車窓を求めて旅をする⑨ 谷と雪と惜別の炭鉱線 ~石勝線夕張支線・札幌市電~
谷と雪と惜別の炭鉱線 ~石勝線夕張支線・札幌市電~
石勝線夕張支線
函館(はこだて)も室蘭(むろらん)も雪に包まれていたが、旅の二日めの午後に着いた苫小牧(とまこまい)に雪はなかった。太平洋に沿って延びる室蘭本線は苫小牧から一駅先の沼ノ端(ぬまのはた)で札幌方面に向かう千歳(ちとせ)線と分かれ、原野の中に分け入っていった。
私と同行者のTさんが今乗っている室蘭本線の列車の終点は岩見沢だ。冬枯れの草木しかないような原野の先に何があるのか。なぜここに線路が敷かれたのか。答えは今の現地にはない。その先にある。それは炭鉱である。
かつて、岩見沢から苫小牧の区間には空知(そらち)地方の炭鉱が集まっていた。空知地方には石炭輸送を主目的として鉄道路線が何本も建設された。歌志内(うたしない)線、函館本線上砂川支線、幌内(ほろない)線、万字(まんじ)線、夕張(ゆうばり)線、夕張線登川支線。私鉄だと美唄(びばい)鉄道や夕張鉄道に三菱石炭鉱業大夕張(おおゆうばり)鉄道などがある。
それらの炭鉱から石炭を苫小牧港などに運ぶために、この室蘭本線は重要な役割を果たしてきたという。昭和三十年代までの話である。
昭和五十年(1975)に国鉄最後の蒸気機関車牽引列車が廃止された。その最後まで蒸気機関車が走っていたのが、この室蘭本線岩見沢~苫小牧なのである。時代の変化に呑まれて、石炭と共に消えていった蒸機の面影と過去の栄光は、現れる駅のプラットホームの長さと、黒く煤けた跨線橋に残っている。
苫小牧を出て53分、列車は16分遅れの14時20分に追分(おいわけ)駅に到着した。この駅もホームが長い。私たちは乗り換えのため、ここで途中下車する。西日の射すホームから跨線橋を上がって駅舎に向かう。二階建ての横長の駅舎は人の気配が薄く、ベンチが置かれているだけの広い待合室が閑散としていた。
かつて機関区があったという構内は今は雑草の空き地で、駅前に飾られたD51型蒸気機関車の動輪が、空き地に何が存在していたのかを伝える語り部の如く佇んでいた。
追分とはいい駅名だ。ここから幾本もの鉄路が分かれていく様が想像できる。駅の周辺は住宅地となっていた。次の列車の時刻まで家並みの中を歩く。歩いているとコンビニエンスストアが現れた。北海道の各地に店舗展開するセイコーマートだ。今日は2018年の11月30日金曜日。空は青いし、道に雪はないが、それなりに肌寒さはある。だが、この澄んだ空を眺めていると飲みたくなり、サッポロクラシックという道内で主に販売されているビールを買った。
今日泊まる地は夕張である。私自身は夕張は二十年ぶりだった。かつて十万人を超える人口を誇った国内有数の炭鉱の町夕張は、この二十年の間に自治体が財政破綻し、そのイメージは明るいものではなくなっていた。
千歳から石勝(せきしょう)線を経由してやってきた15時18分発の夕張行きは思っていたより乗客の姿があった。キハ40という北海道ではよく見かける白い国鉄型気動車は、一両の車内に二十人以上の客を乗せて広大な農地を走り始めた。
平野から山地が近づくほどに、車窓は少しずつ陰ってきた。家は少ない。ひたすら広い農地ばかりがずっと続いていたが、低い山間に入り、林と川に沿うようになると地面に雪が積もる景色となっていった。
景色が少し開け、新夕張に到着した。この駅は石勝線の本線と夕張支線が分岐する駅で、札幌と道東を結ぶ特急も停車する。石勝線は道東方面の優等列車の所要時間短縮を目指して昭和五十五年(1980)に開業した路線で、追分~新夕張はそれまで存在していた夕張線の線路を使用している。
この駅は夕張線時代は紅葉山(もみじやま)といった。紅葉山では夕張方面とは別に登川支線という短い路線が出ていて、紅葉山の隣駅が楓(かえで)だった。美しい駅名の並びという点に於いて、全国でもトップクラスの並びだが、今は楓駅はなく、紅葉山も改称されてしまった。新夕張駅のはずれに紅葉山の駅名標が保存されていた筈だが、確認をしている間に列車は発車した。
新夕張は小規模ながらも集落としての体裁が整っていた。国道が駅前を通り、店もある。
夕張支線は左にカーブしていきながら石勝線と分かれると、蛇行する夕張川の作り出した谷に築かれた僅かながらの農村の中に入っていった。ひとつめの駅は沼ノ沢(ぬまのさわ)で、無人駅となった駅舎がレストランになっている。
