至高体験と情動感染

僕の最大の関心ごとは、「どうしたらイキイキと生きる人を育てることができるか」だった。
そうして考えていくうちに、人間がイキイキと生きるには、情動の爆発をともなう衝撃的な体験が必要だと考えるようになってきた。
至高体験、恍惚、超越的体験などなど、いろいろな呼び方がされている。

教育における人間の語られ方は、基本的に理性が中心だ。
近代教育学は啓蒙主義時代に生まれたため、理性を中心とする学が構築された。
近代以降、理性をどのように育むかが教育の中心的なトピックであり続けた。
しかし、人間のイキイキとした生を実現するには理性ではなく、むしろ情動の働きのほうが重要であるし、そもそも理性的な営みの根底には、情動の爆発的な経験があるはずである。

私が神学的方法を第二次的な産物であると言うのは、宗教的感情というのがかつて一度も存在したことのないような世界には、そもそも哲学的な神学など形成されたものかどうか疑わしい、という意味である。

W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』

ジェイムズが述べる宗教的感情とは、超越を感じ感動した人間の心の動きであり、マズローの至高体験と重なる。
学校教育は、理性を中心に考えすぎるあまり、その根底にある情動の働きを軽視している。
情動の働きを抑圧してしまっては、学校教育の目指している理性的な能力も制限される。
必要なのは情動と理性のバランスであり、調和。

マズローは、至高体験の伝達は「感染」によってなされると述べている。

私のいう「熱狂的伝達」(rhapsodic communication)とは、同型に属する相手の中に、一種の情動感染を起こすことである。

A.H.マズロー『創造的人間』p112

至高体験の伝達は、分析的で抽象的で厳密で合理的な言葉によってなされず、むしろ詩的で比喩的な言語、身振りや語調、言い方などの言語で表現することできない部分によってなされる。
熱狂的、情動的に生き生きとその経験が表現されることで、情動は感染し、分有される。
その結果、至高体験の共有は必然的に宗教的形式をとるようになる。
人間が宗教を生み出すのではなく、人間の本質的な共有の形式が宗教的であると考えることができる。

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