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Rangasthalam(ランガスタラム)感想メモ③ クライマックスについての誇大妄想解釈編

お世話になっております。BONOです。
先日上げさせて頂いたランガスタラム感想noteの続きにして、とりあえずこれで最後になります!
思いのほか読んで頂いているというか反応なども頂いてしまい、めちゃくちゃ恐縮しております。翻訳調べながら思いつくことから楽しく書いてただけだったので…BIG KANSYAです!

さて、クマール殺害の手がかり(スリマンナーラーヤナ)を掴んだチッティが、交通事故に遭い昏睡状態になったダクシナの介護を始めて2年。ついにダクシナが意識を取り戻し、チッティはその2ヶ月後、回復したダクシナのもとへラクシュミを伴って会いに訪れる。この作品のクライマックスです。
このなんとも言えないショッキングなクライマックスに私も御多分に洩れずだいぶ食らったわけなんですけど、それからそこのやりとりの翻訳調べたり色々考えたりしているうちに、なんとなく自分の中での落とし所みたいなもの見つかったような気がするのでそれを書くnote、なんですが、もうすげー誇大解釈っていうか、オタクが自分の都合の良いようにこじつけて勝手に納得しているような内容なので本当に気をつけてくださいね! 何度もお伝えしておりますがテルグ語は分からないし英語も分からないしインド初心者レベルの知識しかないこともご了承ください! でもランガスタラムは大好き!

早速ですが台詞から私なりに紐解いていく

クライマックス、MLAの議員・ダクシナと対峙したチッティ、村の支配者であったブパティを見つけ出し殺したことを打ち明けたあとの台詞から、全部ではなく一部を抜粋しつつ整理してみます。ざっくり意訳してるところもありますのでご注意を! あっあと字幕は海外アマプラ版です。スクリプトや今の自主上映字幕とは一部違ったりするらしいんですが、そこまで網羅して検証する気力はなかったです、すみません!

Yes! He was wrong.
Erra Sreenu, Abbulu, Venkat Rao and Ranganma's husband.
The guy who killed so many people, Killing him was the right thing to do.
彼(村長のブパティ)は間違っていた。
(殺された男たちの名前を上げ)
沢山の村の人々を殺した男、それを殺すのは正しいことだ

このあとの一連、翻訳かけてるとよく「正当化(justified)」という言葉が出てくるんですが、これも正しいとか当然っていう感じですかね。「(村人を)殺したから、ブパティは殺されるべきだ」というのがまずチッティの主張です。それに対してダクシナも「正当だ」と答えます。そのあとにチッティは続けます。

But you killing my brother is not justified, sir.
しかしあなたが私の兄を殺したのは正当ではない

このチッティの言葉にダクシナは「私が彼を殺しただと?」と言い返します。
チッティはクマールが死に際に残した言葉「スリマンナーラーヤナ」に気付き、それがダクシナの秘書の名前であったことを思い出したこと、そしてスリマンナーラーヤナの居場所を突き止め、クマール殺害の理由を白状させたことを語ります。

My brother was in love with your younger daughter, right?
Will you kill for being in love?
私の兄はあなたの末の娘と愛し合ってたんだな?
愛していたら殺すのか?

チッティの「正当」は「殺したから殺される」です。「愛したから殺される」ではありません。クマールはなぜ議員であるダクシナの末娘と愛し合っていただけで殺されなければならなかったのか。チッティに問われたダクシナはついに開き直って激高します。

Will anyone stay quiet instead of killing?
You bloody rascals.
Your brother doesn't enen have the right to enter my house, and he has dreamt of stepping into my daughter's bedroom, is it?
You and your life are worth nothing!
誰が殺さずに黙っていられるか
この悪党どもが
お前の兄は私の家に入る権利もないくせに、娘の寝室に踏み込むのを夢見ていたんだろうな
お前にもお前の人生にも価値はない!

