台湾鉄路紀行 第五日前半(高雄~台東)
第五日 (高雄~花蓮)
屏東線
ホテルを出た私は、少し曇った空の下を歩き始めた。昨夜はホテルに向かって、MRT(地下鉄)の文化中心(カルチャーセンター)駅から北の方向に歩いてきたが、今朝も北の方向に歩いている。つまりMRTではない列車に乗る。
道路はラッシュの混雑を迎えている。車はもちろん、スクーターの数がとても多い。信号機のない所で道路を横断するのは躊躇(ためら)われるほど、列をなしたスクーターが疾走している。私が向かっているのは台湾鉄路局(台鉄)の民族(ミンズー)という駅である。民族という駅名は近くを通る「民族路」という道路から名付けられたもので、2018年の高雄(カオション)駅周辺の地下化に伴い開業した新しい駅だ。
駅までの沿道はバイク屋や飲食店などが点在する市街地だが、人の通行は道路を往く車両の数と比べると少ない。やがて随分と幅広な民族駅出入口が現れた。アーチ状の屋根も架かっている。線路があった場所は空地になっていて、まだ開発は始まっていないようであった。
ちょうど列車が来ていたらしく、仕事に向かう風の女性が一人エスカレーターを上がってきた。ラッシュアワーにしては閑散とした構内だが、一日の乗車利用数は500人に満たないという。
隣駅の高雄までの切符を券売機で買う。15元。日本円で55円ほどだから初乗りとしては安い運賃だ。壁を見ると、高雄地区地下化記念で台鉄の新左営(シンズゥオイン)から鳳山(フォンシャン)までの一日乗車券が販売されている旨を知らせる貼り紙があった。新左営は昨日利用した高鉄(カオティエ)(新幹線)の接続駅で、鳳山は民族から三駅先にある。
地下ホームは二面二線となっていた。列車を待つ人の数は少ない。私の近くにいる乗客は、ベンチに座っているOLだけであった。壁に高雄市内の地下区間の路線図が掲示され、その下に「夜間安心候車區 Safe Waiting Zone at Night」と赤い注意書きが掲示されている。根拠までは書かれていなかったが、防犯カメラは完備だろうと思われる。
民族8時49分発の列車番号3158次の区間車(チュージェンチャー)がやってくる頃にはホームの人影も少し増え、通勤客を少しばかり乗せたセミクロスシートの電車は3分で隣駅高雄に着いた。
一旦、改札を出た私はすぐに券売機に向かい、枋寮(ファンリャオ)までの莒光号(ジュークァンハオ)の切符を買った。値段は107元である。高雄から枋寮までは屏東線(ピントンシェン)という線名になっている。この線は、旅の二日めに台北(タイペイ)を発ってから乗り継いできた台鉄の西部幹線の最南端の路線である。今日はここから台湾島の南を回り込んで、いよいよ東部台湾に出る。
クリーム色とオレンジに塗り分けられた電気機関車に牽かれた、同じ色の客車列車がホームに入線してきた。先ほど民族駅で列車を待っている間、枋寮方面に向かう自強号(ツーチャンハオ)が通過していったが、なかなかの乗車率だった。だが、急行に相当する莒光号は空いている。少しでも乗車時間の短い列車に人は集まるということだろう。
751次莒光号は高雄の地下ホームに2分停車して、9時15分に発車した。走り始めてすぐに民族駅を通過していく。
私が手にしている切符は座席指定券ではなく自願無座な切符だが、空いているので好きな場所に座れる。海側である進行方向右側に落ち着く。鳳山を発車して地上に出た列車は、高雄の住宅地を窓外に展開していく。左窓に低い山が町の端に繋がるようにそびえている。車窓は少しずつ市街地と農村の境界のような所にさしかかってきた。
九曲堂(チウチュータン)という寺院を思わせる名前の駅に到着した。鉄筋二階建ての二面四線のこの駅を出ると高屏渓(カオピンシー)という県境の川を渡る。屏東線の鉄橋と並行して古い鉄橋が架かっている。1911年初頭に工事が始まり、1913年末に完成した屏東線の開業当初の古い鉄橋で、全長1526メートルのこの鉄橋の工事は豪雨や川の増水で苦難を極め、設計を手掛けた日本人技師飯田豊二は過労から病に倒れ、完成を目前にしてこの世を去った。友人たちの手により、功績を称える記念碑が造られている。
