至高体験と主体化
精神分析学では、欲求が有限化されることによって人間は主体となる。
人間の欲求は、動物のそれとは異なり、常によそ見をし、拡散し続ける。
拡散し続ける欲求の流れが有限化され、ある方向に流れ始めることで人間は意味を獲得する。
ウネウネとあちらこちらに広がる人間のエネルギーが、ある方向に向けて流れ始めると、人間は意味を獲得する。
自分の持てるエネルギーをスポーツに注ぐ人、芸術に注ぐ人、学問に注ぐ人、仲間と過ごす時間に注ぐ人、そして何に注いだらいいか分からなくて途方に暮れている人、様々な人がいる。
重要なのは、このエネルギーの流れの獲得は至高体験によってなされるということだ。
情動の爆発、感情的な発露は、自身の持っている全エネルギーをある方向に向けて放出することであり、その瞬間に人間は意味を獲得する。
圧倒的な感動、身体の底から震えるような体験が、それまで形の定まっていなかった生に形を与え、それが意味となる。
同時に、それまで関心のあった他のことへの注力が中止され、放たれた矢のようにそれだけにエネルギーが注ぎ込まれるようになる。
情動の爆発と欲求の有限化は同時に起きる。
したがって、至高体験とは人間の主体化の瞬間である。
さて、至高体験は意図的に起こすことができるのか。
マズローは至高体験を意図的なものではなく、受動的なものだと考えた。
至高体験は思いがけもしない角度から突然やってきて、それを喰らう。
そういうあり方でしかあり得ず、それを可能にする身体をつくっておくしかないというのがマズローの考えである。
なお、このマズローの考えには倫理的な背景が多分にあると考えられる。
至高体験を意図的に引き起こすものに麻薬があり、その危険性についてもマズローは触れている。
また、実際にオウム真理教のように修行の終わりに麻薬入りの水を飲ませることで擬似的に至高体験を引き起こし、信仰を深めさせるという手法も存在した。
意図的に至高体験を引き起こすことの倫理的な問題は、常に考えられなければならない。
しかし同時に、そもそも修行(トレーニング)とよばれるものは、至高体験を感じるための、ある種の定式化された身体経験であるとも考えられる。
宗教的なものはもちろんのこと、学問においても、芸術においても、スポーツにおいても、修練を必要とするものはその先にある成功の魅了を何倍にもする機能を持ち、苦しみの果ての達成感の存在は、広く知られているものである。
また、旅の経験も、多く至高体験として語られるものである。
ここでいう旅とは、予定の決まりきった旅行ではなく、明確な予定もなく行くものである。
予定がないと予測のつかないこと起こりやすくなり、至高体験が起きやすくなる。
旅を楽しむとは、予測のつかないことを心待ちにして、待ち構える姿勢のことである。
哲学者のドゥルーズは映画をみに行くことを「待ち伏せする」と言った。
感動的な瞬間に出会うためには、街に出なければいけない。
しかし、感動を血眼になって探そうとすると、感動はできない。
いつでも様々な体験を受け入れる態勢でありながら、しかし実際にきた感動を逃さず捉えるためには、なんとなしに待つ姿勢「弱く待つ」ことが必要なのである。
人生の意味を求めるには、人生の意味を求めてはいけないという逆説が、ここに生じる。
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