人の死の初めての受け止め方だった


最近身近な人が亡くなった。
いや、身近というには失礼すぎるかも知れない。

私の会社に定期的にアドバイザーのような立場で来てくれてきた方で、身バレ防止とその方のプライバシーのために詳細は書けないが、その業界内ではかなりの経歴と権威を持った方だ。

そんな雲の上のような方だったが、私のような何の取り柄や経歴もないいち社員にも気を遣ってくれたり、他愛もない話で声をかけてくれたりしていた。それは私に対してではなく誰に対してもそうだった。

いつも穏やかで笑顔で、誰かの陰口や批判を口にしているところは見たことがない。
経歴や権威を振りかざすことなど一切なく、ご自身の意見よりもむしろ私達の意見を尊重してくれたり、ご自身は我々なんかより一歩後ろの存在として振る舞われていたように感じる。

あれだけの方がなぜそんな態度が取れるのか、良い意味で不思議でならなかった。

仕事で自分1人ではどうにもできないことがあると、その方に何度も協力を仰いできた。
その方のもつ知見と経験と立場でないと実現しないことがたくさんあったのだ。
いつも私が言うことやることを肯定してくれて、褒めてくれた。

しかし正直言うと、そんな優しすぎる言動に少し寂しく思う気もした。
だって、私のようなレベルの社員がやることは、その方からしたら、至らない不十分なものもたくさんあったはずだった。
そういう点を指摘してはくださらないことに、どこか一人前として扱われていない感がしていたのだ。
当たり前なのだが。

それでも、その方の穏やかさと優しさにいつも救われていた。
というか、私は元々目上の人や権威的な立場の人がとても苦手なのだが、安心してそういう存在と関われる、初めての人だった。

最後にお会いしたのは、亡くなる10日程前のことだった。
その日もその方に仕事の案件を相談してしていて、その時も、いつもと変わらない振る舞いと言葉で、私を導いてくれた。
そして私もいつものようにお礼を言った。
全く普通の日常で、私にとってはごく当たり前のシーンだった。
具体的にどんな言葉を交わしたのかも覚えていないほどに。
それがその方とお会いした最後になった。

亡くなる数日前も会社に来てくれていた。
だが、その日は私は出張していて、お会いすることができなかった。
出張が多い仕事なので、その方が来ている日に不在にして会えないことは特に珍しいことではなく、その時は全く気に留めていなかった。
今思うと、最後に一目でもお会いしてお礼が言いたかった。ただ挨拶だけでもしたかった。
もっとも「これが最後だ」と理解した上で会うことなんて、どちらにしろ出来なかったわけだが。

その数日後にその方が倒れたという一報を受けた。
たまたまその旨の電話を私がとり、内輪では私が一番最初にそれを知ることになった。
すぐにその方と親しい社員がご家族に連絡を取り状況を確認してくれたが、その時は命に別状はないとのことだったので安心していた。

しかしその2日後に、上司からその方が亡くなったと聞かされた。
2人で仕事の打ち合わせをしていて、話題がひと段落した時、何の前触れもなく打ち合わせの延長であるかのように、実にあっさりと上司は言った。

「でね、先生亡くなっちゃった」と。

そういう時、“その瞬間頭が真っ白になった“という表現がよく使われる。
だがその時は、頭が真っ白と言うのとは少し違っていた気がする。
「でね、先生」と上司が言った瞬間、「ああ」と心は察していた気がする。
しかし驚きはする。「えー!」と、思い返すとなんとも間抜けな反応をした。

もう年齢が年齢という高齢な方だ。
大病も何度も患われて、最近では身体を自由に動かすことは難しくなっていた。
いつ何があってもおかしくはない年齢で、ぎこちなくお体を動かすその姿を見ると、満身創痍感を感じずにはいられなかった。

だが、いつだって穏やかで笑顔で、辛そうにしているところは見たことがない。
会社にも来てしっかり仕事をこなされていた。

少し前まで産休育休を取得し1年以上職場から離れていたが、「その間に先生にもしものことがあったりしませんように」と思ったものだ。

そのような背景があったから、すぐに事実を理解することは出来た。
けれど、月並みだけどうまく信じられなかった。
ついこの間まで会って話していたし、数日前も私はお会い出来なかったが会社にも来られていた。
まさに生涯現役だったのだ。

その後上司とはいつ?とか、葬儀は?とか、先生のことだから関係者も膨大ですよね、と言うような話をして、一旦その場は終わりになった。

頭に浮かぶのは、いつもの穏やかで笑顔でいる先生だった。
本当にそれしか浮かばなかった。
正直、すごく親しい間柄と言うわけではないから、悲しみに打ちひしがれるとか仕事に手がつかなくなるということはなかったが、もう会えないと思うと素直に寂しくて悲しかった。
何より信じられなかった。実感が持てなかった。

退勤して1人になり、さらに帰宅して子供と格闘して寝かしつけた後も考えた。
ただただ悲しかったが、どこかでスッと受け入れることが出来ている自分もいた。

「まあ仕方ないですよ、死ぬ時は死にますから」

と穏やかに笑いながら言っているその方の姿がリアルに想像できた。
本当にそう言いそうな方なのだ。

その方は、職業柄これまで多くの人の死を見てきただろうし、また、ご年齢的にも多くの親しい人達の死を見送ってきただろう。
ご自身の死についてだって、きっとかなりそばにあるものとして考えてきたに違いない。

なんというか、きっと今もジタバタせずに、自分が死んだことを穏やかに受け入れているんだろうなと思った。
それは生前のその方の生き方からそう感じたのだ。
そして、そう思わせてもらうことで、その方が亡くなってしまった悲しみをかなり和らげられていることに気付いた。
そうか、誰かが亡くなった時、こういう受け止め方もあるんだなと初めて知った。
その方は死してなお優しく、私を救ってくれているのだ。
そんな感覚は初めてだった。

死に方や生前の生き方は大事だと思った。
身近な人の死とは悲しいものだが、残された人が穏やかにそれを受け入れて、悲しみに暮れすぎないようにすることだってできるのだと教えられた。
もちろん、私はその方とそこまで近い存在ではなく、親密な間柄でも全くなかった。そのような距離感だからそう思えている部分も大いにあるだろう。

ただ、やはり最後にお礼を言いたかった。
それが心残りだ。
最後にお会いした時も挨拶とお礼は言ったが、その時の光景や詳しいやりとりはもう覚えていない。残念である。

いつだって別れは突然だ。これから先も、これが最後だと思いながら別れの言葉を交わすことが出来る機会はそうないだろう。
だからこそ、普段から大切な人とは話をして、感謝の気持ちを伝えることを心がけたい。
そして、これから先、もしこれが最後という機会が持てることがあれば、後悔しない行動を取れるようにしたい。
そんな月並みなことを改めて考えた。

はあ、先生、今どこにいるのだろう。
もう痛いとか苦しいところは無くなったのだろうか。
本当に、笑いながら先にいるお仲間と談笑したりお酒を飲んでいる姿しか想像できない。
残された人間にそう思わせることが出来る生き方は、一つの成功だと、思う。

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