のせいで薄暗い。山側の法面に施された石積みが、その時代の古さを匂わせて、暗い色で冷たく立ちあがった。少しずつ歩きづらくなっているのは、傾斜がつき始めたのだ。ゆったりとした坂にこの道はなっている。とにかく、叔母の家まで行かなくてはいけない。わたし本来の目的を思い出す。しかしこういう地形の場所だったか、まったく記憶にない。あとさきも考えず、わたしは勢いのまま、ずんずん先へ進んでゆく。 
 道に面して、隠れるようにして店がある。連子格子の戸に、土壁をくりぬいて丸窓がぽかんと開いた。背丈ほどの幟が店先に刺さり、染め抜きの文字を読むと甘味、とある。
 誰かの手が、店の中からすっと伸びて、わたしの行く手をさえぎる。わたしは、はっとして足を止め、木組みの窓の中を振り向く。中学生くらいの少女だ。白いシャツに、髪を片側で結んで垂らし、ちいさく両手伸ばしてわたしの腕をとってくる。
「なに、どうしたの」
「わたし、こんなに食べられないから」
「どうかしたの」
「ちょっと、手伝って」
 格子戸をからりと開け、店内に入り、少女の席の横に立つ。七分丈の黒レギンスの両脚は曲がりなく、真っすぐ卓の下に伸ばされている。わたしを見あげる顔に、いかにも頭のよさそうな聡明さがある。両目が活き活きとして可愛さと同時に芯の強さがのぞけた。
「二人分注文したのに、おばあちゃん、どこか行っちゃうから」
 黒色に塗られた厚い板材の、いかにも重量のありそうな卓の上を見る。寒天と果物とエンドウ豆、その上に餡子が乗せられ、さらに黒蜜の垂らされたガラスの器がふたつある。ひとつは少女の席と、もうひとつは誰もいない席にぽつんと置かれた。
 わたしは少女に促されるまま席に座り、木の匙を手に取った。口元に運ぶと、冷たくて甘い。つるりとした感触の寒天がのどを滑る。少女はわたしを上目勝ちに身ながら、器に顔をうずめるようにして餡蜜を食べている。橙色の蜜柑がすっと口中に吸われ、細いのどが上下して体内に取り込まれる。果物で出来ているような女の子だな、とおもった。
「いつもそうだよね」と少女は云った。
「おばあちゃん、なんであんなに怒りっぽいのかな」
 にっこりとして、「ねえ、お母さん」
 わたしは、あっとおもった。この少女はそうだ、さっきの堰で遊んでいた幼児だ。面影がそこかしこに残っている。あの子が大きくなったのだ。大きくなって、わたしの前に先回りして、現れたのだ。
 しかし、お母さん。お母さんってなんだろう。少女はわたしを見つめている。
「あんたはこんな簡単なおつかいも出来ないの」
 ふいに声がして、店の入り口に誰かがいた。
「昔からそうだった、余計なことばかりに気がいって。どうしてお前はそんななんだろう」
 仁王立ちして、わたしを責める。わたしの母親だ。わたしの駄目な部分ばかりをあげつらって、責める言葉に呵責がない。それでもわたしの母親だ。慣れている。納得している。ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい。
 わたしは風呂敷包みをつかみ、店から飛び出し、小道をさらに登ってゆく。叔母さんの家に行かなくてはいけない。あとに残してきた少女と餡蜜のことが少し気になった。しかしここでもわたしは全部を振り切った。
 望めば現れる。たどり着きたいおもいがそれを引き寄せる。木立のトンネル。川沿いの道。人は通らない。蝉の声がこの世の終わりを告げるようだ。石積みの苔むしたカーブを曲がれば、そこにあるだろう。わたしは空に向け息を吐く。自分の熱で自分が焼けそうだ。口から炎が出て、みんな燃やしてしまいたい。
 「茉希ちゃん」と叔母さんが云った。
 坂をのぼりきった場所に叔母の家はあった。下見板張りと漆喰の壁の色が美しく対比し、瓦とスレートで葺かれた尖塔の屋根が折衷様式で、不思議とハイカラに調和した。
 玄関から入った右側の洋間が応接室で、わたしは叔母と相対して座っていた。扇風機が回って、生ぬるい風が吹いた。小テーブルの上、ガラスのコップに炭酸の飲み物が音をたてて弾けている。結露した表面から水滴が落ち、コースターに染みをつくった。わたしはぐっとそれをのどに流し込む。風鈴の音が遠くから聞こえた。ああ、あの黒猫、とわたしはおもう。あの黒猫、どこに行っただろう。折角わたし、ついていったのに。