屏東線の電化により新橋が架けられ、1992年にこの古橋は役目を終えたが、歴史的建造物であるとして保存が決まり、土手の部分は旧鉄橋空中歩道という名で観光客向けに歩道が設置され開放されている。
9時39分、屏東(ピントン)に到着した。一日に一万人以上の人が利用する駅だけあって二面四線の大きな高架駅で、駅の周辺も市街地が広がっている。県花がブーゲンビリアだという屏東は沿道に椰子(やし)の木が並ぶ南国情緒にあふれる町で「太陽城」とも呼ばれている。今日はあいにくの曇り空だが、市街地を抜けると現れた地平に広がる椰子畑は、台湾の南端を旅している旅情が充分に感じられた。
その椰子畑に所々、小さな池が存在している。どの池も放水しているから人工池、つまり養殖池のようだ。調べてみるとすぐにわかる。これは鰻(うなぎ)の池なのである。台湾は鰻の名産地であった。
車窓が椰子畑と養殖池の風景がひたすら続くものとなってくるように思われかけた頃、少しずつ民家が増え、9時53分、大きな曲線の屋根を持つ高架ホームの潮州(チャオジョウ)に着いた。
潮州を出るとやがて線路は地平となり、窓外に養殖池がまた増えてきた。景色は鄙(ひな)びた農村風景となり、リクライニングシートの急行列車よりも、硬い座席のローカル鈍行が楽しそうな区間に思えてきた。この次に乗る列車は、まさに硬い座席の鈍行列車であり、旧型客車によるローカル列車となる。
10時25分、枋寮(ファンリャオ)に到着した。この莒光号はこの駅に20分停車し、10時41分に発車する自強号に先を譲るが、どちらの列車も枋寮からその先の台東(タイトン)まで走る。私が向かう先も台東だが、自強号にも乗らず莒光号でもない列車で向かう。
南廻線普快車
枋寮(ファンリャオ)は海岸の近い町であるようだった。天井の高い駅舎の入口脇にビーチをイメージしたイラストが添えられ、そこに周辺地図が掲げられている。駅から数百メートルで海岸のようだ。
壁をアーチ状にくり抜いたデザインの駅舎の出入口から駅前を眺める。駅前ロータリーには、葉の付いた赤い果実の脇を笑顔で駆け出す女性二人のオブジェが立っている。女性の着ているシャツには「love枋寮」と書かれてある。
駅前は古い鉄筋の建物が並んでいるが高さは三階建てほどのものであり、駅前通りの長さは短い。その短さの先に海があるのだ。
駅で駅弁を買うことを考えていた私だったが、売っている様子はない。とりあえず台東(タイトン)までの切符を先に買うことにする。行先と乗車列車を書いた紙を窓口に差し出し、106元の乗車券を手にした。切符は指定券券売機で出てくる切符と同じくらいの大きさで名刺サイズだが、指定券のものより数ミリだけ縦が短い。そして、指定券券売機の切符が横書きであるのに対して、この切符は券面を縦向きにして字を読む構成となっていた。
駅弁のあてがはずれたので買い出しに行くことにする。駅前通りを歩いてみた。持ち帰りも出来る飲食店もある感じだが、時間がまだ早すぎるのか店頭に人が居ない。短い駅前通りの先にある交差点まで来た。角にセブンイレブンがあった。
甘くない緑茶を買い、煮玉子の乗った醤油味風なおにぎりを選び、デザートにバナナを一本買ってみた。台湾はバナナの本場だが、まだバナナを食べていなかった。合計で78元(約280円)。レジのおばさんが袋を指して必要かどうかをジェスチャーで尋ねてきた。台湾のコンビニエンスストアは袋が有料だと聞いていたのでエコバッグを持ってきている。私はそれを持ちあげて見せた。
「オオッ、サンキュー、謝謝(シエシエ)」
おばさんは飾りのない笑顔を見せて釣り銭を渡してくれた。初日の台北の寧(ニン)夏(シャー)夜(イエ)市(シー)で台湾ビールを買うためにファミリーマートに入って以来、コンビニエンスストアの店員は愛想がないことが多く、そういうものなのだろうと思ってきたが、地方の町だと個人商店のような温かみがあるようだ。もっとも、ICカードなどの電子マネーによる支払が主流になっているコンビニエンスストアで、台湾の通貨に慣れるためという個人的理由で現金払いをしている私が、煩わしい印象を店員に与えているのだろうとも思う。
