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我々世代の趣味と社会

趣味は何かという質問はある種人間関係を構築する上での重要なイントロダクションだ。人それぞれのバックグラウンドや思考の仕方に密接に結びつくそれは、その人の内面的な様相を僕たちに想像させる。

留学先の学校でも自己紹介時に「趣味はなにか」と答えさせられた。特に趣味のない人間にとってはこの質問が一番苦痛だろう。

最近本屋の雑誌コーナーを見たときは、「趣味のない大人たちへ」などというタイトルの本が陳列されていた。

今日は趣味の働きについて考えてみた。



趣味はなにか、はその人がなにを好むのかということだ。

我々はそれぞれ異なる「好み」をもっている。好みの多様性があるなら、他人との好みにはズレが生じることは当然だ。
「自分とは好みが違う」と感じたとき、「この人とは趣味が合わない」と感じることになる。

しかし、事態はもっと複雑である。

「趣味の良さ」というものがあるなら、「趣味の悪さ」についても語ることが可能であるからだ。自分にとって「この人は趣味が悪い」と感じることがある。
言い換えれば、好みの多様性を認めつつも、趣味のいい人と悪い人がいるということも同時に否定できない。良いという評価を下すにはその比較対象が必須であるからだ。

こうしたことは我々の日常生活に無数に存在するささいな事柄の一つであり、まったくどうでもいいことなのだろうか。

ピエール・ブルデューというフランスの社会学者は、人々の「趣味の良さ/悪さ」はきわめて独特な社会性を持つことを指摘し、それが社会学の正当な対象であることを指摘した。彼はそういった趣味やセンスを「テイスト」として取り上げた。

テイスト=好み のことである。

しかし、テイストは単なる個人の好み以上の意味を持つのだ。

テイストには「優劣」がつけられる。

自分だけの好き嫌いを語っていたはずが、いつのまにか自分のテイストを元に他人の優劣を決めてしまうようになる。
テイストのもう一つの側面とは序列化されうるものであるということだ。

好みが異なる人に対して、「あの人は自分とは違う」と感じその関係性に線を引いてしまう。さらに「優れたテイストを持つもの」を他の人と対比させることで判断し、自分と区別しようとする。

こうした各自のテイストに基づいて人々が自分や他人を分類するという現象は明らかに社会的対象であり、SNSという「自分のテイストを発信するプラットフォーム」の隆盛により若者を中心に激しさを増している。

文化資本としてのテイスト。
人々を分類する原理としてお金や学歴といった「経済資本」と同程度にテイストのよさという「文化資本」が重要となってきているのだ。

階級が高いものが持つ「テイスト」と階級が低いものが持つ「テイスト」には優劣がある。つまりは各自が持つテイストによって「階級」が判断される可能性がある。

極端な例になってしまうが、階級が低いものの趣味が「乗馬」であるわけがない。「乗馬」が趣味だと聞けば、僕たちはすぐに「上流階級の人間なのか」と判断するだろう。

そうなれば、テイストは階級の再生産、つまりテイストは親から子に受け継がれていくものではないかと考える。

このテイストが孕む先天性は階級の再生産による社会の不平等にもつながってくると思うと恐ろしくなる。

文化実践の論理のなかのテイスト。テイストの違いが人々の生活や文化活動においてどういった意味を持つのかということは文化社会学的な側面を持っている。

しかし、すべての文化タイプが序列化できるとは僕も思っていない。

例えば、この考え方は「ポピュラーカルチャー」を排除しているように感じる。ポピュラーカルチャーとは、文学やアニメ、音楽などの大衆文化のことである。

テイストの良し悪しを判断するという前提はポピュラーカルチャーの前では疑わしくなる。例えば、K-popが好きな人がJ-popが好きな人のことを優れているとか劣っていると序列化することはできない。ハイカルチャーにおけるテイストの性質とポピュラーカルチャーにおける性質は異なっている。人々が「テイストの良し悪し」をもとに競争することはあるが、それはあらゆる文化活動にとって自明のことではない。

テイストはどこで、どのように重要な資源となるのか、ならないのかを探究することは非常におもしろいことだ。

どの差異が人々の分割にとって意味のある差異なのかを特定することで、僕たち若者が他者となにを武器に競争しているのかを客観的に分析することが可能になる。

他人と自分の差異化を図ることはもう僕たちにとって当たり前の作業になった。資本主義社会で同世代のライバルと戦うための武器をみんなは持っているだろうか。

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