2022 ベトナム・タイの旅④ ~ハノイからダナン~
延伸への期待 ~2022年8月4日 ハノイからダナン~
ハノイメトロ
きれいな部屋のホテルだった。これでぐっすりと眠れると思っていたのだが、そうはいかなかった。私の部屋はエレベーターの横にあり、廊下の突き当たりに近い場所にあったが、隣の突き当たりにある部屋が午前0時頃から騒がしくなった。ドアが何度か開き、エレベーターの方から人の声が響き、部屋の方からは物音がしてくる。そんな状態が午前2時くらいまで続いた。今日は木曜日で平日だが、夜半になると人の動きが活発になっていたようだ。
ホテルは旧市街の中にある。料金も手頃だ。休憩料金はもっと手頃であることだろう。そういう用途に使われている気がした。
そういう次第なので微妙に寝不足だ。そこまで神経質ではないつもりだが、物音や人の声がドアの外から聞こえてくれば気になって目が冴える。それを何度か繰り返して朝を迎えたのだ。部屋の隅にひとつだけある小さな窓からは明るい朝の日差しが射し込んでいる。朝の身支度を済ませて、七時半頃に散歩に出た。気分転換というものだ。
ホテルの周辺は朝のラッシュで賑わっている。昨日、ロンビエン駅に向かう途中にこの辺りを歩いているので風景に目新しさはないが、古い街並みに活気がみなぎっているのを見るのは楽しい。そして、今日も暑い。20分くらい歩いて部屋に戻った。
昨夜サークルKで買ったおにぎりを冷蔵庫から取り出してある。当然冷えて固くなっているので、少しテーブルに置いておいたのだ。おにぎりは二つあった。昨日、ホテルの予約の件で活躍したスマホの翻訳アプリはカメラ機能も付いていて、外国語の文字にカメラを向けると画面内で翻訳してくれる。私はおにぎりのラベルにカメラを向けて、書かれてあるベトナム語を確認した。「ひき肉」のおにぎりと「魚バー」のおにぎりであるようだった。
おにぎりの具はまあまあだったが、ご飯はぱさついている。冷やし過ぎたせいかもしれないが、細い米には粘りがなく、食べているとポロポロと落ちてくるのだ。食感は今ひとつなおにぎりだった。
今日はこれから鉄道に乗りに行こうと思っている。私の旅の基本は鉄道やバスに乗って町歩きをすることだから、ベトナムに来て以来ようやく本来の旅ができるという期待と想像に胸を膨らませて、暑い外に出ようと思う。冷蔵庫に入っていた無料の瓶コーラを飲みながら鉄道の駅までの行程を決め、10時過ぎにチェックアウトをした。
これから乗る鉄道はハノイ都市鉄道、通称ハノイメトロというもので、ベトナムで初めての「電車」による鉄道である。私はメトロの起点のカットリン駅に向かう。タクシーで行くのが一番簡単だが、路線バスで行ってみたいと思った。バスは市民と一緒に移動する乗り物だ。街の空気、土地の言葉を直接感じることができる乗り物だと思っている。
土地勘はないので地図アプリで調べてみると、ホテルから徒歩10分弱で、カットリン駅の近くまで行くバスの出ているバス停がある。そこに向かうことにした。
ハノイ旧市街の雑多な街並みを歩いていく。今日はメトロに乗ったあとは空港に向かう予定なので、今回の旅では旧市街の風景はこれで見納めだ。訪問三日目で随分と気持ちが街に馴染んできた。もっと隅々まで歩いていけば新たな発見もあるだろうけれど、それは次の機会に残しておく。多少の未練は再会のために必要な手荷物である。
歩いていくうちに少しだけ沿道から店が減り、家々が並ぶ道にある三角公園の一角にバス停が存在した。そこから23番という路線バスに乗る。バス停は青い板の付いただけの簡素な造りだが、待っている人がいるので間違いないだろう。
10時41分、23番のバスがやってきた。乗車すると、客と雑談をしていたおばさんの車掌が近づいてきて行先を尋ねてきた。私は地図アプリに表示された降りるべきバス停名の部分を見せた。名前が長いので私の拙い発音より正確に伝わるからだ。運賃は7,000ドンという安さだ。約四十円である。
