わたしと町と星のこと
その男の子の名前を他人の口から聞くのは何年ぶりだろう。
高校を卒業して、わたしが十八のとき以来だとすると、もう四年ぶりになるのかもしれない。
「ねぇ。里志のヤツ、なんかあいつ、帰ってくるらしいよ」
小学校からの女友だち、紗江が云う。久しぶりの食事会からの帰り、夜のコンビニ駐車場に停めた車内で運転席側の窓をいっぱいに開け、彼女はたばこの煙を細く長く吐く。
一瞬、誰のことか分からなかった。誰か知らない人間の名前を云われたようで、すぐには頭が反応しなかった。
「え、・・・なんて云ったの。誰だって」
「だから、里志のこと。松喜里志。あいつ近々帰省してくるらしいよ。・・・ってあたしの彼氏が云ってた。紀実恵んとこに連絡ないの。だって、あんたら恋人同士だったじゃん」
黒くまっすぐのサラサラ髪を揺らしてわたしに振りむく。たばこのにおいが風に乗って漂ってくる。少し思考停止した。それからゆっくり頭脳が動き出し、わたしはおもいだした。おもいだして、こころが一気に昔に持っていかれた。
松喜里志。そうだ、あの子だ。その名前ともずいぶん疎遠になってしまった。あんなに昔は、毎日会っていたのに。高三の夏休みまで何年も、毎日一緒に登校していたと云うのに。わたしの幼なじみだ。この町でたったひとりの男の昔なじみと云っていい。
「ちがう、みんなそう云うんだけど、全然ちがう。あたしとあの子と、恋人だったことなんて一度もない」
わたしはため息まじりに助手席の窓にむかって、頭をコツン、ぶつける。「仲良しは仲良しだったけど、ラブラブだったわけじゃない。友だちだよ、子供のころからの友だち」
「ホントかなぁ、うまく隠してんじゃないの。結構まわりはみんなそうおもってたよ。あんなにいつも一緒にくっついてベタベタだったのに。まぁ、どっちかって云うと里志の方があんたにメロメロなかんじだったけど」
「そんなことない、あの子は誰にだってそうなんだよ。シッポ振ってかわいい顔して誰にでも近づいていくんだよ。犬みたいだ。仔犬みたい。ニコニコして舌垂らして、悪気なんてないんだよ。それにあたしだって」
ガラス窓にもたれさせていた頭を離し、正面から友だちの瞳を見つめる。
「里志に対してそんな気持ち、なかった。仲の良いお友だち。保育園からの昔なじみ。男と女の関係とか、ちょっとありえない」
うまく笑えたかどうか。彼女に向けてうすく微笑む。紗江は少し真面目な表情でわたしを眺めていたのから、急にはじけるように笑いだす。苦笑まじりにという口元で、「そうだね、嘘うそ、知ってる。あんたはいつもクール・ビューティだったからね。あんたのコト好きな男子もいっぱいいたけど、全然なびかなくてわが道をいくってカンジだったし。ホント憎らしい美人顔だ」
細い手を伸ばして来て、わたしの頭をぽんぽんと軽く叩く。まだ少しの笑みを目元に残しつつ、正面に向き直りハンドルを握りなおす。腕をまっすぐに伸ばして、「ま、帰ってきて会ったら教えてよ。何年かぶりの対面でしょ。東京じゃ美容師やってるって云うけど、あいつ今、どんなになったか、あたしも気になるし」
もう一本たばこに火をつける。
小中と紗江とは同じ学校だった。人数が少ない田舎の学校だから、ずっと同じクラスだった。高校は互いに別の学校を選んだため、その後はごくたまに会うくらいの間柄になってしまったが、それでも片田舎の狭い世界に、完全に縁が切れてしまうことはなかった。子供の頃の彼女の顔を思い出す。昔はそれほどだとも思わなかった横顔を見て、なんか綺麗になったな、とぼんやりおもった。みんな大人になる。否が応でも子供のままではいられない。
では、わたしはどう変わっただろう。他人からはどう見られるのか少し気になった。そしてあの子はどうなったのだろう。あの地元の駅で別れたまま、四年も音信不通だったのに突然帰省してくるという彼。松喜里志。目の前の友だちが吹いたたばこの煙が奇妙に渦巻いて、一瞬なにかのカタチを作ったかと思うと、それが何か分からないまま窓の外に吸い込まれて消えた。
県境の、峻険な山々が眼前に広がる、ここは行き止まりの町だ。主要幹線から外れているので、わざわざこの町を通り抜けてどこかへ向かうという町外者はあまり見ない。東西をつらぬき、蛇行するように伸びた県道を中心にした、その両側の山あいの土地にしがみつくようにしてわたしたちは暮らした。県道の北側はまだしもだが、南側の土地に建った家々はその背後にせまる山のため、太陽は午前遅くになってようやく顔をのぞかせ、そして午後はとんでもない早い時間に姿を隠してしまう。だからわたしの近所のお年寄りなどは、「あそこは半日村だから」と気の毒そうな、一方わが身の幸運を確かめるような、そんな云い方をする。昼間は半日分しか日が当たらず、あとは夜ばかりと云うわけだ。
わたしの昔なじみの松喜里志はこの、県道から見て南側の集落に実家があった。わたしの家から彼の家までは県道を横切り、南に十分も歩けばたどり着く地理なのだが、そんな近さとは別に彼の住む集落はいつでも日蔭がちで、その薄暗さゆえなんとなくさみしい印象があった。
子供の頃はしかし浅薄だから、住む土地の良しあしなど分かりようもない。あるものをあるがままの姿で受け止めて毎日暮らしていたようにおもう。井の中の蛙は外の世界を知らない。だから、ある意味しあわせだ。下手に他人をうらやむこともなく、いたずらにみずからを卑下することもない。ここが県境の山あいにある、閉ざされた町だと知ることもなく、北もなければ南もなかった。幼い目で見える眼前のものだけが、わたしの世界のすべてだった。
同時にそれはわたしの、自分自身の容姿についても云うことができた。同じ女性とは云え、わたしは他の女子とくらべると自我の目覚めが遅かったようにおもう。自分をほかの誰かと比べることも、美意識にもとづき自己判定を下すなんて云うこともほぼなかった。身の回りや身だしなみにも無頓着で、かなりぼんやりした子供だった。鏡を見ることもない。髪のブラシッシングもお母さんにやってもらう程度だ。自分の身の上に他人より優れた、なにか美点が備わっているとは考えもせず、それは今でも変わらない。しかしいつの頃からか、「あれ、どうもわたしは他のコと少し違うようだぞ」と考えるようになった。その不思議な気づきは、小学中学年から高学年にうつる間だっただろうか。
「紀実恵ちゃんはまぁ、ホント美人さんだね」とか、「このまま大人になったら、びっくりするくらい綺麗になるわね」とか、人によっては、「あら、紀実恵ちゃんいつの間にこんなモデルさんみたいになったの。テレビのタレントさんみたいじゃない」と、すでに決定されたできごとのように驚きの声をあげる人もいた。
大抵それは、数少ない女ともだちの家に遊びに行ったとき、相手のお母さんから浴びせられる言葉なのだが、その口調にまっすぐな正直さしかないのが子供ながらにでも分かった。そんなコトが続くので、これはどうもお世辞ではないのかもしれないぞ、と薄々考えるようになった。大体が自分の子供の友だち相手にお世辞を云って、何か徳を得るものでもないだろう。見たものを見たままに、感じたことを感じたまま投げかけているのが伝わり、その度いつもわたしはふしぎな気持ちになった。
人目を引くような顔立ちとは思えない。スタイルだってよその子と同じようなものだろう。長く伸ばした髪は手入れするでもなく無造作に肩の下に垂れているだけだ。家に帰って鏡を見て、にっと笑ったり、ムッとして怒った顔をして見せる。右の顔と左の顔を首を振り角度を変えて眺めても、びっくりするような美点は見当たらない。自分の顔だから嫌いではない。見慣れたおなじみの女の子の顔だ。しかし手放しに誰かに誇れるかと云えばそれは心もとない。どこにでもいる、普通の量産型の女の子だ。わたしからすればもっとかわいい子はクラスにもいる。身だしなみのちゃんとした、清潔感のある、こぢんまりとしたコロコロとかわいい子だ。いかにも女の子らしい。同性のわたしが見ても、はっとさせられる。大事にして箱に入れてずっと部屋に置いてながめていたいほどだ。しかし、その当の本人から秘密を打ち明けられるようにこう云われたときには驚いた。
「ねぇ、紀実恵ちゃんっていいよねぇ」
「え、なにが」
放課後、たまたま出くわした階段の上と下でその彼女、玖美ちゃんがわたしを見上げて云う。少し会話をかわしたあと、内緒だよと云うふうに声をひそめて、「だって背たかいし、腕とか足とかしゅっとして長くて綺麗だし、読モみたいな顔してるんだもん。うらやましいよ」
「そんなこと、・・・そんなことないよ。どっちかって云うと逆。玖美ちゃんのほうがいいよ。女の子っぽいし、みんなから人気あるし」
玖美ちゃんは、ははっと小さい乾いた笑い声をあげ、わたしの顔を見た。あとはなにも云わない。わたしの袖の先をちょっとつまんでから追い越し、階段の上に消えてゆく。きっと本気にされなかった。下手な謙遜かとおもわれたかもしれない。本当のことを云えば云うほど、わたしは少し孤独になる。
こういうこともあった。わたしたちの住む町は関東平野が切れる行き止まりの町で、そこから見上げる峠をずっと登っていった先には日本でも有名なNと云う観光地がある。避暑地として知られ、どこかおしゃれなイメージがある場所だ。まだ行ったことはなかったが、あの山の上にみんなが行きたがる場所があると云うのは分かっていた。どう間違えるものか、町は国道からかなり外れているのにわざわざのように迷いこみ、避暑地までの道を登下校中の子供らに訊ねてくる車が年に数回はあった。毎年くり返されるので、地元の子供たちはみんな、自分は行きもしないN町までの道順をいつの間にか把握するようになっていた。
大きい赤いスポーツカーだった。中学校の部活帰り、友だちと別れひとりで自転車を押しながら歩いていると、夕日の下にゆっくりとその車はわたしの右側に止まった。窓が開けられ、大きいサングラスをかけた年配の女性の顔がのぞいた。左手の窓が開いたから、外車なのだろう。鏡のようになめらかな車体にオレンジ色の太陽がきれいに反射した。
「こんにちは、お嬢ちゃん」と女性は云った。
「ちょっと道を聞きたいんだけれど、いいかしら」
「・・・はい」とわたしはそちらに振りむく。
たまにのことだが珍しくない。答えるべき道順も頭に思い浮かんでいる。この県道をまっすぐ行って、道なりに山道に入り、標識に従い高速道路方面に曲がり、国道に抜ける。なんてことない説明だ。自動運転で口からすらすら流れでる。準備は万端だ。
「ここからNってところまで行きたいんだけど、・・・」
ハザードをつけ、ご丁寧に車から降りてきてわたしの前に立つ。サングラスごしにわたしの姿をとらえる。互いの目があった瞬間、本当に、「えっ」と小さい声を年配の女性はあげた。マンガみたいな反応だ。ヒトって本当にこういう驚きかたをするんだとおもった。
「あなたここの子なの」
「はぁ」
「この土地に住んでいる子」
「はぁ、まぁ」
「えぇ、こんな田舎にお嬢ちゃんみたいな子がいるの」
サングラスをはずしてお化粧のにおいの顔を近づけてくる。お金持ちっぽい。年を重ねた今でも美人には違いないが、こんな田舎にとはちょっと云いすぎだ。こんなとはどんなよ、とおもう。わたしがちょっと身を引いたのに気づいたのか、「あら、ごめんなさい、ジロジロ見ちゃって。あんまりお嬢ちゃんが美人だったから、おばさんびっくりしちゃった」と悪気なくほほ笑む。
