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わたしの春の咲く方へ

 大学四年になった。
 年号が変わって最初の春だから、世の中の動きもどこかはなやいだ。お花見に行こうだなんて友だちからのアイディアも出て、少し驚く。この三年間、こんなこと一度もなかったのに。
「だって、来年にはわたしたち、もうバラバラなんだよっ。離れ離れに、だよっ。一緒にいられるのも今年だけなんだから、思い出作らなきゃ」
 友だちのセリフに、しかしわたしからすると、わざわざ人ごみに出るのはご辞退申し上げたい。世間の人々と同じ行動をして人波にもまれにいくなんて、ちょっと趣味じゃない。テレビか何かの、行列が出来るお店の画像を見てさえ胸焼けするくらいなのに。
 大学のキャンパスにも桜が咲いた。今年は春先に雨が多かったから例年よりかなり開花が遅かった。二か月ぶりに友だちと再会し、お昼を桜の下で食べた。みんなの顔を見渡し、確かにそうかもね、と思う。こうしていられるのもあとちょっとだ。四年生だからこれまでのようにみんな一緒なんて授業はほぼない。学校に来るのだって、たとえばゼミとか、就職課に行くときくらいだろう。そう考えると、さすがのわたしも少しさみしくなる。来年の今頃のことを考えると、なんとも頼りない気がしてくる。次の桜の季節に、わたしたちはもうここにはいない。それぞれがそれぞれの決め方で居場所を変えていってしまう。みんな何をしていることだろう。ましてやわたしなんかは。桜の色がいつもとは違って見えた。
 それで就職ガイダンスのあと、わたしたちは地面に涙色の足跡をつけながら千鳥ヶ淵まで繰り出した。九段下から地上に出て、坂上まで歩いてゆく。平日とはいえ、名残の桜の時期だから十分にひとが出た。狭くないはずの歩道が渋滞するのも、都内でも有数の名所のせいだろう。お濠を左手に、花の散る風情が人々を酔わせる。風が吹くと一斉に花吹雪が起こり、歓声があがったりする。悔しいけどわたしもつい声が出てしまう。夢のようだ。桜の見せるつかの間の夢。夢のようなわたしたちの一瞬の季節。友だちがわたしの手を握り、握った彼女の手があたたかい。
 こんな人ごみのなかでも、・・・ぱっと目についたものがある。ここにどれだけ花見客がいるのか見当もつかないけれど、不思議とそこに目が吸い寄せられた。
 菜原くんだ。菜原くんが群集の向こうにいた。学校の友だちだろうか、同い年くらいの男の子らと連れだっている。そういえば彼の学校も今日から始業と云っていたっけ。ひょっとして彼らも、わたしたちと同じような会話をしてここまで来たのかもしれない。男の子にもそんな感慨ってあるモノなのだろうか。みんながやがてバラバラになって離れていってしまう切なさとか。わたしには良く分からない。
 ぼーっとしていたら友だちに呼びかけられた。うなづいたり、相槌を打っている間に、彼のその姿はもう見えなくなってしまった。こんな群集の中で彼だと気づいただけでも、ある意味奇跡だ。偶然ってすごい。しかもわたしだけがそれを知っている。なんとなく得した気になって少しこころが浮ついた。今度会ったら驚かせてやろう。遠くから実は目撃されていたなんて知ったらどんな顔するだろう。想像すると楽しくなった。意地悪な気持ちに胸が弾んで、見る桜もより一層はなやいだ。

「そう云えば茉ぁちゃん、こないだ御徒町のホームにいたでしょ」
 お花見とは別の日だ。菜原くんがわたしに云う。わたしはヒヤッとして彼のにやにや顔をおっかなびっくり見つめる。
「俺、すぐ反対側のホームにいたんだけど、すぐ気がついたよね。あれ、茉ぁちゃんがいるって」
 おかしいな。なんかヘンだ。本当ならわたしの方が彼を驚かせるつもりだったのに。
「全然気がつかなかったでしょ、俺が見てたの。こっちから念力送ってたのに、下向いて本ばっかり読んでるんだもんなぁ」