枋寮駅に戻ると、すぐに次列車の改札が始まった。待合室には飲料水と鉄道グッズの自販機があるが、とりあえず買い出しが済んだのでホームに向かう。
枋寮は二面四線のホームで、次に乗る列車の発車番線は一番駅舎に近い2A月台(ユエタイ)となっている。この次に乗る列車こそ、私が今回の旅を実行するきっかけとなった列車である。それは南廻線(ナンホェイシェン)を走る普快車(プークワイチャー)という旧型客車による鈍行列車である。
南廻線は台湾の南端の地域を通りながら西部と東部を結ぶ路線で、枋寮から台東までの全長98・2キロの路線に対して、途中駅数は14ということから推察できるように沿線人口の少ないローカル線だ。台湾中央山地が南端に向かって狭(せば)まってくるあたりであるので地形は険しく、トンネル数は35、橋梁の数は158もある。難工事の末、1985年に開業した。この区間のそれまでの公共交通といえば、海岸線を通る道幅の広くない道路を走る路線バスであったから、南廻線が開業して高雄(カオション)方面と台東との行き来が便利になったことだろう。枋寮から台東は自強号(ツーチャンハオ)なら一時間半ほどで到着する。
そんな便利な南廻線を、これから乗る普快車は約二時間半かけて台東まで走る。まことにのんびりな列車だが、南廻線は景色がいいところを走るそうなので、ゆっくり車窓を眺められるくらいがちょうど良い。
11時06分、ホームに機関車と客車がやってきた。南廻線は今電化工事を行っている段階なので、電気機関車ではなくディーゼル機関車である。この電化が完成すると普快車は廃止されるのではないか? そんな噂が台湾鉄道のファンの間で囁かれていた。どうやら観光列車として電化後も残ることになりそうだが、廃車になるかもしれないという噂が私を台湾に向かわせたのだった。旅の実行を決めた理由はそれだけではないが、この一件が大きな理由だったことは確かだ。
普快車とは非冷房の普通列車のことで、南国台湾の現況では冷房装置の付いていない車両は時代遅れとなり、今やこの南廻線を走る一往復のみとなった。それゆえに鉄道ファンの注目度も高まったという訳である。
非冷房とあって、運賃設定が区間車よりも少し安く設定されている。つまり台鉄でもっとも安い列車といえる。
ホームに列車が到着したことで、鉄道ファンが次々と改札を通り、ホームに姿を現した。普快車の旧型客車を模した背もたれの付いたホームベンチで佇んでいた私だったが、皆に倣って撮影を開始した。編成は、先頭からオレンジに白いラインを纏(まと)ったディーゼル機関車。その後ろに電源荷物車、青に白い線の旧型の旅客客車三両。電源荷物車は45PBK32801という車両番号がつき、旅客客車は、35SPK32757 35SP32578 40TPK32228となっている。調べてみると、前二両が日本製で後ろ一両がインド製の客車だとわかった。
日本製の客車は両端に内側に開閉する手動式のドアを持つデッキタイプの客車で、インド製も同じ2ドアだが、こちらは車両のやや中ほどに寄せたドアを持つ近郊型の客車だった。どちらも座席は背もたれを倒すと向きを変えられる転換クロスシートだが、インド製はドア横の座席がロングシートとなっている。
ホームに入線してすぐに電源荷物車と客車の連結器が作業員によって切り離され、機関車が電源荷物車を牽いて車庫に行ってしまった。どうなることかと様子を見守っていると、11時17分、機関車だけがホームに戻ってきて客車と連結された。それを見届けて車内に入る。
ドアは手動式で走行中も動かせる造りとなっている。つまり開きっぱなしで走ることが出来る訳で、さすがに今はこういう車両は日本ではほとんど見られなくなった。あっても、蒸気機関車に繋げて走る観光列車の類のような、いわば動態保存の客車だけである。ドアの脇にトイレがあるが、「便所」あるいは「厠」と呼びたくなるような年代物であった。
仕切り扉を開けて車内に入ると、車内に籠もった熱気が身体を襲った。冷房のない客車だから仕方がない。私は自分が座った席と、通路を挟んだ向こう側の席の窓を開けた。天井を見れば扇風機があるが動いていない。
ホームでは鉄道ファンが写真を撮っている。台湾人のカップルもいる。そろそろ発車時刻だ。日本人は私のいる一番先頭の車両、台湾人は最後尾のインド製の車両に分かれて乗り込んでいった。