谷あいではあるが、この辺りはまだ平地が広く、線路と並行する道路には家も点在する。地面の雪が深くなってきた。追分に居た頃の青い空はなくなり、空は厚い雲に覆われ、日の短い冬の空はもうすぐ夜を迎えようとしている。着く頃にはかなり暗くなっていそうだ。
沼ノ沢の辺りはまだ道路に家や店が点在している。駅間距離も短くなり、5分で次の南清水沢に着く。駅前に店があるが造りは古く、この路線が石勝線ではなく夕張線だった頃を知っている構えだ。
窓外に清水沢の集落が現れる。北海道らしく整然と区画された道に家が並ぶ。二十年前に初めて夕張に来た時、谷から現れた小さなこの集落に「町」を感じたものだった。その頃は今よりも店があったし、駅には跨線橋があった。
雪が深くなってきた。清水沢駅からは、かつて三菱石炭鉱業大夕張鉄道という私鉄が東に延びていた。もう跡形もないと言っていい状態だが、構内は側線跡の空き地が広がり、只の無人駅ではない風格はまだある。
今、清水沢の東には人工湖とダムが造られ、大夕張の集落も面影がなくなっているようだ。この辺りからは、谷の中に造られた炭鉱住宅があちこちにあり、その多くが今は廃墟になっている。線路から見える住宅跡がすべてではなく、駅前の小集落の先の丘の向こうなどにも存在していたようだ。
清水沢の手前で夕張川と別れた列車は、上り勾配を支流の志幌加別川に沿って往く。集落は途切れ、車窓は山深くなり、当然のように駅間距離も長くなる。次の鹿ノ谷(しかのたに)までは12分ほどかかる。空はだいぶ暗くなってきたが景色はまだ見てとれる。線路と細い道路が山間を地形に沿って左右に曲がっていき、その周辺にわずかながらの平地がある。その平地に鹿ノ谷駅はあった。
16時19分、鹿ノ谷に着いた。追分からは61分が経過している。降りたのは私たちだけで、ホームは雪に覆われていた。夜の入口の青い空の下、雪景色に向かって走り去っていく白い気動車を見送り、雪を踏み締めながら木造駅舎に入った。小さい駅だが待合室は少し広い。かつては駅員がいた雰囲気のする駅舎だ。壁に掲げられた時刻表には片道五本の列車しか書かれていない。これが夕張支線のすべてである。
広さと不釣り合いな八人分しかない椅子にはひとつずつ座布団が置かれ、壁には沿線の絵画や写真が飾られていた。その整い具合に、私は二十年前を思い浮かべている。
二十年前、私は夕刻の夕張を訪れた。降り立った夕張駅前の閑散とした風景に尻込みし、清水沢で泊まろうかと折り返し列車に戻った。しかし、思い直して隣の鹿ノ谷で降りた。ここから夕張駅の間に少し家が点在している。そこで探してから清水沢に向かってもいいと思ったのだ。
鹿ノ谷で降りたのは私と女子高生一人だけだった。彼女は降りてすぐに待合室の掃除を始めた。こういう子がいるのだなと私は感心し、掃除が終わるまで駅構内を撮影してから声を掛けた。宿の所在を聞いてみたのだ。夕張で宿は夕張本町がいいだろうという答えが返ってきた。彼女は親切に候補も挙げてくれ、記念撮影にも応じてくれた。アナログ時代の大らかな世の中だったと今は思う。
鹿ノ谷の駅舎はその頃から変わっていないようだった。いや、飾り付けがされたのだから、二十年前よりも明るくなっていた。地元の女子高生が整え守っていた駅が、今もこうして地元民によって維持されている。胸が熱くなる。だが、この駅はもうすぐ廃止される。夕張支線は2019年3月に役目を終えるのだ。
駅の外に出ると道は雪で覆われていた。多少なりとも除雪がされていたホームと違い、駅前から道路までは雪しかない地面となっている。足首まで雪で埋まりながら、ゆっくりと道路まで歩く。振り返ってみた鹿ノ谷の駅舎は、三角屋根の玄関が愛らしく、青白い夜空と向こうに見える山々を背景に、薄闇の中にひっそりと明かりを灯していた。
さて、私たちは夕張駅を目指して歩いている。二十年前も私はこの道を歩いていた。途中に居酒屋があることを調べてあるので、そこに立ち寄るつもりだったが、寒さと足場の悪さは予想以上だった。当然ながら歩道はまったく除雪されておらず、車道端を歩くしかなかった。それでも車道には雪が少しは積もっている。苦行の様相を呈してきた。
鹿ノ谷から夕張までは1・3キロだから、足場が悪くなければ20分くらいで到達できそうだが、今はそういう季節ではなかった。