 確かその日は上野の美術展に行った帰り、アメ横を通り抜け御徒町から電車に乗ったのだ。しかしあんなところに菜原くんがいたとは思わなかった。内緒で盗み見してたなんて、気持ち悪い。一体どんな顔をわたしはしていただろう。おかしな行動をしてなかっただろうか。なんだかヘンな汗をかいてきた。
「勝手にひとの私生活見るの、反対。公序攪乱罪で警察呼ぶからね、禁固五万年」
「ひひひ、なんか茉ぁちゃん、あくびしてたよ、おっきな口して」
「うそばっか」 
「すごい顔でくしゃみしてたよね、はっくしょーいって、俺、驚いちゃった」
「そんなコトない、してません。虚偽罪で追加、三億年」
 それでわたしが菜原くんを見かけたことはなんとなくうやむやになり、わたしだけが恥ずかしいおもいをした。
 その年は少し奇妙な春だった。お互いがお互いをどこかしらでよく見かける春だった。あれはどういう具合だったのだろう。どんな引力が働いていて、そうなったのだろうか。狭い東京とは云え、首都で、大都会だ。人はどこにでもあふれ、ひと一人なんてすぐにでも紛れてしまうはずなのに、わたしたちは少なからぬ回数、互いを偶然に見つけた。あの千鳥ヶ淵での一件以来、たとえば駅で、地下通路で、百貨店の中でも、まるで冗談のように見かけることがあった。いかに相手より先にこちらが見つけるか、負けず嫌いのわたしたちの妙な競争が始まっていた。

 桜の季節が終わり、若葉が伸び始めると同時に、気温も一気に上がってきた。こないだまではまだ冬のようだったのに、日によっては初夏めいた暑い日もある。春独特のぼんやりと霞がかった景色から一転、街の風景は輪郭のはっきりした、鮮明に目に映える季節になった。中央線の窓から見る神田川沿いの土手もみるみるうちに緑に染まった。気温とひといきれのせいで、車内は汗ばむほどだ。涼しい冷房が待ち遠しい。
 東京駅から新宿方面への電車内にわたしはいる。神保町からの帰りだから本当は京王新線の方がお利口な行き方なのだけれど、地下鉄ってどこかつまらない。今の季節はやっぱりそとの景色が見たい。冬がようやく終わったのに、好んで地下鉄に乗るというのも気の利かない話だ。お茶の水橋口から電車に乗り、神田川を右手に見て走った。土手の柳の枝垂れがみずみずしくてきれいだ。なにか黄色い花も咲いている。川面は相変わらず濁った茶色で美しくないけれど、午後のひかりをおもてに砕いてキラキラ光り、眺める目にまぶしく映った。
「あぶない」
 思わず声に出た。
 わたしの前に座っていた幼児が何かの拍子でバランスを崩し、立っているわたしの前に、こてん、と云うかんじで転がってきた。
「あぶないよ」
 もう一度云って手を差し伸ばす。腰をかがめ顔をのぞき込むと、女の子だ。こどもの年齢を当てるのは苦手のわたしだけれど、たぶん三歳にはなっていないだろう。肩までの髪と、ぷっくりとした頬が女の子らしい。一緒にいたお母さんらしいひとが、すみませんとわたしに頭を下げる。お母さんと云うより、全然お姉さんだ。わたしとそんなに年齢も違わないんじゃないだろうか。髪型も服装も今風だし、肌は美しい。年齢が良く表れる目のあたりには張りがあり、まなじり部分をきゅっと持ち上げた。わたしのお母さん世代とは違う。現代・当世風のお母さんだ。若やいだまま親になり、大人というより娘らしさがたっぷり残った。
 電車が市ヶ谷のカーブで揺れると女の子はまたバランスを崩し、ふたたびわたしにむけて倒れかかった。そのいかにも幼児っぽい身体の動きに、思わず胸がきゅっとなる。とっさに女の子を抱きとめて、その柔らかさと軽さにびっくりする。子供ってこんななんだ。こんなにもろくて、頼りなげで、不完全なんだ。小さくちっぽけで、自分で自分のことも守れない。人間と云うより、小動物のようだ。ついつい構ってやさしくしてあげたくなる。庇護欲にかられるってたぶん、こういうことだ。わたしは女の子の脇に手を差し入れ、ちゃんと立たせてあげる。お母さんはますます恐縮して、何回か謝り、お礼を云ってくる。そして女の子の手を取ると、座椅子の上に引っ張り上げずっと奥まで深く腰を下ろさせる。足が短いから座面の上で両足がまっすぐになる。
