言語と思考の関係
人間の体内時計というものは日の光を浴びることで調整できると父親に言われてからそれを実感するのに15年の月日がかかるとは。
今まで時差ボケという経験はなかった。2年前ロサンゼルスに行った時は空港を出てすぐにお日様の光を浴びながら公園で懸命に歯磨きをしていた。これによって体が今は昼だということを認識し、夜まで寝ることもなく体内時計を調整していた。
しかし、今は隔離期間中で外に出ることはない。1日のルーティンたるものはそこに存在しておらず、腹が減っているのかどうかもわからない。
こうなると人間はここまで精神が不安定になるのかと痛感する。今朝は実家の愛犬が殺される夢を見た。人に話しても笑えない夢を鮮明に記憶したのは人生で初めてだった。
しかし、暗いことを考えていてもなにもおもしろくないので、隔離生活から開放された自分を想像しながら今日の出来事を綴ろうと思う。
今日は隔離ホテルからホームステイ先に移動しオンラインにて語学学校の授業を受けた。2コマのみの受講で、文法とリスニングの授業。
正直文法はクソほど簡単だった。間接話法や受動態など中学生レベルの問題集を使った授業である。それもそのはずで、クラスメイトには15歳の少女がいた。親からの勧めでも自分の意思でも15歳で留学にくるとはなんとも自分には想像のできない人生だ。余談だが、15歳の僕はたばこを吸って、悪さをするのがかっこいいというバンカラの下位互換のような子供だった。「昔はそんなこともあったな」という拙いフレーズが横切ってしまう。
とりわけ、文法の授業は期待を裏切るレベルであった。だが、リスニングの授業はそうもいかない。
まったく聞き取れない。文法の授業とレベルの差がありすぎる。というのは言い訳で壊滅的に聞き取る能力が欠如している。
もちろん聴き慣れない言語だからというのもそうだが、根本的な問題は語彙力にある。1センテンスにつき、3単語理解できなければもう理解することは不可能だ。人間は語彙を知らなければ、そのことについて思考することはできない。
つまり、その人が使う語彙数によって思考できる幅は限定されてしまうということだ。
例えば、このあいだ友達が問題を起こしてひどく混乱しててさ、なんて声かければよかったろう?という文章を見て内容が掴めない人間はいないだろう。
だが、最近盟友が障碍を起こして非常に狼狽していた と言われるとスンナリと入ってこなくなる。その語彙を知らなければそれに対する思考はできない。
もっとわかりやすいのは概念という面だ。ヨーロッパという言葉は人間が人工的に作り出した概念、すなわち抽象的で思考の中でのみ存在する枠組みである。ヨーロッパってさ、という話をする上でヨーロッパとはどこを指すのか知らなければ会話は成り立たない。
ミクロネシアの外交関係についてあなたはどう思いますか?
と聞かれてあなたは答えられるだろうか。
言葉はわかるが理解できない→思考できない
あたりまえのことであるが、これを英語学習に当てはめるとまずは語彙力に立ち返らなければいけない。
英語における話の幅が広がらなければ、大金叩いてやってきた意味がまったくない。
そう考え今日もボロボロの参考書を片手に眠ろうと思う。