一昨日ノイバイ空港から乗った86番のバスと比べると随分とくたびれた車体のバスだった。車内は空いている。冷房が効いているのが有り難い。車窓は旧市街を抜け、統一鉄道の線路の西側に出た。家並みはずっと続いているが、道幅は旧市街より広くなり、それなりに整備された都市景観となってきた。
乗車してから14分、目的のバス停に着いた。車線の多い大きな道路で、沿道に商店や雑居ビルが並んでいる。バス停にもベンチと日除けの屋根が付いている。
バスを降りると、後ろから降りてきたおばさんが私を呼び止めた。振り向くと、おばさんはバス停の方を指して一言二言と何かを注意してくれている。落し物でもしたかと確認したが、そういう訳でもない。おばさんは注意だけするとそそくさと去っていったから、一体何があったのか不明なままだ。私が行こうとしている場所を推察して「あそこだ」と方向を教えてくれたのだろうか? そんな気がするが、これから向かうカットリン駅はバスが走ってきた道を少し戻る格好となる。或いは、私のバスの降り方に間違いがあったのだろうか? 私もおばさんも同じドアから降りた。なので、それも違うと思われる。結局答えはわからないまま、私は駅に向かった。
駅のある場所は降りたバス停の反対車線側だったので信号のある横断歩道を渡る。ほどなくして大きなガラス張りの駅舎が見えてきた。カットリン駅の場所は大きな交差点の前にあり、駅の入口は二つの道が分かれていく位置にある。駅舎の前には小さな植え込みがあり、ちょっとした待ち合いスペースとなっている。周囲はホテルやビルが立ち、随分と垢抜けた都会の風景が広がっている。メトロの起点にふさわしいとも言えた。
ハノイメトロは2021年11月に開業した新しい鉄道だ。いくつかの路線が計画および建設中で、これから乗る路線は2A号線という。カットリンからイエンギアまでの全長13・1キロの路線である。
改札や切符売場は二階にあり、そこにエスカレーターが通じている。ハノイに来てから空港以外で初めてエスカレーターを見た気がする。脇には電車の正面を描いた大きな記念写真用パネルが立っていた。
二階に上がると隅に二台の券売機がある。タッチパネル式で駅名が書かれた路線図を見て、降りる駅名をタッチして買う方式だ。終点のイエンギアまでは15,000ドン。安いのだが、一日乗車券もあって、こちらは30,000ドン。途中下車もしてみたいので一日乗車券を買ってみようと考えていたが、券売機にはどこにも表記はなく、どうやら窓口で買うようだ。
私が券売機の前で考え込んでいたのを見て駅員が近づいてきた。どこに行きたいのかと尋ねてくる。終点だと指すと、そこを押せば切符は買えると手ぶりで教えてくれる。そうではなく、一日乗車券が欲しいのだがと英語で「ワンデーチケット」「ワンデーパス」と訊いてみたが、駅員には意味が伝わらず、とりあえず切符を買うことにした。券売機から出てきた切符はICカード型だった。
駅構内は広い。いずれもう一路線乗り入れてくる計画だそうだが、それにしても歩いている人の数とバランスが取れていないほど広い。この鉄道は中国が建設に関わっている。駅の面積のゆとりに中国らしさを感じる。
エスカレーターでホームに上がると電車はもう停まっていた。ラッシュ時は6分間隔、それ以外は10分間隔で運転される。平日の午前なので車内は空いている。どこの車両に乗ってもいい感じだが、ホームに立っている駅員にここから乗るよう、階段の前のドアを指される。あまりホームでゆっくりできない雰囲気である。撮影などは後回しにして乗り込んだ。
電車は四両編成で、銀色の車体に窓の上下に緑色のラインが入っている。ドアは一両に四つあり、仕様は完全に通勤型だ。ドアのある場所に立客用のポールが立っているのは諸外国の都市圏電車によくある造りで、座席が一人分ずつ区分されたプラスチック製のロングシートなのもアジアの都市圏電車でよくある仕様だ。
特に前触れもなく、電車はカットリンを11時20分に発車した。高架だから見晴らしはいい。大きな窓から景色を眺める。カットリンに着いた頃から空は曇り始めている。そんなグレーの空の下にコンクリートの古びた集合住宅が道路に沿って並んでいる。そして、その向こうに真新しい鉄筋マンションがそびえている。その対比を眺めながら、この旧市街でもなく、ハノイ駅にも接続していない都市鉄道は新市街を走る電車なのだと理解した。