「ちゃんと座っててね」とわたしは女の子の目線に高さを合わせて云う。「また転んじゃうぞ」
 女の子は神妙な顔をして黙ってうなずく。困ったような怒ったようなムッとしたような表情でわたしを見てくる。うーん、きっとこの子、人見知りなのだ。わたしの子供の頃を思いだし、その気持ちは良く分かる。わたしもこんなかんじだった。愛嬌なんて振りまけなかった。自分のこころを制御するので精一杯だった。初めて会った知らない大人にニコニコ笑える子供がいるなんて、未だに理解不能だ。多分宇宙人と地球人くらい人種が異なっている。たとえば、わたしの子供がいつか出来たら、やっぱりこんな風だろう。わたしと同じで人見知りだ。愛嬌なんて良くない。他人が近づくと身構えてかたくなになる。血のつながりだ。いたし方がない。
 それでも、どうせ産むなら女の子が良いなと思う。わたしの子供が、目の前のこの女の子ようだったら良いのにな。きっと大事にしてしまう。抱きしめて可愛がってしまう。誰でも良い訳じゃない。その子がわたしの子供だから。本当にそんな時が来るのだろうか。生まれ変わったのちの、来世のようなお話だ。
 次の駅が来て、お母さんと女の子は手をつないで降りていく。お母さんはわたしに恥ずかしそうに会釈して、雑踏に紛れ、やがて階段下に消えていく。わたしは不思議に、何か大事なものを手放したような痛みを、どこかに感じた。

 桜が散り、新緑が萌え、大学四年なんて名前にもなじんできた頃、わたしは教職課程の一環の、中学校での教育実習におもむくことになった。教職を履修したときから、いつかこの日が来ると覚悟していたけれど、いざ本番となるとやはり怖気づく。仮免とは云え、わたしが先生だって。ちゃんちゃらおかしくて、おへそでお茶を、なんとやらだ。私が生徒なら、こんな先生は嫌だ。頼りなさそうで、おっかなびっくりで、どっちかって云うと、大人じゃなくてお子さま側の人間だ。本気で先生になろうと云う訳でもないのに、単位のためにつき合わされる生徒たちも災難だ。わたしも生徒もかわいそうに。
 五月の後半になった。実習期間は二週間。わたしの母校は先方の都合で断られたため、よその区立の中学校に赴任することになった。担当は国語だ。白いワイシャツに黒のスーツ、髪を横分けにして後ろでひとつ縛りなんて、こんなのまるでわたしじゃない。鏡を見て笑ってしまう。笑う一方で、少しこわい。いたいた。こんないでたちの神経質そうな先生が、高校生の頃いたっけ。あれは確か倫理の先生で、神経がむき出しのようにいつでもキリキリして、最後には自律神経失調症で退職された。名前は忘れたけれど、ちょっと瓜二つすぎる。こんな大人になるなんて、想像もしていなかった。この二週間、鏡を見るのはなるべくやめよう。
 授業計画を学校に提出し、ダメだしをされてまた再提出し、先生としての責任と、生徒たちへの啓蒙をみずから促すようなレポートを数枚にわたって書かされ、四苦八苦の末、ようやく区の教育委員会から辞令が発行された。その時点ですでに疲労困憊していたけれど、これも単位のためだ。実働よりはるかに長い準備期間を終え、茉希ちゃん先生、初出勤となった。
 中学校の校内に入るなんて久しぶりだ。卒業以来、自分の母校にも足を踏み入れたことはない。校内には色とりどりな掲示物がべたべたと貼られ、その内容がいちいち幼稚に見えて驚いた。模造紙で書かれた今週の目標とか、小運動会に向けたスローガンの垂れ幕とか、なんだか子供っぽくて少し背中がムズムズした。中学校ってこんなかんじだったったけ。随分昔のことで忘れた。忘れたが、ここまで子供っぽい場所ではなかった気がする。時間が流れるってすごい。かつて入学したときは、中学校も十分大人びた場所だと思ったはずだけれど、それも今や過去のことだ。自分が童話中のガリバーになった気がする。今の大学と比べると、可愛らしいミニチュアだ。それで少し気が楽になる。