最後の「お前もお前の人生も」の部分はチッティとクマールを含めた「お前たち」ということなのかもしれません。ダクシナの主張は「娘と愛し合う権利のない人間だから殺した」です。この一連には「カースト」などの直接的な言葉は使われていないみたいですが、クマールを末娘の「身分違いの誤った相手」「家族の名誉を汚す相手」とした【名誉殺人】がクマールの死の真相でした。

激高したダクシナにチッティは「This is your true self.(これがあんたの本性だ)」と睨みますが、ダクシナは「Yes! Can you hear, you deaf idiot?(そうだ! 聴こえたか、このバカが)」とさらに開き直って悪態をつく。ここのダクシナが恐ろしいのは自分のこのカースト差別意識になんの後ろめたさも感じてないところですよね。「当然だろ、誰が我慢できるか」ぐらいの勢いという。

続いて今度は逆にダクシナから、何故それを知りながら事故に遭った自分を助けたのかをチッティに問います。チッティが事故にあったダクシナを助け、意識の戻らない彼を甲斐甲斐しく世話し、身を整え、時に髭を剃る手が震えながらもダクシナを殺さなかった理由。それは

You should know why you are dying, You should know my pain.
何故死ぬのかを知るべきで、私の痛みを知るべきだ

「何故死ぬのか」、これは最初にチッティが正当だと主張した「殺したから殺される」です。クマールを殺したから、ダクシナは殺されなければならない。事故死では意味がないのだと思います。
そしてチッティの「痛み」とは「大切な人の命を奪われたこと」で、これはつまり「希望を奪われること」。クマールの葬儀の時の村の様子がまさにそうでした。
「希望を奪われる痛み」を知らしめる手段として、チッティが例として挙げたのが「死刑になる受刑者でも微熱があれば吊るされない。健康で生きる希望があるときに吊るされる」というクマールに教えてもらった受刑のルールです。病床に伏しているときに殺しても意味がありません。
チッティは「殺したから殺される」という等式、「希望を奪われる痛みを知るために健康な状態で死刑が執行されるべき」というクマールからの受け売りの受刑の規範を主張します。

そして最後です。

Do you remember him?
My brother.
For killing my brother, Chelluboina Kumar Babu of Rangasthalam village, his brother, Chelluboina Chitti Babu, is now going to kill you.
Do you understand now, sir?
Sir, now you understand well.

彼を覚えているか
私の兄だ
私の兄、ランガスタラム村のチェルボイナ・クマールバブを殺したがために、その弟、チェルボイナ・チッティバブにお前は今から殺される
分かったか
分かったみたいだな

ダクシナはチッティに首を掻っ切られて絶命します。
ここで鎌を振り切る直前にチッティの左目から一筋涙が溢れるんですよね…チャランさんはほんと天才かな…?

ここまでのチッティの主張をまとめると
①「人を殺したから殺される」は正当である(ブパティ殺害)
②しかし「人を愛したら殺される」は正当ではない(クマール殺害)
③ダクシナはクマールを「娘と愛し合う権利のない、不名誉な者だから殺した」と、そしてそれを当然かのように主張している。そのような不当な考えの人間には「痛み」を知ってもらう必要がある。
④「痛みを知ってもらう」方法、それは「希望を奪うこと」。なのであえて生かし、生きる希望を与えたあとに殺すべきである。
⑤健康で未来ある状態のダクシナは、クマールバブを殺したがために、弟のチッティバブに殺される。

というクライマックスだったのかなと思います。
だとしたらほんとマジでプロに日本語字幕つけてもらいてえ~~~直訳からじゃ読み取れるものも無理があるし、つまりいくらでも曲解は出来るので。でも概ねこうなんだと思います。チッティの主張としては。

さて、ここから(ここから!?)が私の本格的な誇大妄想で二次創作です。
というかここまでの話はスクリプト調べりゃ「知っとるわい」の話かもしれませんし。
ウッオタクの妄言キッツ…ってなったら引き返してくださいね!

Ranga Ranga Rangasthalaana

ランガスタラムの最初のダンスソング『Ranga Ranga Rangasthalaana』、チッティは可愛いし村の人もみんな楽しそうで、このエネルギー溢れる映像をスクリーンで観られた時は本当に胸がいっぱいになりました。無邪気な気持ちで見ても全くおかしくないしそう見たってしょうがないだろ!ってくらいアップテンポのお祭りみたいな曲ですが、もうランガスタラムを観た方なら英字幕読んだり調べたりしているであろう、繰り返される歌詞が強烈です。

We all are toys and puppets though we do not put any color or makeup
We all are toys and puppets
Who cannot stop once the game starts
We all are toys and puppets

