教育と〈面〉
ギブソンは『生態学的視覚論』の中で、アフォーダンスという概念を提唱しました。
アフォーダンスとは、環境が知覚者に与える意味や価値の性質を表しています。
どういうことかというと、たとえば椅子があるとします。
普通、人は「椅子に座る」と表現します。
この時、椅子に座ることは人が意識して起こした行動だと考えられます。
しかし、ギブソンはそう考えません。
ギブソンは、「椅子が人に座るように働きかけた」と考えるのです。
つまり、人間は世界から語りかけられ、その中で行動を決定しているというのがアフォーダンスの考え方なのです。
ギブソンの〈生態学的光学〉によれば、人間は環境からアフォーダンスに対応する情報を抽出するように進化の過程で知覚システムを発達させてきました。
人間の意思によって起きていると考えられる行動も、その物体のもつ素材や形によって影響を受け、“そうさせられている”面があるという主張は、大変なインパクトを持って受け止められました(なお、ギブソンは人間を“そうさせられている”だけの受動的存在として考えているわけではないことに注意が必要です)。
さて、ギブソンは『生態学的知覚論』の中で、環境世界を三つに分けています。
物体、媒質、面の三つです。
物体は、まあ分かります。
媒質は、すごく乱暴にいうと液体のことだと勝手に理解しています。
ちょっと理解が難しいのが、面(surface)という概念です。
ある物と物の接地面に発生するのが面であり、その面によって人間の行動はアフォードされる、とギブソンはいいます。
同じ石でも、面の傾きによって
・座る
・(階段を)のぼる
・(垂直に)登る
などの違った行動を生み出すように、面のあり方も人間の行動に影響を与えるのです。
石などの硬い物質の場合はわかりやすいが、空気と水の接地面を考えてみると、常に流動的に変化しながら人間の行動をアフォードするので、かなり複雑です。
ところで、なんでこんなことを書いているかというと、教育における教師と子供の関係も、アフォーダンスの概念で考えると新しい知見があるのではないかと考えているからです。
僕は、ずっと人間の関係性について不思議なことがありました。
こちらがある意図を持って子供に関わる。
それは、子供がある状態になることを目指して行われる関わりであって、教育は全てそういう営みです。
しかし、実際に生まれる子供との関係性は、こちらの意図を外れて、誰も想定しなかった関係へと発展したりします。
こちらも想定しないし、子供も想定しなかった関係性が生まれ、面白かったり悲しかったりします。
そういった、教師の意思にも、子供の意思にも回収されない、現象としての関係性をうまく言葉にできないものかと考えていて、ギブソンの概念に出会いました。
この考えを人間関係にも当てはめて、僕と子供の間には面が形成されると考える。
水と油の接地面のように、大人と子供の接地面も常に流動的に変化し続け、僕たちに“ある行動”をアフォードするのです。
だから、そこに生まれる関係性は、誰が意図したものでもありません。
強いて言うなら、面が創り出した関係性です。
面というメタファーを使うことによって、教師と子供、そのどちらも意図しない現象としての関係性が記述できるようになるわけです。
そして、教師も子供も意図していない関係性、というのが重要だと僕は考えているというわけです。
教師がよく「みんなからたくさんのことを学びました」といいますが、それは子供から直接学んだというよりは、2人の創り出した想定しなかった関係性から示唆を得た、という意味なのではないかと考えています。
教育には、非常によく練られた反復可能な関係性があります。これは科学です。
一方に、誰が意図したわけではない、面によって創り出された反復不可能な関係性があります。これは文学です。
どちらが大切ということもなく、そのどちらも大切なのでしょう。
だから、教師に求められるのは意図的な関わりだけではなく、その結果生まれる関係性の冷静な観察だということになるのでしょう。
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