 とはいえ、どんな仕事にも大変さってあるもので、先生役を演じるのも楽じゃない。生徒たちから「先生」と呼ばれるだけで先生になれるわけではないし、先輩の本職先生からすればわたしはただの学生だ。あれこれ指導されるたび、教職の大変さが身に染みる。あの倫理の先生だってきっと苦労していたのだ。心の中でちいさく、あの時はごめんなさい。
「茉希ちゃんセンセ、一緒にごみ置き場まで行こ」
 やっぱり茉希ちゃん先生と呼ばれた。放課後のそうじの時間、担当クラスの女子たちがわたしにまとわりついてくる。運ぼうとしていたごみ箱をみんなでちょっとずつ持ちあって、はたから見るとちょっと妙な光景になった。そうだ。女の子ってこういうところがあったっけ。みんなで一緒に、なんでも平等に。わたしどころか、ごみ箱さえもちょっとずつ全員で。廊下をぞろぞろ四、五人で固まって歩いてゆく。女の子はにぎやかだ。このくらいの年頃に敵はいない。男子だってつい避けて、壁側に寄ってわたしたちを遠巻きに見る。
 なんとなく予想はしていた。しかしそれ以上にわたしはクラスの女子から良くモテた。教育実習生がクラスに来るなんて非日常だし、かなり特別イベントだ。希少動物か珍獣のように扱われるだろうと思っていた。そしてそれはその通りだったけれど、その上を行って女子たちはわたしにべったりになった。何の変哲もない、どこにでもいる女子大の仮免先生なのに、このモテ方はわたしながらすごい。ひとりでいるコトを許さない。朝でも休み時間でも放課後でも、誰かしら女子がわたしに近寄ってきて、甘えてきた。母娘というには年が近すぎて、かと云って姉妹と云うには離れすぎた。微妙な年の差だ。あえて云うなら、年上の近所のお姉さんくらいだろうか。知的でも美人でも特殊なカリスマがあるのでもない、普通で平凡なお姉さんだ。このくらいの方が近寄りやすくて良いのかもしれない。
「茉希ちゃんセンセ、音楽どんなの聴くの」
「茉希ちゃんセンセ、好きなお菓子は」
「茉希ちゃんセンセ、やっぱり先生になるの」
 校舎裏の集積場にごみ袋をぽいと投げ捨てて、帰りは身軽になって帰る。女の子たちは怒涛の質問攻めで、終わることなく、飽きることもない。きっとわたし以上にわたしのことを知っているくらいになっただろう。普段のわたしならそのしつこさに参って、黙って距離をとるくらいしかねないものが、今回は違った。自分の生徒はやっぱり違う。わたしの最初でおそらく最後の教え子だ。子犬みたいにじゃれついてくるのをムゲになんてちょっと出来ない。律儀にひとつひとつ、質問に答えてあげる。ひねりも頓智もきいてない回答なのが、逆に悪いようだ。
 青空は五月の色で、風が吹くと校庭の砂が巻き上がり、少し空を汚した。掃除の時間の軽妙な音楽がどこからか聞こえてくる。男子の声、女子の声、学校特有のざわめきがあちこちでする。
 茉希ちゃんセンセ。
 茉希ちゃんセンセ。
 両側から腕を引っ張られる。中学の頃とはぜんぜんちがう。人気者なんかじゃ、わたしはなかった。こんなに引く手あまたでモテたりなんかしなかった。どちらかと云うと同級生からは一線引かれていたくらいだ。
 今の中学生を生きる彼女たちの顔を見る。可愛い顔してニコニコ笑っていても、幼いようで女の子はどこか大人だ。それは中学時代のわたしが良く知っている。政治派閥的なバランス感覚って中学生なりに存在し、大人でもバカにできない緻密さがある。生きていく上での知恵だ。うまく学校生活を乗り切るための工夫が必要だ。みんなつつがなく卒業まで生き延びたい。それでわたしがやり玉に挙げられた。攻撃する標的は分かりやすい方が良い。誰からも賛同を得られそうな、手っ取り早い人間が良い。あのコならしょうがないよね。あのコなら自分の責任もあるんじゃない。祭りにはいけにえが必要だ。みんなの代わりに犠牲になる存在が必要で、誰が選ばれるかみんなヒヤヒヤしている。最初は良く分からなかった。元々、ひとと群れる性格ではない。ひとりきりでも気にならない。だから自分がその標的になっていることも、しばらく気づかなかった。見えない空気の層に弾かれるように、自然と友だちはわたしから離れていった。
