見出し画像

スコアラーという仕事をする人のこと。

プロ野球のベンチ入りのメンバー表には、監督、コーチ、選手、トレーナー、通訳、マネージャーの他にスコアラーという項目がある。

本来の意味は記録員だが、日本の球界においては、対戦チームを分析したり自軍を客観的に判断したりする役目を持つチームスタッフを指す場合がほとんどだ。
ベンチにいるのは後者。
自軍を客観的に判断する役目であるチーム付きスコアラーということになる。
対戦チームを分析する先乗りスコアラーからのデータをまとめ、自軍に伝え、作戦などのベースを作っていく立場だ。
試合前ミーティングでも試合中でも選手達にアドバイスをすることも多い。
実際、試合中継を観ていて、選手がコーチではないジャージ姿の人物と話し込んでいる光景を見たことがある人も多いと思う。
あれがチーム付きスコアラーである。

北海道日本ハムファイターズにおいて、そのチーム付きスコアラーは長い間、石本努という人物が務めてきた。

石本は、1990年に別府大付属高校からドラフト2位で、移転前の日本ハムファイターズに入団した。
入団時の触れ込みは俊足好打の内野手。
後に外野にコンバートされ、怪我や手術の影響もあって弱肩などと揶揄されもしたが、俊足は折り紙付きだった。
とにかく速かった。びっくりするほど、呆れるほど速かった。
練習を観に行っても、ひとりだけ別次元で、私は以降あれほど速い!という印象を抱いた選手はいない。
スピードでは、現育成コーチの川名慎一、技術では現楽天の西川遥輝のほうが上だったが、とにかく素の走りが異常ともいう加速度を持っていた。
ベースランニングなんて、え……?なに……?と何度思ったか知れない。

そして、人気があった。
活躍していないときも、一軍に出るようになっても人気は常に高かった。
地味な球団にあって、ルックス的に目立つ存在であった。
女性ファン向けの企画に担ぎ出されることも多かった。

だが、それでいて、物静かで真摯で真面目。浮かれたところもない。
誰の目にもそう映る選手でもあった。
その評価は2005年に現役を引退したときに確かなものであったとわかる。
石本が引退するとわかったき、日本ハム球団の全部署が一斉に「うちに欲しい」と手をあげたのだ。
その結果、石本はスコアラー、日本ハム球団においてはプロスカウトと称される職で球団に残ることになった。

最初はいわゆる先乗りスコアラーだった。
セ・リーグ担当だったこともあり、交流戦のときのみ、ベンチに入った。
その際に、ファイターズはすさまじい連勝の挙句、交流戦を制覇した。
投高打低のチームだったが、采配が的確にはまっていた。
監督やコーチの目利き、選手達の実力はもちろん、彼らの活躍に土台を与えたのがスコアラー達のデータであったことは想像に固くない。

その後もしばらく先乗りを務めた後、チーム付きとなった。
2010年のことだったと記憶している。

この年、とても悲しい出来事が開幕前の球界を襲った。
読売ジャイアンツの木村拓也コーチの急逝である。
石本と木村は日本ハムのドラフト同期だ。
ドラフト2位の石本と、ドラフト外の木村。
それぞれ立場や待遇は違っていたものの、同じ九州出身で仲が良かった。
決して環境が良いとは言えない多摩川沿いのグラウンドで切磋琢磨していた。
ともに球界に残り、これからも友情が続くと思っていた矢先、木村は旅立った。
その寸前、石本は、当時2年目でスイッチヒッターとして頑張っていた杉谷拳士に、スイッチヒッターの先輩としてアドバイスしてやってほしいと、木村に頼んでいた。
あんなことがなければ、どこかのタイミングで杉谷は木村から貴重なアドバイスを受けられていたはずだ。

石本はスコアラーとして、トレイ・ヒルマン梨田昌孝栗山英樹各監督のもと、5回のリーグ制覇、2回の日本一を縁の下から支え続けた。
2019年オフの大幅な組閣改編で、再び先乗りスコアラーになったものの、今年、新庄剛志政権で再びベンチに戻ってきた。

現役時代、新庄のパフォーマンスに参加したことも多かったので、この政権移動で、石本がチーム付きになる予感はあった。

ファンはベンチを覗いても目当ての選手を追いかけるのがメインだとは思うが、あなたの大切な推しがマウンドに向かう前、打席に立つ前、データを見ながら話し込んでいる男性に気づかないだろうか。
その人こそが、チーム付きスコアラー・石本努である。
先乗りスコアラー達が集めてきたデータをまとめ、わかりやすく選手に伝える立ち位置。
現代野球において、とても重要な役目を担っている。

推しを応援する隙間に、ほんの少し、ベンチにいる監督、コーチ、選手以外の裏方の貢献に思いを馳せてみたら、あなたの野球観戦は更に更に楽しく奥深いものになることは間違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?