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「宿命」を生きる僕ら若者の世界〜現代に蔓延する生きづらさの正体とは〜

「社会は変えることができる」

この言葉を聞いた時、あなたはどう感じるだろうか?

「確かにそれはそうだろう」と思う人。

「自分にはできない。どこか遠くの人が行う事だ。」と他人事に感じる人。

「何を青臭い事を真面目に言っているんだ。」と笑う人。

これらの反応以外にも多種多様な感覚を抱く人がいるのだと思う。

さて、では全体としてはどうなのだろう。

「社会は変えられない」と感じる若者の世界

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まずはこちらのグラフを見て欲しい。このグラフは「自分の人生をどの程度自由に動かせるか」という事象に対しての年代別の意識を時系列に沿って示したものである。データを見ると、近年になってどの年代層も「自由にならない」という認識を持つ傾向が高まっていることがわかる。加えて、若者がその傾向を持つ可能性が高いことが示されている。(グラフの引用:「宿命」を生きる若者たち)

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続いてこちらのグラフも見て欲しい。このグラフは「努力しても報われないと思う割合」を1998年と2013年の割合を年代別に示している。男性が特に顕著であるが、2013年の若者の層が特に1998年と比べて「報われない」と感じている層が増えていることがわかる。

刹那を生きる若者の世界

ここまで見ていくと希望を持つことができない状況であり、不満の高い生活を送っているのが現代の若者ではないかと推測される。しかし、その予想と反する状態になっていることを示しているデータがある。

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こちらのデータが示しているように、「諦め」が蔓延している状況に反して生活満足度は全世代で向上している。特に若者は時系列で比較しても最も伸び率が高くなっている状況だ。昨今言われるように、格差が固定化、若者の貧困、職業の不安定化が叫ばれる中で予想と反する状況に置かれている。

果たして、なぜこのような状況が起こるのであろうか。

高原を生きる若者の世界

その理由を探るためのデータがこちらだ。

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年代別にその時期の日本人が伝統を重んじるかそうではないかを示しているデータである。2003年までは着実に伝統から離脱する方向に移行していたが、それ以降は徐々に伝統を重んじる方向に回帰していることが見て取れる。(グラフの引用:「宿命」を生きる若者たち)

一般的に、人々は近代化が進むにつれて社会の不合理なしがらみ≒伝統的なものから離れ「自由」を獲得しに行くとされる。だとするならば、この状況は明らかに矛盾していると考えられるだろう。

この矛盾を解き明かすヒントを社会学者の土井隆義はこう述べている、

「ここから分かるのは、伝統離脱が相当な程度まで進み、それにともなって生きる意味の空白化も進んできたからこそ、その反動として伝統回帰が始まり、したがって共同体への憧憬も強まっているという事実です。かけがえのない自分は誕生したものの、高原化によってその根拠を問わなければならなくなり、それにともなって存在論的不安が高じてきたために、それを解消してくれる「再埋め込み」の対象として、(中略)地元のつながりが強く希求されるようになってきたのです。」

高度経済成長が終わり、全員が共有できる目標、高山の頂上を目指す「登山」を終え、高所の広い平地に立たされどこに向かうべきか、正解がわからない社会。それを「高原社会」と土井は命名している。

答えのないまま生きる若者の世界

そうした答えなき世界においては以下のような考えを抱くようになるとされる。

➀未来は現在と地続きの存在として捉えられる。テクノロジーの発達にともなって利便性や快適さは増しては行くが、私の人生がどこか知らない遠くへと導かれていく期待を持つことはできなくなっていく。

➁現在を肯定し、今を生きるようになる。未来が理想を描けるのならば「未来で理想的な人生をつかみ取るために、現状の人生の問題点を改善する=否定する」ことができる。だが未来が変わらないのであれば、現状を否定することは私の人生すべてを否定してしまうことになる。

➂今私が生きる意味を充足することに駆られていく。未来が理想として描くことができるのならば「私は将来〇〇を達成するために今を生きている」ということができた。だが、未来を描けない以上「今、目の前で私がなぜ生きるのか」に答える必要が出てきたのである。

④私の人生は“切り開く”ものではなく、私の生来的に備わっている能力、地位に基づいて“定まっている”と考えるようになる。未来が“切り開けない”以上、何か確固たる理由に依拠しなければ私という存在が生きる理由が消えてしまうことになる。それゆえ、生来的で固定的な私を描く必然性が出てくる。

➄私は今の生活に“満足”することになる。不満は期待と現実のギャップによって生まれる。今の私とギャップのある期待ではなく、今の私の範囲内の期待しか描かない以上、不満はわかない=満足することになることは理解出来るだろう。

「宿命」に彩られた若者の世界

とはいえ、どれだけ今を生きたとしても、その今が不条理に満ちている状況であれば不満を抱くのではないのだろうか。それすらない状況はなぜ生まれるのだろうか。

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上のグラフを見て欲しい。上のグラフは人生の成功は本人の努力で決まると考えている人の割合を示している。驚くべきことに、未来に“期待していない”であろう若者の方が努力という“切り開く”行為を内面化しているという矛盾が生まれている。なぜだろうか。(グラフの引用:「宿命」を生きる若者たち)

その理由を先ほども引用した土井はこのように述べている。

「ヤングは、自分自身が生きている現実とは乖離した支配文化を内面化された状態を過剰包摂と呼んでいます(2008)。この概念によって彼が明らかにしたのは、現代社会に支配的な文化がその文化を享受している人々の内面にだけでなく、マスメディアのような影響力の強い媒介を介して、その文化を享受しうる環境から排除された人々の内面にも、等しく植えつけられているという実態でした。主要な文化を享受しうる環境から排除されているという阻害が生まれる前提には、そもそもその文化しか選べない環境に置かれているという阻害が存在しています。しかも、その文化から阻害された人々のほうが、その文化をさらに強く内面化させられている場合が多いのです。それを代替してくれる別の手段を持ち合わせていないからです。

努力しなければ未来は開けないと思いながらも、努力することは生来的な能力であるがゆえにできないと感じる状況。それゆえ、どれだけ理不尽な状況に置かれていたとしてもその状況に不満を抱くのではなく、「能力のない私が悪い、この状況を生きることが私の宿命なのだから」となるのである。

このように、我々の世界は「宿命」で彩られている。この「宿命」が「宿命」であり続ける理由は何であろうか。「宿命」であり続ける私たちはどのような状況下で生き、そこで生きる私は何を感じるのであろうか。次の投稿ではその個人的状況を考察してみたいと思う。

今回の記事は主に土井隆義著作 『「宿命」を生きる若者たち』 より作成いたしました。詳細興味がある方は是非お買い求めくださいませ!!


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