ゆかいな議事録炎上について
ゆかいな議事録について辛い気持ちになっているからなんとなく言葉にしてみるぞ。
まず私は彼らの漫才を記事の炎上で知って、差別漫才と批判されているものを見にいくぞという先入観を持った状態で見に行った。その結果あまり面白くないとまず思った。予選も通ってなかったし、先入観なしにしても少なくとも爆笑してお気に入りになるような漫才ではなかったと思う。
そしてそれを抜きにして私は、こういう、「中国の人間はモノをパクります」とか「中国の首相は情報統制をしています」とかいった意味の発話が含まれる「漫才」を披露すること、そしてそれを「面白い」ということは許されるかということを、考えなくてはいけないと思った。
まず、こういう「漫才」を笑うことについて、正直別にもう自由だと思う。あるギャグを笑うことは決してその内容、そこに含まれる思想を肯定する行動ではない。おもしろいと感じたら笑えばいいし、おもしろくないと感じたら笑わなければいい。おかしみは規範的判断ではなく、記述的概念だと私は思う。
ただ、おもしろいから許されるだろという主張が目について、それは間違っているというか、そういうことにしてしまうと笑いの意味自体が危険に晒されてくるのでやめて欲しいと思った。この主張は、それこそおろしろさと道徳的判断とを直接結び付けているけど、あるべき判断とは接続の順番が逆だ。許されないからおもしろい、でも、許されるから笑える、でもなく、おもしろいから許される。これはただの意見だけど、おもしろいかおもしろくないかは各々の感想でしかないから、道徳的判断の拠り所とするにはあまりに薄弱なものだと思う。この論理はさすがに間違っているのではないかな。
おもしろいから許されるみたいなこと、考えればおかしいって分かるのに、現状それが許されつつあることがとても問題なのかもしれない。「おもしろいが正義」みたいな、m1の壇上でしか通じない(そこですら危うくはあるけど)イデオロギーが、半端なお笑いブームによって徐々に世間へ染み出して恐ろしいことになってきているのかもしれないな。そしてそれに気付いている(あるいは直観レベルで違和感を抱いている)層が「なんかお笑いって野蛮でついていけねえな」と感じて、お笑いのやせ細りに繋がっているのかもしれない。まずこれが重要な一点だ。
そしてゆかいな議事録、彼ら自身が許されるかということも問題だ。まず彼らを批判する文言として「ヘイトスピーチ漫才」というのが多かった。ヘイトスピーチとは、とりあえず「ある属性の人々に対し、その属性に基づいて批判などして、生活を脅かすような危険を与えること」らしい。また彼らの漫才が「差別を煽動する」という言葉もたくさん見た。
さすがにこうした批判は躱しきれないと思う。彼らは「日本人の多くが中国人を嫌っている」と誇張気味の表現を利用したり中国の蛮行を取り上げたりし、またツッコミはそれを否定せず乗っかる形を取った。これは反中ギャグを披露していると受け取られても仕方ないと思う。中国をフォローする発話はひとつもなかったわけだし。完全な民族揶揄お笑いだった。
それで、これが許されるか否かという議論だけれど、正直彼らにガチの反中の意図があったかと言われればそうではないだろうから、レイシストだと罵られるのは流石に可哀想かなという気がしてしまう。彼らはああいう芸風でやってるので、それが伝わってれば「ああまたゆかいな〜の政治/ 他国揶揄お笑いね、別にそういう思想はないにせよ、」と思うだろうよ。
ただ、さすがに考えなくちゃいけなかったのは、あれを広く舞台で(しかも3回戦というYouTubeに乗る舞台で)披露して、多くの人の目に触れてどういう影響が出るかということ。気心知れた地下ライブの舞台でやるのとは訳が違う影響力について、彼らはもっと考えるべきだっただろうな。彼らの漫才を見た人が反中魂に火をつけられて近隣の中国の方に嫌がらせを始めるとか、もっと無邪気なところで言うと小学校で中国の方を揶揄するブームが生まれるとか。こういうリスクを完全に否定するにはあまりにも明らかな中国への揶揄があったように感じてしまう。
先述のようにおもしろければ正義になるということはないし、笑わせた人の先に泣く人が出てこないかということをもっと想像してほしかった。漫才の訴求力、笑いの暴力性を、芸人さんにこそ舐めないでほしい。プロで、ステージに立つ以上、自分がヘイトスピーカーになってしまう可能性にいつでも自覚的でいてほしい。
私はそういう芸人の切実さを愛したい(?)。
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