車窓はしばらく新旧の住宅群を映し出していたが、次第に郊外の風景と変化していく。ちょっとしたショッピングセンターも見えた。駅から歩ける距離にあるから帰りに途中下車して寄ってみようと決める。
電車はいつしか車線の多い道路の中央を高架で走っていた。少し家が減ってきた頃、終点のイエンギアに着く。所要20分。終点まで乗った人は少なく、私を含めて十人もいなかった。
イエンギアの駅前にスーパーマーケットを思わせる横長の建物があるので向かってみた。近づいてみれば、それはバスセンターだった。中距離バスの発着場になっているらしいが、人は少ない。昼食でもできればと建物の中に入ってみたが店はなく、冷房も効いていない薄暗い待合室にベンチがたくさん置かれてあるだけだった。
空はますます曇ってきた。街と郊外の境のような駅前には店の姿がなく、私は雲の厚い空を見上げて駅に戻った。ほどなくして、空から雨が降ってきた。
12時ちょうどにイエンギアを出た電車は、6分でヴァンクァンに着いた。先ほど車内から見えたショッピングセンターの最寄り駅だ。乗車時間が短かったので運賃は10,000ドンだった。
電車の窓に大粒の雨が当たっているのを既に車内で確認でてきていた。降りる気持ちが多少萎えてきているが、ここなら昼食ができる店があるだろうと考えて切符の購入額通りに下車した。乗り越しというのができるのかは知らない。
改札を出て、歩道に下りる通路に向かうと激しい雨が地面を叩いていることが知れた。その激しさはまさにスコールだった。降りた乗客数名は構内で立ち止まって様子を窺っている。先を急ぐ旅でもない私は、少し待ってみようと思い、激しい雨を見つめている。
通路を外に出ると歩道に下りるエレベーターがある。そこに向かって駆け出す青年がいる。そこに辿り着く数秒でずぶ濡れになりそうな雨だった。エレベーターの斜め奥に見えているのは建設途中のビルだ。或いは高層マンションかもしれない。上層階はだいぶ出来上がっているのだが、下の階はまだ柱と床だけの状態で、下だけ眺めていると廃墟のような佇まいだ。剥き出しのコンクリートが雨に濡れて黒ずんで迫力を増している。
30分もあれば止むだろう。そう楽観視していたが、果たしてその通りとなり、だいぶ弱くなってきた頃合いに歩道に下りた。歩いてすぐにショッピングセンターがある。近づいてみるとさほど大きくなく、売場も二階までで上は駐車場のようだ。分類としてはスーパーマーケットだろう。入店するとカフェのような店が少しと、食事ができる店はケンタッキーフライドチキンがあるだけだった。冷房の効いた店内で力なくベンチに腰を下ろした私は、昨日ホアンキエム湖で買ってホテルの冷蔵庫で冷やしておいたコーラを飲み、さてどうするかと思案した。思案したところで選択肢は限られていた。諦めてカットリンに向かうか。カットリン駅の周辺に飲食店がどれだけあるのかはわからない。スマホで調べればいいのだが、調べ過ぎるのは旅をつまらなくすると考えているから、この程度のつまずきで調べたりはしない。
このスーパーマーケットの周辺をもう少し歩いてみるかと考えた。外に出ると雨は完全に上がっていた。案ずるほどもなく、建物の一階の端に肉料理のレストランがあった。
ランチセットのようなものがメニューにあるので、それを注文する。前のテーブルに座る家族連れは焼肉をやっているようだ。できるだけベトナム料理を食べたい気はあるが、少し変化を付けてみるのは悪くない。注文してすぐにコーラと氷入りのグラスとサラダが到着した。旅は野菜が不足しがちだ。有り難いし美味しかった。
出てきたのはキムチが添えられた黄色いチャーハンのような炒めご飯に牛肉のステーキが乗ったもので、味はとても良かった。ただ、肉はすぐに熱を失って冷め、ご飯はぱさついている。私は今朝ホテルで食べたコンビニのおにぎりを思い出した。あの食感は冷蔵庫で冷やし過ぎたからだとも言い切れないようだ。こういうものなのかもしれない。
