宝石の呼ぶ夢
あのひとは永遠にわたしの道しるべだ。
いつでも悩めるわたしの行く先を照らして、前へ進ませてくれた。病めるときも健やかなるときも、あのひとの姿を思い浮かべると決まってわたしは安心した。
怖いことはないよ。
心配しないでいいよ。
わたしが手を引いてあげる。
そう云って手を差しのべてくれるのにわたしは安心して、どんな暗闇でも歩いてゆけた。あのひとのおかげで今まで生きてこられたと云っても大げさじゃない。
ただ致命的な問題があった。それは、こんなわたしのおもいとは関係なく、あのひとはわたしのことをまったく知らないと云うことだ。
毎朝の登校途中に、わたしはあのひととすれ違う。厳密には「あのひとたち」なのだけれど、それはいつも隣に、なよなよとしてチャラっぽい男の同級生がいるせいだ。わたしはおんぼろチャリで中学に、あのひとはぴかぴかの電動アシスト自転車で高校まで行く。その途中で、わたしたちはすれ違った。いつも同じ、バス通りのS字カーブを過ぎたあたりで、今はもうつぶれた高梨商店前の少し広くなった場所だ。しかしこれはもちろん、わたしが絶対そうなるよう毎朝、時間調整して家を出るせいだ。歩くスピードも微妙に変えたりして、いかにも自然にそこで出くわすように、わたしの苦心はハンパない。それもこれもベストポジションであのひとを見るためだ。わたしの毎日の救いと、奇跡のためだ。
あのひとの美しさはこの町でわたしが一番最初に気がついた。ひょっとするとあのひとの両親よりも早かったんじゃないかとおもう。とにかく、誰よりも先頭を切ってわたしはあのひとを見つけ出し、誰よりもふかくあのひとに溺れた。
自転車が二台、向こうから並進してやって来る。わたしは道から少し奥まった、商店のひさしの中に身をよける。あのひとだ。長い髪が風になびく。白い顔。身体の線がたおやかに細い。存在に透明感があってガラス細工のようだ。わたしは目が離せない。通り過ぎるのは一瞬だ。あのひとはもちろん、わたしの方なんて見ない。隣にいる軽薄そうにニヤニヤした男子と話してばかりで、ちっぽけであわれな生き物のことなど見向きもせず、あっという間に走り去ってしまう。あとにはあのひとがふり撒いた光の屑だけがキラキラと舞っている。わたしは歩道に出て、後ろ姿を見おくる。それでわたしはまた一日生きながらえた。
「ねぇ麻衣子、そういうのってなんて云うか知ってる。あのね、それって依存症って云うの。イゾンショー」
友だちの奈枝が云う。
「紀実恵さんだって迷惑なんじゃないかなぁ、そんなあがめ奉られてストーカーみたいにされたら」
わたしは中学三年生になっていた。
奈枝はわたしのことが好きだ。だから嫉妬して悔しいからそんなことを云う。わたしだって奈枝のことが好きだけれど、あのひとに対するおもいはそれとはまた別次元のことだ。それがこの子にはいつまでも分からない。
「ねぇ、気安くあのひとの名前を呼ばないでって云ってるでしょ。罰が当たるよ。それにあたし、ストーカーなんかじゃない。迷惑かけないように、あのひとの眼球を汚さないように、こっそり陰から見てるだけ」
「それが怖いって云ってんの」
毎朝すれ違う儀式は、小学のころからはじまり、中三のいままで変わらず続いていた。そのあいだ、あのひとは高三になった。わたしとの年齢の差は縮まることも広がることもなく、いつまでも三歳のままだ。そしてその三歳の差が、わたしとあのひとを絶望的なまでに引き裂いた。
「でもそれしかないんだよ」とわたしは奈枝に反論をしかける。
「あたしにはそうするしかないの。だって他に、どうやって合法的に毎日会えるの。登校中しかないじゃん。でしょ。・・・でも、三歳差ってなに。なんで三歳なの。ついに一度も学年、かぶらなかったんだけど。一年でもかぶってたら先輩と後輩の関係になれたのに」
「はい、希望的観測ね。同じ学校になったからって、どうやって知り合えるの。いきなり凸したって、それはそれでキモくない。あんたにはあたしくらいでいいんだよ。紀実恵さんは天上のひとすぎるよ」