そんな私たちを見かねて、一台の車が停まってくれた。北海道の人は親切である。これまでの旅でも何度となく感じていることだ。私たちは親切な地元民のおかげで夕張駅までやってきた。夕張駅は巨大なスキー場ホテルを背後に持つ小さな無人駅で、広いロータリーだけの駅前には人影はない。私たちは洋館風に造られた小さな駅舎に併設されている喫茶店に入った。
店を切り盛りするおばさんが夕張支線の写真が収められたアルバムを見せてくれた。全国からやってきた鉄道ファンからのプレゼントを集めたものだという。四季折々の風景の中を走る国鉄型気動車。かつて炭鉱町だった夕張は自然に溢れた所でもあるのだ。
駅前からバスに乗って夕張本町に向かった。街灯は乏しく、家並みもそう多くない。今日の宿は寂れゆく町の一角に立つ観光客向けの新しいホテルだ。スキー客や富良野あたりの観光に向かう人の拠点として稼働しているという。
夕食は近くの店でと、雪道を歩いてみた。二十年前に泊まった古い木造旅館はもうなくなっていた。その時、女将のおばあさんに紹介されて向かった居酒屋があった。宿の立つ商店街の中にある。商店街はバスが通る道路と坂で一段上がった位置で並行している。店はもうほとんどなくなっていたが、居酒屋は健在だった。玄関には「本日貸切」の紙が貼られていた。
坂を下りてバスが走る道路に戻る。イタリア料理店があった。居酒屋を改築したという店内はレストランというより食堂めいた庶民さがあり、私たちにとっては居心地がよかった。味もよく、ワインも美味しい。満足して店を出ると、夜の谷はより寒さが増していた。
札幌市電
夕張駅の改札前に掲げられたボードに廃止までの日にちが掲示されていて、あと120日であることが知れた。
雪にうずもれた駅前は朝も人影はほとんどない。わずかながらの鉄道ファンがホームにいる。停車している7時08分発は白に黄緑帯のJR北海道色ではなく、白地に窓回りが青く塗られ、窓下にピンクの細い帯が入る塗装だった。これは苫小牧から出ている日高(ひだか)本線の気動車である。日高本線は災害による線路崩壊で苫小牧にほど近い鵡川(むかわ)止まりとなっている。車両が余っているので応援に来ているのだろう。
列車は雪景色の中を走っていく。昨夜も少し降ったらしい。今日は鹿ノ谷以外の駅で降りる。まずは新夕張の手前の沼ノ沢まで行った。
7時27分、谷が広がり始める景色に向かって去っていった気動車を見送り、雪に埋もれたホームを歩いて、併設されている駅舎に向かう。鹿ノ谷と比べて駅舎が長い。かつて事務室があったらしく、そこは今はレストランになっている。東京出身のシェフが出店しているそうだが、まだ開店時間には早かった。
待合室の壁には写真やイラストが飾られ、メッセージカードも貼られてあった。駅前は家や店がわずかに立つ。雲が厚い空からは今にも雪が降ってきそうだ。
沼ノ沢7時53分の夕張行きで二駅先の清水沢に戻る。一面二線のホームは一線が潰されて構内通路が駅舎まで延びていた。二十年前はホームの上に古びた跨線橋が架かっていた。古びていたから撤去してしまったのだろう。
清水沢の駅舎はこれまでの駅と比べて少し大きかった。トイレや自販機も備えている。その自販機の後ろに不自然にくぼんでいる空間は、かつて売店があった場所なのだろう。
切符販売窓口の跡には写真や小物が置かれ、壁には写真やメッセージの他に、清水沢駅の歴史年表や1972年の清水沢集落の航空写真が掲示されている。百棟を超す炭鉱住宅が整然と並んでいる様は圧巻である。最盛期の人口の十分の一程度になってしまった今の夕張からは想像のつかない盛況が、かつて存在していたのだ。
その盛況を伝える手作りマップも掲示されている。昭和56年(1981)の清水沢と題してある。すでに人口減少が著しかった時期にあたるが、今とは違う町並みがそこにある。駅前にはびっしりと店が並び、三菱石炭鉱業大夕張鉄道の線路が南東の方向から分岐して大きくカーブしながら炭鉱住宅の合間を抜けている様子がわかる。
駅前に出てみる。今の清水沢も店は少し残っていて、夕張駅から夕張本町の風景よりは少しだけ町の面影が感じられる。駅前旅館もスナックもある。夕張支線が廃止された後は往時の繁栄を今に伝える貴重な建造物となるのだろう。