「茉希ちゃんセンセ、好きなひととか、恋人いるの」
 この子は黒髪が綺麗で、水の流れのようにまっすぐ、髪が下に流れた。目が大きくキラキラして、あごのちょっと細い八重歯ちゃんだ。女子の間では絶大な人気がある。しかし、だからなのか男子の間ではちょっと敬遠された。この年頃ではそういうことってある。本当は彼らもお話ししたいはずなのに。
 八重歯ちゃんの発言に、みんな照れ隠しに大盛り上がりした。キャーとかフォーとか、大変な騒ぎだ。あまりに興奮するので近くの窓からほかの生徒が首をのぞかせたほどだ。
 わたしは当然のごとく困って、「ちょっとみんな、声大きいって。しーっ」
 口の前で人差し指をたて、いったん静まらせる。
「じゃあ逆に聞くけど、あたし、恋人いるように見える」
 大人はこういうときにずるい。はぐらかすような、意地の悪い知恵がはたらく。質問を質問で返したりして、わたしもずいぶん悪くなったものだ。「えー、どうかな。分からないけどいるよ、きっと。だってそんな、かわいい顔してるもん」
 八重歯ちゃんはそう云うが、他の子たちは色々と意見が分かれた。いる派といない派と、喧々諤々として、答えはしぼられない。もちろん、わたしだって正解を云うつもりはない。脳裏に思い浮かぶ顔はある。けれど、あらためて定義すると、わたしたちってどういう関係なんだろう。恋人。友だち。親友。彼とはそんな話、したこともない。それなのに仲良しだ。気が置けない関係であるのは間違いない。わたしはぜんぜんそれで良いと思ってきたけれど、世の中的にはそれじゃ通じないのだろうか。思春期の女子たちの前で、ちょっと不安になる。
 結果的にわたしの顔がかわいいから、恋人がいてもいなくても、大丈夫と云うことになった。なんだか良く分からないシメだ。茉希ちゃんセンセは、わたしたちがずっと守って大事にしてあげる、と云われ、両手を彼女たちの胸にぎゅっと抱かれた。顔がかわいいなんて、臆面もなく云われたのは生まれてはじめてだ。自分ではそんなこと、ちっとも思ってない。まともに受けとり、信じたりするには薹が立ちすぎている。と云って悪い気がしないのも事実だ。ここって変わった世界だな、とおもう。閉ざされたこんな変わった世界に、二週間限定でもいられたということは、わたしの人生もまずまず面白い。わたしの生きづらい中学時代に少しは復讐出来たようで、こころのなかでこっそり、あっかんべえの舌を出した。

 わたしは自転車を走らせてゆく。右手に仙川を見て、しばらく川沿いの道を走る。夕方の学校帰りだ。二週間続いた教育実習も明日でおしまいになる。この期間、与えられた仕事が順風満帆だったかと云えば、けしてそんなことはない。予想はしていたけれど、こころにささくれを作るような出来事はやはりあって、斜め上からやってくるトラブルにはどうしても巻き込まれてしまう。人間関係はそれぞれの自我のぶつかりあいだから、一概にどちらかだけの問題とは云えないにしても、それにしてもまだ大学の小娘(しかも教員免許もまだない半分素人の)相手に、そこまで高いレベルを求めなくてもいいんじゃない、と思ってしまう。ベテラン女性教諭の顔が目に浮かぶ。指導教諭でもない。学年主任でも、校長先生などではもちろんない。にも関わらず、ことあるごとにわたしに近づいてきて辛口のダメ出しを繰り返す。担当の科目も異なり、職員室の席も近いわけではないのに、どう考えてもでしゃばり行為だ。なんかあたし、憎まれるようなことしたのかな、と不思議に首をかしげてしまう。「ほめて伸びるタイプだから」みたいに自分を甘やかしたりはしないにしても、そこまで教育実習生に厳しくしなくても、と普通に思う。