「そうなんだよ、下々の身に女神さまはまぶしすぎるんだよ。せめてあのひとが踏んだ土でも持って帰りたい・・・」
「お前、やっぱキモすぎ」
奈枝は言葉とはうらはらに、わたしのことを胸にぎゅっと抱きよせてくる。ふくよかな胸の感触と甘い匂いで顔じゅうがいっぱいになる。
「でもお前、小学校の時は学校一緒だったはずじゃん。紀実恵さんが六年生の時、あたしたちって・・・三年生か。全然接点なかったわけじゃないじゃん」
わたしは胸にうずめた顔はそのままに、視線だけ奈枝の方に向け、「ところがだな、あたしがあのひとを知ったのはまさにその、小三の三学期だったんだよ。知ったとおもったら、あっという間に卒業してしまうとは、神さまのいじわるだよ。ふたりを強引に引き裂く運命のいたずらなんだよ。同情してくれよ」
さらに奈枝の胸の中に顔をぐりぐりとうずめる。やれやれ、と云うようにあたまをなでる彼女の手の動きをわたしは感じる。
あのひとの美しさをこの町で最初に発見したのはきっとわたしだ。無根拠だけれど、自信がある。実際、色んなところであのひとのうわさを耳にするようになったのは、それ以降だったから。
とにかく可愛い。とにかく美人だ。なんで関東平野のどん詰まりのいなか町に、こんな女の子が生まれたのか。間違って神さまが天使のしずくを一滴、コップからこぼしてしまったんだろうと、わたしはおもっている。
奈枝との会話のなかで、わたしがあのひとを初めて認識したのは小学三年生のときだと云った。しかし実際には少しちがう。さかのぼることさらに二年、実は小学一年のときだ。その年にわたしは今でも説明の出来ない、奇妙な体験をした。人知を超えた、と云ってもいい。あとにもさきにもそんな体験は一回だけだから、よけいにわたしには不思議で、そしてそれがあのひとの美しさを知るきっかけにもなった。
町の南側、山の斜面に建てられたお寺で、わたしはそれを拾った。その日は春のお彼岸で、ご先祖供養のための法事にわたしもむりやり出席させられていた。小一の子どもだから、そんなのに出て面白いわけがない。エナメルの靴も、黒のよそゆきワンピースもどこかきゅうくつだ。それで法要の途中、ちょっとした合間にわたしはひとりで敷地内の探検にでた。
おおきな椎、石塔、ずらりと並んだ墓石。それらの間をくぐりぬけ、本堂の裏側に出た。薄暗く、日もあまり差さない、冷たく湿った土のなかに、わたしはそれを見つけた。
最初はきらりと、なにかが小さく光った。あれっとおもい興味が引かれ、光をたよりに近づくと、土の中にめりこんだ不思議な文様の石がある。主にピンク色だけど、縦に色の筋が幾本も入り、それぞれにピンクの濃さが異なった。ぐにゅぐにゅとした色の流れで、何色かの絵の具をてきとうに混ぜたようなかんじだった。指先が汚れるのも気にせず、爪の先で掘ると、意外に簡単にぽろりと取れた。大きさ的には親指の爪くらいのものだ。楕円形にまるく、つややかで、角度を変えると綺麗に光った。うわー、宝石だ、と思った。宝石を掘り当てた、とわくわくした。しかし子供のこころは、綺麗にひかるものをなんでも宝石だと云いがちだ。ガラスでもプラスチックでも、素材なんて気にしない。こころにかなったものなら、なんでも宝石だ。しばらく上にしたり、下にしたり、日に透かしたりなどして眺めていたのだが、そのうち母親がわたしを呼ぶヒステリックな声が遠くから響いてきた。やば、とわたしはどきっとして、あわててその石を大事にワンピースのポケットにしのばせた。
石のことは誰にも云わなかった。わたしだけの秘密だ。内緒なのはたのしい。誰も知らないわたしだけのかくしごとに、自然とこころがときめいた。寝るときもハンカチにつつんだそれを枕元に置いて、訳もなく興奮して胸をどきつかせた。
