健康道場③
入社して半年ばかりの神無月
心は痛みに慣れる頃です。
昨日、メンターと夕飯をともにしました。南海なんば駅から道頓堀の方へ少しいったところ、雑居ビルの中にある中華屋に向かいました。
僕自身、何となく気を遣うので、気心の知れない人と2人でご飯に行くのは好かないのです。僕は昼休みもさっさと食べ、近くの公園で一人になりたい。それくらい食事には緊張を感じるのです。
だから、今回の食事会も理由がなければ避けたいイベントでした。ただサラリーマンである以上、社長の命令には逆らえない。仕事として割り切ることで心を殺して臨もうと思いました。五時半、定時を超えて更に一仕事か、と気が重くなるのを感じていたのが正直なところでした。
メンターはお酒を飲むと大らかになる方で、普段は要らぬ言葉は言わない人なのですが、この時ばかりは本音に近い言葉を聞けたように思えました。営業という仕事は自分が他人からどう見えるかに細心の注意を払う必要がありますから、この世界に入ってもう10年も近い彼はその性質が染み付いているようでした。その性質を酒が溶かして、少し心の壁が中和されていくような感じがしました。
僕は下戸なので彼がどんどん酔っていくのを観察していました。料理の出るペースがワンテンポ遅いせいか、時間が経つのが何となく遅い気がしました。しかし、意外にも心地悪くなく、ゆっくりと進む時間の中で多くが得られました。自分の会社での立ち位置、新しく入る新人のこと、メンターにとっての私、会社の話をフランクに。
最初、会社に入った時、味方はいないのだと、自分を殺していくしかないと感じていたけれど、今回メンターと食事する中で、少なくともこの人は敵ではないのだと知れた。いやそう思いたい自分がいることに気がつきました。1日のほとんどを一緒に過ごす人だから、執着が生まれるのはもっともなことだけれど、それ以上に自分に向き合ってくれることのありがたさを再確認しました。
友人や家族も向き合ってくれることは確かで、そのことはいつも僕に生きていてもいいのだと思わせてくれる。ただ友人は対等な関係で、尊敬をあれど畏敬はない。
年も、役職も上の彼は自分には歳の離れた兄のように思えた。畏敬がそこにはある。
帰りの地下鉄でBon Iverを聴きながらのまどろみが心地よく、気付くと終点千里中央に着いていました。一仕事のつもりで行った食事、ただ避けなくてよかったと思えた。
先週の晩夏の蒸し暑さが嘘のような秋の硬い空気が優しい気持ちににさせてくれました。
吸った息が心地よく冷たくて気管が冷えるその感覚が好きなんです。秋のそういう空気が。
僕の卑屈さはときに、こういったイベントを避けるように仕向ける。そのせいで人生は悪いものだと思い込んでしまうことも多々あるのでしょう。
総じて悪いものではないはずなのに。
生活が停滞しているように感じるのが避け癖の及ぼす結果なのだとしたら、僕はあらゆる誘いは断らない、来るものを拒まないようにすればよいでしょうか。
今更、変われるでしょうか。