「背が高いわねえ。高校生なの」
わたしは中学生と答える。余計に彼女はおどろいたようだ。その時わたしは中学二年生。中二の百六十センチだ。学年では女子で二番目に背が高い。「こんなところにもいるものはいるのねぇ。東京でもあなたみたいな美人で綺麗な子、そういないわよ。なんか、もったいわねぇ、ここで平凡にしてるなんて」
「はぁ」
いくら感嘆されても、そのときのわたしにはどうしようもない。内心、また云われた、と少し傷ついたくらいだ。もう何年も続いてきたことだから慣れつつあるけれど、初対面の女性にここまであからさまに云われると忸怩たるおもいがある。自分では似合わないはずの服を着ているのに不思議とほめられてしまう、不信感めいた感情が渦巻いた。わたしの性格のどこかがゆがんでいるのかもしれない。素直によろこべない人間はきっと損ばかりする。
結局、携帯で女のひとと一緒に写真を撮られ、わたしたちは別れた。美人さんと一緒に撮れておばさん嬉しいわと、本当に嬉しそうだった。わたしは馬鹿の一つ覚えみたいにまた、「はぁ」と答えた。
自分の姿が小さい金属の箱におさまり、スピードに隔てられ、沈みかけた夕日の中に走りさってゆくのを、わたしは呆然と眺めていた。
「きのうおまえ、知らないおばちゃんと写真撮ってただろ」
次の日の朝、いつものように登校の迎えに来た里志は、開口一番そう云ったものだ。
「あんまり外で知らないヒトと話すなって学校でも云われてんじゃん。あーあ、いーけないんだ」と、にやにやする。ヒトを小ばかにしたような表情をしても、小悪魔めいて憎めないところのあるのが彼の特徴だ。
「おばちゃんとか云わないの。ちゃんとした女のひとだった。あんただってこのガキって云われたらイヤでしょ。ガキのくせに」
「せんせーい、紀実恵ちゃんが悪いことば使ってまーす、ひとが云われてイヤなことをわざと云ってきまーす」
わたしの顔に自分の顔をぐっと近づけてきて、下からなめまわすように首をななめに動かす。
「なんであんたそんな場面見てたの。仲良く写真撮ってたんじゃなくて、ちょっとわたし困ってたんだ」
憎らし気に顔を動かしてくるのを両手でぱんっとはさみこむ。力をいれて押さえると頬とくちびるがつぶれて、変な顔になる。その顔がおかしくてさらに手を動かし不細工な顔にして見せる。綺麗な顔が台無しだ。しかしこんなコトをしても元々の端正さは消滅しない。
「分かった、分かった。やっぱり、そうだと思ってた。遠目からでもおまえ、また困らせられてんなぁって思ったからな」
わたしの手から逃げ、里志はゆっくり身を引いた。頬を片手で覆うようにして、少し上目勝ちにこちらを見る。細い指が顔の輪郭にそってあてがわれ、それから意味ありげにこちらに微笑みかける。その顔にわたしは少しどきっとする。一瞬前までの子供じみた態度はもうあとかたもない。
「悪かったよ、紀実恵ちゃん。なあ・・・ごめんな」と彼は悪魔のように甘い声で云った。
小学生の中学年からはじまった、わたしへの過剰ともおもえる容姿への反応は、最初は友だちの親からだったものが次第にエスカレートし、徐々にその範囲をひろげていった。たまに行く商店やコンビニ、用事があってでかけた児童館など、それまでなんともなかった大人の知りあいからも似たような言葉をあびせられ、中学に入ってからはクラスメートにまでその影響がひろがった。中学は三つの小学校から生徒が集まるから、必然今まで面識のないコたちともつきあわざるをえなくなる。同じ小学校のクラスメートは今さら変わりようもなく接してくれていたが、初対面のその他大勢はそういう訳にはいかなかった。
「わぁ、才野さんって、すごい。えらい美人だよね」
「えー、いいなぁ、今なりたい顔ランキング、あたし的に学校内ナンバー・ワンだよ」
「ねぇ、両親もやっぱりそんな美形なの。姉妹とかいるの、ねぇねぇ」
これは初めて同じクラスになった女の子たちだ。波状攻撃のように休み時間のたびちがう誰かが席に来て、そんなことを云う。この頃にはわたしも少しは学習済みで、女子同士に必須の政治的判断からこういうコたちとも仲良くしなきゃ、と分かるようになっていたから、ムキになって否定したり反論したりせず、軽いかんじで受け流していたものだが、困りものだったのは男子からの視線だった。遠巻きにして騒ぎたてるくせに近寄ってはこない。わざわざよそのクラスから遠征してきて、こちらの様子をうかがったり、何人かつるんで奇妙なテンションではしゃぎまわったりする。気持ち悪いなぁとおもい、困ったコトにならなきゃいいけどと願う。見世物じゃないんだよ。ホント男子特有の感性がうとましい。こういうことが続くと、女子受けだってきっと悪くなる。女子は残酷だ。プライドを傷つけられると相手がだれでも仮想敵にして、叩き始める。それが当人のせいでなかろうがお構いなしだ。なるべくわたしは波風なく、生きていきたい。
そんな中、昔なじみの里志はちがった。保育園からの知り合いと云うのもひとつの原因だろうか。彼はちっとも変わらなかった。昔もその時も、わたしに対しての距離感や接しかたなど、変化することはぜんぜんなかった。どちらかと云えば逆にぞんざいで、時に乱暴なほどで、少しくらいチヤホヤしてもいいんじゃない、とおもったりもした。
ほんのちいさい頃から彼は可愛かった。男の子だったけれど、お人形さんのようだとおもった。むずかしい言葉では考えなかったけれど、性別を超えたうつくしさがあると感じた。保育園でのお昼寝の時間、横で眠る彼を見て、ずっとこのまま、こうしていられるなぁとおもった。ただでさえ整ったひとつひとつのパートが、さらに最高のバランスで配置され、作りもののようだ。まわりのみんなが眠っているのを確かめて、彼のまつげに指を伸ばす。長いまつげ、細くて高い鼻、ぷくぷくとして色どりの良いくちびるを順番に軽く触れてみる。こんな子が自分の友だちなんだと、少し誇らしい。
それから何年か経っても、彼の可愛さや、わたしに対する態度に変化はなかった。さすがに保育園の頃みたく、彼の寝顔に見とれたりはできないけれど、わたしを見るまわりの状況が大げさになってゆく中、変わらないあの顔で毎朝迎えに来てくれるのは、わたしにとっては安心のひとつだった。里志はずっとおなじだと云うことが、わたしをわたしのままでいさせ続けてくれた理由だとおもう。少なくとも、あの高校三年の夏までは。
「ちょっと途中寄ってっていい。あの展望台、ひさしぶりに見たい」
夜の食事会の帰り、友だちの紗江がコンビニからわたしの家に送ってくれる途中だ。里志の昔の思い出に気を取られていたのから、ふと思い出して運転席の彼女に声をかける。町には繁華街などないから、どこまでいっても夜は暗いままだ。すれ違う車もある程度の時間以降ほぼない。
「展望台って、ええと・・・なんだったっけ」
紗江は首をかしげる。少しスピードをおとし、トロトロ運転になる。「展望台ってほら、あれ。わたしのおじさんがどこからかもらってきて、腰杉の空き地に設置したやつ。いつだったんだろう、ずいぶん前だ」
「あぁ、・・・そんなのもあったっけね。思い出した、あれって小学二年とか三年の頃だよ。腰杉のバス停のすぐ隣の空き地だ。あれって紀実恵のおじさんの土地だったんでしょ」
「うん、なんか知り合いのレジャー施設が閉園するって云うんで頼まれて、しぶしぶもらってきたらしい。置いとく場所もないからとりあえずあそこに設置したんだけど、結局ずっと、そのままになっちゃった」
「でも結構あたしたち遊んだじゃん。小さいし低いしそんな大したもんじゃなかったけど、展望台とか云っちゃってさ。全然どこも展望なんてできないのに。ホントは学校で禁止されてたんだよ、公園じゃないところで遊んじゃいけませんって」
「おじさんはガン無視して撤去しなかったけどね。蛍光ピンクとかに塗って、景観なんてまったく考えてないんだ」
「あのちょっとイケメンのおじさんね。なんかあたし微妙に好きだった」
「ウソでしょ。ずぼらだし、いい加減だしギャンブル好きだったし。だからあんなの押しつけられたんだよ、いらないものを」
「今何してんの、あのおじさん」
「ドバイにいて、ユーチューバーしてる」
「マジ」
腰杉と云うのは町はずれにある、県道沿いの地名だ。ひなびたバス停があり、その地続きの空き地に展望台はあった。神さまが気まぐれで置いたチェスの駒のように、展望台は道路わきに忽然とあらわれた。なぜここに、こんなモノが存在するのか、知らないヒトはきっと不思議になる。鉄骨で二階建てに組まれ、らせん階段で上までのぼれる設計になっている。見ようによってはロケットのようにも見えた。あるいは出来のわるい色鉛筆だ。しかしその実態は今でもよく分からない。それでもわたしたちはそのオブジェを展望台と呼び、いけないと知っているのにわざわざ出かけて行って遊んだ。
「ホント、いったいなんだったんだろうね、コレ」
展望台はさびれて、汚れ放題になっていてもまだ同じ場所にあった。車のヘッドライトに下から照らされ、余計に廃墟感がすごい。友だちは云い、汚いものでもさわるように、人差し指の先で鉄骨部分をちょん、とつつく。すばやく引っ込めて、指をこすり合わせるような仕草をしてよごれをぬぐった。いかにも不潔なようだ。
わたしはかまわず手すりをつかみ、らせん階段をぐいぐい登る。手のひらに触れる、はがれたペンキの感触がざらざらとして冷たい。ずいぶん古ぼけた。こんな小さかっただろうか。悪趣味に塗られた蛍光ピンクも今やそんなに鮮やかじゃない。二階のてっぺんは子どもが三人ほど立てる平らな場所になっている。見下ろすと友だちがあきれた顔をしてこちらを見ている。
思い出は古くなるなぁとおもう。今はもうわくわくしない。色んなストーリーを創作してここで遊んだはずなのに、そのどれも覚えていない。しかしなつかしさは増してゆく。存在しないものほどいとおしいのは不思議だ。帰れないし、戻れないから、さらに胸しめつけられるんだ。いたはずのわたしはとっくにいない。しかしちがうわたしはこうしてここにいる。断絶しているようでも見えない時間でつながっている。
なつかしさって宇宙をとんでくるひかりのようだ。夜空のあの星はもしかしたら爆発して、今はないかもしれないのに届くひかりは昔のままだ。わたしは昔に放たれたひかりの源をまだ存在するものとおもって、なつかしさにはキリがない。
一緒にいる友だちには悪いけれど、わたしは別の人間のことをおもいだしていた。高校生の頃の里志との記憶だ。十六歳になってもまだ二人でここにきて、秘密基地めいたこころではしゃいで笑った。あれがきっと最後だった。夏で、夜で、峠の上から生温かい風が吹いた。伸びた背をきゅうくつに丸め、鉄骨の間をくぐりぬけると失敗して背中をひどくぶっつけた。「いてぇ」と二人して同時に叫び、互いの背中をなであった。
まわりを杉林にかこまれた空き地に、夜空はせまく遠い場所にあった。宇宙からの星のひかりは淡色で薄く、手のひらに頼りなげに落ちて、星のゆくえも知らないのにわたしはそれを壊さないように丸くにぎった。
小学校は徒歩で、中学校は自転車で学校まで通った。里志はその間ずっと、わたしの家にむかえに来てくれていたが、高校は別々の学校に通うことになり、どうするのかなとおもっていたら、なんてことなく毎朝のお迎えは続いた。わたしの合格した高校は隣の市の元藩邸にある進学校で、里志とは偏差値のレベルが少し違った。とっくに知っていたことだが、彼はそんなに勉強が好きではない。紀実恵と同じ高校にいくー、なんてふざけて云っていたのは、ホントにおふざけだったらしい。努力の「ど」の字も見せず、里志は隣町の普通科にギリギリですべりこんだ。