おなじその夜、真夜中に夢を見た。女のひとが出てきた。髪が長く、細面で、やせぎすな大人の女のひとだ。そしておどろくほど美人だった。こんなのはテレビでしか見たことないよ、と夢の中なのに思った。普通のひととはぜんぜん違った。顔から光が放たれているようにまぶしく輝いて、でも視線をそらすことはできない。思わず見とれるってこういうことだ。絶対的なうつくしさの前に、凡人って立ち尽くすだけだ。わたしとはちがう世界のひとだと一瞬で理解して、ただ見とれるばかりだった。そのひとがわたしに何か話しかけたような記憶がある。会話を少ししたような気もするけれど、今では良く思いだせない。ただ夢から覚めたあとでも、そのひとの顔の記憶だけはずっと残った。下手くそながらにお絵かきして、少しでもあの綺麗さを写し取ろうとしたけれど、無論お話にはならない。
その女のひとと、わたしがお寺で拾った石との関連性に気がついたのは、もう少しあとのことだ。わたしが彼女の夢を見るのは、きまって石を枕元に置いているときだった。それまでは机の中にしまいっぱなしだったり、気まぐれにひっぱり出してきては枕の下に忍ばせたりしていたのだが、彼女が夢に登場するのは、後者のときにかぎられた。ある日それに気づくと、その後、数回実験して確かめて、いよいよ確信をえた。この石が女のひとを呼ぶんだ。この石と寝るとあのひとが現れて、わたしはいつでもあの綺麗さに会えるんだ。
とはいえ、子供はやっぱり子供で、一年生が終わり、二年生になり、三年生に上がるころにはもう石のことは忘れ、女のひとの顔もなんとなくうすぼんやりとした記憶になろうとしていた。
そんなときに、わたしは出会った。
才野紀実恵さん。六年生の、背の高い、そしてその顔は、わたしが夢で見ていたあの女のひとに瓜二つだった。
「やべぇなぁ」とわたしはつい口に出してつぶやいた。
「ん。なにがやばいんだよ」と奈枝がアイスクリームをかじりながら、こちらを振り向く。
中学からの帰り道、自転車を押しながら田中商店で買ったチョコレート・コーティングのアイスをかじっていると、いきなり雨が降ってきた。あわてて近くの納屋の軒下に身をかくす。トタン屋根を打つ雨の音がはげしい。夕立だ。七月のこんな時期にこういう雨は普通によくある。
「ううん、なんでもない。この雨がやべぇなぁとおもっただけ」
「うそつけよ」
「うそじゃないよ」
「かくすなよ、あたしには分かんだよ」
「かくしてないし、何が奈枝に分かんだよ」
「紀実恵さんのことだろ。どうせ、春になったらあのひと卒業だし、そしたらもう毎朝会えないし。それで、やべぇなぁっておもってるんだよ。知ってんだよ。そうでしょ」
「まぁ、・・・ぶっちゃけそうだけど。いや、そうですけどおっ。それが何かぁっ」
「ちょっと逆ギレかよ。怒りたいのはこっちなんですけど」
わたしはアイスの最後の一口をもぐもぐさせながら、「そんなこと云ったら、奈枝だってそうだよ。最近男にべったりじゃん。あたしだって知ってる。例のその、福岡くんって云うの」
奈枝の顔がたちまち赤くなる。怒っているんじゃない、羞恥の赤さだ。ムリに取り繕おうとして、「そんなの、違うよ。あの子とはなんともない、・・・とおもう」と言葉尻に元気がない。
わたしはたたみかけるように、「なんだよ、あいつ、変な髪型だし、制服パッツパツだし、あたしにも馴れ馴れしいし、どうなってんだよ」
案の定、奈枝はてきめんにムッとして、「そんなことないよ、天パなんだし、育ち盛りなんだし、単にフレンドリーなやつなんだよ。しかたないっしょ・・・」
あぁ、こうして女子同士の愛なんて、もろいものだ。どんなに言葉では云っていても、いつかはこういうことになる。でもそれはしかたない。どうしようもない女の子の性だ。知ってた。知ってた。たいしたことない。ただ、わたしは違う。わたしだけは違う。やばいやつだ、わたしは。誰にも止められない暴走列車だ。やばすぎてみんな近寄れない。
しばらくふたりして雨を見て黙っていると、「あんた進路どうすんの」と奈枝がつぶやく。
「知ってるくせに」とわたしが云う。
「ま、知ってるけど。紀実恵さんとおなじ学校にすんでしょ。ばかみたい。ばかだよ」