日本人の鉄道ファンは賑やかである。乗り込むとすぐに車内の暑さに言及し、発車直前に扇風機が作動し始めると声を上げた。扇風機はすべてが作動している訳ではなく、壊れているのか止まったままのものもある。私の近くの二つもそうだ。天井を見つめているうちに普快車はゆっくりと発車した。発車ベルもなく突然走り出したことで、車内は一段と賑やかになっている。
11時28分、3671次普快車(プークワイチャー)は枋寮を発車した。約二時間半の旧型客車の旅が始まった。
私は日本人しかいない先頭車両を離れ、同じく日本製客車である二両目に移った。こちらは台湾人らしき中年女性のグループ客しか乗っていないようだ。私は彼女たちの少し後ろに腰を下ろした。
車窓は一段と鄙びてきた。枋寮を出てしばらくは相変わらず養殖池が点在していたが、人家の少ない風景の中にやがて南シナ海が現れた。
ひとつめの停車駅加祿(ジャールー)に着くと、反対側のホームにステンレス車体の自強号が停車していた。エンジン音が響いている。気動車(ディーゼルカー)の自強号だ。窓外は農村で、このあたりの地域では連霧(レンブ)という果物を作っている。連霧は赤い実のフトモモ科の果物で、私はまだ食べたことがないが、林檎と梨を合わせたような味がするという。
列車はトンネルに入った。トンネルに入っても車内灯が点灯しないので真っ暗になる。前方に座る台湾人女性グループが驚いて声を上げて楽しんでいる。
今時こういう鉄道車両は珍しいから、持参のコンパクトデジタルカメラで車内を撮影してみた。フラッシュはオフのままにして、ISO感度を上げられるだけ上げて撮影する。ピントを合わせるためのAF補助光が点灯して、スローシャッターで撮影が完了した。
トンネルはさして長くなく、すぐに車窓は農村風景に戻った。その時、前方の通路に立って同行者と歓談していた中年女性がこちらに向かってきた。この女性はトンネルの手前で持参の菓子か何かを同行者に配っていた。それで、そのまま通路に立っていたらしい。もしかすると私にもお裾分けが回ってくるのかと、努めてにこやかに相手を迎えた。
「チケットナンバー」
その中年女性は、私に乗車券を見せろと迫ってきた。一瞬、困惑したがすぐに事情が掴めた。私が車内を撮影した際に、この人を撮ったと思われたのではないか。
普快車は指定席列車ではない。枋寮駅の窓口で購入した乗車券は確かに自強号や莒光号の指定券のものと見た目は似ているが、券面には座席番号など記されていない。番号とは何か?
女性はカラー写真の表紙に綴じられた切符を手にしていた。旅行会社のツアー切符のようで、これと同じものを持っているだろう? と言いたげである。車掌でもない只の乗客に乗車券を見せる義務はないが、騒ぎ立てるつもりもないので、ポケットから乗車券を取り出して渡した。乗車券のことで揉めるようなら車掌を呼んで解決してもらうつもりで、相手の様子を窺う。
私から普快車の乗車券を受け取った女性は、不思議そうな顔でしばし眺めたあと、車両の後方に向かった。後方に男が一人座っている。どうやら彼が引率者らしい。だが、男が短く何か説明すると、女性はすぐにこちらに戻ってきて乗車券を私に返し、それ以上は何も言わずに自分の座っていた席に戻っていった。
この車両にはこのグループしか乗っていない。もしかするとツアー旅行者専用の車両かもしれない。普快車は近年人気で、鉄道ファン以外の旅行者も乗ってくるという。実際、この女性グループはどう見ても鉄道ファンではない。今日は木曜日なので覚悟していたほどの混雑はなく、こうして海側である進行方向右側の席に座ることも出来ている。車内は空いていた。だが、人気列車ということで、ツアー客用の車両が設定されていても不思議ではない。
隣の車両に移ろうかとも考えたが、引率者と思われる男性からも特に反応はなく、私はそのまま座り続けた。今更、先頭車両に行って鉄道ファングループの騒々しさの中に放り込まれるのも億劫だし、後方のインド製の車両は造りこそ古くて渋さはあるが、内装が近郊型電車を彷彿させて味わいが薄い。