うかつに反論も出来ないから、叩かれっぱなしだ。相手のホームグラウンドでは、こちらは借りてきた猫ちゃんに等しい。相手の云うことを半分も理解してないのに、反省しているようにうなづいたり、返事だけは素直にはきはきしたりして、ああ、わたしってダメダメだなと思う。先生になるどころか、一般社会人になるのですら怪しい。世の中ってこわい。人間っておそろしや。じゃあだからと云って、中学生の女の子たちにちやほやされて、ぬるま湯に浸かって過ごすのが本当のわたしらしいのだろうか。いやいや、楽と云えば楽だけど、それはそれで違う気がする。とかくに人の世は住みづらい。
 仙川の両岸はコンクリートの護岸で、自然と云うより人工物みたいに見える。普通の川ならあり得ないくらいまっすぐに伸びて、いかにも治水のために整備されている。川沿いには柳が涼し気に風に揺れた。近づきすぎるとその長い枝が、半そでのわたしの腕を軽くたたく。新緑が目に新鮮だ。息を吸い込むと肺まで緑に染まる気がする。自転車の速度で五月の空気を掻き分けてゆく。走る距離の分、徐々にわたしのこころは楽になる。あの意地悪そうな顔の女性教諭の面影もおぼろになってゆく。わたしは深呼吸する。なんてことはない。わたしはまだ学生で、あと一年はこのままだ。明日明後日で卒業してしまうなんてことはない。先のことを考えるのは先の時だ。今は今のことを考えよう。自転車のペダルを強く踏み込む。
 仙川沿いから少し離れ、進路を変えて小田急の駅前まで出る。夕方のこの時間、帰宅や買い物の人の流れが出て、自転車では少し走りづらくなる。人から聞いた話では、この駅も近々地下駅に移行するらしい。最近の東京はこういう方向に開発が進んでいる。小田急も京王線も、結構な数の駅がいつか地下駅になるのだと聞く。開かずの踏切だの、線路のせいでの街の分断だの、悩みの種は幾らもあり、いっそ地下にしてしまった方が街の再開発はしやすいのだろうけれど、見慣れた風景が変ってしまうのは、やっぱり少しさみしい。子供の頃から見慣れた街並みだ。いつも眺めて、あって当然だった景色がなくなってしまうと、きっと不自然に感じるだろう。駅周辺の開発が進むのは、いいことばかりだとはちょっと云えない。あのおじさんがやっているパン屋や、お母さんのお使いでよく行かされた乾物屋さんなど、小さいお店の先行きも不安だ。これから開発の波に乗って事業拡大できるとはとても思えない。道路の拡張や公的施設の建設で消えていったお店をわたしはいくつも知っている。無くなってしまってはもう元には戻らない。ジグソーパズルのピースの欠けた部分みたいに、いつまでもこころに残ってひっかかる。破壊、建設、開発、発展。そしてまたその繰り返し。わたしたちはそんなスパイラルをたどって、上に向かっているのか、下に行っているのか。わたしの小さな地元の街でもそうなんだもの。世界的に見たらもっと大きなスパイラルがあるはずだ。お隣さんにご近所さん、町内会に区民のみなさん、都民、国民、黄色人種、そして人類全体は、どうなんだろう。みんなで大きな舟に乗り、激しい洪水を乗り切って、そうしてどこへ向かっているんだろう。飛んでるはずが、実は落ちて行ったりしていないだろうか。便利さのその引き換えに、取りこぼしているものだってきっとあるはずだ。それがなにかは分からないけれど。
 考えているそばから、焼き鳥のいい匂いがどこかから漂ってくる。鼻がくすぐられ、唾が湧いて、てきめんにお腹がグーと鳴った。ぎゃっと思い、あわててお腹を押さえ、きょろきょろと周りを見渡す。誰に見せるでもない体裁をつくろうため、無理に咳払いをしてみせる。ごほんごほん。今のわたしになら、そうだな、必要なのはたとえばこれだ。甘辛いたれをつけて炭火で焼いた、ねぎまの串とか。
「あ、菜原くんだ」
