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「怠学」「学校恐怖症」「学校ぎらい」「登校拒否」「不登校」

「なんで不登校って増えているんだろう?」

という質問には、答えがない。

1970年代の精神科医によれば、家庭でのしつけがまずいので「学校恐怖症」は起こるらしい。

また、1980年代の旧文部省によれば、本人の性格によって「登校拒否」は起こるらしい。

あるいは、1990年代のフリースクールによれば、学校に問題があるから「不登校」が起こるらしい。

そして、2000年以降は…

やめておこう。

原因探しはキリがない。

家庭の問題かもしれないし、本人の問題かもしれないし、学校の問題かもしれない。

学校に行けない・行かない子たちは、戦後、様々な呼び方がなされてきた。

「怠学」「学校恐怖症」「学校ぎらい」「登校拒否」「不登校」

呼び方が変わるたびに、その言葉によって表現される対象が変化し、違った印象を与える。

例えば、「怠学」とは、なまけていて学校に行けない状態を指し示した言葉だ。

この言葉を使う時、学校に行けないのは本人の「怠け」であるという認識が根底にある。

そうすると、それをなんとかするための矯正が必要であるという解決法が自然と導き出され、矯正を目的とする「スパルタ教育」が行われることとなった。

対して、「怠学」のすぐ後に出てきた「学校恐怖症」は、学校に行けないのは病気だという認識を根底にしている。

「学校恐怖症」という病気は親子関係(特に母子の関係)の問題が原因で起こると考えられていたので、治療にあたったのは精神科医たちだった。

当然、こういった言葉で表現される対象は、「不登校」のそれとは異なる。

歴史の中で言葉は変化し、それにともなって対象も変化してきた。

そう考えると、何かしらの統一的な原因を見つけ出そうとすること自体が、無理なことなのかもしれない。

そもそも、「不登校」という言葉が非常にあいまいだ。

病気やいじめ、様々な状況の中で学校に行けない子どもと、あえて学校に行かない子どもの全てをまとめて、「不登校」という言葉で表現しようとしている。

その言葉で示す範囲が広がるほど抽象度がまして、雲を掴むような言葉になっていく。

つまり、「不登校ってなんで増えているんだろう?」

という問いを立てた瞬間に、袋小路に入ってしまう。

「不登校」という言葉が曖昧である以上、その原因も特定できない。

問いを立てるときには、言葉を正確に用いないと、自分の進みたい方向とは別の方向に進んでいってしまうのだ。

ただ、「不登校ってなんで増えているんだろう?」と問いたくなる気持ちはわかる。

きっと、そう問うことによって考えたかったことは、こうではないだろうか。

「多くの子が学校に行きたくなくなるストレスフルな学校環境は、どのようにして生まれたのか。そして、どうすればそのストレスフルな環境が改善されていくのか」

これは考えられそうだ。

(次に続く)

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