バスに乗って南清水沢に出て駅を見学してから新夕張方面に向かう予定だった。だが、清水沢駅の地元民の想いが詰まった展示に目を奪われている内にバスは走っていった。一駅残して去るのは寂しいが、8時37分の列車で夕張支線を後にした。線路はなくなっても、各駅の駅舎は残してほしいと強く思う。数々の展示と共に、ここに鉄道があったこと、ここが繁栄のある町だったことを末永く伝えていってほしいと願った。
清水沢からちょうど一時間半が経過した。もう景色はローカル線ではない。南千歳駅は新千歳空港の隣駅であり、千歳線と石勝線の乗り換え駅である。満員の快速エアポートに乗り込むと、もう都市鉄道の旅となっていた。
この旅の初日に北海道新幹線に乗っていた。これで私はJR北海道の全線に乗車済みとなっていたが、私鉄がまだ一区間残っていた。札幌市電が2015年に開業させた都心線という路線で、距離にしてわずか450メートルほど。この線の開業で市電は環状路線となって利便性が増した。札幌市電には以前乗っているので、この都心線にだけ乗りに行こうと思う。
札幌駅は雪の中にあった。地下街を経由して地下鉄に乗り換えて、大通(おおどおり)駅に向かう。一駅だからすぐに到着した。
ここから市電の乗り場に向かうのだが、地上に出ると雪が強くなっていた。傘は持っていないから、市電の停留場まで早足で向かうしかない。やや迷いながら、西4丁目の停留場に到着した。
以前はこの西4丁目から市内を大きく南に向かって回り込んでから北上して、すすきの停留場を結んでいた。西4丁目とすすきのはまっすぐ歩いたら10分とかからないから、全線を乗り通すのは私のような物好きだけで、さすがに乗り終わった瞬間は自問自答したくなる事案だったが、またこうして市電の奇妙な乗りつぶしにやってきた。
先述したとおり、西4丁目からすすきのまでは約450メートルである。この僅かな区間が開業した結果、環状線が形成され、利用者にとっては便利になったのだから、新路線開業は喜ばしい。しかし開業以来、札幌の地図や路線図を見る度にこの区間に未乗であることが気になり続けてきた。僅かな区間が乗り残っているのは落ち着かないものなのだ。
その区間にようやく乗ることができる。しかし、今や乗りつぶしどころの心境ではない。雪を浴びながらやっとの思いで停留場に着き、やってきた市電に乗り込んだ。市電は新しい車両で快適だったが、じっくりと味わっている時間もなく、わずか5分ですすきのに到着した。これで私は北海道の鉄道全線の完乗を達成した。
地下道を歩いて地下鉄東豊(とうほう)線の豊水(ほうすい)すすきの駅に向かう。目的地は東豊線の終点である福住(ふくずみ)だ。東豊線はミニ地下鉄と呼ばれる車幅の狭い車両で、これはトンネル断面を小さくして建設費を抑える狙いがある。東京の大江戸線、大阪の長堀鶴見緑地線に今里筋線など、全国にいくつか事例のある運行形式である。
福住駅から地上に出ると空は晴れてきた。私たちは札幌ドームに向かって歩いている。歩道は人が繋がり、スタジアムの周囲も列が延びていた。三万人を遥かに超えて満員の観衆が集まったことを知るのは、試合が始まってからのことである。
北海道コンサドーレ札幌の2018ホーム最終戦を堪能し、試合後の挨拶と場内一周まで観て外に出た時は夜空となっていた。今夜の宿は小樽(おたる)である。旅館は手宮(てみや)線の廃線跡のそばに立っているようだ。手宮線は空知地方の炭鉱で採れた石炭を小樽から船で運ぶために建設された鉄道で、北海道でもっとも早く開業した鉄道でもある。
北海道初の鉄道である官営幌内鉄道は、明治十三年(1880)に手宮~札幌が開業し、二年後に幌内炭鉱のある幌内までの開業を果たした。手宮~幌内は91・2キロに及ぶ。
現在、手宮線は小樽市内の観光スポットとして市街地の区間の線路跡が遊歩道として整備されている。明日、こちらを歩いてみる予定だ。手宮駅の跡は小樽市総合博物館になっている。ここに国鉄時代の鉄道車両や資料が多数展示されている。こちらも明日訪問する予定だ。
小樽に着くと、やはり道に雪が積もっていた。上野駅の中央口駅舎を模した駅舎を眺め、駅前通りから市街地に向かう。Tさんが旅館の近くに美味しい寿司屋があると調べてくれたので、今夜はそこに向かうつもりだ。小樽の町中の寿司屋はとても美味しい。クラフトビールでも飲みながら、北海道の鉄道の全線に乗り終わったことを噛み締めたいと思う。
宿に着くと、確かに裏手に線路跡があった。小樽は古い建物が多い。線路跡も風景の中に溶け込んでいるようだった。