わたしは雨に濡れた手を奈枝の方に差し伸ばし、手をきゅっとにぎる。奈枝は拒まず、にぎり返してくる。
「そうなんだよ。ばかみたい。あたし、ばかみたいでしょ」とわたしは云った。
夏休みが終わり、二学期になって、変化が少し訪れた。
あのひとといつも一緒に登校していた、わたしからすれば憎き存在である同級生男子の姿が、ぷっつりと見えなくなった。一日、二日ならまだ分かる。しかし一週間以上となると、これは何かが起こったに違いない。
一度だけその同級生と話したことがある。わたしからではない、先方から無理に声をかけてきたのだ。
放課後、下校途中だったのが油断のもとだった。あっとおもうと、狭い歩道の向こうとこちらでふたつの自転車が鉢合わせした。顔を見てすぐ、あいつだ、とおもった。女の子みたいな顔をしている。男子っぽいゴツゴツした身体つきじゃなく、全体の線が細い。スリムと云えばその通りだが、軟弱と云ってもぜんぜん通じる。直感的にわたしのタイプではない。こういうひとは選ばない。少しもこころにピンとこない。やっぱりわたしの敵だ。立ちふさがるライバルだ。
「あれ、おまえ。いつもの子じゃん」と彼は云った。いじわるするように、 自分の自転車の前輪をわざとこちらにぶつけてくる。わたしはなにも云わない。ただじっと相手の顔をにらみつけた。
「毎日よく、すれ違うよな。・・・おまえ、なんなの。俺のこと好きなの。なに、これちょっと告白されちゃう感じ」
そして何度も、わたしの方にタイヤを軽くぶっつける。わたしは自分でもどうしようもなく、赤面してくるのを感じる。そういうつもりじゃまったくないのに、赤くなるのを止められない。あぁ、憎らしい。本当に嫌だ。こんな相手に顔を赤くするなんて。今すぐ死んでしまいたい。
「なぁんて。ゴメンな、俺じゃないよな。あいつだろ」と意味深に上目遣いでわたしを見つめる。長いまつげで、はっきりとした二重だ。わたしじゃない誰か他人なら、見とれてしまうのかもしれない。
「あいつって・・・」とわたしはおもわず声が出る。「あいつって誰よ」
「あいつはあいつだよ。おまえ、いつも紀実恵のこと見てるだろ」
いきなり名前が呼ばれて、本当に心臓が止まった。わたしにはその名前は禁断だ。刺激の爆弾だ。頭の中が一気に真っ白になった。
「紀実恵のことばっか気にしてんの、分からないわけないよな。だっていつもあんなにガン見してんだもん」
わたしはなにも云えない。道端でいきなり素っ裸にされたような気分だ。隠すものも、隠れる場所も何もない。こんな敵を前にしてわたしは果てしなく頼りない。
「だったら、俺がそう云ってやろうか。あいつのこと好きなら、俺が云ってやるよ。紀実ちゃん、お前に中坊が告白したがってるって」
まさか。とんでもない。あのひとの前でそんなこと云えるわけない。きっと罰が当たって、そんな口は腐って取れてしまうだろう。天上の女神に地上の人間ごときが告白なんておそれ多い。ありえない、ありえない。
「ま、俺的にはどっちでもいいんだけど。ただ、紀実恵ってああいうやつじゃん。ほぼ周りのことなんて見てないから。視野が狭いって云うか、興味のないことには首突っ込まないっていうか。自分で行かない限り、あいつはお前のことなんて見ない」
云うだけ云うと、彼はいつも見るにやにや笑いをして、わたしの横を通り過ぎる。余計なお世話なのか、意地悪なのか、本当は親切なのか、よく分からない。つかみどころのないひとだ。簡単に手玉に取られてしまった気もする。腹が立つ一方で、どこか納得してしまう気持ちもどこかにあった。しかし、やっぱり敵だ、じゃまものだとわたしは無理に思いこむ。
彼と話したのはそれが最初で最後だ。その姿が二学期からぷっつりと見えなくなった。紀実恵さんは、しかし、何事もないようにひとりで高校に通うようになった。わたしはいつもの場所ですれ違う。ぱっと見にはなにも変わらない。あのひとは今まで通り、綺麗で可愛くて、わたしには至上の存在だ。しかし、どこかが変わった。見えない部分で、明らかに前とはことなった。それがなんなのか、わたしにはことばにできない。気のせいだ、と云われてもしかたない。でもわたしには感じられてしまう。わたしだからそれが分かってしまう。あのひとは以前のあのひととは、不思議にどこかが変化した。