気を取り直して車窓を見やる。空は今にも雨が降ってきそうな雲の厚い色となっているから、海面も南国らしい明るさはない。だが、人里離れた地を走っているせいか、異国の最果ての風景という感触は充分に感じられる眺めである。海岸には人は居ない。鉄橋で川を渡るが水量は少なく川幅だけがやたら広い。畑なのかも定かではない草地の中に椰子の木がぽつんと生えている。建物は少なく、沿線人口は少なそうだ。南廻線を走る各駅停車の列車はこの普快車一往復以外には、早朝に走る区間車一往復だけという過疎ローカル線なのである。もっとも、高雄と台東を結ぶ優等列車は毎時のように走っている。西部台湾と東部台湾を結ぶ連絡鉄道なのであり、だからこそ電化工事が始まったのだといえる。
内獅(ネイシ)という小さな集落の駅が現れた。右は海岸が近いが、左は山並みが迫り始めている。ここから南に向かって恒春線(ヘンチュンシェン)という台鉄の新線が計画されており、すでに設置される駅の場所も駅名も決まっている。恒春は台湾南端の観光拠点の町で、開通すれば観光路線として賑わいが期待されている。
海岸沿いを走っていた列車は台湾の南端へ続く道路と別れ、台湾最南端の駅である枋山(ファンシャン)の手前から内陸部に入っていく。枋山は太い四角の石柱がホームの屋根を支える堂々たる構えの駅だが無人駅であり、周囲の民家も少ない。ここから車窓が一変し、景色は山の連なりのままに入り組んだ地形を見せ始め、川が作り出した幅広の平地の中を走る。枋山渓(ファンシャンシー)という名の川で、地形の険しさに合わせて川は大きく蛇行している。建物がないから、平地がとても広く感じられ、その背景にある山々が大きく見える。
南廻線は電化工事をしている。線路脇に工事用資材が置かれてあったりする。電化されたらディーゼル機関車が牽くこの旧型客車列車は廃止されるのではないかと気を揉み、こうして台湾にやってきた私であった。その電化工事も手つかずの区間も少なくないようで、完成まではもう少し月日がかかりそうな気配で、この普快車もまだまだこの地を走り続けそうな感じだ。
枋寮のセブンイレブンで買ったおにぎりとバナナを食べる。煮玉子の乗ったおにぎりがとても美味しい。バナナは皮がくすんだ色をしていて中身が心配であったが、剥いてみれば新鮮な色の身が現れ、ほどよい甘みと歯応えのある美味しいものだった。
窓外は無人地帯となった。そんな地に列車は突然停車した。黄色の屋根と茶色の壁を持つタイル張りの小ぶりな駅舎はあるがプラットホームはない。枋野(ファンイエー)という鉄道関係者の駅で、保線作業員用の詰所もあり、列車運行上は上下列車のすれ違いのための信号場としての役割も担っている。駅舎の前に駅員が一人立ち、列車を見送った。
線路は山深い所に入っていく。台湾中央山地の南端に分け入っている。トンネルに挟まれた中央信号場を過ぎると複線になり、全長8070メートルの中央トンネルに入る。例によって車内は真っ暗になるが、もう写真を撮るつもりはない。トンネルの壁に間隔を置いて構内灯が設けられているので、時々数秒間だけ車内がほんのりと明るくなる。だが、その一瞬以外は真っ暗な車内のまま普快車は台湾中央山地を駆け抜けた。
中央トンネルを抜けても車窓は山深いままだったが、いくつもトンネルを抜けているうちに小集落が現れ、そして駅を通過した。普快車には通過駅はない筈である。ホーム上の駅名標には古莊とある。2017年秋に廃駅となった古莊(クウーチュアン)駅であった。鉄筋の横長の駅舎も残っている。廃止されてまださほど年月が経過していないからか、ホームも駅舎も現役の駅のように整った外観に思えた。今は信号場として使われているという。のどかな南国の小駅といった、絵になる佇まいの信号場である。
幅の広い川が現れた。水量はさほどではないが、幅が広いので鉄橋も長い。大武溪(ダーウーシー)という川で、河口は太平洋に面している。車窓も太平洋沿岸の小さな町を往くものに変わっていく。
枋山を出てから30・2キロ、旅客駅のない深い山間部を走ってきた普快車は久しぶりの停車駅大武(ダーウー)に到着した。すでに枋寮を出発してから一時間ほどが経過した。普快車は反対方向からの列車待ちで停車をする。鉄道ファンたちがホームに出て撮影を始めているのが見えた。私もホームに出てみた。