私たちは色も化粧もつけてないけど おもちゃで操り人形です
私たちはみんなおもちゃで操り人形
ゲームが始まっても止まれない
私たちはみんなおもちゃで操り人形

このダンスソングはランガスタラムの一人の若者の死と、その凄まじい存在感で村を掌握している村長・ブパティ、そしてその取り巻きによって村人を締め上げるような政治が行われていることが分かる描写が続いたあとに登場します。
なのでこの歌詞の通り、ランガスタラム村という「舞台」の上でおもちゃや操り人形のように支配され踊らされているのは村人で、支配し操っているのが村長のブパティであることが観客に示唆されていると思います。確か演奏の始まりもブパティが手でヒョイって合図してましたね。
実際中盤まではその通りで、村人たちに借金をさせ金額を書き換えたりしてお金や土地を取り上げたり、ブパティの不正を暴き村長選に名乗りを上げた男たちはブパティの手下たちによって人知れず殺されたりと、あまりに真っ黒な政治が30年続いていた村がランガスタラムです。

が、クライマックスで明らかになるのは、ブパティが牛耳っていたランガスタラム村のある種の「舞台装置」を、もっと上の階層から利用していたMLAの議員のダクシナの存在でした。
クマールを村長選に立候補させ、自分が支持することで脅威としてアピールすれば、「ブパティに裏で消される(退場させられる)」という仕掛けが動くことをダクシナは知っていたということですよね。ダクシナはランガスタラム村でそんな真っ黒な政治が行われていることを知りながら放置していた。そして自身の超個人的で邪悪な名誉殺人に利用した。多くの村人たちの脅威であったブパティですら、ダクシナにとっては傀儡の一つだったわけです。
ブパティが言葉数が少なくパーソナルな部分をそこまで見せないキャラクターだったのは、信心深く神様的な雰囲気をアピールしていたところもあったでしょうし、30年も村長をしていれば部下が勝手に動くし村人も麻痺して従うのでいちいち喋る必要性がなくなるという設定ゆえだとは思うのですが、ダクシナのようなもっと上の階層からあえて野放しにされているだけの「悪役」という人形である…みたいな見方をしても面白いのかなと思いました。彼が殺されるシーンが回想処理になったのも、この舞台(物語)の最上位と思われたブパティさえ、不要になればただ舞台を下ろされるだけの「役」の一人に過ぎなかったという、一つ階層をランクダウンさせられた印象にも感じます。

突然ですがここで私の好きな小説『名称未設定ファイル』という短編集から気に入っている一節を引用。

全てを一色に塗り替えてしまうのだけが支配じゃない。きっと、いろんな人形を配置して好みのジオラマを作るような支配もある。世間の流れに反発してるような人も、バランスを取るために誰かがそこに置いてるのよ。いつでも取り除けるように準備しながら。

品田遊 著『名称未設定ファイル』より
『この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は』

で、私は先ほどまとめたクライマックスのやりとりの中で、チッティがクマールの写真をダクシナに見せながら兄弟の【出身とフルネーム】を丁寧に言い聞かせるのがすごい印象的だったんですよね。何かの意趣返しだったりするのか? とちょっと思っちゃうほどに。そこで私がこじつけたのが『Ranga Ranga Rangasthalaana』で繰り返される「私たちはみんな”おもちゃ”で”操り人形”」のところです。彼らは「ランガスタラム村」という舞台で踊らされ続けている「おもちゃ」であり「操り人形」なわけですが、この呪縛を断ち切ろうとする思いがチッティのあの台詞だったのではないかと。

お前が殺したランガスタラムのクマールバブは「おもちゃ」なんかではない、命と未来がある生きた人間だった
弟のチッティバブはお前の「操り人形」にはなりえない、お前をあえて生かし、そして殺すことができる