地球上の人間のなかでも、わたしはさらに下層の人間だ。顔は可愛くない。スタイルだってぶさいくだ。性格もゆがんでいて、友だちも多くない。男子からの受けだって良いとは云えないだろう。中学に入って出来始めた顔の吹き出ものがいやで、前髪をばさばさに伸ばしてからは、女米津とか、女バンプとか云われるようになった。いじめられるほどではないにしても、クラスの女子たちから煙たがられているのが分かる。漫画とアニメが好きで、ノートには顔だけのイラストが山ほど描かれた。先生たちもどこかわたしを軽く扱った。小ばかにして当然みたいに、誰かをほめるためにあえてわたしを見下して、笑いの種にした。わたしも仕方なく愛想笑いして、その場はいつも予定調和にまるくおさまった。
わたしはわたしで、しょうがない。どうしようもなく、これがわたしだ。わたし以外を、わたしは演じることはできない。普通にしていて納まるところに納まることが、結局わたしの役どころなんだろうと考えている。
それでも、もし、とおもってしまう。夜眠るときや、家族とご飯を食べているときに、ふいに時々おもってしまう。
もっと違うわたしがどこかにいるんじゃないか。本当のわたしがどこかにいて、実は今が仮想なんじゃないか。そのわたしは、もっと全然別人だ。顔は可愛い。スタイルは読モのようで、誰からも好かれる明るい性格をしている。裏表がなくて、素直で純粋だ。当然男子からも女子からも信頼があり、みんなが友だちになりたがる。
そうならどんなにわたしは誇らしいだろう。どれほど自分を好きになれるだろう。前髪をあげて、おでこを出しても、おそれるものはなにもない。わたしは自分に満足して、もうひとりのわたしのことなんて考えもしない。
あぁ、お前はずるい。自分だけそんなコンプレックスなく、ストレスフリーで生きられるなんて。いやなことは全部わたしに丸投げし、それで知らんぷりしていられるんだ。もしも、わたしがお前なら。
行きつくところ、それはいつもあのひとにたどりつく。
あのひとはわたしの、もうひとりのわたし。わたしにないもの全部を、あのひとは持っている。ガラスのような肌。絹のような髪。宇宙の星雲みたいな瞳。自分が自分であることに疑問なんて抱かない。強さも弱さもぜんぶ自分で引き受けられる。だからいつもあんなに素敵なんだ。颯爽として、活き活きとして、光の屑をたくさん振りまけるんだ。
あのひとのことをおもうと胸が苦しくなる。その一方で、どこまでも解放される気持ちにもなる。わたしはあのひとになりたいわけじゃない。そんなのはおこがましい。図々しくて、身のほど知らずだ。ただ、あのひとはその存在だけでわたしを自由にしてくれる。そこにいてくれるだけで、わたしはその輝きを吸収して、それで生きながらえる。ダメダメなわたしのイケてない毎日の、あのひとは道しるべだ。仕方のないわたしの、あのひとは手を引いて導いてくれる、守護天使だった。
わたしがお寺で拾ったあの石(のちにそれは瑪瑙だと分かった)と、夢の中のきれいな女性、そして紀実恵さんがどのような理由でつながっているのか、謎すぎて分からない。ある時を境に、石を枕元に置いても、あの綺麗な女性は現れなくなった。それはわたしが、小学三年の三学期、紀実恵さんの存在を知ってからのことだ。夢の中からそのまま出てきたような彼女は、小学六年生なのに大人のようにきれいで、わたしのこころをわしづかみにした。夢は夢じゃなかったとおもった。まるでわたしがあのひとをこっちの世界に呼び寄せてしまったような、そんな気さえした。