直行する路線バスが町内にないため、家から一番近い「冨崎高校前」が含まれる路線のバス停まで、仕方なくわたしは電動自転車を走らせる。接続のバス停はちょうどコンビニの前にあったため、親がお願いして、朝から夕方まで自転車をとめさせてくれることになった。里志もやはり自転車通学だったが、最寄りの駅までは自転車、そこからはさらに電車に乗り換える必要があった。ふたり一緒の登校も、中学卒業と同時におしまいかぁ、とおもっていたら、すっかりだまされた。互いに公立高校だからおなじ授業開始日の朝、今までのように里志が家まで迎えにきておどろいた。
「なに。おまえどうしたの」
わたしは慌てて鞄をひったくると玄関を飛びだした。髪ゴムを口にくわえ、うしろでポニーテールにくくりながら云う。
「どうしたってなにが」
逆にふしぎな顔をして里志が云う。
「なんで迎えにきてるのかってこと。今日から高校生だよ。もう中学生じゃないの。おまえ分かってる」
「いや、分かってるから来てるんだし。このまま中学校に向かったら普通にこわいでしょ。紀実恵、だいじょうぶ」
「は、おまえだよ。もう学校違うし、ルートだって違うんだよ。ちょっとあたま悪すぎじゃない、ばーか」
里志のおでこに手をあて、熱をはかる仕草をしてみせる。彼はわたしの手をはねのけるでもなく、そのままにさせておいて、綺麗な表情でにやりと笑う。悪気のない声で、「うるせえな、ブース」というセリフが憎らしい。
「でも一緒に行くでしょ。どうせ駅までの分かれ道まではおなじ道、行くわけだし。ほら俺だってもう時間ないんだぜ。紀実恵ちゃん、行くんですか、行かないんですか、どっちなんだいっ」
なんかお笑い芸人みたいなことを云う。わたしはわざとらしくおおげさにため息をつく。また三年間一緒に登校するのかぁ。額の手を離し、彼の脇腹を手刀で強く突っつく。くすぐったいように身を奇妙な態勢でよじる。
「やっぱり里志って、・・・ばか。あーあ、じゃ、一緒に行くか」
わたしたちが一緒なのは途中の交差点までで、里志は駅に向かうためここを左に曲がる。わたしはバス停のあるコンビニまでさらに直進する。別れぎわ、十字路で自転車をとめ、「じゃあな」と里志が手をふる。
「うん、じゃあな」とわたしも首だけでうなづいて見せる。
「あ、そうだ。えーと、おまえお菓子いる」
なにをおもったか、鞄からアーモンド・チョコレートの箱をとりだしてわたしに放りなげる。今日が授業初日で普通は大事なはじまりの日のはずだ。なにを考えているのかわたしには少し分からない。
「ちょっといらないよ、こんなの」
わたしはなげられてきたそのままの勢いで、里志になげ返す。
「なんだよ、もったいねぇなあ。じゃあ、ほら」
ビニールの包装を器用に片手でとり、箱をスライドさせて中のひとつをつまみだす。男子らしくない、細い指でつままれたアーモンド・チョコをわたしの口元にさしだしてくる。
「は、いま食べるわけないじゃ・・・」
云いかけている途中で、むりやり口の中に押しこまれた。指先がちょっとわたしの唇に触れた。あっとおもい、チョコを口元から落としそうになり、慌てて彼の指ごとくわえそうになる。瞬間、ひゅっとした勢いで指がすばやく引き抜かれた。
「あぶねぇ」と彼は云って、おどろいた顔で笑った。
「食われるところだった」
そして、「じゃあな」と云って走って行ってしまう。彼の自転車は普通のママさん自転車で、漕ぐペダルも重そうだ。油の切れかけたチェーンのキィキィという音が耳をつく。わたしは自分のくちびるを舌でなめ、歯ですりつぶすようにチョコレートをゆっくり噛みくだく。口の中のお菓子はきっと甘いはずなのに、何度味わってもよく分からなかった。
里志には隠しようもなく女子なれしている部分があった。わたしだけではない、ほかの女子に対しても垣根というものがなかった。仔犬のようになれなれしく、いきなり近寄ってきて輪の中に入ったり、かとおもうと、入ってきた勢いと同じくらい突然に、ぷいっと離れていったりした。話すときは終始、愛想のよい表情でおもしろいコトを云うから、気まぐれっぽい行動をしても、イヤなおもいをさせなかった。お調子者は本来ならうさんくさく、女子から距離を置かれそうなものだが、その距離をつくらせる間もなく、ぐいぐいひとに押し寄せた。
女子に気がねがないという点は、それはきっと里志のお姉さんたちが影響している。四人きょうだいの、上三人が女子で、彼は末っ子のただひとりの男子だったから、その影響は絶大だったとおもう。もしかするとある年ごろまで自分を女の子とおもってたんじゃないかと想像するほど、彼には男の子特有の「あく」めいたものがなかった。加えてお姉さんたちに似て、はなやかな容姿を持っていたから、小さいころは女の子のようで、もう少し年齢がいってからは中性的な雰囲気がただよった。
ただわたしと違うのは、彼は外交的であけっぴろげで、ヒトの内側に水のようにするりと入ってゆくので、みんなついこころを許してしまい、遠巻きに観賞される対象にはならなかった。きれいでかわいい外見なのに、それを意識させなかった。云ってみればクラス中のペットのようなものだ。みんなで取り囲み、くるくる好きなように走り回らせた。無条件で可愛がられ、クラス中のだれも、それが普通だとおもっていた。本人もきっとそれで問題なかったのだろう。なにかしらの不平や不満を彼の口から聞いたことはわたしの記憶にはなかった。
なんとなくずるいなぁ。調子がいい。わたしの場合と、かなりちがう。わたしはと云えば、こわれものとして扱われているようで、彼とくらべるとひととして認知されていないんじゃないかとおもう。ごくたまにだが、彼の処世術でも見習いたくなるときもある。みんなのまわりをくるくる走ってニコニコし、わけへだてなく話しかけ、如才ない会話で笑わせたり面白がらせたり、頭をなでさせてそれで周りのみんなを安心させる。才野さん、人が変ったね。紀実恵ちゃん、かわいさ倍増したね。紀実ちゃん外見だけじゃなくて中身もステキだったんだね。
いやいや、どちらかと云うと、ちょっと、かなり、考えるほど全然ムリでしょ。ムリ寄りのムリだ。人間には絶対できないこともある。やっぱりわたしは損が多い。
一方で、同級生たちがあまり知らない里志の別の面があった。月夜に突然豹変する多重人格・・・、なんて劇的なストーリーではないけれど、普段の里志しか知らないひとなら、きっと意外なおもいをしただろう。
里志はさきほども云った、自分の方からは女子たちの輪に無防備で飛びこんで、悪びれることなくヘらへらしていたが、しかしその逆はなかった。彼は自分になんかしらの意図をもって近づいてくる女子に対しては、意外なほど冷たい態度をとった。つまり自分に好意をもち、恋愛目的ですり寄ってくる女子に、おどろくほど興味をもたなかった。中学時代はもちろん、高校時代でさえわたしの知っているかぎり、特定の異性と付きあうなんてことはなかった。彼に直接告白した女子は少なからずいたし、陰に隠れてならもっと多くの女子が里志のことを気にしていたとおもう。はたで見ていても、特別な種類の好意は分かってしまうものだ。里志を見る目や、仕草や、なにげない行為のはしばしに女の子らしい恋心がうかがわれて、関係ないはずのわたしがヘンにどきどきしたりした。
なのに当の本人は、まるきり無関心だった。そんな女子たちは彼にとって、いないも同然だった。誰の告白も響かなかったし、おさないながらの媚態も功を奏さなかった。思いつきや気まぐれで誰かになびいたり、軽率になにか約束をしたりもしなかった。告白した返事を我慢づよく待って、やがてただ単に無視されていただけだと気づいたある女子は、校舎の裏で泣いたりしていた。とにかく里志は下心を持って接近してくる女子とはかたくなに距離をとり、一線を引いて、中に入れようとはしなかった。
わたしに云われても困る。総合代理店でもなければお客さま相談センターでもない。なのにわたしに話は回ってきた。マネージャーじゃないよ。プロデューサーなんかじゃ。しかし少なからぬ数のしりぬぐいはわたしの役割となった。恋する瞳をしたあの子や、あえなく玉砕したあの子を前にして、面倒くさい交通整理や事故処理をしなくてはならなくなり、わたしのため息がまた増えた。単なる昔なじみで、仲の良い友だちだ。家が近いから一緒にあそぶのが多いだけの、わたしは特別ななにかではない。ましてや恋のキューピッドなどなれるわけない。
「ちょっとさ。あんたのせいでわたしにまで影響、及んでるんだけど」
「は。そんなん俺知らない。俺のせいじゃないでしょ。あいつらが勝手に騒いでるだけだし」
おじさんの設置した、いつもの展望台にわたしたちはいた。学校からの帰り、夕方にわたしは里志を呼びだした。
「なのになんで紀実恵がわざわざ迷惑こうむられにいくわけ」
「そういうとこだよ。なんであんた他人事みたく云ってられるかなぁ。わたしが好き好んで迷惑こうむられにいくわけない」
「じゃあ聞かないフリでもしたらいいじゃん。かたっぽの耳からかたっぽの耳に、つーっと通りすぎさせるんだよ」
右の耳からなにかを入れて、左の耳からつまんで引っ張って出す仕草をする。全部引き出して、くちゃくちゃに丸めて、地面にぽいっと投げ捨てる。「ほら、簡単でしょ」
「女の子はそんな風にはいかない。聞きたくなくても聞いてあげるのが大事なの。聞いてあげて同情してあげなくちゃいけないの。あんたとは違う」
「じゃあ、がまんすれば。だって、しょうがないよね。好きでやってるみたいだし。オレとは違うんだったら、そうするしか」
「違うでしょ。それ、論点のすり替え。もともとこれって、あんたが原因なんだから。あんたが女の子たちにやさしくしないから」
「やさしくしてるよ、俺くらい女子に気を遣って、やさしくしてるヤツなんて、この町にほぼほぼいないでしょ。みんな分かってないんだよ。俺っていうありがたみを感じてないんだよ」
綺麗な顔してにやにや笑う。本当ににくらしい。
「はい、無意味な自信、禁止ぃ。云ってることとやってることが、ぜんぜん違いますぅ。面倒だからもう誰かと付きあっちゃえばいいのに。佳穂とか紫乃ちゃんとか、ちょっといいじゃない。わたしが紹介してあげる。それともほかに誰か、本命いるの」
「そんなの決まってるじゃん。ほら、俺には紀実恵ちゃんがいるし」
気安くわたしの肩にぽん、と手をかける。
「おまえだって俺が他の誰かとそんな風になるなんて、嫌でしょ」
「なにそれ、キモ」
身をよじって肩の手から逃れる。逆襲のように、今度はわたしから彼の顔にぐいっと自分の顔を近づける。長いまつげがわたしの瞳に近い。
「そんなコトになったらわたしが他の女子から恨まれるの、分かってる。みんなわたしだから安心して云ってくるんだよ。・・・と云っても、イジメられるのが怖いわけじゃないけど」
「でた、クール・ビューティー。やっぱ、カッコいい」
冷やかすので、両手で里志の胸に手をつき、力まかせに押しやる。せっかく接近したのに、あまり動揺しないのもつまらない。
「面倒なのが嫌なだけ。人から嫌われたりなんてどうでもいい。でも平和には暮らしたい」
「それなら俺のことより、おまえだよ」
「は、なにが」