お腹がいっぱいになって店を出る。会計は89,000ドンだった。そこそこいい値段だが、ボリュームがあったので割高感はない。日本円に換算すれば約五百円だ。十分過ぎるほど安い。だが、ベトナム滞在も三日目を迎えて金銭感覚は現地基準に寄り添いつつある。
空腹が満たされると歩くのが億劫になり、先ほどのスーパーマーケットに再び入り、店の隅に置かれたベンチで少し涼んだ。周囲にマンションが目立つので、その住人が買い物に来る店なのだろう。平日の昼下がりはとても静かで、警備員も店員も清掃員ものんびりと暇と向き合っている。
駅に戻ると時計の針は午後2時に迫ろうとしていた。13時55分の電車に乗ってカットリンを目指す。所要15分、運賃12,000ドン。曇っていた空は起点駅に帰ってくると晴れてきた。
スコールに遭って思うように途中下車ができていないまま、ハノイメトロの短い旅を終えてカットリン駅の外に出た。メトロはまだ発展途上という感じだ。並行する道路の交通量を考えると、まだ市民の足としては浸透していない印象を受けるし、何より足となるほど路線網が充実してもいない。これからの鉄道なのだろう。旅の者としては空港と街を結ぶ鉄道を作ってほしくはあるが、それは計画に入っているようだ。
ノイバイ空港
カットリンからはノイバイ空港に向かう。今夜の宿泊先はダナンで、そこまでは飛行機で向かう。統一鉄道だと夜行列車で夕方に発ち一晩かけて着くダナンに、飛行機だと一時間強で着いてしまう。運賃もLCCだと安い。鉄道旅が好きな私だが飛行機を選んでいる。
カットリンから空港まで行く路線バスがある。90番という系統で、駅前にバス停はないので少し歩くのだが、スコール開けの炎天下を道に迷いたくないのでバス停の位置を確認した。バスが走る道路は見当が付いているので、地図アプリを使ってバス停までの近道を探り、出た結果に従い、私は駅前の大きな交差点を渡って駅の北に出た。
近道は川のように小さく左右にうねっている路地だった。入口は雑居ビルに挟まれた都市風景だったが、数メートル奥に入ると様相は一変し、古びた民家が建ち並ぶ静かな住宅路となった。
左にある築何十年という趣きの古い洋館のような建物はホテルだろうか。右には日本語学校がある。左に店頭にお菓子の袋をたくさんぶら下げた雑貨屋が開いている。右には先生と生徒が笑顔で手を繋いでいる絵が塀に描かれた小さな学校が立っている。
短いながらも楽しい路地が過ぎ、また大きな道路が現れた。ここも信号がある横断歩道があった。旧市街と比べると歩きやすい。空港の方向は左手で、ベトナムの道路は右側通行だから横断歩道を渡る。
政府機関の建物だろうか、重厚な玄関の雰囲気でそう感じる建物がある。地図アプリによると、この近くにバス停はある筈だが見当たらない。今歩いている歩道は片側一車線の道路で、先ほどから何台かバスは走り去っていった。だがバス停は見当たらない。
スマホの画面を凝視し、目の前の景色を見回す。私が歩いている道路と並行して、先ほど横断歩道で渡った大きな道路が並行している。そちらには歩道がなかったのでここを歩いているのだが、よく見ると半段高いその大きな道路に上がる小さな階段があった。こういう旧道めいた細い道と新道めいた道路が並行する構造は昨日「移転しました」と告げられたホテルの周辺の風景と似ている。
小さな階段を上がると、そこには車道が膨らみバス停が設けられていた。ここを通るバスの系統番号についての表記がどこにもないが、ベンチも屋根も付いた、れっきとしたバス停だった。先客は若い女性が一人いる。待つ人がいるのは心強い。だが、バスはなかなかやってこない。
地図アプリは便利である。便利であるがゆえに、使い過ぎると旅が味気ないものになりそうだが、ここにバスが来るのか少し不安になってきた私はアプリを確認した。便利なアプリだから、空港行きのバスの到着予定時刻が表示され、バスが遅れていることも教えてくれた。
こういう時の数分を気にしてしまうのは日本人の悪い癖なのだろう。先客の女性は一応バスを気にするそぶりは見せつつも、日傘片手に悠々とベンチに座っている。
