見出し画像

映画の解放、或いはデジタルシネマと動画配信の擁護

(この記事は9358字あります)

 西 周成(映画研究者、芸術学Ph.D)  

 第二次大戦中には、当時の主要な映画製作国の全てがプロパガンダ映画を製作した。だが、映画が戦争を含む政治プロパガンダに利用される時代は今や遠い昔である。現在、政治プロパガンダに利用される可能性があるのはむしろテレビであって、映画はテレビに比べれば中立性を保つことがはるかに容易である。
 
映画は既に、大資本の束縛から離れて自主制作できるだけでなく、自主制作した作品を海外での評価を念頭に置きながら公開できるほどの技術的・産業的な柔軟性をもつに至っている(もちろん、そうした技術的・産業的諸条件を積極的に利用するかどうかは制作者の判断による)。このことが現在の映画を、作り手にとっても受け手にとっても、テレビよりも自由な言論・表現の手段にしている。
 この変化をもたらした技術的要因は2つある。一つは民生用デジタルビデオカメラの普及によって後押しされた映画制作のフィルムからデジタルへの移行(”デジタルシネマ”化)、もう一つは映画を受け手に届ける手段としてのインターネットの発達である。これら2つの要因はいずれも、四半世紀前に現れた一般市民向けの製品やサービス(ホームビデオ、一般家庭向けインターネット接続サービス)から始まっている。つまり変革の発端は、映画産業や映像業界という「プロ」の世界の技術革新ではなかったのである。

 映画制作者の観点に立って見れば、1990年代半ば以降のデジタルビデオ技術の進歩は、1930年代や40年代はもちろん、80年代の監督達でさえ想像できなかったほど、映画制作における主体性を保障している。例えば、政治的偏向性なしに事実を伝えようとするドキュメンタリー作家にとっては、テレビ局の資本だけで作品を制作することはありえない選択だろう。デジタルビデオは、映画作家やプロデューサーが適切な戦略に応じてそれらを利用する限り、映画制作における表現の自由を強化するのに役立つ。
 
次に、映画観客の観点から見れば、インターネットを利用した動画配信サービスの出現と普及は、かつてないほど映画鑑賞における主体性を保障している。大手動画配信サービスの映画レパートリーは、今やどんな有料映画専門(テレビ)チャンネルよりも豊かになりつつある。利用者は任意の時間帯に自分が見たいジャンルの作品を選んで観ることができ、以前のように特定の映画作品が上映或いは放映される日時に合わせて行動する必要がない。

 つまり、映画作家にとっても映画観客にとっても、民生用映像・通信技術の進歩のお陰で、“映画”の領域は過去四半世紀のあいだ絶えず拡大してきたと言えるのだ。

制作者にとっての映画の領域拡大(1995~2000年)

 1990年代後半から2000年代初頭の映像業界にはまだ、映画はフィルムで撮影されるものであって映画館で鑑賞してこそ意味があるという意見が主流だった。だが、それから20年余りが経過した現在、そうした主張は説得力を失っている。鑑賞形態に関してはいまだに一部で映画館への固執は見られるものの、フィルムでの撮影に関しては映画作家の贅沢な選択と見なされる時代になった。世界的に有名な映画作家の中にさえ、2000年代のうちにフィルムに見切りをつけた人々がいる
 フィルムには独特の質感があり、デジタルビデオではそれを再現できないという意見もある。確かにそれは事実だが、映画作家や一般の映画観客からすれば、フィルムの画質にこだわることは数ある選択肢の一つにすぎず、映画表現やその鑑賞体験の多様性を犠牲にしてまで追求すべき価値ではないだろう。
 
いずれにせよ、次の事実は動かせない。映画観客や映像産業をその構成要素とする映画文化が、ある映像作品を“映画”あるいはそれに準ずる作品と見なした瞬間から、それは映画として通用し始めるのである。批評家があれこれの作品に対して「これは映画ではない」と言ってみたところで、全く意味はない。特に国際的な評価を得た作品に関しては、そのような意見は趣味人の「感想文」に過ぎない。

 具体的な例を挙げた方が分かりやすいだろう。まず、デジタルビデオの全面的な利用によって制作された“映画”の登場についてである。

ここから先は

7,626字

¥ 150

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?