 何年かぶりの叔母はまだ美しかった。母の妹なのだが、似ている部分は少ない。外見もそうだし、内面はもっとだ。子どもの頃は、このひとがそうならいいのに、とおもった。逆なら良かったのに。このひとがもしそうなら、わたしはもっと良い子に育っただろう。美しく、穏健な母となら、もっとわたしは娘らしくなったのじゃないかとおもう。
 昔の話だ。母と叔母とわたしとで、上野の公園に遊びに出かけた。ボートに乗り、精養軒でお昼を食べ、池の蓮の花を見たりした。弁天堂あたりの人ごみと、出店屋台の混雑に紛れて、わたしは彼女たちとはぐれてしまった。さいわい、すぐ見つけだされたものの、幼いわたしが抱きついたのは、母ではない、叔母の胸の方だった。わたしは叔母が好きだったのだ。実の母親でなく、わたしは別の誰かを選んで、しかし、それは間違いだったのだ。そこでわたしと母の関係はおそらく決まってしまったのだろう。あの昔からふたたびやり直すことはもうできない。
 わたしは叔母に、母から預かった風呂敷の荷物を差し出す。軽く、やわらかく、何か分からないが、女のわたしでも持ってこれる程度のものだ。少し期待したが、叔母は受け取ると、そのまま脇に置いて、結局中身はなにか分からない。わたしはわずかにこころが曇る。もう一度、風鈴がどこかで鳴り響く。
「ずい分遅かったのね。もう沙希ちゃんたち、先についてるのよ」
 知らない名前を云われた。沙希ちゃん。あきらかにそう云った。わたしの名前、茉希と間違った様子はない。沙希ちゃん。誰だろう。
「ね、沙希ちゃん。お母さん、呼んできて。茉希ちゃんが来たって」
 はーい、とちょっと低い、けれど十分に若い、女の子らしい声がして、廊下からこちらの応接室に顔をのぞかせた。
 わたしは息をのむ。二十歳前後の、わたしとほぼ同年齢だ。この年齢ならではの少女性と女性性をあわせもった、一種こわいくらいの美しさがある。
 ああ、大きくなった。綺麗になった。最初は水辺で、次は甘味処で、今はこうして叔母の家で出会った。そうか、この子が沙希ちゃんか。彼女を見る目が他人ではいられないほどだ。同い年くらいなのに、友だちだと云っても良いくらいな年齢になったのに、奇妙な母性が生まれた。
 しかし、とわたしはおもう。扇風機の生ぬるい風に吹かれながら、腕が総毛だつ。駄目だ、とわたしは苦しくなる胸のうちでおもう。彼女のお母さん。沙希ちゃんのお母さん。
 息が苦しくなる。吸っても吸っても酸素がこぼれおちる。
 わたしは会いたくない。会ってはいけない。沙希ちゃん、呼ばないで。ここに呼んでは駄目なんだ。
「お母さん」
 しかし、彼女は来た。いや、彼女ではない。わたしだ。彼女は、わたしの存在をかぶって、するりと応接室に入ってくる。
 彼女はわたしだ。それともわたしが彼女なのか。こんな出会いはおそろしい。認めたくない。同じ存在が同時にひとつの場所にいるなんて、許されない。わたしが消えてしまう。わたしの意味が消えて行ってしまう。
 無意識に、息を吸いこむ。わたしは見る。沙希ちゃんの横に立つ、その姿を。許されない、その存在を。
「ほら、茉希ちゃん」と叔母が云う。わたしを振り向いて、いつものほほ笑む顔がうつくしい。しかしその言葉はどちらに向けて発せられたものか。
 視界が暗転する。
 貧血のようにくらっとした。ぐっと足に力をいれ、踏みとどまる。闇があけ、目の前がふたたび明るくなる。
 女の子が目の前にいた。若い女性だ。わたしの娘、沙希と同じ年齢だろうか。檸檬色のワンピースと、肩より少し下に、髪がまっすぐに伸びた。椅子に座り、手元には年賀状らしい葉書が置かれている。
 なにを驚いているのか、わたしを見る目がまんまると開かれた。
 娘の沙希が隣でわたしの腕に手を絡めてくる。いつまでもこの子は甘えん坊で人見知りだ。こんなに大きくなってもまだわたしにべったりだ。わたしも娘の手をきゅっと握り返す。
「はじめまして」とわたしは云った。にっこりと笑って、
「ところであなたは、どなた?」

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