大武は小さい町だが、がっしりとしたタイル張りの駅舎を備え、ホームも二面四線ある。ほとんどの乗客がホームに降りて海からの風を浴びて小休止している。昨日の高雄はとても蒸し暑かったが、今日の東部台湾は少し肌寒いくらいに感じる。やがて、反対側のホームに莒光号がやってきたのを見届けて、私は車内に戻った。
右窓に太平洋が広がり始めた。海岸近くまで斜面が迫っているため、時折トンネルに入るが眺めはよい。ただし、空は相変わらず曇り、海も決して明るい色は見せてはくれない。家々の少ない風景の中に、使われていない信号場がある。富山(フーシャン)信号場という名で、路線建設計画時に駅間距離の長さを考慮して行き違いのために建設され、ホームや駅舎まで造られたが、結局活用される見込みが立たないまま一度も使用されることなく廃止された。周辺人口も少ないから、今後駅として復活する可能性も低そうな眺めであった。
川を渡ると駅が現れた。ホームから海が見える。瀧溪(ロンシー)というローカル駅だ。この辺りは小さな海岸集落を縫うように走る。晴れていればエメラルドグリーンの海を堪能できる区間だろうと思うが、曇り空の今も最果て感があって悪くない。
線路と海岸の間に一面だけの小さなホームが現れた。多良(ドゥオリャン)駅跡で、2006年に廃止された駅だが、海岸のそばにホームがあるため「台鉄でもっとも美しい駅」と親しまれてきた駅であり、その廃止を惜しむ声に応える形で、2008年から観光列車のみ停車する駅として復活した。南廻線の電化後、この普快車も観光列車的な立ち位置になりそうだが、その暁にはこの多良駅跡にも観光停車してほしいと思う。
金崙渓(ジンルンシー)を渡り、金崙(ジンルン)という駅に着いた。川を渡ると集落があり駅がある。そんな風景が続いている。ここも海を見下ろせる駅だが、駅周辺は小規模ながらも建物が並び、小さな海岸町を形成している。駅構内には側線もあり、優等列車も停車する駅である。
車内の女性グループは窓外に海が現れてから賑やかである。先ほど私に乗車券を見せろと声を掛けてきた女性は、海が見える度に「タイマーリー、タイマーリー」と声を上げている。南廻線にはその名の駅がある。もしかするとそこで降りるのかもしれない。
その太麻里(タイマーリー)に着いた。二階建ての駅舎を持つ駅で、優等列車も停車する。駅から海側に建物が並んでいる。決して大きくはないが集落のある駅であった。駅の側線に保線用の作業車が留置され、曇り空の下で黄色い車体が鮮やかに映えている。車内のグループ客に動きはなく、列車は再び海岸に沿って走り始める。
海岸道路を緑色のトレーラーが駆けていく。EVERGREENと白い字で書かれてある。海運やホテル業などを手掛ける長榮集團(エバーグリーングループ)の車で、日本でも見かける。台湾の大手航空会社エバー航空もこのグループだ。
列車は温泉で知られる知本(ジーペン)に着いた。まとまった集落があり、この駅からは住所は台東市となった。私の前の席に大学生くらいの年齢の女性が座った。やはりというべきか、この車両は旅行会社のツアー利用者の専用車ではないようだ。
車窓は海から離れ、左は低い山並みが続き農村風景となってきた。国立台湾史前文化博物館が近くにある康樂(カンルー)を出ると次は終点の台東であった。乗ってしまえば、あっけなく二時間半の旧型客車の旅は終了した。時間を短く感じたのは、古さからくる車両の面白さだけでなく、沿線風景の広さと鄙びた味わいがあってこそなのだろう。
13時40分、三面六線の近代的な台東駅に旧型客車列車はゆっくりと進入し、悠然と停止した。
台東車站
背景の山に抱(いだ)かれた台東(タイトン)の町の風景は、想像より田舎町なものであったが、駅は想像よりもずっと立派な造りの駅だった。地下通路に通じる階段には台湾東海岸の観光広告が掲示され、構内は観光客で賑わっている。駅舎はさして大きくはないが構内は広く造ってあり、外と繋がる敷地には屋根が架かり、そこに飲食店や売店が並んでいる。待合用ベンチもその箇所に設けられている。つまり、建物の中でくつろぐのではなく、屋根のあるオープンスペースで列車を待つ造りとなっているのだ。温暖な地域だからこその設計といえる。