 駅の入り口、切符売り場の前に彼はいた。まさか、とは思ったけれど、本物だ。こんなところでまた出会った。最近はいったいどうなってるんだろう。あまりに偶然が重なりすぎて、驚きを通り越し、逆に笑ってしまう。
「菜原くん」
 自転車を入り口辺りに停め、わたしは近寄って呼びかける。彼と一緒にいるのは、ほんの小さな女の子だ。女の子と同じ目線になって、しゃがみこんで話しかけている。
「あれ、茉希ちゃん。どうしたの」とこちらに振り向く。
「どうしたのって、それ、こっちのセリフ。一応この辺、あたしの地元なんだけど。それより、なにしてんの、君」
「女の子とあそんでる」
「は?わざわざこんなところで。どういうこと。ねぇねぇ、これって、・・・ひょっとして菜原くんの隠し子」
 意地悪く、わたしはニヤニヤして云う。
「ね、いつの間にこんな子、作ってたのよ」
「あれ、惜しい。隠し子じゃないよ。実はね、・・・妹。年の離れた妹だよ」
 わたしの耳元に手をやり、顔を近づけてひそひそ話のようにしてくる。       
 えっ、とわたしは本気で驚き、身を引いて、まじまじと女の子を見つめる。後ろに二つ結びした、ぷっくりほっぺの可愛い子だ。なんとなく、この間電車で出会った女の子を思い出す。年の頃もきっと同じくらいだろう。澄んだ瞳の、白というより青みが勝った白目部分に、こちらの魂が吸い取られるようだ。
「え、君の妹。そんな子いたの。ちょっとあたし、超初耳なんですけど」
「ねぇ、驚きだよねぇ、茉ぁちゃんも驚くくらいだもん。俺も驚いたよ」 
 菜原くんがなんとなく、ずるくほほ笑む。 
「・・・なになに、何云ってんの。一体どういうこと」
 頭がこんがらがって訳が分からない。
 そこに切符売り場の方から、抱っこひもを前に、赤ちゃんを抱いた女の人がやって来た。お化粧をすればもっと綺麗になるように思うけれども、元々が派手な顔つきのせいだろう、ほぼすっぴんなのに十分、美人に見えた。小さい子のいるお母さんたちは、毎日のルーチンの中で、お化粧する時間はたぶん、あまりない。
 若いお母さんは菜原くんに微笑みながら会釈して、なにかお礼めいたことを云うと、大きな荷物を彼から受け取り、女の子の手を引いて改札の方に歩いてゆく。わたしはちょっと呆然としてその後ろ姿を見ていた。それから、はっとして、あれ、もしかしてだまされた、と思った。菜原くんはずるくほほ笑んだまま、「あれ、もしかして茉ぁちゃん、信じちゃった感じ?本当に俺の妹だって思ってたの。マジで」
「・・・うるさい」
「俺にあんなにちっこい妹が本当にいるとか、ひょっとして」
「・・・ちょっと、黙って」
「いくらなんでも、あんなに年の離れた妹って、普通ちょっとないよなぁ、だって二十も離れてるんだよ、二十だよ」
「あぁ、もう本当に静かにして。はいはい、すいませんでした、あんたに妹がいるなんて信じたあたしがすっとこどっこいでした、もうこれでいいでしょ」
 話を聞くと、大きい荷物を持ち、赤ちゃんは抱っこ、さらに小さい子の手まで引いた、身動きの大変そうなお母さんに声をかけ、少しの間その荷物番と女の子の面倒を見てあげていたらしい。いかにも彼のやりそうなことだ。云われてみれば、確かにそんな風にも見えた。そう考えてしかるべきだったのに、今回はわたしの早合点と、菜原くんに意地悪なこころを出したわたしに分が悪かった。いつもいつも菜原くんにからかわれてばかりの仕返しが、逆にわたしの方に戻ってきた。なんとなく釈然としないけれど、身から出た錆というか、因果応報というか、そんな感じだ。運が悪い。
「そんなことより、茉希ちゃん先生」
「ちょっと、こんなとこでやめてよ。そんな呼び方、恥ずかしいでしょ」
 わたしはまわりをきょろきょろ見渡す。学校関係者がこんな駅にいるとは思えないが、狭い二十三区内だ。どんな目があるか知れたものじゃない。
「だって、そんな見慣れぬ格好してるんだもん。なんとなく新鮮な感じ?俺も茉希ちゃん先生みたいな人に教育実習来てもらいたかったよなぁ。そしたら、もっと勉強頑張ったかも」