なーんていう、ショッキングなファーストソングを生かした意趣返しだったら、すごく好みだな~って思ったりしたのでした。ハイハイ、オタクの妄言。

チッティはどうして一人で復讐を遂げたのか

チッティが意識のないダクシナを介護していた2年間、チッティの復讐計画を知っていた人は恐らく村の中でも誰もいない様子。
村の人たちはチッティの献身が不可解で心配だから帰ってきて欲しいし、ラクシュミなんか結婚してすぐクマールが死んで、チッティがブパティを探している間も寄り添って、それが終わったと思ったら今度はダクシナの看病で長らく家を空けられて…って結構きつい時期が続いたと思う。うう~ん、チッティもラクシュミがいたから家族を任せておけたみたいなところはあったのだろうけど。なんかちょっと『この世界の片隅に』のすずさんみたいだな。
ダクシナを殺して建物から出てきたチッティを迎えたラクシュミも、チッティがただごとではない思惑を抱えていることは悟りつつも、信じて寄り添おうとしている様子の反面、最後の瞬間まで不安げな表情をしたままで、「こ、これはもうちょっとどうにか出来なかったんか…そりゃ黙って一人でこんなことしてたら皆心配するよ…」って思ってたんですが。

いや、これ言えないかもな…って思い始めてます。

私はダクシナのクマール殺害理由を「名誉殺人」とか「差別」とかすごい大枠というか、ある意味遠回しな表現に逃げたわけなんですけど、結局クマールが殺されたのって言い換えれば「農村出身」「ランガスタラム村出身」だったからですよね。
生まれが違えば議員の娘と恋をしても殺されることはなかった。現にクマールの死後のパドマにはちゃんと挿げ替えられるように夫がいました。クマールは(あえてダクシナ的な物言いをすれば)「農民出身の分際で議員の娘と愛し合ってた」から殺されたんです。本人の意思とかではどうにもならない「出生の属性」を理由に殺されてるんです。

これを村の両親に言えるか、愛するラクシュミに言えるか、勉強を頑張っている妹に言えるか、今まさにランガスタラム村を守ってるランガンマおばさんに言えるか、この村で農業という営みを受け継ぎ土地を守ってきた村の皆に言えるか。「農村出身」というだけで、村内部で起こるいざこざではなく、人を愛しただけで、もっと外部の上位の存在から勝手に無価値と決めつけられて有無を言わさず命を摘まれてしまう、そんな理不尽なことがクマールの人生を終わらせたことをチッティは村の皆に言えるだろうか。

そんな屈辱ってないよな。クマールに対しても、ランガスタラムの皆に対しても。それでさえ到底許されないけど、だったら村のために村長と戦って殺されてしまったという方がまだマシのように思う。
だからチッティはダクシナ殺害も含めて、ずっとこのことを一人で腹にしまってランガスタラムを守っていくつもりなんだと思った。またインドは名前だけでカーストや宗教が分かったりするらしいです。チッティが「スリマンナーラーヤナという名前の者はランガスタラム村にはいない」って言ってたのはその辺りが絡んでるのかなと思いますし、そう思うと尚、ダクシナを殺す直前にクマールとチッティのフルネームを丁寧に言い聞かせたところの重みが増すような気がします。ラクシュミの肩を抱いて立ち去るときのチッティの瞳、冷たい炎をたたえたようなギラギラした光を放っていて、力強いんですよね。
あのあとランガスタラムはどうなっちゃうんだろうって思うけど、クマールが良くしようと戦った村、夫を殺されたランガンマおばさんが守ると決意した村、そして「ランガスタラムの人間はおもちゃでも操り人形でもない」と落とし前をつけた(これは私の妄想)チッティが帰る村は、良い村になって欲しいなあって思う。ていうかたぶんそこそこ良い村だったんだよ、ブパティのせいで必要以上に困窮していただけで。ランガスタラム(舞台)と名付けられたこの映画が終わることで、ランガスタラム村の「みんなおもちゃで操り人形」という呪縛は終わったと思いたいです。
まあ相変わらず最後に車から夫とともに降りてくるパドマをじっくり見せられて「俺たちゃそれをどう消化したら良いんだよ…」って気持ちにはなるんだけど、それでも「農村ごときが」という呪いに全力で抗おうとしているチッティの復讐を「どこか虚しい」とはそこまで思わなくなった。と、ちょっと初見のときと印象が変わったという話です。