しかし、わたしはそれまでの二年間、ずっとその顔を知っていたのだ。こちらの世界で出会う前から、すでにわたしはあのひとを知っていて、そのうつくしさに誰よりもはやく気づいていた。まだ誰も知らないはずのその顔はずっとわたしの中にあり、おさないこころでわたしは溺れ続けた。
あのひとの卒業式の日は前もって調べてある。その日を狙ってわたしは一世一代の計画を打ち立てた。一度だけ。一回だけでいい。あのひとと話したい。あのひとがわたしにだけ話しかける、その声を聞いてみたい。その後なんにも進展しなくていい。その一瞬だけがわたしに訪れれば。
わたしからすればコペルニクス的転換だ。自分でも自分が信じられない。遠くからみているだけで満足し、わたしみたいな存在をあのひとの瞳に映し出すことすら恐れていたのに、自分で自分がいぶかしい。あのひとの前に立って、見つめられて、あまつさえお話するのを望むなんて、きっと気が狂ったに違いない。そうじゃなきゃこんなこと考えない。
「なんか心配だな」と奈枝が云う。「やっぱあたしも一緒に行ってあげるよ」
「大丈夫だって。お母さん、心配性だな」
「は、誰が麻衣子のお母さんだよ。だってお前、一人で凸ったら絶対キョドった感じになるじゃん」
「いいんだよ、お前が気にすんなよ。これはオレのことなんだから。オレが自分でちゃんとやんなきゃ」
「そうかなぁ、そうなのかなぁ」
「そうだよ」
「まぁ、ならいいけど。でも、ずい分最後の最後でおもい切るよな」
「な。あたしも驚きだよ。でも、やっぱり心残りはしたくない」
「あたしにはなんだかわかんないけど。・・・じゃ、麻衣子、立派に玉砕してこいよ」
あのひとの高校卒業がなんの区切りになるのか、わたしにもよく分かっていない。この町から出ることはないらしい。大学は行かず、就職して、地元の郵便局に勤めるとうわさで聞いた。お互いこの町に住む同士だから、きっとどこかで見かけるだろう。離れ離れで、二度と会えないわけじゃないから、そこまで深刻ぶらなくてもいいのだろうが、やっぱりわたしにはここが分岐点だと感じている。六年間分の愛だ。ずっとすれ違い、あこがれ続けた毎日だ。なにかひとつのかたちをつけてあげたい。登校途中の、制服姿のあの人をみることは、もうないのだ。
朝、高梨商店前にわたしは、いる。入り口はずいぶんむかしからトタンの引き戸が締まりっきりで、錆が前面に浮き出ていてすごい。入り口上の雨よけテントも、悪魔の爪で切り裂かれたように、ズタボロだ。保育園の頃にはまだやっていたようにおもう。おばあさんが亡くなってしまってからは跡を継ぐものもなく、あっというまに廃墟みたいになってしまった。
あのひとはもう少しでやって来る。何年ものあいだに、身体に染みついた時間だ。これで最後かとおもうと少しウルっと来る。あのひとに救われた時間が一気にわたしの胸に押し寄せて、本気で呼吸ができなくなる。わたしは本当にあのひとを愛していたのだ。
「あの」と、ふいに呼びかけられた。深呼吸をしようと息を吸い込んだその瞬間、声がした。見ると、女の子だ。女の子がいつの間にかわたしの横に立ち、両手を胸の前でかたく握りしめ、こちらを見ている。いまのこの登校時間に私服を着ているから、きっと小学生だ。しかし顔はかなり大人びて、しっかりしている。背もわたしと同じくらいあるだろう。下手したらわたしよりお姉さんに見えるかもしれない。
「え、なに」
ちょっと冷たい声が出た。紀実恵さんがあとちょっとでやってくる。可愛いけれど、知らない女の子と話している場合ではない。
「なんなの。用事」
あぁ、もうやってきてしまう。六年間のおしまいの日だ。これを最後にわたしはもうあのひとと毎朝すれ違えない。
女の子は顔を真っ赤にして、絞り出すような声で、「あの、毎日見てました。・・・好きですっ」
「は」
なにを云われたのか理解不能だ。毎日見てましたってなんだ。好きですってどういう意味だっけ。
女の子は何かプレゼントの包みめいた、カラフルな箱状のものをわたしに押しつけてくる。反射的にわたしはそれを受け取ってしまう。
「毎日学校に通う途中、いつも見てました。卒業おめでとうございますっ」