「おまえだって云ってるほど平和に暮らせてないだろ。クール・ビューティの紀実恵ちゃん、男子からモテモテなの知ってるくせに。先輩からとか、よその学校の奴らとか、俺だって結構色々あるんだぜ」
わたしは急に胸の底に重さをかんじる。鉛を棒のまま呑みこんだように息が詰まった。
「そんなの知らない。知りたくもない。それになにがおまえに結構色々あるのよ」
「おまえのコト紹介しろってさ。なんかそんなの俺のところにまわってくるんだよ。俺がいちいち断ってやってるの、おまえ知らないだろ。これでも可愛い紀実恵ちゃんのために考えてやってるんだぜ」
わたしは里志のセリフにとっさに言葉が出ない。顔に血が上り、うまく考えられない。なんかずるい、とおもった。
「な、やっぱり俺、やさしいじゃん。自分を盾にして、捨て身で女の子かばったりして。ホント、みんな俺に感謝のこころ足りないよなぁ。なのに責められちゃって、なんだかかわいそう」
調子のよいコトを云ってわざと泣きっ面をしてみせる。わたしを煙にまいたようでも、やっぱり里志とわたしとは違う。わたしはそうじゃない。同じようでもぜんぜん違う。しかしわたしの喉は声をださない。
「まぁそんなだからさ、紀実恵もあまり色んなこと、真に受けないほうがいいよ。ほら、こっちからこっちだよ」
そしてまた、耳に何か入れては逆の耳から引っ張り出す仕草をくりかえす。それから手のひらの中でくしゃくしゃに丸めて、おおきく振りかぶり、展望台の上から遠くに放り投げる。なにを投げたのか、それは見えない。山の向こうに飛んだのか、あるいは近場に落ちたのか。
その時はまだ良かった。色々あっても結局、子どもっぽい無邪気さで許された。しかし事件はそれから数年後に起きた。高校三年の夏休み前に、女の子が自殺未遂した。里志が振った女の子だった。
高校三年生になった。夏休み前に、わたしにはじめて特別な男のひとができた。恋人、と云うのかよく分からない。しかし他の誰かでは替えのきかない存在だった。六歳も年上の、彼はわたしの兄の友だちだった。兄とはいちばん親しい間柄で、わたしも小さいころから彼のことは知っていた。家にもよく遊びに来ていた。テレビゲームをしたり、兄とわたしと三人で神社のお祭りに行ったりもした。
わたしが中学生の頃のことだ。兄と彼とふたり、取得したばかりの車の免許でどこかに出かけようとしていたところを、わたしも無理に仲間に加わって、夜の国道まで車を走らせた。繁華な街なかに出ると、元は靴屋さんっぽい、巨大で赤い看板の本屋さんにたどり着いた。本屋さんらしいのに、しかしどこか変だった。すべての窓に白いフィルムのようなものが貼られ、中は見えず、外見は照明で明るいのに、どこか人目をはばかる雰囲気があった。一歩足を踏み入れる。しばらく立ち尽くしてから、ようやく分かった。知ってて男ふたりはわたしを連れてきたのだ。DVDと写真集と女のヒトの裸のポスターと。つまり、そういうテのお店だ。店内にいた男性客が、うろんそうにわたしをジロジロと見る。兄はいたずら大成功、と云うように、いかにも面白そうに笑った。兄の友だち(シノムラくんと云った)は、ちょっと申し訳なさそうに苦笑して、「まぁまぁまぁ」と意味のない声をあげ、背中を押してわたしを外に連れ出した。とんでもない兄貴だ。非常識で腹が立つ。元からしてお兄ちゃんっ子ではないから、次に口をきくときはたぶん、今生のわかれのときだろう。
「紀実恵ちゃんは車でちょっと待っててよ」と、シノムラくんは云った。少し弱気な声で、兄とは違い他人だから、わたしに少し気を遣っていたのだとおもう。それがよけいにわたしの羞恥に油をそそいだ。
「ううん、ぜんぜん大丈夫だから。気にしないんでわたし、ホントに」
無理に身体をひねり店の中に戻ろうとする。はずかしさなのか、怒りなのか、自分で自分の声が震えているのが分かった。ムキになってるなぁとおもい、でもどうしようもない。
結局エロを売る店は中学生では入れないから嫌でも車のなかで待つハメになり、次に行ったきちんとした本屋さんでは豪華な付録がメインのファッション誌を兄とシノムラくんから買ってもらった。ファミレスの苺パフェももちろんおごりで、おいしく食べながら、けれどわたしはニコリともしなかった。
「こいつ怒ると怖ぇんだよ」
兄は言葉とはうらはらに、たいした反省していないとぼけた表情で云った。デリカシーのない兄だ。妹を粗末にして、縁を切られてもおかしくない。男ってバカだ。男っていやらしい。しかし、行先も聞かず無理にふたりの間に割りこんだわたしにも、多少の反省点がある。苺ソースの下にかくされていたミルクレープをスプーンで切る。ふんわりタマゴのかおりがした。「悪かったな。怒んないでよな、紀実恵ちゃん」と、シノムラくんは云った。短髪で細面な顔をしている。一見、ほっそりした身体つきなのに、実は筋肉がすごいらしい。兄と一緒に前年からJAに勤めはじめ、農産物の荷揚げや荷下ろしなどで、結構きたえられているとのことだ。彼の二の腕の縄のような肉の筋目を見て、「怒ってないよ」とちいさくつぶやいた。ぽたりと手の甲におちた甘いソースを舌で舐め、もう一度云った。
「ちっとも怒ってない」
シノムラくんとはその後も兄をあいだにはさんだ交流がつづいたが、急速に距離が縮まったのは高三になってからだ。ふたりだけでも会うようになり、遊んだり、食事などするうち、夏前にはすっかり、お互いが特別な人間になっていた。とはいえわたしはまだ高校生で、未成年で、ちょっと間違えば彼を犯罪者にしかねないから、そのあたりはうまくふるまう必要があった。
「おい、紀実恵。おまえ、やつとほいほいラブホとか行ったりすんじゃねぇぞ」
何歳になっても兄はオブラートにくるむと云うコトを知らない。
「インコーになるからな、インコー。だれかにチクられたら、あいつ、お縄だからな。おまえ、ヘンに色目をつかうから、やべぇよ」
なんてコトを云うんだ。とんでもない。手をつないだこともない。わたしはいちどこうと決めたらいろいろと堅い。
「は、残念でした。もうそんなのとっくに経験済み。知らないの、兄貴だけ」
兄はソファに寝ころんでいたのから、いきおいよく飛び起き、「え、ちょっ、おま、マジかよ」と、わたしのおなかあたりを凝視する。わたしは両手でぱっと、おなかを隠し、「もうそろそろ、兄貴も伯父さんだね。おめでと」
わたしにもイジワルごころはある。本当はそんなことありえないのに、ふしぎとおなかの奥の方で、なにかが動いた気がした。
夏休みも目前で、好きになった彼氏もいて、日々の勉強はあっても進学は考えていないからそこまでの心配はない。わたしにはここ数年来、めったにないこころ浮き立つような日々だった。
峠のうえにすごい入道雲がでた。山のみどりが太陽の光にはじけて目に痛い。里志はその朝も変わらずわたしの家に迎えに来た。普通の毎日だ。ずっとおなじ繰り返しだ。わたしはそれに安心して、すっかり油断していた。朝から棒のアイスをくわえて里志はのんきにかったるそうだ。
「紀実ちゃん、ゴリゴリくん、食う」
自分の食べていたブルーの氷菓子をわたしに差し出してくる。先っちょが里志の歯型のカタチでかじりとられている。彼がくれようとするのはいつも食べかけばかりで、ちっともありがたくない。
「そんなのいらない。ちゃんとしたのならもらう」
ひらりと電動自転車にまたがり、里志をおいて一気に加速する。ひざしが強い。空気も熱の壁のようだ。景色は夏らしいコントラストに染められ、そのあざやかな天然色のまま暑さでゆがめられた。
「おまえ、髪伸びたな」
追いついて、わたしと並進しながら里志が云う。
「そうかな」
自転車のスピードでうしろになびくわたしの髪を見ながら、「いや、それおまえ自分で切ったろ。セルフで切っちゃダメだって、云ったじゃん」
速度をゆるめないまま、右手を伸ばして来て、顔の横あたりの髪をちょっとさわる。
「前も云ったけど、これ、前髪にしちゃダメなんだよ。ここのあたりを横に流してやらないと、おまえバカみたいな顔になるんだって」
「バカでごめんね、どうせバカなもんで」
「おまえってば不器用なんだから、自分でやっちゃダメなの。直す俺の身にもなれよな」
「不器用でごめんね、生まれつき不器用なもんで」
そういうトコロはめざとい。里志の上から二番目のお姉さんはいま美容師で、ちいさい頃からそれに影響されて彼もヘアメイクめいたことが得意になった。わたしの髪を切るのもアレンジするのも、いつしか里志が担当するようになっていた。勉強はダメダメなのに手先が器用だ。男の子のくせにアレンジのセンスがかわいい。下手をするとただ長く伸ばすだけで、うしろで縛るのも上か下かの違いだけのバリエーションしかないわたしに、里志は普段とはちがうマメさであれこれアレンジをほどこした。動画サイトで人気美容師のチャンネルで研究して、たいして練習もしないのに、あっという間にわたしをヘアモデルさんとおなじ髪型にしたりした。才能ってあるんだなとおもった。自分がそれと選ぶでもなく、元から持っていたものとおなじ方向へ人は芽を伸ばす。
「とりあえずこうしとけよ」
ぬっと手を伸ばし、わたしの自転車のブレーキをとなりから握って止める。そしてうしろに回りこみ、下に垂らしただけの髪を手際よくハーフアップにしてから、残りの髪を魚の骨みたいなかたちにおおきくゆったりと編み、ゴムで留めた。迷いなく、あっという間だ。手鏡で見るとちょっとお姉さんらしく、色っぽい雰囲気もある。里志も一歩引いて眺めて、満足そうに自慢げにすこし笑う。
「帰ってきたら、髪、切ってやるよ。生え際のクセ、またでてきてる」
わたしのおでこあたりをさわり、前髪をつまむ。
「それにシノムラさんもよろこぶ」
少しわたしのこころがざらっとした。なんでここでシノムラくんの名前がでるの、とおもう。
里志とはいつもの交差点で別れた。けれど夕方に彼がわたしの家に来ることはなかった。連絡もなく、姿もみせず、そのまま数日がすぎた。
自殺未遂をしたのは同じクラスの女の子だった。授業中、教室の窓からいきなり身を投げた。さいわい移動教室の二階でそんなに高さはなく、下には常緑樹の植え込みがあったから、命にかかわる怪我もなく、ただ脳震とうをおこして気絶したというコトだった。その場にはもちろん里志もいた。授業中、妙に熱い視線を彼女が送ってくるので、愛想よくニコリと笑い、見つめ返した。あの、おまえ名前なんて云うんだっけ、と悪気なく小声で質問した。本当に知らなかったのだ。皮肉でもイヤミでもない。彼にとっては校内の数多い女子生徒のひとりだった。しかし相手が悪かった。思いこみの激しい、情緒不安定なタイプの女子だと、まわりからは煙たがられていた。一週間ほど前、自分に手紙で告白してきた相手が彼女とも知らず、里志はのんきなものだった。
「手紙読んでくれてないの」
女の子は授業中にもかかわらず、声ひそめるでもなく、里志に云った。「手紙ぃ。なにそれ」
「あたし、手紙渡したよね。一週間前、松喜くんに」
少し考えてから、「あ、手紙ね。そういやもらったのっておまえだったっけ」と云った。
「読んでないよ。どっか行っちゃった。あれ、捨てちゃったのかな。わすれた」
彼女はちょっと絶句してから、
「あたしと付き合ってって、書いたんだけど」
「へぇ。ふぅん。そりゃすごいね」
「で」
「ん」
「で、どうなの。その返事。あたし、あんたのコト好きなんだけど」
「ちょっと無理でしょ」
「え」
「ちょっと無理って云ったの。なんで俺たち付き合わなきゃなんないの」