バスは定刻よりも10分以上遅れてやってきた。発車は15時ちょうどだったから、或いは次の便がやってきて定刻に発車したのかもしれないが、細かいことは気にする必要はない。私はバスに乗ることができたのだ。
バスは割と混んでいた。一番後方の席が空いていたのでそこに腰を下ろし、座席に背負ってきた小型リュックサックを置いた。私の座った左側の席は南向きで今はちょうど日差しが直撃していたが、右側は先客がいた。
前方から車掌がやってきた。少しふっくらとした体形はハノイ初日の夜に私を市中振り回したバイクタクシーの運転手と似ていた。懐かしい気分で行先を告げる。「ノイバイエアポート」。青年車掌は頷き切符を発行してくれた。9,000ドンだから激安だ。初日の到着時に空港からハノイ駅まで乗ったバスの五分の一の金額である。日本円にするのは野暮に思えてくるが一応書くと約五十一円である。
車掌は親切にも「降りるバス停は終点だ」というような内容の言葉を英語で教えてくれた。ベトナムの商売人は愛想笑いを浮かべたりはしないが、対応は親切である。言葉にもマニュアルめいた響きがなく、普段着な口調を感じるので相手の人柄が伝わってくる趣きがあり、私はそこに好感を持っている。
さて、運賃が安いと感心している私だったが、安いことには理由があるのが世の常だ。このバスの安さにも理由があった。冷房装置は付いているのだが車体は結構古く、路面のギャップを拾っては大きく縦に揺れた。道路の状態も決して良くはない。私は最後尾の席に座っているから特に縦揺れの衝撃が大きく、快適とは言い難いバスだった。地図アプリは乗車のバス停からノイバイ空港までは50分ほどかかると表示している。
車内に座っている乗客は大学生くらいの若者が多く荷物も身軽なものだったから、もしかすると途中に大学があって、そこで多くの乗客は降りるかもしれないと推測した。席が空いたらもう少し前方に移りたいと思う。
バスはこまめに街中のバス停に停車していき、一人二人と乗せては、荒れた路面に車体を揺らしながら郊外を目指した。いつしか席は埋まり、私はリュックサックを膝で抱えている。
見覚えのある場所が現れた。高速道路だ。空港からバスに乗った時にここを通ってきた。幸い、高速道路に入ると路面はだいぶ整った状態になり、乗り心地の悪さからはだいぶ解放された。だが、相変わらず窓際は暑い。私の前に座る女の子は雨具のような上着を頭から被っている。
カットリン駅からの徒歩以来、私は何も飲んでいない。暑さで喉が渇き、空港到着が待ち遠しくなってきた。高速道路に入ったということは車内はこのまま満席で終点に向かうのだろう。大学は途中に存在しなかった。
高速道路に入って15分ほどが経過した頃、料金所が現れ、バスはターミナルの前にやってきた。私の周囲にいた若者も続々と席を立った。荷物が身軽なのは、おそらく誰かの出迎えにやってきたからだろう。私も彼らに続いて腰を上げたが、ドアの前まで来ると車掌が「まだだよ」という仕草を見せ、前方の席にまだ座っている乗客の足元に置かれたスーツケースを指した。
15時40分、ノイバイ空港に到着した。地図アプリの表示した時間よりも早く着いたので私は嬉しくなり、車掌に礼を言ってバスを降りた。細く低いホームがあり、頭上をターミナルビルの二階から延びる人工地盤が覆っている。見覚えのある風景だった。
すでにひとつの疑念が頭をもたげていたが、念の為、ビルの中に入ってみた。出発便の表示されたボードを見る。行先は全て外国の地名だった。
喉が乾いている。気を取り直して売店を探す。ビールが飲みたくなっていた。一階に並ぶ店を物色していると
タイガービールが見つかった。値段は53,000ドンだという。「高い」とは思う。昨夜サークルKでサイゴンビールを買った時は16,000ドンだった。これが空港価格というものだろうか。だが、気にしてもいられない。冷房の効いたターミナルビルのベンチに座って、暑さを忘れるためにビールを開けた。
国際線ターミナルと国内線ターミナルとを結ぶ無料シャトルバスが出ていると、どこかで読んだ記憶がある。一休みを終えた私は、改めて外に出てタクシーや送迎車の並ぶホームにやってきた。シャトルバスの乗り場はホームに出てすぐ右にあった。国内線に乗り継ぐ人たちが十人ほど待っている。そして、抜け目なく白タクの呼び込みの男が声を掛けていく。僅かな距離だが、稼げるものは積極的に稼ごうという訳だ。