「君、ちょっとあたしを見る目がキモ悪くない。あんまりジロジロみないでよね、変態っぽいから。それに、あたしなんかいなくても、国語ならもう君は十分勉強したでしょ。どっちかって云うと君のほうが先生だよ。来年になったら常勤の般教の講師も、ほぼ決まってるんだし」
「まぁね。それに今度は俺が実習の番だし。来週から母校で二週間」
「あたしは明日でやっとおしまい。ようやく解放されるよぉ。やんなっちゃう」
「ひひひ、茉希ちゃん先生、お疲れさま。話はいろいろ聞いたけどさ、じゃあ、もう二度と先生はやりたくない?」
 わたしは少し考える。
 短い間に、夜が一気におりてきた。辺りの店にもネオンがつき、街の色がなんとなくきらびやかになってきた。空の藍色と地上の色とが対比になって、夕と夜のはざまの空気が、不思議と郷愁をさそう。一日のおわり。おしまいの気配。こんなさみしさってなんだろう。わたしはなんにも失くしていないはずなのに。
 菜原くんとわたしは違う。彼は院に行き、研究室に入りながら、講師の役職も得ようとしている。そこには不安もためらいもない。先生なんて呼ばれ方に居心地の悪さなんて、多分感じてない。夢があるってすごい。将来の展望があって、それを目指しているひとにわたしは全然かなわない。服装だけは茉希ちゃん先生でも、わたしは中学生のあなたたちとそんなに変わらない。偉くなんてないよ。立派なんかじゃまったくない。大人の皮をかぶった、わたしはちっぽけな女の子。電車の車内で座席から転げ落ち、駅の雑踏で見知らぬ青年に面倒みられてしまう。茉希ちゃん先生改め茉希ちゃん、いやただの、ちいさいまきちゃんだ。
「どうだろう。わからない。未来のわたしならもっとうまくこなせる気もするけど」
 未来へ丸投げはわたしのずるい必殺技だ。未来でならきっとうまくいく。色々経験もして、勉強もして、色んなことをうまくこなせる。しかし、未来のわたしは過去のわたしをきっと恨むだろう。過去のわたし、自分だけは安全地帯のあっち側で、お気楽そうでいいな。こっちの身にもなってくれよ。わたしがわたしに不平を云うのが目に見えるようだ。ははは、かわいそうに。かわいそうに、未来の茉希ちゃん。過去のわたしになんでも難題押しつけられて。
 わたしたちはしばらく自転車を真ん中にして歩いた。駅前から少し坂になった道を歩いてゆく。街灯が足元を照らして、もうすっかり夜になった。坂の上から生ぬるい風が吹いてくる。食べ物のにおい、洗濯物のにおい、五月の空気のにおいが漂ってくる。春と云うより、もう初夏だ。青臭いにおいはきっと、どこかの緑の若葉のにおいだ。
「茉ぁちゃん、一杯やってくか」
「は?」
 菜原くんがくいっと見えない盃を傾けて、何かを呑むマネをしてみせる。
「汐ぉ崎さぁん、ちょぉいと一杯、やらないかいっ」
 その妙なイントネーションにわたしはつい、ぷっと吹きだす。
「なにそれ。なにかの真似なの」
「熱燗でちょぉいと一杯、やらないかい。燗銅壺と、ちろりに盃、烏賊の塩辛でちゅーっと呑むんだよ」
「えー、そんなのオジンくさい。今はもう平成の時代だよ、スタイリッシュにいかなくちゃ。カフェバー、プールバー、ダーツバーとかで、ピーチツリー・フィズとかあたし飲みたい」
「よし、分かった、それじゃ、リクエストにお応えして、一丁、渋い縄のれんとか銘酒屋さんを探すか。な?」
 何が、な?なのか分からない。わたしの云うことなんか聞いてない。しかし・・・彼の気遣いはなんとなく通じた。

― 茉希ちゃんセンセ、好きなひととか、恋人いるの ―

 どうだろうね。わたしも知らない。未来のわたし、過去のわたしをどうぞ、よろしく。
 わたしは少し笑って、自転車を押すスピードを速める。菜原くんの後ろ姿にチリン、とベルを鳴らし、街はいま夜の中。


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