私は少しだけ台東の町を散策することに決めている。次に乗る予定の列車は1時間40分後の自強号(ツーチャンハオ)(特急に相当)だが、この自強号は全席指定制の列車なので先に指定券を買っておこうと思う。幸いというべきか、台東駅は主要駅だけあって、指定券券売機があった。すっかり操作にも慣れてきた私は、次の目的地であり今夜の宿泊地である花蓮(ファーリエン)までの自強号指定券を343元(約1270円)で購入した。二時間ほど乗車する特急の切符としては感激するほど安いが、台湾の公共交通の安さには慣れつつあるから、300元を超す代金を前に、結構お金を使ったなと感じるくらいには意識が変化している。
釣り銭を持参の小銭入れに入れようとしたら10元硬貨を一枚落下させた。すぐに通りがかった女性が教えてくれる。旅を続けているうちに、台湾の人のさりげない親切心も感じ始めている。
駅構内の右端にバス乗り場がある。その手前にタクシー乗り場があった。これから向かうのは台東鉄道芸術村である。最寄りのバス停に向かう路線バスは普快車に接続する便がなかった。タクシーを利用するつもりだ。キャリーケースを引きずって歩いてきた私を見た案内係がすかさず駆け寄り目的地を尋ねてきたので、私は駅に着いてから準備しておいたスマートフォンの画面を見せた。台東鉄道芸術村の検索画面である。案内係は頷き、一番手前に停車していたタクシーの運転手に何やら伝えると、運転手が私に歩み寄り、車のトランクを開けてキャリーケースを収納してくれた。
台東鉄道芸術村とは要するに旧台東駅のことで、2001年の廃止まで台東駅として町の玄関口となって使われてきた駅の跡に立つ鉄道遺構のことだ。現在の台東駅は町の郊外に建っているが、旧台東駅はそこから数キロ離れた市街地にある。
現在の台東駅は1992年の南廻線(ナンホエイシェン)の開通で、同線と花蓮からの台東線との接地地点に開設された駅で、旧台東駅があった頃は台東新駅を名乗っていた。そういう経緯があるから今の台東駅の周囲はさほど開けている感じはなく、商業施設も多くはない。
台東は原住民系の人が多く住む町だという。台東駅の案内放送に使用されている言語も台湾国語や台湾語だけでなく、アミ族の言葉であるアミ語も流れている。運転手の顔は日焼けしたような色で造形も小さい。漢民族とは違った南方系のように思える。原住民系の人かもしれない。表情は人懐っこく、私が台湾国語なり台湾語なりを話せれば会話の弾みそうな、そんな親しみやすさのある雰囲気の人である。
私がドアを閉めるのを確認すると、運転手は車を始動させた。駅前通りはすぐに郊外道路となり、農村のような所へ景色が変化した。四方は山が連なり、随分とのどかな町である。この先に市街地がありそうには思えない眺めの中を、運転手は随分と速度を上げて走る。橋で川を渡ると建物が増え始め、やがて沿道は商店が並び始める。これが台湾の南部から南東部で最大の町台東の市街地である。もっとも、台東の人口は市全体でも十万人ほどだから、その市街もそれほど大きいものではない。
台東駅から10分ほどで旧台東駅に到着した。運転席横にある料金のメーターは昔ながらの赤いデジタル文字で「181」を表示している。181元なのだろうと解釈し、私は100元札を二枚と1元硬貨一枚を運転手に差し出した。ところが運転手は手を止めたまま、甲高い声で一言呟いた。何を言っているのかわからず、私は困惑したまま様子を窺う。
「リャンバイイー」
繰り返した運転手の言葉が、そう言っているように聞こえた。バイは確か百だから、201元ということだろうか。だが、それなら渡した金額で合っているから、違う意味のことを言っているに違いない。
困り果てた様子で運転手はスマートフォンを取り出し、何やら入力しようとした。メモなら持っていると、私は旅行記録用のメモ帳とボールペンを差し出し、ここに書きつけてもらった。運転手はさらさらとペンを走らせ、すぐにメモとペンを返却した。そこには「210元」と書かれてあった。