20分以上待った頃、ようやくバスは姿を現し、乗ってみれば3分で国内線ターミナルに着いた。少し遠回りをしてしまったが、私の乗る便は夕方遅い時間なので慌てる必要はない。そもそも90番バスの車掌に「ドメスティックターミナル」だと告げなかった私が悪いのだ。外国人が空港に向かうのだから国際線ターミナルに向かうと想定するのは当然すぎるほど当然である。
国際線に比べると国内線のターミナルは混んでいた。出発便を眺めてみても、次々と飛行機がベトナム各地に飛んでいるのがわかる。知らない地名もあるが、やはり行先はホーチミンシティが多い。ベトナム最大の都市だ。ハノイからは1700キロほど離れているから移動は飛行機が主役となるのだろう。LCCの存在は大きい。安い運賃で飛行機に乗れる会社があるからこそ、国内移動が容易になっている。その恩恵を今から私も受けるのだ。
これから向かうダナンまではLCCのベトジェットエアに乗る。福岡からハノイまでに乗った会社だ。ハノイからダナンまでは、私が予約した時の運賃で七千六百六十円と安かった。
ベトジェットエアは出発三時間前からチェックインができる筈だが、出発便案内にはまだそのサインが表示されていない。出発まで二時間以上あるので、空いているベンチを見つけて休むことにした。
座ったベンチは連絡通路のような所で、通路上に一カ所水漏れしているのか注意を促す立札が置かれている。空は変わらず明るいが、少しずつ夕方の色に傾いてきた。
出発便案内にはチェックイン中と表示されていないが、時間的にいつまでもしておかないのは問題なので一時間前にカウンターへ行く。係のお兄さんにダナン行きだと伝えると七番へと誘導された。カウンターはさほど混んでいない。
無事にチェックインが終わり、保安検査場に向かう。国内線なので、ここを抜ければ搭乗ゲートだ。荷物をトレイに乗せ、先を行こうとした私を若い検査官が少し声を荒げて制した。
「日本人、靴を脱げ!」
日本人のベトナム語読みは知っていたので前半はおそらく間違いない。後半は想像である。私は靴を脱ぎ忘れていた。国内線なのにそこまでするのかと思ったが、それは私の認識不足なのだろう。彼が足元を指しているのでサンダルを注意しているとわかり、速やかに脱いで検査に向かう。勿論、特に問題なく通過した。
ノイバイ空港は首都の空港にしては規模は少し小さい。売店の数も思ったほどは多くない。今から乗る便は18時45分発で、飲み物でも買っておきたい。日本で売られている「いろはす」という水のベトナム版が20,000ドン。空港価格である。
こんな遅い時間に移動するのは本意ではなかった。実は予約した時点では一時間半早い時刻だったのだが、半月ほど前に時刻が変更されたという連絡をもらった。予約し直すのが面倒に思えたのでそのままにしたが、日が暮れてきた窓外を見ていると、明るいうちにダナンに着きたかったと今更思う。
ダナン
私の乗ったベトジェットエアVJ519便は予定時刻より15分遅れてハノイのノイバイ空港を出発した。機内はベトナム人以外の人も乗っている。通路側の席だった私に、窓側と換えませんかと提案してきた二つ隣の席の女性はタイ人だろうか。後ろの席にいるカップルからは日本語の会話が聞こえてくる。
窓外はもう夜だから景色は夜景になっている。ノイバイ空港の周囲は街ではないので明かりが少ない。飛び立ってしまえば外は夜間飛行の世界となった。
することなく音楽を聴く。音楽用に使い古しのスマホを持参している。今使っているスマホにイヤホン端子がないのである。私は有線イヤホン派だ。ダナンまでは一時間ほどの飛行となるようだ。その短い飛行時間に合わせて、坂本真綾さんの「30minutes night flight」を聴く。全曲合わせてちょうど30分で構成されているミニアルバムだ。