そして蚊の鳴くような声でもう一度、「好きです」
いや、ちょっと待って。理解が追いつかない。この手にわたしが持っているものはなんだ。プレゼント。卒業。好きです。って、それってあんたじゃない。わたしだ。このわたしが云うべきセリフだ。
わたしが支離滅裂な思考で混乱している間に、向こうを透明なひかりが通り過ぎた。紀実恵さんだ。自転車で今、通り過ぎた。わたしは、あっとおもう。行ってしまう。手の中からすり抜けていってしまう。なんでよりによって。わたしの愛したひと。わたしの守護天使。
わたしは胸の底が抜けたような気持ちで、歩道まで出て、あのひとの後ろ姿を目で追う。もう追いつけない。わたしのひかりはあっという間に行ってしまった。終わった、とおもった。こんなことは一度だけだ。やりなおしなんてきかない。あのひかりはもう二度と同じ軌跡を描かない。わたしはそれに乗り遅れてしまったのだ。わたしはひとり、取り残された。
「・・・ありがとね」
わたしは女の子にゆっくり向き直る。ぼうっとした気持ちで、しかしやさしく云う。誰だかは知らない。どこ住みの子なんだろう。見たことはあるんだろうけれど、しかし記憶には全然ない。
力の抜けたこころで、不思議とわたしはほっとしていた。目の前の女の子のふんわりとしてやさしい印象に包まれて、立ちかけたさざ波がゆっくり静まっていった。
「ありがとね」
わたしはくり返して、にっこりとほほえむ。自分でも驚くほどすなおな笑顔だ。こころの奥から自然と、じんわりと湧いてきた。まるで別人がのりうつったような気分で、わたしは目の前の女の子を見つめた。
中学を卒業して高校一年生になった。
わたしは運よく合格し、あのひとと同じ高校に行くことになった。卒業した彼女はもういないのに、でもかまわない。学校の中にはまだきっと光の破片が残っている。どこか教室にでも、廊下にでも、わたしなら絶対見つけだせる。そのために三年間、生きる理由がわたしにまた出来る。
「高校、どうだよ」と奈枝が云う。
一学期が始まって最初の土曜日、わたしと奈枝は駅前のドーナツ屋さんにいた。地元にこんな洒落た店はない。各停に乗り、県で二番目に大きい街まで来た。駅前にはいつの間にか大きなファッションビルが建った。このドーナツ屋さんも場所が前とは違う。ちょっと見ないと色々変っていておどろく。
「まあまあかな。ただ校舎がすごいボロい」
「それな。うちの学校もそう。壁とか薄汚れてて、雰囲気なんだか暗いんだよ」
「なんだろね、不景気だからかな。円安のせいとか」
「は、麻衣子、お前円安なんてどういうことか知らないだろ」
奈枝はチョコ味のシェイクを頬をすぼめてストローから吸いあげる。口を離してから、「可愛い女の子ならいっぱいいるから、それで他は許す」とにっこりする。
「なんだよ、浮気かよ。学校別れたらもう目移りするなんて、早くも離婚の危機じゃん」
「ふふ、女の嫉妬はヤバいよ。うそうそ、オレにはお前だけだから」
「大事にしてくれよ、愛している分だけ愛してほしい」
「なんだ麻衣子、お前、図々しいな」
テーブルの上で手を重ね、二人して笑う。
たぶん、色々なことがうまくいく。理由はないけど、いつか振り返って、きっとそうなる。なんだかんだ、納まるべきところに納まって、みんな納得するんだとおもう。それがたとえば、望んだとおりじゃないとしても。
隣の席にいた男の子がふたり、近寄って来たかとおもうとわたしたちにナンパをしてくる。同い年か、向こうが少し年上かもしれない。女ふたりだと、こういうこともあるんだろう。わたしと奈枝は互いの目を読み、うなづいて、パチもんっぽい女の子の仕草と声音で相手の誘いに乗ることにする。おかしいな、こんな嘘つきのわたしたちなのに。しかしこういうことも今のうちだ。
わたしは自分でも聞いたことのない、高く甘い声でかれらに向けて笑いかけていた。
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