マズロー 至高体験

高校2年の冬、学校近くの本屋で池田晶子氏の本を読んで人生が変わった。
僕が考えていた、それでいて言葉にできなかったさまざまな事柄が、その本には書かれていて、読んだ瞬間、カミナリに撃たれたような衝撃があり、全身の毛穴という毛穴から脳汁があふれ出す感覚があった。
その時、自分の考えていることの答えは、どうやら「哲学」という分野にあるらしいことを知った。

それからというもの、僕は寝ても覚めても池田晶子氏が提示した問題を考えていた。
彼女の考えていることを理解したくて、四六時中思索に耽っていた。
ご飯を食べていても授業を聞いていてもお風呂に入っていても、ずっと哲学的な問題を考えていた。
理系だったけれど、大学で哲学を勉強したくて文系に移ったりもした。
教師になった今も、関心の中心は哲学的なことにある。
あれは僕の人生を明確に変えた瞬間だった。

こうした体験のことを、心理学者のマズローは至高体験(peak experience)と呼んだ。
至高体験は、自己実現に向かう人間の啓示的な一瞬の体験である。
欲求階層説の最終段階、さまざまな欲求がある程度満たされた後、人生において最高の充足感や幸福を感じる瞬間が至高体験だ。
マズローはこの至高体験の着想を宗教から得ている。
宗教者が急に神の存在を確信するエピソードがそれだが、マズローはそれを宗教に限らず、芸術や音楽、スポーツや様々な体験の中で人間が感じる非常に神秘的、超越的な感覚に着目した。
そして、この至高体験こそが、人間の自己実現にとって重要であると主張した。

まさに、僕の池田晶子氏の本との出会いは、僕にとっての至高体験であったと言える。
あの出来事以来、考え方も人生の方向もすっかり変わってしまった。
僕は哲学という宗教にハマってしまった。
マズローによれば、人は多かれ少なかれ、この至高体験を経験している。

とうとう最後には、私は、だれでも至高体験をするものだと期待し、一回もしたことがないと報告する人に出会うと、むしろいつも驚くぐらいになった。

A.H.マズロー『創造的人間』誠信書房 P28

現代は、「大きな物語」が無くなった時代だと言われている。
みんなが信じる宗教もないし、伝統的な価値観もない。
個人主義化が進んで、めんどくさい共同体的束縛から抜け出て、それぞれがそれぞれの人生を謳歌する時代になった。
しかし、自由は、それはそれで辛いものだ。
自分の人生に自分で意味を見出さなくてはいけないというのは、凄まじく大変なことだ。
自分なりの「物語」を探すこと、それは自分だけの宗教を見つけることであり、至高体験は自分の宗教を見つける瞬間だと言える。

しかし、もっと簡単にいうなら、「至高体験者」は、それぞれ彼自身の宗教を発見し、展開し、保持するのである。

A.H.マズロー『創造的人間』誠信書房 P36


僕は運良く宗教体験があって、哲学教に入信した。
どの物語にも適応できずに、何にも熱狂できずにフラフラと「本当にしたいことって何だろう」と考えながら生きる人生は、ツラいだろうなと思う。
宗教が残っている国や、伝統的な価値観が支配的な地域では、人間の生き方はア・プリオリに決まっている。
そこでは「私のやりたいことは何か」なんて問いは原理的に生まれ得ない。
自由になった僕たちは、人間が大きな物語に包摂されて生きていたあの時代の一体感に憧れて、熱狂(生命の強烈さ)を追い求めている。
失われた一体性へのノスタルジーがずっと僕たちを苛む。
だから、超越的なものの価値が、あらためて語られるようになる。

人間がイキイキと生きるためには、「物語」が必要だ。
そしてその「物語」は、熱狂できるものでなければならない。
そのために生きているんだと本人が思えるくらいに、耐久性があるものでなければならない。
そして、その熱狂の入り口が至高体験なのである。
僕が教師になったのは、そんな至高体験のサポートをしたかったからなのだとわかるようになった。


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