そんなに簡単に断られるとはおもっていなかったらしい。少しのためらいもないのに、また彼女は絶句して、顔の色が白くなり、それから真っ赤になった。
段々音量があがってくるふたりの会話に、先生もさすがに注意を、とおもったらしい。
「おい、そこのふたり。ちょっと話がうるさ・・・」
注意の途中で女の子が飛び降りた。誰もまさかそこまでするとはおもってなかったから、止められもしなかった。いきなり椅子から立ちあがると、小走りに窓までゆき、足を窓枠にひっかけて、ぱっと飛び降りた。その自然なうごき。鳥が飛ぶのに迷わないように、彼女もそれが当たり前であるかのように、空中に身をおどらせた。瞬間を見ていた生徒は、なにか特別なことが、今起こったのだとはおもわなかった。視覚神経でとらえられた事象が情報として脊髄にとどき、さらに電気信号となって脳に届くまでの零コンマ何秒ののち、かれらはようやく理解した。2階じゃん、ここ。下はコンクリートの地面じゃん。人間って窓から飛び降りられる動物じゃないじゃん。だって背中に羽根ないし。
一瞬静まり返ったあとの、その反動がすごかった。教室中が阿鼻叫喚と化した。自殺の瞬間なんてネットの生配信でもまず見ない。地面にたたきつけられた死体はモザイクもので、ガチはやばい。数人はすばやく携帯のロックをはずした。数人は立ちあがったまま恐怖でうごけない。数人は窓際まで走って、なけなしの勇気で下をのぞきこむ。里志は座ったまま窓の方にぽかんとした顔をむけ、頬杖したその手で額をぬぐった。「暑っつ」と里志は云った。「だから無理だって云ったのに」
これら一部始終はあの、最初に登場した女友だち、紗江から聞かされた。劇的舞台のその教室にいて、かなりショックを受けたものの、芯がしっかりしている子だから、客観的に状況を観察していたらしい。まさか自分のクラスにそんなボーナスステージみたいなイベントが起こるとはおもわなかった。ゲームの中ならこわくはないがリアルはイヤだ。教室中は騒然となり、もちろん授業は立ち消えになった。女の子はいろいろな幸運にすくわれ、軽傷で済んだ。血の惨劇や修羅場はなく、最悪の地獄絵図は回避された。しかし騒動はやがて学校中にひろがり、大混乱となった。救急車が来た。パトカーもきた。私服の刑事もきて、冗談かとおもうくらいネットドラマっぽい展開になった。事件現場に居合わせた影響されやすいタイプの女子生徒は保健室に運ばれ、ベッドの中でトラウマをそだてた。さっそくネットで生放送をしようとした男子は常識あるほかのクラスメートから阻止され、スマホを教師にとりあげられた。
そのなかで里志は一連の騒動の中心人物として、事情聴取のため別室にうつされた。その時にはすでに自殺をはかった女子の無事が分かっていたので、なんとなくほっとした雰囲気がクラスにもただよっていたが、あまり事情の分からないクラスメートは里志のコトをうろんそうな目で見送った。
そこまでのながれを女友だちに電話で聞いて、これじゃさすがに今夜、髪なんか切りにこないよなとおもい、それで待つのはやめた。友だちは親切だ。学校からはよそにうわさをひろめないよう云われているはずなのに、わたしたちが昔なじみで仲よしと云うのを知っているのだ。
スマホの電源をおとして、わたしはかんがえる。窓のカーテンをあけ、夜の暗さの向こうにある里志の家のほうを見る。いつかこうなる、とまではおもわなかった。けれど、面倒なことに巻こまれなきゃいいな、とはかんがえていた。なんで女子にあんなに冷たいんだろう。昔から、小学生のころからだ。うわっつらでは楽しい男の子のくせに、内側にはいるとぜんぜんちがう。いままでみんな見て見ないフリをしていたから幸運だったのだ。保育園からずっと同じメンツだったから大目に見られていたのだ。自殺未遂の女の子はちがう。他中の生徒でわたしたちとはちがう環境で生きてきた。高校生になり、わたしも色んな地域からきた同級生に囲まれ、じぶんなりにかたちを変えてやってきた。かったるいし、ひと苦労だけど、それなりにひととあわせなきゃならないことってある。わたしだけじゃない、みんなそうだ。
もしかしたら、とふとおもった。わたしのせいかもしれない。わたしがどうにかできたのかもしれない。だって、ずっと分かっていた。分かっていてなにもしなかった。口でだけはいろいろ注意しても、それはそのときだけのことだった。こんなことになると知っていたら、もうちょっとどうにかできたはずだ。ひっぱたいても頭をゆさぶってもなんでもして、彼のなにかを変えるべきだったのだ。
でも、とわたしは首をふる。すぎたことは戻らない。のぞまなくとも起こってしまうことってある。わたしたちってどういう関係なんだっけと、いまさらながらおもう。里志にとってわたしってなんなんだろう。こんなこと考えもしなかった。とつぜん大きな壁が目の前にあらわれて、夏なのに背中がぞくっとした。
地域の夏の行事に、はちまん詣、と云うのがあった。こどものための行事で、夜におこなう少し怖い、きもだめし的な内容だ。夏休みの夜、山のふもとにある八幡神社まであるいて行き、最初に自分で持っていった石と、神社にあらかじめ置いた石とを取りかえて持ってくると云うものだ。石に書かれた同じ番号のものを持って帰ってくるのだが、書かれた色が違うから、ズルをしてもすぐ分かる。由来がなんだかは知らない。なんでも江戸時代から伝わるものらしい。夜中、ふたり一組で出発し、前の組が帰って来てから次の組が出発する。待っているこどもたちは児童館でバーベキューをしたりトランプをしたりする。夜中に子供だけで真っ暗な道をあるくというのは、最近のご時世では危険すぎると云うので、低学年の子どもたちは親の車に乗って往復したりする。仕方ないとはいえ、伝統の継続というのはむずかしいものだ。
高校生はもう大人の立場で、参加すると云うより、下級生の世話や雑用をしなければならない。本気で面倒だけれど、地域の子供会の仕事は順番が決まっているから、しぶしぶわたしも行事に顔をだす。現金なものだと自分でもおもう。昔はずっと、年上のお姉さん、お兄さんに面倒見てもらっていたのに。
里志がきた。ふらりとあらわれた。あの約束からもう三日ほどたっている。あえて連絡もしなかったが、突然目の前にいるからおどろいた。少しやせたと感じたのは気のせいだっただろうか。
「よう」
子供会用のプレハブ小屋のアルミ扉をからりと開けてはいってくる。「・・・よう」とわたしもおなじように返事をする。
相変わらず綺麗な顔でニコニコし、特に不自然さはない。実際のところ、彼みずからが率先してなにかしでかしたわけではない。どちらかと云えば巻き込まれた側と云えば云えたが、さすがのわたしも少し気を遣った。なんとなく距離感がむずかしい。
「紀実恵ちゃん、こないだ行けなくて、ごめんな」
しばらくしてわたしに近づいてきた里志が耳元でつぶやいた。小屋のそと、ドラム缶を縦に切り、横に倒したその上では、炭火でお肉を焼いている。煙が夏の夜の空高くのぼった。鉄板でものが焼ける音と、子どもたちがまわりで騒いでいる声でよくきこえない。
「いいよ、あやまんなくて。あやまるなら」
あやうく、わたしの方だ、と云いそうになった。あやまるならわたしの方だ。しかし、なにをあやまると云うのだろう。よく分からない。
「あやまるなら、わたしの髪にあやまって。その気になってたのに」
「あれ、紀実恵の髪って、じぶんの意思あるんだ。さすが」
なにがさすがなのだろうか。あいかわらずいい加減なことばかり云う。「じゃあ、おまえの髪に。ごめんな」
「・・・べつに、いいけど」
とつぜん遠くで名前を呼ばれた。ふりむくと、はちまん詣の順番がまわってきたと云っている。ひとりはわたしと、もうひとりは里志だと云う。「は、わたし、今年は行かないって決まってたんだけど」
「あ、それさっき、俺が順番表に名前書いといたから」
「え」
「今年でさいごじゃん。ふたりでいこうぜ。来年はもう卒業だし」
「ちょっと。うわ、マジさいあく」
ぐずぐずしていてもみんなの迷惑だ。最後の片付けもあるから、そのぶん帰る時間が遅くなる。まったく乗り気ではないが、しかたない。結局、わたしと里志と、番号の書かれた石をそれぞれもって神社まで歩いて行く。
八幡神社は県道とは逆の、峠の方向に歩き、出発地点からおよそ十分くらいの距離にある。山に向かってのぼるので傾斜が徐々にきつくなる。進むほどに、砂利道から草の多いけもの道のようになっていく。両側にはすすきが伸び、細い道をさらに細くする。狭くなる視界の上に、夏の星がたくさん光った。山々の稜線がくっきりと浮かびあがり、舞台のセットのようで、どこか嘘くさい。
「天の川がみえる」とわたしは夜空に指をさし、ながれていく方向に腕をうごかす。
「へえ、天の川」
分かってはいたけど、あまり興味なさそうだ。持っている石をお手玉のようにして投げて、誤って下に落としては、やべ、とか云って拾ったりしている。
「天の川って、わたしたちの銀河だからね」
「は。わたしたちって、なに」
「天の川って知らないの」
「知らないわけないじゃん、あれだよあれ」と、わたしと同じように星の流れを指でなぞる。
「あれってわたしたちとおなじ銀河系なんだよ。外宇宙じゃない。自分のいる銀河系を中からだとああいうふうに見える」
「へえ」
「天の川銀河って云うでしょ。天の川って、だから銀河系のひとつで、あれはわたしたちが所属している銀河の腕のひかりが見えている」
「ふうん。でもどうせならもっとカッコいい名前が良かったよな。アンドロメダとかペガサスとか、そんなの」
「べつにいいじゃん、天の川銀河で。風流だよ」
「なんか和風だなぁ」
不平がましく云う。
「なに、興味ないくせに」
「興味がなくても趣味はある」
里志は格言のように云う。ずい分自信満々だけれど、もちろんそんな格言はない。
わたしたちの歩く足音が、砂利を踏むものからやがてひっそりとしてきた。段々山の奥に入っていくのだ。そんなに遠くないはずだが、夜の闇に先が見えないからこころの距離感がすこし狂う。
山の岩肌をくりぬくようにして、神社はあった。わざわざ立派な神殿を建てないのは、岩肌ふくむ山全体が神さまだからときいた。鳥居があって、ちいさいお宮があって、さらにその岩の亀裂の奥にご神体が安置されている。途中で金属の柵が通せんぼしているから、その先へは進めず、遠くからしか拝めない。高校生になってお参りするのはこれがはじめてだ。さすがに大きくなると、小学校の子どもたちと遊んだりしないから、行事自体にも参加しなかった。今回は本当に当番の運の悪さとしか云いようがない。
「里志が行事にくるなんて、どうしたの」
少しの無言のあと、わたしが云う。
「去年だって二年前だって参加しなかったのに」
「だっておまえが幹事じゃ心配じゃん。なにするか分からない」
「わたしだけが幹事じゃない。トオルも朋華もいる」
「まぁそうなんだけど」
歯切れ悪く、また少し黙ってしまう。
「あの、あれはもういいの」
「あれって」
暗闇の向こうで里志がこちらに振り向く気配があった。こりずにまだ石をお手玉あつかいしている。
「例のその女の子だよ。窓から飛び降りたとかなんとか。紗江からきいた」「なにそれ。そんなことあったっけ、わすれた」
「は、ふざけんなよ、おまえ」
わたしは指の先でわき腹とおぼしいところをつつく。里志の小さく笑う声がする。
「だって紀実恵に関係ないじゃん。そんなの気にすんなよ」
「するよ。おまえが気にしなさすぎなんだよ」
