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サイケデリア

【1】
一人、片隅の部屋

他人より大きく、そして繊細な自我が育っているために、この社会で円滑な活動はできないのだと言外に知りました。


僕は人が言葉を発する裏で、何を考えているのか、そのことばかりに配慮してしまって、結局意図を汲み取れないことが多々ありました。
僕自身思ってもないことや、想定もしていないことが口から発せられることがあり、そのようなことは皆んなに同様に起こっているのだと考えていました。
誰も僕の本当のところを知らないし、僕自身も彼らの本当を知らない。これが平静を保っているうちは幸せというべきなのかもしれない。争いを好まないこの性がどっちとつかぬ曖昧な口ぶりを演じさせるのでしょう。だけど、そういった態度が他人を安心させ、僕の存在を隠してくれ、そのことでまた僕自身も心に安定を感じるのでした。
小学生の頃、ドッヂボールや鬼ごっこのような団体の遊びが得意ではありませんでした。体を動かすのは好きでしたし、人並みに勝ち負けには関心がありました。人を負かすのは一種の安心を得られますから。ただそれよりも1人でいること、端にいることが心地よかった。真っ当な児童は休み時間には外に出て体を動かすものです。そうでなくても、友達とおしゃべりが通常。席にはいないというのが正しい児童の姿です。マジョリティでいることの大切さは学生生活の中で培われていくもので、当時の自分はこのことを感得する時期を逸して、手遅れの瞬間に至って理解したのです。状況というのは変化するとき、またこの点が不思議なのですが、悪くなってはじめて認識できるのです。

彼女と出会ったのは高校のじぶんで、新しい環境に慣れて行事などもひとしきり過ぎた頃、初夏、朝の涼しさが微々と残る頃でした。
なんの部活動にも所属していない私でしたが、授業が終わったあと、夕方までは図書室で雑多ごとをして時間を潰すのが習慣でした。図書室は教室がある棟とはまた別の棟で、校門とは反対にありました。表札の木材は年季が入っていて、かろうじて「図書館」の文字が読み取れるくらいには古めかしい部屋でした。それに「図書館」とはよくいったもので、太宰の文庫が少しとなぜか梶井基次郎の文庫がダブってある以外はほとんど、名の知れぬ作家の本ばかりで「図書館」の主人がどうやら若いこと以外は何も感じ取れない不気味な部屋でした。
真新しい文庫と焼けて木片のようになった文庫のコントラストが不気味に私を誘ったのです。初めの頃こそ居心地の悪さで長居できなかったのですが、心に焼きついたコントラストが私を呼び、私もまんざらでない態度で足を運んだのです。
いつのまにか主人よりも部屋の支配者になっていました。鍵などかかっていませんでしたし、本を管理するような仕掛けもなかったからです。
手始めに本の配置に手をかけました。支配者たる私は、読んだ本と読んでいない本を贅沢にも別の棚に分けて陳列し、読んだ本の棚にある文庫がどんどんと増えていくよりは、むしろ読んでいない本の棚から本が減っていくことに若干の心地よさを覚え、その作業に何よりも時間を割くようになりました。

しかしながら、私の独裁も長くは続かないのでした。ある日、もはや習性になりつつあった図書室通いの日々、ドアにいつもと違う空気を感じました(こういう機微を感じ取るくらいには私は敏感でした。)。先客がいたのです。それが彼女でした。
ああ、困った。国だと思い込んでいたが、ここは単なる洞穴だったのだ。なんという勘違い、自己陶酔。
身体中の血が鼻に集中していくのを感じながら、私は家路につきました。
予想外のことが起きた時、私は逃避する癖があるようでした。この種の逃避は私を守ってはくれないことを暗に理解していながら、この性癖に支配されて今までのうのうと生きてきたのです。それから数週間は十数分の通学路を何時間もかけて帰ったり、真反対の道を歩いて迷子になってお巡りさんに補導されるなど数回あり、結局は居場所が「図書館」にしかないのだと悟りました。
考えてみれば、私はこの時初めて逃避した事象と向き合う経験をしたのです。鼻先に痛みを感じながら、思い切ってドアをあける。彼女は当たり前のようにそこにおり、窓際の席に腰掛け文庫を開いていました。ドアと正対していたので、避けられるわけもありませんでした。
「こんにちは、」
私の口からはそんな音が出ていたように思います。
「はあ、、こんにちは」
「いえ、あの、いつもは誰も居ないので、、、」
「あぁ、そうですか。」
会話にもならぬ、むず痒さに目を合わせていられず、しばらく室内をうろうろし、私はもうほとほと疲れてしまって目を本棚の方に向けました。
微々たる異和感。少し前まで図書館の主人として悠然たる自信を持ち合わせた私には、その若干の変化を感じ取れたのです。
既読の棚に見知らぬ文庫が数冊。一度目を通した本並ぶ棚であるゆえ、見知らぬ文庫は異質そのもので、今すぐ取除きたい心地が起こりました。しかし、私は、私は思い切りのない人間で、僕だけのものだと信じたその棚を取り戻すようなことはできないのでした。
ついには、初めから興味がなかったように演じるまで至り、漠然と立ち尽くした。
「何をしているんですか。」
女の声が僕の感傷に踏み込んでくる。
次の瞬間には感傷も失せて、憤りに変わったが、見知らぬ他人に食ってかかるような気質でもなく
「僕以外にこの図書館に来る奴がいるんだなと思って。」
奴、の発音に最大限の怒りを乗せることしかできませんでした。
「私、図書委員だもの。」
それを聞いて尚更、自分の思い上がりが際立ったように思い知らされました。

放課後、用事なく学校に残るのは私か彼女くらいのものでした。
彼女はドアと正対した窓寄りの席にいつも座り、何かしらの文庫を読んでいる様でした。読んでいるというよりもその格好をしている風に見えたのです。目は本を向いているが、焦点がページに向いているようにはどうしても思えませんでした。文庫をめくり、数刻、まためくりめくり、意識がそこにはなく、ただある一つの現象が起こっている、そんなように見え、私は矮小な疑問の感覚をもって彼女を観察するようになりました。
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