チッティという主人公

私も含めこのランガスタラムという映画が異様に(ときには良くも悪くも)観た人の心にこびりつくのは、凄まじい脚本と素晴らしい景色とカメラワークだけでなく、やっぱりチッティの役回りなんだろうなと思った。正直クマールの立場(村のため選挙に立候補する本人)が主人公の物語だったら、それはそれでカリスマを堪能できる面白いものになるとは思うけど、ここまで観た人の心にはこびりつかなかったかもしれない。そうではなく兄として慕い、サポートする役回りである弟が主人公だったのは、一般人である観客は没入しやすかったのかもしれない。
さらに耳が不自由で、でもそれを気に留めてないように振る舞うけれど、好きな子や偉そうな連中には嘗められそうだから知られたくないし、都合の良いことは聴こえないままで放っておいて、そうしていたら肝心なときに大事な人を救えなくて、もう言葉も聞けなくなって、取り返しのつかないことになってしまった。
こんなん障がいがなくてもわりとありうる話だよなって思う。それをチッティを通して観客に突き付けているんだからそりゃ食らうよなって思うし、それをきっちり伝えてくるチャランさんの演技力たるや恐ろしいものがある。ラーマ兄貴もすごく複雑で力強くて魅力的なキャラクターだったけど、チッティはもう「襲ってくる」って感じだ。最高~。

最後にすみません、自衛のためのごちゃごちゃを(ランガスタラムあまり関係ないのです)

前回、前々回書いたnoteに対して、共感して下さったり参考にして下さっているお声を頂き、とても恐縮するとともに嬉しく思います。でも勘違いしてたり間違ったりしているところはあると思うので、あまり信用しないで…エヘヘ…って思うとともに、今回のnoteに関してはより「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というスタンスでお読みくださいとお伝えしておきたい!!(大声) もちろん皆さまご承知おきのはずですが改めてお伝えしたい!!!
私はこういう感じで自分の中で落としどころを見つけた気になってますが、インドのカーストに対しての解像度はまだまだ全然自信ないし、英字幕だってどこまで正確か分からないし、あの映画の複雑な後味をがっぷり受け止めてぐるぐるしてる方はたくさんいるはずだし、チッティが本当に怖いって仰ってる方の感想も見かけて、そういう方も当然いていいっていうかいるべきだとすら思うんです。そのくらい凄まじい映画なので!

何をごちゃごちゃ言ってるかというと、ツイッターされている方なら『同人女の感情』っていう漫画をご存知ですかね。二次創作をしている女性たちの悲喜こもごもを描いた漫画でよくバズってるんですが、その中で綾城さんというカリスマ的な字書きさんが登場するんです。そしてそのジャンルの人気キャラクターがある日漫画本編で死んでしまったときにそれはそれは界隈が沈むわけなんですが、のちに綾城さんが書いた二次創作小説によって、界隈全体が「意味のある死だったんだね…救われた…」って感じになる一幕があったんですけど、私これめちゃくちゃ嫌だな~って思っちゃったんです。界隈で有名な人のどデカい鶴の一声で、本編そのものに対する界隈の解釈がそこに向かって「統合」されるってめちゃくちゃ怖くないですか!?!? 綾城さんの解釈に相容れない人はすごい複雑な気持ちになるだろうし、だからって解釈バトルをしてもあまり気持ちの良い決着は望めないじゃないですか、月並みですが「解釈は人それぞれ」なので。そもそもオメーのnoteなんぞに神字書きほどの影響力はないよってことくらいは分かってるのでそれは一旦置きますね、置かせてくださいね。それでもどう拡散されるかは分からないし(現に思いのほか反応頂いてしまってビビってるし)、だから私のnoteに勿体ないお言葉を頂くたび、【感謝】が99%なら、ほんの1%「オ、オ、オラの書くものを信用しないでくれえ!!!」って叫びたくなるときがありまして…ほんと自意識過剰で申し訳ない。
分かってます、そんなんいちいち言われんでも皆さまそこを踏まえてお読みになっているということは重々承知なんですが、「そういうことか!」ではなく「そういう見方をする人がいるのか!」程度に留めて頂けたら助かりますっていうか勿論そう読んでますよね!? っていう、七面倒くさい弁解でございました!

ランガスタラム、繰り返しますが本当に日本語字幕付きで公開して欲しいですね。私みたいに英字幕読めないバガバガの解像度でも、観終わったあとは毎回食らってしまうのですから、日本語字幕がついてもっと沢山の人に観られるようになったらどうなるんだろうってワクワクが止まらないです。みんなでチッティを食らって打ちのめされようぜ~!!!

最後に

ここのおヒゲのみなさんたちの顔、良すぎ。

ありがとうございました!!

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