「髪のこと、やっぱ怒ってんの」
「ちがうよ、髪のことじゃない。話、わかんないなあ」
検討をつけて手を伸ばす。あやまたず、里志の半そでの二の腕をつかんだ。思いのほか筋肉がかたくて、少しおどろいた。
「これからはちゃんと気をつけたほうがいい。どんな女の子がいるかも知れないんだし。もっと普通に接してあげなきゃ」
「ちょいちょい。それじゃ俺が、なんか普通じゃないヤツみたい」
「・・・普通じゃないよ」
「え」
ぐいっと腕をひっぱる。指に彼の腕の肉がくいこむ。ふたりして夜の中に立ち止まる。虫の声が今までしていなかったのに遠くで聞こえはじめる。「おまえって普通じゃない。自分じゃ分かってないんだよ。昔からそう。目立ちすぎるんだよ。目立ちすぎてひとを寄せ付けるのに、でもひとを突っぱねちゃうんだよ。自分じゃ気にしてないっぽいけど、けっこうみんな里志のことを見てる。まわりも傷つくし、結局、おまえも傷つく。そのくらいわかるでしょ」
わたしにはわからない。なんでわたしはこんなことを云い始めたんだろう。そんなつもりじゃなかった。なにげない会話のつもりだったのに、彼の態度のなにかが火をつけた。彼を責めるつもりはない。困らせたりなどしたくない。しかし言葉が止まらない。
「じゃあわたしはどうなの。わたしもいつか突っぱねるの。その女の子みたいに。わたしが窓から飛び降りて、ぐちゃぐちゃになっても、誰それ、あんなやついたっけ、とか云うの」
だれのための言葉だろう。理路整然となんてしていない。わたしはわたしの今が不条理でしかたない。彼にとってわたしはなにものなんだろう。わからないことだけがわかっている。
風が生ぬるく、下から吹いてきた。神社はもうすぐのはずだ。持ってきた石をお宮において、同じ番号の石を持ち帰ってくる。この行事ってなんだろう。なんで百年以上も続いているのかな。ずっと子供たちがおこなってきた。江戸時代の知らない子供も、おじいちゃんもお父さんも、地域の子どもはみんなやった。古い石と新しい石をとりかえっこして、番号は同じなのに、違うものとして持ってかえる。ただの行事だ。伝統の継承だ。トオルも朋華も意味が分かってやっているわけじゃない。夏休みの最初のみんながあつまるイベントだ。それ以上でもそれ以下でもない。そのはずだ。
持っている石が急に重たくなる。手の平大の、さして重くなかった石が、突然重さを増してくる。石を持った手が支えきれず、ぐっと下に沈む。肩が抜けたかのように斜めに下がり、手が地面につきそうになる。
わたしは、あれ、どうしたんだろうとおもう。身体がどうかしちゃったんだろうか。病気か事故か、一体なにが起こっているのか。右手の重さだけがこの状況下で、リアルだ。あらがいようもなく、地面へねじふせられそうになる。腕がだるい。手の平に石がくいこみ、その感触に皮膚が裂けそうだ。まるで夢のようだ。こころの感覚は曖昧なのに、体感だけはしっかりとある。重い、痛い、だるい。混乱と理性のあいだに、わたしはわたしが制御できない。
「里志くん」
自分の声がのどから聞こえた。彼の腕を掴んでいたはずの手はいつの間にか離され、宙をさまよった。
「里志くん」
もう一度呼びかける。里志のことを、くんづけで呼ぶなんて、小学校低学年以来だ。ある時点からはもうずっと呼び捨てだったのに、自分でも不思議だ。ちがう人間を呼んでいるようだ。わたしの知らない誰かほかのひとの名前のようで、少しこわくなる。
右手は重みで限界まで下に垂れさがり、左手は手の届かないだれかに向けて差し伸ばされた。まわりは真っ暗だ。墨をはいたかのような暗さが、密度を濃くしてわたしを包みこんだ。あんなに出ていた星は見えない。天の川のながれも消えた。わたしはひとりで宇宙の中に投げ出された。真空、無酸素、絶対零度。方向も分からないまま、わたしはどこかに向け、無限に落ちてゆく。
落ちてゆくってこういうことかとおもう。あの窓から飛びおりた女の子もこんなかんじだったのだろうか。身体が頼りない。裏と表がひっくり返り、内臓が全部でてしまいそうだ。重力から解き放たれて自由なはずなのに、こわいくらいの束縛感がある。自分で自分が制御できない、狂おしいほどのもどかしさで死にそうになる。握られた石をさらに力をこめて握り返す。爪を立て、粉々になって壊れてしまえばいいとおもう。
そして、ふいに手の平のなかの硬い感触が消滅した。あっけないほどのたわいなさだ。重くなったときと同じ唐突さで、わたしの身体は一気に身軽になった。
今が戻ってきた。
草むらの道のむこうにわたしが立っていた。神社に向かう、暗く、鼻をつままれても分からない夜の闇の中、あれはわたしだと分かった。背がひょろりとして高い。いわゆる女の子らしさとはちがう、薄っぺらい身体つきだ。垂らした髪と、顔のかたち。棒みたいな腕の長さが特徴的だ。間違いない。あれはわたしだ。わたしがこちらを見ている。表情のない、お面みたいな顔をしている。
なんでわたしはあそこにいるんだろう。あそこでなにをしているんだろう。わたしはここにいるのに、あんなところで佇んで。
一歩ずつ近づいてゆく。歩くたび、くるぶしに伸びた草の感触がつたわる。草を踏む、ひそやかな音が耳に聞こえる。わたしは逃げない。微動だにせず、わたしを待ち構えている。わたしは近づき、わたしは待った。こころが二分して、どちらが本当のわたしなのか、謎になった。
「紀実恵ちゃん」と里志が云った。いや、わたしが云った。わたしはわたしに近づき、よくよくその存在を見ると、いつの間にかそれは、里志のものに入れ替わっていた。わたしはそこにいるのに、しかしそれは里志なのだとわたしは認識した。わたしのかたちをした里志は、わたしの名前をよぶ。
「紀実恵ちゃん」
あぁ、彼はそうだった。ひとつの決まった呼び方を彼はしなかった。ちゃんづけや呼び捨て、おまえ扱いにもして、時にはブース、とか云ってわたしを腹立たしくさせた。しかしそれでわたしは安心した。遠巻きにされる観賞用じゃない、里志だけの特別扱いされているようで、それがわたしの居心地をよくした。
しかしこんなことは許されない。わたしのなかの里志は、いつまでもわたしの中にいてはいけない。わたしは目の前の、わたしと同じ姿かたちした里志のほうに両手を伸ばす。そのままゆっくり、しかしためらいなく首に手をかける。つるっとしていて細い。力を入れると折れそうだ。親指をそろえて、彼の喉元にあてがう。首まわりの血管を締め上げ、気管を乱暴な力で押しつぶす。指の先に、薄い骨が抗うように上下する。わたしは構わず、わたしの首を絞め続ける。
憑かれたようなこころで行為はつづいた。力まかせに、しぼりだすように続けられた作業は、やがて、喉の奥から歯車が折れる奇妙な音が何度かして終わった。わたしの中にあったものはわたしがかたづけた。見ると口の中から分からないものがあふれでた。両手が命で汚れて、においがひどい。このなかにもう里志はいない。肩で息をしながら、わたしはわたしの抜け殻を上から眺める。これで安心だ。これでうまくいく。やるべきことをやったのだ。いつかしなければならなかったことを、今。
わたしは近くに転がっていた、はちまん詣のための石を拾う。もう重くない。軽々と手の平におさまる。神社に向けて、ふたたび歩きだす。歩きながら、お手玉のようにぽんぽんと手の上で小さくはねさせる。そのわたしの腕。
あれ、とおもう。半そでから伸びる二の腕に筋肉が盛りあがった。生えた産毛が濃く、長い。指の節もごつごつとして荒く、太かった。わたしはおもむろに自分の顔をまさぐる。顎から、口元、鼻の輪郭を丁寧になぞる。見なくても分かった。この顔をわたしは知っている。我知らず、自分が笑っているのに気づいた。わたしのものではない手で顔をおおう。地面にひざをつく。そのままうずくまり、丸くなりながらわたしは確かめる。わたしは里志になっていた。
「・・・俺は十番。お前は十一番な」
里志がわたしの手の中に、新しい石をのせてくる。
はっとして、我に返った。
わたしたちは八幡神社のお宮の前にいた。お賽銭箱のすぐ奥に今日の行事のための石がずらりと並び、その中からふたつ、里志は石を選んで持ち上げ、空いた場所に自分が持ってきた石を置いた。新しい石には白い文字で番号が書かれている。わたしは十一番。彼は十番。わたしは石をにぎる。石はわたしににぎられる。わたしは思い出せないなにかがあるようで、少しぼうっとした。
懐中電灯の明かりを里志がわたしの方に向けた。
「なに、おまえ眠いの。目が死んでる」
わたしはまぶしくて、恥ずかしくて、彼の明かりを邪険に押しやって、顔をそむける。
帰り道は無口で、季節に早い虫の鳴き声に背中を押されるようにして歩いた。わたしは彼の裸の腕に手を伸ばし、夏の熱をもった二の腕につかまる。なにかを云おうとして、しかしそのなにかは分からないまま、やがて眼下に集落の灯りが見えてきた。
高校を卒業した。友だちの大半が大学に進学する中で、わたしは地元の郵便局に就職した。局内にはたまたま里志の一番上のお姉さんがいて、前々から勧められていたことが決断の後押しをした。お姉さんはずい分長く務めていたのだが、結婚とともに職を離れることになり、彼女と入れ替わるようにしてわたしが入局した。働くことは苦ではない。逆になんか面白そうだ。こういうところがわたしの、人からよく云われる肝の太さとか、面の皮の厚さみたいなものなのかもしれない。合宿での二週間の研修を経て、郵便の窓口に座るひとになった。小学校、中学校のクラスメートがどこで聞きつけたのか、何食わぬすまし顔で局に訪れて、わざとのようにお堅い言葉づかいで切手を買ったり送料の値段を聞いたりした。目と目で互いにうなづき、こころの中で大きく笑った。
シノムラくんとの交際もまずまず順調で、毎日は大きな破綻なく、ゆっくりとすぎた。田舎は変わらない。山のかたちも川の流れも、昔のままだ。春に緑と、秋には紅葉と、去年のつづきはまた今年だ。子どものころの通学路を今は車で走り、わたしは時々おもいだす。中学生の時、道を聞かれた女のひとのことだ。わたしを見て云った。
「なんか、もったいわねぇ、ここで平凡にしてるなんて」
彼女の云うことは今でもよく分からない。わたしになにかもったいないものがあるとするなら、多分それは、彼女の中にある問題だ。本当はわたしじゃない、彼女がわたしの上になにか別のものを見つけて、そうおもっているだけだ。わたしには何も、もったいないものなんてない。
四年という月日はあっという間だ。振り返ると、高校生だった自分がまだそこにいるようだ。一年一年をたどるとそれなりに出来事があり、経験も積んできたようだけれど、そこまで自分に変化は感じない。時間だけがはやく流れ、そこにわたしはうまく乗れていないのかもしれない。ごくたまに、叔父さんが設置したあの展望台の前を通る。毎日の生活ルーティンから外れてしまったので、通りがかることはほぼなくなったが、そんな折には、あーあ、段々古ぼけてゆくなぁとおもう。ペンキははがれた。色もくすんだ。あちこちに錆が出て、見るたびに廃墟感がましてゆく。いや、どちらかと云うと、廃棄物感と云うほうが正しいかもしれない。やっぱり時間は経っている。
「シノムラくん、もう二十八歳だって。そろそろアラサーだね。ヤバい」「べつにヤバくはない。ちゃんと大人になったってことだろ」
「大人って云うか、オジさんって感じでしょ」