私とタイ人らしき女性の間は空いている。全体的に七割くらいの搭乗率だ。到着まで30分くらいとなった頃、地面の明かりが見え始めた。その数はあまり多くない。今はベトナムの農村の上を飛んでいるのだろうか。そんなことを思っているうちに明かりの数は少しずつ増えていき、ここはダナンの街に違いないという確信を持った頃に飛行機は高度を下げ始めた。
出発時刻の遅れをそのままに、20時20分に飛行機はダナン空港に着いた。ダナンはベトナム中部最大の街である。
到着ゲートを出ると、すぐに出口が近づいた。外にあるトイレは古びた造りでローカル空港な雰囲気を漂わせているが、この空港は国際空港である。だが、空港から市街地に直行するわかりやすいバス路線はなく、旅行者は自ずとタクシーを頼ることになる。その状況を突くように、ぼったくりタクシーも横行しているという噂も聞いていたので身構えながらタクシー乗り場に向かう。だが、夜も更けてきたからか、想像していたより客引きは激しくなく、停まっているタクシー自体も決して多くなかった。
どうしたものかと思いながら立っている私に、早速客引きが寄ってきた。見ていると結構ベトナム人も白タクに誘導されて乗り込んでいるではないか。だが、言葉も通じない私がそのような領域に足を踏み込む訳にもいかず、客引きに「Gtab」だと断りを入れて追い払う。客引きのおじさんは残念そうな表情で、Grabなら向こうだと駐車場を指した。タクシー乗り場までは乗り入れできないようだ。
予約を済ませ、待つほどなくGrabの車と合流した。運転手は私がスマホに入力した行先が今一つわからないらしく、確認を求めてきた。私の行先は予約したホテルの前だ。予約サイトでは三ツ星ホテルと紹介されている。運転手は深く追求してくることなく、夜闇に包まれた空港から車を発車させた。
ダナン空港から市街はすぐで、ホテルの場所によっては歩いてもいける距離に街が開けているが、私が予約したホテルはビーチに近いので賑わうストリートを抜け、大きな川を越え、少し薄暗いストリートに出た。薄暗くはあるが、この辺りがビーチに通じるストリートでもある。当然、飲食店も多い。
車はそんなストリートから右折し、路地に入っていき、カフェの前で停止した。停止する前に一度停まって運転手は備え付けてあるスマホの地図画面を確認している。ホテルはこの辺りだからここで良かった。路地に深く入ってもらうのは申し訳なくもある。料金は79,000ドン。ドアを開けると、カフェから出てきた家族連れの小さい女の子がドアを押さえてくれた。狭い場所なので気を遣ってくれたのだろう。ベトナム人は優しい。
さて、ホテルを探そうと、改めてスマホの地図アプリを確認するが、画面が指し示す場所にそれらしき名の建物はない。運転手が首を捻った理由がやっと理解できた。
地図が示す場所の向かいに大きな建物が立っている。勝手口のような所が開いていて、そこに若いコックが休憩していたので、ホテルの名を告げてスマホの画面を見せた。彼は案内すると笑顔で私を招いた。招かれた先は、この大きな建物の玄関であり、その先にあるフロントだった。見てみれば確かにホテルのようであった。玄関前には噴水まである。随分と良いホテルを予約したものだ。自分の目利きに自分で感心しながら、コックに礼を言ってフロントに向かい、パスポートと予約サイトの予約票をプリントしたものを提示した。
フロントに立っていたのはホテルマンらしさの漂う制服を着た中年男性だ。笑顔で私を迎えてくれたが、パスポートと予約票を見て首を傾げ、このホテルではないと告げた。
二日続けて予約内容に間違いがあったのかと、私は己の不運を内心嘆きながら、では、予約したホテルはどこにあるのかと尋ねた。ホテルマンは即答せず、少しの思案ののち、そばにいた若い男性スタッフを呼び寄せ、私を案内するように指示をした。
外は南国の割に涼しい風が吹いている。ハノイと比べると交通量も少なめで静かな道路だ。今夜は落ち着いた夜が過ごせそうだ。そう思っていた。私と一緒にホテルを出たスタッフは、予約票を見て首を傾げたが、当たりをつけたらしく力強く頷いた。
「日本人ですか?」