メーターとの関連性が不明瞭だが、差額は大したことはないし、人を騙しているような様子でもない。私は1元硬貨を差し戻して10元硬貨に変えて運転手に渡した。「それでいいのだ」という感じで、運転手はそれを受け取ると、車外に出てトランクからキャリーケースを下ろしてくれた。私は「謝謝(シエシエ)」と言って一礼し、タクシーが走り去っていくのを見送った。
帰国後に調べてみたところ、台東駅から台東観光夜市までの料金が210元だとわかった。距離は6キロで、夜市の場所は旧台東駅から100メートルほどだから、金額としては合っているようだった。更に言えば、トランク使用料を取るタクシーもあるようで、今回のケースはこれに該当した可能性もある。
降ろされた場所は店が並ぶ通りの一角だった。そこが、かつての駅飴通りであると気づくまでに時間がかかった。旧台東駅の場所をすぐに特定できなかったのだ。
タクシーが走り去っていった方向を見ると公園のような緑に包まれた一角がある。そこが台東鉄道芸術村、旧台東駅であった。
旧台東駅は駅舎もホームも保存されていた。屋根を支えるタイル張りの円柱には駅名板が残り、ホームにも駅名標がありし日の姿で立っていた。楷書体で書かれた「台東」の下に隣駅として「馬蘭(マーラン)」と書かれてあり、下に台東からの距離を示す2・4公里(キロ)が書かれてあった。旧台東駅からの廃線跡はサイクリングロードになっていて、馬蘭駅跡も保存されているという。
旧台東駅構内には線路も幾つか残されており、車両も展示されている。上がグレーで下が明るいオレンジ色に塗られた気動車が三両展示されていた。DR2050型という気動車で、花蓮と台東を結ぶ台東線でかつて走っていた特急列車「光華号(クアンファハオ)」に使われていた車両だ。光華号が走っていた時代の台東線は軽便鉄道であり、現在の軌間1067ミリより狭い762ミリの軌間を採用していた。その幅の狭い線路を光華号は軽便鉄道の域を超えた速度で快走し、花蓮から台東の約170キロを最速3時間10分で結んだ。
改軌後、光華号の車両は台車を変えてローカル列車として走り続けていた。その車両を光華号時代の塗装に直して、ここに展示しているのだという。軽便鉄道車両だっただけに車幅は少し狭く見えるが、側面の窓が細いデザインになっていてスマートな印象を受ける。正面は昔の車両にありがちな三枚窓の貫通路付きの普通の顔だが、そのスマートさもあってか端整な外見だ。
旧台東駅の周りは鉄道駅がない今も町の中心といった風景で、店が密集し、道路を行き交う車やスクーターも多い。旧駅の脇にはバスターミナルがあり、今でも交通の要所となっている。
帰りは路線バスで帰る。タクシー代210元(約780円)は距離に比して決して高いと感じないのは日本のタクシーと比べた場合での話で、台湾の公共交通の安さを思うと、バスがあるのならバスに乗った方がいいという気分になる。
バス乗り場には数台のバスが停車していた。上が白で下を黄色に塗り分け、その間にグレーのラインが入っている。光華号に少し似た塗装だ。台東駅に行く便はどれかを係員に確認してから乗ることにする。私は手前のバスを指して「タイトンステーション?」と尋ねた。係員はこのバスだと手前のバスを指した。
車体は普通の路線バス型だが、ドアは前しか開いていない。均一運賃ではないだろうから整理券のようなものがあるのだろうか。いつ発車するかわからないので、バスから降りてターミナルの建物に入って切符を買っている余裕もない。
ステップから乗り込むと、運転手が窓下に設置されている小さな黒い機械を指して何か言った。カードをタッチして乗るのだ。これは日本の整理券式の路線バスでのカード使用時と同じだ。
「ヨウヨウカー?」
尋ねた私に、運転手はそうだと頷いた。私は桃園(タオユェン)空港の駅で買った悠遊卡(ヨウヨウカー)を台北(タイペイ)のMRTで使用して以来に使用した。山に囲まれた田舎町台東でも悠遊卡が使用できるというのは有り難く、便利なアイテムであると認識させられた。
バスは私が乗車するとほどなくしてバス停名台東公車站(タイトンコンチャージャン)を発車した。公車とはバスのことである。時刻は14時20分。タクシーで走ってきたルートより少し市街の外側を走りながら、バスは20分かけて台東火車站(タイトンホーチャージャン)に到着した。火車は汽車、つまり鉄道のことである。