シノムラくんの短髪をかるく手の平でかき回す。わたしより六歳早く、このひとは歳をとる。もともとが老け顔っぽいから、そんなに変化があるわけではない。前より少し頬がこけ、輪郭が骨っぽくなった程度だろうか。仕事のせいで身体はますます筋肉質になった。着やせするタイプで、一見ほっそりして見えるのに、しかし脱ぐとすごい。中年太りとか激太りだとか、そういうのにはたぶん縁がない。外見がいちばんとは云わないが、健康体を保つのは悪いことではないだろう。
「まぁ、実際オジさんだろ。若さが自慢になるほどの歳でもない」
生真面目な顔をして云う。わたしの茶化したような会話にも、このひとはうかつに乗ってこない。根にお堅いところがあって、無口だし、自分から冗談はめったに云わない。こういう資質の人なのだ。沈思黙考するタイプで、口を開くときは除夜の鐘みたいな重々しさで、短くぽつりと発言する。この人はこれでいい。わたしはこういう人を選んだのだ。
この人ときっと結婚する。いつかそう遠くない未来に。その流れは感じている。口に出さなくても語られるものってあり、ふたりがおなじ方向を向いているときに自然とそれと分かる。嘘とか無理と云うものは、不自然だ。不自然なものはかならずこころにささくれを立てる。気持ちの良し悪しというものほど、敏感に感じられるものって人にはない。わたしはその自然な気持ちよさを彼の上に享受した。
季節はおそい秋になった。関東平野の行き止まりの町に寒風は早く吹く。背後にせまった奇岩の山々に上空の風がぶつかって、一気に下方向に吹きおろされる。県道に分断された街並みのまん中を、肌寒い風が一気に駆けぬけた。古い看板のペンキ文字がますます薄くなる。古民家のしっくいの壁が寒さにふるえ、また剥げ落ちる。家々の間を迷路のように流れる湧水の小流れも最近は少し水量をおとしたようだ。
子どもたちの登下校する背中がみえる。小さく丸まってかわいそうなほどだ。家の場所によってはとんでもない距離を学校まで歩かされる。周りになにもない、ただまっすぐな道を歩くほどつまらないものってない。わたしたちはこうして少しずつ忍耐づよさを身につけてゆく。
強風に飛ばされ、一斉下校中の誰かの黄色帽が道を転がってゆく。驚いたみんながわっと叫び、それでも楽しそうに全員で帽子のあとを追う。帽子に色づけられた風がどこまでも遠くへ吹いてゆく。
わたしはのどに軽い違和感を感じる。風のせいで空気が乾燥しているのだ。細かいほこりも散って、そのせいもあるだろう。のどを上下させ、軽くせき払いする。なにか飴でもなめたい気分だ。甘くないやつ。すーっとするミントとかカリンみたいななにか。
「なに、どうした」と彼が助手席で云った。「風邪でもひいた」
「いや、大丈夫」とわたしがもう一度せき払いして云う。「ちょっとのどがいがらっぽい」
「ふうん、そうなんだ。そうだよな、おまえ風邪なんてひかないよな。だっておまえバカだし」
「は、バカでごめんね。バカは生まれつき。でもあんたほどじゃない」
グーのこぶしで彼の肩をたたく。里志は笑って助手席のシートに身体をうずめた。
四年前のあのときはまさか彼が東京に行ったきり、そのまま帰ってこなくなるとはおもわなかった。その日の朝、いきなり里志から連絡が来た。頼まれるまま重い荷物を持ってあげて、タクシーで一番近いローカル線の駅まで行った。高校三年の夏休みおわりだ。ちょっとだけ東京に遊びに、なんてセリフを真に受けて荷物持ちを手伝ったら、それきり彼は帰ってこなかった。二学期の初日の朝、迎えに来ないのが不思議で、夜にメッセージを送ると、その時に彼はもうすっかり東京の人だった。学校は辞めたこと、美容師の専門学校に行くこと、地元にはもう戻らないことなどが画面上につづられた。あきれてものも云えないとはこういうことだろう。そのときのわたしの顔を誰かが見たら、かなり間抜け面だったとおもう。
「なかなかいいじゃん、この車。自分で買ったん」
シートをぽんぽんと叩いて、助手席の里志が云う。
わたしの車は高校卒業と同時に買った普通車だ。丸いフォルムとパステルカラー、小さいのに広いのが売り文句の、人気アイドル女優が宣伝をしている。デフォルトのままじゃ退屈すぎるとおもい、かっこいいオプションをいろいろ付けたら大変な金額になって目を回した。
「まぁね。とは云っても、親に一括で買ってもらったから。家にお金を入れるのと一緒くたで返済してる」
「お前んち金持ちだからな。俺も車、買ってほしい」
「なに云ってんの。うちはそんな金持ちじゃない、普通でしょ。あんたんちだってよそに貸してる土地あるし、東京に行かせるお金あるし、そっちのほうがすごい」
「うちも大変だよ。上の姉貴ふたりは家でて、今は二個上のやつしか残ってないし、男は俺だけだし。今はまだいいけど、未来がこわい」
自嘲気味にほほ笑んで、さらにシートに深くもぐりこむ。
四年前のように、今度も特に何も云わぬまま、黙って帰ってくるんだろうな、とおもったら違った。律儀に二日前には連絡がきて、駅名と到着時間がスマホ画面に映しだされた。わたしが免許と車を所有していることを、ちゃっかり知っているのだ。こういう抜け目のなさはやはり里志らしい。
あの夏休みに別れたのと、おなじ駅でわたしたちは再会した。しかし目の前にいるのにそれが彼とは、おもわなかった。外見が一変した訳でも、雰囲気が激変したのでもない。記憶にあるわたしのなかの里志とは、不思議とどこか違った。駅の改札から降りてくる数人の中に、わたしは一目でそれだと彼を見極めることができず、混乱した。こんなことが自分の身に起こるとは予想外だった。なにも心配していなかったのに、逆に無根拠な自信に冷や水を浴びせられたようで、とまどった。しかしわたしは動揺を表にはださない。何食わぬ顔で、キシリトールガムをケースから取り出し、力まかせに噛みくだく。
彼が町から去ったあと、ひとしきり噂が飛び交った。ほぼ誰にも告げず東京に行ってしまったから、それが余計にみんなの想像力をたくましくさせた。小さいコミュニティのなかにも、流行り廃りってあり、里志の一件は格好の材料だった。あの同級生の自殺未遂事件のせいで学校にいづらくなってしまったのだろうとか、学校の方から依願退学を迫られたのだろうとか、元々同級生をフったのは里志に他に好きな女子がいたからで、その彼女ともうまく行かず、捨てばちになって東京に行ってしまったのだろうとか、さまざまだ。悪意はなくても本人のいないところでの邪推は残酷だ。いない人間に反論はゆるされない。もっともらしい噂がひとり歩きして、それが事実であるかのような顔をしてまかりとおってゆく。わたしは聞いて聞かないフリをして、あやういところにはみずから近づかない努力を続けた。
車は駅を離れ、山道を少し走る。途中で古いお寺の前を通り過ぎ、ここにはわたしの父方と母方、両家代々のお墓がある。わたしのお母さんの母、つまりおばあちゃんもここに眠っている。わたしはこのおばあちゃんには会ったことがない。ずい分と若く、お母さんがまだ三つか四つの頃に病気で亡くなってしまっている。確か、いまのわたしと同じくらいの年齢だったんじゃないか。かなり美人で地元ではちょっとした有名人で、お母さんが云うには、わたしと良く似ていたらしい。だが写真で見ても、そうかなぁ、と云う感じだ。お母さんの持つ少ない記憶では、いつか瑪瑙の指輪をこのお寺で失くしてしまい、それをけっこう悔やんでいたと云うことだ。里志にそれを云うと、「へぇ、探したら今でもでてくんじゃね」と少しずるい顔をする。「どうだろう。とっくに誰かに拾われてるかもよ」
大きなカーブをいくつか過ぎると、突然景色がひろく開ける。空が大きい、山あいの土地。田んぼと川との、これがわたしたちの町だ。
「変わんねぇなあ、この町も」と里志は云った。
「なにそれ。よくある三流映画のセリフ」
「でも本当のことだろ。四年経ってんのに、なんも進歩がない」
「そんなことない。無人の野菜直売場が出来たし、児童館前の舗装も新しくなった。田中さんとこの工場は建て増ししたし」
「紀実恵ちゃん、あのさ、そういうのって進歩って云わないんだよ」
「え、じゃ、なんて云うの」
わたしはムキになり少し突っかかるようにして云う。
「そうのって、ただの変化って云うんだよ。変化じゃ人って刺激を受けない。刺激がないと人ってつまんないじゃん」
わたしは内心また驚いて、ちらっと彼の方を見る。キシリトールガムを奥歯で強くかむ。
「じゃ、わたしはつまらない人間ってこと。進歩のないところにずっといるんだから」
「そんな怒るなよ。相変わらず、こわいなぁ。紀実ちゃんは」
さしてこわくなさそうに平然とした顔で云う。
「進歩のないのは、おまえのせいじゃないだろ。ある程度みんな我慢したり納得したりして住んでるんだから、それは仕方ない。ただ俺は見たままの町の話をしてる」
「なんか上から目線だね。ずっとここにいなかったのに」
「いなかったから分かるってこともあるかもよ。同級生で町出て東京に住んでるやつ、ほかに誰もいないんだし」
ちょっと話は平行線だ。互いの正義で話しあうとこんな風になる。決着のつかない話は不毛だ。わたしはもうどうでもよくなる。
「町役場の交差点に冷凍餃子の自販機が出来た。しかも電子マネーしか使えない」
「へえ」と里志は、明るい驚いた声をあげ、「紀実恵ちゃん、それは進歩だなあ」と云った。
お昼の時間を少し過ぎた。自由な時間がまだあると云うので、町の定食屋さんに行った。子どもの頃、地域の行事終わりなどでよく利用した、懐かしい店だ。県道からそれた分かりづらい場所で、地元の人以外のお客を見たことがない。道路際の看板には豚カツとか、もつ煮、チャーハンなどの言葉がでかでかと書いてあるけれど、実際のメニューにそんなものはなかった。ずいぶん前に店主のおじさんが亡くなり、おばさん一人で切り盛りするようになったため、徐々にメニューが変わり、今ではほぼお好み焼きしか選択肢がない。知らない人にとっては、詐欺みたいなものだ。
「まぁ、二人して芸能人が来たみたい」
三角巾と割烹着すがたのおばさんは大げさに目をまるくした。
「紀実恵ちゃんは相変わらず美人さんだし、里志ちゃんもなんだかいい男になって。こんなひなびたお店に来てもらっちゃ、悪いみたい」
里志ちゃんだって、とわたしは意地悪に云い、テーブルの向こうに座った彼の肘に自分の肘をぶつけて、にやり、と笑う。彼はちょっとふてくされて、うるせえよ、と云った。
「なんか二人、お似合いよねえ。美人と美男で、映画スターのカップルみたい。この辺りにそんな人見ないから、別世界の人たちみたい」
子供のころからのなじみのおばさんとは云え、ちょっと云いすぎだ。もし本当の映画スターなら、もっとお金のかかる、敷居の高いレストランに行くだろう。少なくともわたしたちは違う。
「おばちゃん、俺はともかく、こいつは一般人だからあまり気にしないでよ。云うほどたいしたことないから」
仕返しとばかり今度は里志が云い、こちらに肘をぶつけてくる。わたしは軽くなぐるマネをしながら、「あんたに云われる筋合い、ない」
「いいの、俺じゃなきゃ誰もそんなこと云わないだろ」と身を避けつつ上目づかいでずるく笑い、謎のようなことを云う。おばさんが厨房に去ったのを横目で確認し、それから唐突に、「髪」と云いだした。
「髪。髪ってなに」
「髪切ってやるって約束。前、したじゃん。忘れた」
「あぁ・・・ずいぶん昔のこと。よく覚えてるね。忘れてた」