彼は流暢な日本語で尋ねてきた。「そうです」と答えると彼は嬉しそうな顔を見せ、ベトナムには旅行で来たのか、何日目か、ダナンの前はどこにいたのかなどと訊いてきた。彼の日本語の上手さを褒めると、「仕事で大阪に住んでいたのです」と彼は答えた。
彼が当たりをつけた場所は、スマホの地図が示していた場所だった。そこには何も建物はない。首を捻った彼は、近くにホテルがあるので、そこに行ってみようと提案した。
「ダナンには何日いますか?」
「実は、明日の夜にタイ、タイランドに向かうんです」
遠慮気味にそう告げた私に、彼は残念そうな顔を見せた。ダナンにもう少し滞在して楽しんでほしい。そういう顔だった。申し訳なく思う。ダナンはビーチリゾートで知られる観光の盛んな街だ。見るべき場所もいくつもある。一日で去る街ではない。でも、ベトナムはいい国だと私は思う。道路が歩きにくいのを除けば、これまで楽しいことばかりの日々を送っている。
「ベトナムはいい所ですね」
そう言った私に、彼はどんな点が気に入ったかを尋ねてきた。料理が美味しい。人が優しい。そう答える。街の古びた雰囲気が美しいというのは私の主観だから言わないでおいた。
彼が改めて目指した場所は、地図が示した場所から空港に向かって一本西にある道を曲がった所だった。曲がってすぐの所に少しくたびれた鉄筋の建物がある。
「あった!」
彼の弾んだ声に看板を確認した。ホテル名が合っていた。ここに違いない。そこは、先ほど入ったホテルからは規模も新しさも比べものにならない建物だった。心なしか彼も気の毒そうな表情を浮かべている。ベトナム人は正直だ。
「料金は知っているのですか?」
私はネットでもう予約してあるので知っていると答えた。仕方がないな。そういう顔を見せつつ、無事にホテルに案内できた安堵の表情を彼は浮かべた。
「ホテル見つかってよかったです。いい旅をしてください」
お礼は受け取らない。そんな意思なのだろう。少し離れた距離で、暗がりの脇道に立って彼はそう言って何度も頭を下げた。頭を下げるべき私も何度も下げ、何度も「ありがとう。カムオン」と言って手を振った。
ホテルの一階はローカル食堂のような造りで、そこに地元客が酒のテーブルを開いていた。恰幅の少しいい青年が私の姿に立ち上がり、手際よくパスポートの確認を済ませてルームキーを手渡してくれた。そばにいた若い助手のような男性がルームサービスの水のペットボトルを私に一本渡すと、青年はすばやく奥に向かい、冷蔵庫から冷えた水のペットボトルを一本持ってきてくれた。
館内は細長い造りで部屋数はさして多くない。リゾート地とあってドアは古いヨーロッパの洋館を思わせる木製のものだが、くたびれた真鍮の鍵穴の開け閉めが難しく、このあともドアを開け閉めする度に私は苦戦した。
部屋は狭くもなく広くもない。タイル張りの床の先に小さな窓があり、その前にベッドがある。ドアの横に洗面所があり、脇にガラス戸のトイレとシャワーが独立して設置されている。冷蔵庫はあるが、机は小さく、荷物置きの上に家庭用ハンガーがぶら下がっている。
日本で言えば民宿のような部屋だが、一泊千六百八十三円だから仕方がない。その値段で一瞬でも夢を見た自分が悪いのだ。
エアコンは一応あったが、リモコンを押して温度設定をしても冷風を送る蓋は開かなかった。
打ちひしがれた気分でストリートに出てみたが、時刻はもう午後10時に近い。開いている飲食店は飲み屋ばかりだ。ホテルに向かう道の曲がり角にもオープンタイプの飲み屋があった。
ストリートのはずれまで歩いて、向かいの歩道に移り、まだ開いていたケンタッキーフライドチキンに入った。レジの女の子は3ピースしかもう無いと言ったので仕方なくそれを買う。もう選択をする気力が萎え始めている。ベトナムの会社が運営するコンビニが一軒あったので、そこでビールと何かを買って帰ることにしたが、つまみになるめぼしいものはなく、自棄酒気味にビールを二本買った。ハイネケンとサッポロ、どちらも外国のビールである。日本のビールを選んでいるあたり、少しだけ日本が懐かしくなっているのは、先ほど久しぶりに日本語で会話したからだろうか。
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