「忘れんなよ。今はもうプロだから、あの頃とは腕が違う。本当は指名料金お高いけど、特別に安くしといてやるよ」
「は、ちょっとおまえ、お金取るつもり。なら、結構。自分で切る方がまし」
「だからセルフで切るなって」
「じゃあ、ただね」
「なんだかクレーマーみたいだな。お客さん、強引すぎ」と、右手のチョキのはさみで何かを切る仕草をする。
わたしの髪を切る約束は、それから数日後に果たされた。なんだかんだ、里志も実家に帰ってきては忙しいらしい。友だちに会ったり、役場に行ったり、親戚を巡ったりと、しなければならないことがあるようで、わたしも土日以外の平日は仕事に出ているから、会えるようでもなかなかタイミングがあわなかった。
「そんなちょっとでいいよ、がっつり切らなくても」
「分かってるよ。店でもないし、本格的にはこっちもやってられない」
夜、わたしの家の庭さきで、慣れた手つきで里志がカットクロスをひろげ、わたしの首に巻きつける。指で髪先をつまみながら、「ちょっと毛先そろえる感じだよな、出来るコトって」
「美容師さん、あとわたし髪色変えたいんだけど。インナーカラーはスモーキーピンクにして、毛先だけマリンブルーでお願い。あ、サイドは耳上にかけて、刈りあげるからね」
「ふざけろよ、そんなんおまえには五億年早い」
ためらいのない動作で、はさみを動かす。小気味よい音とともに髪がはらりと下に落ちる。疑っていたわけではないが、本当にプロになんだなぁ、とおもう。
「おまえさ、あまり俺についてあれこれ聞いてこないよな」と手を止めず、里志が云う。
「なにそれ」
「いや、たまに会った連中、詮索がすごいから」
「そりゃそうでしょ。あんないなくなり方して。みんないろいろ知りたがってた」
「俺のことなんか知ってどうすんだよ。ヒマだよな」
「逆でしょ。ヒマだから知りたがるんだよ。前にも云ったよね、あんたはへんに目立つところがある」
「それな。それがいやだったところ。ザ・田舎って感じでさ」
「・・・ちょっとなに。わたしにあれこれ聞いてほしいの。なんかそんな感じなんだけど」
「は、気のせいだろ。俺だっておまえについてあれこれ聞かないし、お互いさま」
「別にわたしは、いいけど」
一瞬、里志のわたしの髪を切る手が止まる。
「聞きたいことがあるならそうすれば。隠すようなことはなにもない。はい、どうぞ」
クロスの下で手の平を上に向け、両手をひろげる。
「ほら」
「あいかわらず怖いな、紀実恵ちゃん」
「怖くないよ、正直なだけ。怖さってそれを感じる人間の内側にしかないもの。外側にはない」
「やっぱ、怖い」と里志は云った。
「だから俺、殺されちゃったんだよ」
はっとした。
ふいをつかれた。
後ろを振り向こうとすると、さえぎるように風がつめたく強く吹いた。
なにかを思いだしそうだ。ここまででているのに、掴もうとすると逃げる。もどかしい。手の平が奇妙に濡れてきて、においがする。この不快な感触。おぼえている。わたしはなにかをこの手にかけ、失わせたのだ。あれはいつのことだっただろう。あれはいったい誰だっただろう。
振り向くと、わたしがいた。わたしがはさみを持ち、無表情にわたしを見ている。無表情だが、そこに何かしらの意図が潜んでいた。はさみは凶器だ。鋭い刃で表面を切り裂き、内側をあらわにさせる。流れでる血と、その奥にある肉と。さらにもっと奥に隠された、自分でさえ知らないものをさらけ出そうとする。わたしは、わたしを殺すつもりなのだ。
その怯えているさまを、わたしは見ていた。右手ではさみを持ち、慣れた仕草でその刃の動きを確かめる。いつの間にか、くるっと視点が回転し、わたしは椅子に座って振り向いている自分を見下ろしていた。カットクロスから頭だけがのぞき、他の部分は隠されて、これほど無防備な格好はない。
髪を切ってあげる。あなたに似合うような髪型にしてあげる。ここを切らないと綺麗にはならないよ。ここは切る、こちらは残す、長さを変えて、量を減らして、別々な作業のひとつひとつが合わさり、すべてが調和したひとつのかたちが出来上がる。どれかひとつを抜かしてもけしてそうはならない。そのための腕をわたしは持っている。
ためらいはなかった。仕事の時はいつもそうだ。自分ではない、道具が仕事をしてくれる。わたしはただのよりしろだ。仕事が終わるまでのほんの一瞬、身体を貸してあげるだけのわたしは存在だ。
髪は切られる。どんどん短くされ、首筋にまでたどりつく。まだ足りない。もっともっとだ。銀色の刃先はなめらかに肌をとらえ、すっと刃先が閉じられる。何の抵抗もなく、一文字に世界が切り裂かれた。白い皮膚と肉が空気にさらされ、一瞬おいて、思い出したかのように血液がにじみ始める。薄赤い色が、徐々に濃くなり深みを増して、奥から奥から湧いてくる。裂けめから裂けめへ、刃先は何かを求めるように、貪欲に動いた。わたしはわたしの奥深くへ、刃先を先頭にして分け入っていく。目指しているところへはまだ足りない。さらに切らなければ。さらに切って目指す場所にたどり着かなければいけない。わたしはわたしの応援者であり、実行者だった。励ましは自分のためだ。実現はわたしのために行われるものだ。もう一度、わたしははさみを打ち鳴らし、動きを確かめる。
紀実恵、とわたしがわたしを呼んだ。内側からの声に耳をすます。わたしの声のようだけれど、実はわたしのものではない。
紀実恵ちゃん。もう一度声がした。わたしの内側から声がするのは、やはり違う、これは里志のものだ。わたしの昔なじみ。わたしのお友だち。彼がわたしの内部から呼んでいる。
たちまちわたしは、こころはそのままに、里志の中に取り込まれた。リバーシブルのぬいぐるみみたいに、チャックを開けて、外と中とがひっくり返り、裏と表があっという間に入れ替わった。
里志は熟練のプロの手つきで、わたしを切り裂いてゆく。背中から腰にかけていっきに刃を入れる。背骨、肝臓、脾臓に肺臓、そして心臓にまでたどりつく。わたしは里志の目になり、わたしが分解されていくのを眺めている。いや、或いは最初から、里志のこころがわたしの身体を借りて、はさみを動かしていたのかもしれない。
わたしはようやく思いだした。前とは逆だ。今度はわたしが、里志によって手をかけられようとしている。すごいにおい。血が洪水のようだ。いのちに手が汚れてゆく。ずい分みっともない姿になってしまったが、しかしわたしに悔いはない。こうなるのは仕方ない。こうなることでしか理解しえないものってあり、それはこの時でなければいけなかった。
おもむろにこころが二分した。その片っぽが自分の身体へと吸いこまれてゆく。里志の内側から引き剥がされ、わたしは自分の中に戻ってゆく。秋の風がまた強く吹いた。骨身に染み入りそうなつめたさだ。さっきまで自分の一部だった髪が峠の向こうに高く飛ばされ、肉眼ではもう追えない。残されたわたしの抜け殻はタイムラプスでも見るように、段階的に朽ち始めた。形が崩れ、原型をなくし、やがてチリとなってゆく。最初からそこにはなにもなかったかのように、あとかたもなくなってゆく。
自分が崩壊していく中、丸まり、胎児のような格好で、わたしはわたしを振り仰ぐ。
わたしと里志は共有する、ふたりでひとつの瞳で、終わってゆくいのちを罪びとのような気持ちで見下ろしていた。
「・・・本当にあがって行かないの。少しゆっくりしていったらいいのに」と、里志の二つ上のお姉さんが玄関先でわたしをひきとめる。里志の云う、家に残っている最後のお姉さんだ。彼にいちばん似ていて、一見すると見まちがえそうになる。髪を切ってもらい、わたしは車で里志を送ってあげた。夜もだいぶ更けてきた。風と空気がつめたい。
わたしはていねいに辞退の言葉を告げると、車に向かい、運転席に乗り込む。ふと、気づくとそばに里志が立っている。わたしはパワーウィンドウを下げ、「なに」と彼を見上げる。
「なんでもないけど。じゃあな」
「うん。じゃあな」
「次はいつんなるか分かんないけど」
「そうだね。あんたのことだから、また四年後かもね」とわたしは云う。
彼の顔を見あげ、やっぱりちがうとおもう。わたしの知っていた彼とはやっぱりどこかちがう。ふいに寂しくなる。胸がきゅっと痛み、わたしたちのこれからを不安におもう。またいつか髪を切ってもらうどころではない。わたしにはわたしたちの明日も見えない。
彼の方に手を伸ばそうとして、しかしやめた。一瞬ひやっとした冷気が肌を刺し、手を引っ込める。わたしはため息をつき、同じ手でエンジンスターターのボタンを押す。
「じゃあまた、いつかな」
わたしは彼の顔を見る。アクセルをゆっくり踏みこんでから、ハンドルを切る。彼の姿がバックミラーに映り込み、手をこちらに上げるのが見えた。彼にはもう見えないだろうけど、わたしも手を上げた。別れのセリフに対する返事は、最後まで出てこなかった。
最初は風邪かとおもった。なんとなく熱っぽい。胸やけのような感じがして、だるく、いつでもなんとなく眠い。しばらく様子をみても状況は変わらない。かえってひどくなる一方で、その他いろいろな身体的徴候を総合して考えると、こたえはひとつしかなかった。
そのこたえにたどり着くと、一瞬ヒヤっとした。胸の底が抜けたように、こころが頼りなくなり、急な孤独が襲ってきた。本能的なおそれ、と云ってもいいかもしれない。きゅっーと心臓が猛禽類の爪につかまれたように、本当に息が止まるようだった。
わたしは大きく深呼吸して、考える。下腹部に手をあて、酸素を身体のすみずみにまでいきわたらせる。
身に覚えのないことではない。いつかこういうことになるんだろうな、と漠然と想像はしていた。きちんきちんと将来設計をしていたわけではないから、予定通りとは云えない。青天の霹靂だ。寝耳に水のその証拠に、わたしは少なからず混乱している。
なにが怖いんだろう。なにを恐れているのか。物理的な痛さなのか、精神的な苦痛なのか。きっとそのどちらもだ。はじめての出来事を前にして、すべての予想は不安なほうに傾いていく。予期せぬ事態は、自分自身さえも疑心暗鬼にさせる。自分で自分が頼りない。自分で自分を救えない。でも誰も助けてはくれない。悪いけれど、シノムラくんでさえわたしの代わりにすべてを担ってはくれない。こういうときに女性はそのぜんぶを一身に引き受けなくちゃいけない。怖いのも痛いのも、孤独も不安も、この一大事を前にしては女性の仕事だ。
しかし、ともう一度深呼吸してわたしは考える。前にわたしが、誰かに云ったセリフが思い浮かんだ。
「怖さってそれを感じる人のなかだけに潜むもの。その外側にはない」
誰に云った言葉だっただろう。思い出せない。しかし今のわたしを励まして余りある。
おなかに手を当てる。わたしは一瞬の葛藤ののち、自分を取り戻す。わたしの中から生まれ出ようとするいのちに、わたしはちょっと傲慢だった。怖さや恐怖とかではなかった。よろこびや希望だ。ぬくもりと安心だ
わたしはわたしの目の前が急にひらけ、明るくなるのを感じた。まだ胸焼けのようなむかつきは続くけれど、怖さはもうなかった。わたしの中からあたらしいいのちが生まれることに、新鮮なおどろきと期待があった。
おなかに当てた手が少し濡れた。わたしは自分の両方の手の平を見る。つるつると光って、いい匂いがする。いのちがここにある、とおもった。わたしたちのいのちはここから生まれ、あたらしく育ってゆくのだ。
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