平成旅情列車⑥ 呉の海と人々
呉の海と人々
※記事写真は仁方港
仁方
2004年、夏の終わりを感じる九月初旬に中国地方から福岡県佐賀県と巡る旅をした。呉、佐賀、宇部、津山と初めて泊まる町ばかりを辿った四泊五日の旅だった。
青春18きっぷを使っての旅だったが、出発は東海道新幹線を使って新大阪に向かった。新大阪からは在来線を乗り継いで西に向かう。最初に降りた駅は姫路だ。金曜日の昼下がり、快晴の姫路を歩いた私は、少し遅めの昼食を姫路駅のホームにある駅そばで摂った。姫路の駅そばは麺が黄色いことで知られる。メニューによると、黄色い麺は「えきそば」となっていて、普通の麺は「和そば」という。ここに来るのは初めてではなかったので、今回は「和そば」を選んだ。お値段三百二十円。
姫路14時01分の山陽本線普通列車三原行きに乗り、更に西に向かっていく。終点まで2時間57分という、普通列車にしては長い距離を走る列車である。兵庫県から岡山県を抜けて広島県に入ると、空は曇りとなっていた。乗り換えで降りたのは、広島県東部に位置する糸崎駅だ。
糸崎は随分と長いホームを持つ駅で、往時の鉄道の繁栄を偲ばせてくれる駅だった。新幹線が開業する前の時代、本州と九州を結ぶ特急や急行が山陽本線を行き来し、それらの列車は長い編成を誇っていたのだ。当時を体験した訳ではない私にとって、この長いホームは歴史の証人ともいうべき史跡のような存在に思えた。
糸崎では始発の呉線の普通列車に乗り換える。呉線の起点は次の三原だが、一駅手前から発車するこの列車に乗って席を確保しておこうという算段だ。呉線は瀬戸内の海岸線に沿って走る区間が多い。海が見える進行方向左側の席に座った。
17時02分に糸崎を発車した電車は、城の敷地を横切って建築されたという三原駅でまとまった人数を乗せて呉線に入った。空は陽がとうに傾き始めていて、雲に遮られた太陽によって海が強い青色に染まっている。車窓から見える瀬戸内海にはその青色の海面が広がり、そこには大小様々な形の島々が浮かぶ。海の手前には、ややくたびれた機体を持つ大型クレーンがそびえる造船所や、屋根の錆びた港湾施設が立つ。更に手前には、「昭和」の香りが色濃く残る家並みが点在する。
私はまっすぐ呉には行かず、どこかの駅で途中下車をしようと思い立ち、仁方(にかた)という駅で降りた。かつて、ここ仁方から愛媛県の堀江という所までを国鉄の連絡船が結んでいた。連絡船が発着していた港を見てみたい。
18時20分、日が暮れてきた小さな町のはずれにこじんまりと立つ駅舎を出た。駅から港に延びる道は広々としていて、周辺は家は少なく倉庫のような建物があって、いかにも港の近くといった風情の眺めだ。そんな道をまっすぐに10分ほど歩くと、仁方港に着いた。連絡船はもうないけれど、瀬戸内海を往くフェリーが出ている港には小さな待合所がある。海の近くまで迫る山々に遮られて、すでに空の色は夜の準備を始め、青色から紺色へと変わり始めている。私は持参のAPSフィルムコンパクトカメラ「ミノルタ ベクティス2000」を構え、夜になりかけの黒い海を撮り始めた。すると、突然フィルムが巻き戻されてしまった。どうやら壊れてしまったらしい。仕方がないので、サブ機として用意していたデジカメ「ミノルタ ディマージュXi」で撮り直した。
港には人影はほとんどなく、車の姿も少ない。夜の港の風情を楽しむ気分よりも、寂しさとも怖さともつかない冷えた感情が湧き起こり、暗い道の上に私は立ちすくんだ。ここに鉄道連絡船があった時代は、どんな夜景が存在していたのだろうか。仁方と堀江を結ぶ仁堀(にほり)航路が廃止されたのは昭和五十七年(1982)。瀬戸大橋が完成して宇野と高松を結ぶ宇高航路の鉄道連絡船が廃止される六年前だ。廃止時は一日二往復、所要時間一時間四十分。
呉
仁方19時04分発の電車は16分で呉に着いた。呉は戦国時代は村上水軍、近現代は帝国海軍や海上自衛隊の拠点となってきた町で、かつて戦艦大和などを造っていた実績もある造船の町であり、鉄鋼などが盛んな工業都市である。
呉は人口二十万人を超える町なので、駅を降りた瞬間から活気を感じる。地方都市としては中規模の駅前ロータリーに、駅前に立つ百貨店、建物が密集している。交通量がなかなか多い駅前通りを歩き、沿道の店を眺めているとカメラ屋があったので、そこでレンズ付きフィルムを購入した。先ほど壊れてしまったコンパクトカメラの代わりだ。コニカミノルタ製のごく普通のレンズ付きフィルムで、いわゆる使い捨てカメラと呼ばれている商品のひとつだ。この手の商品はフジフィルム製が知られているが、ミノルタの商品ばかりを持ち歩いている旅となっている。ミノルタは戦中に帝国海軍の光学部品を製造していた会社でもある。
帰宅の車で混む道路を横目に、本日の宿泊地である町中の温泉ホテルを目指す。しかし、町中にあるが故に場所がわかりにくく、沿道の店で道を聞いて回る結果になった。
一軒目、いかにも地域に根差しているといった構えの酒屋に入ってみる。話を聞いてくれた女性の店員が誰かに似ている。90年代に活動していたアイドルグループ東京パフォーマンスドールの米光美保(広島県出身)だと気づいた。その女性が呉の方言と思われる言葉を交えながら、親切に店の外まで出て方向を教えてくれた。
目指すホテルは駅から少し離れているようだった。方向はわかったが、どうやら表通りに面していないようで、ホテルの近くまで来たところで改めて確認する。
二軒目、ガソリンスタンドの男性店員たちは、みんなで道順を考えてくれた。呉はいい町の予感がする。そして、私は無事にホテルに辿り着いた。交通量の多い表通りから少し住宅地に入った所にホテルはあった。
ホテルに荷物を置いた私は、屋台村を目指して出かけた。ホテルの近くを流れる堺川のそばに蔵本通りという道路があり、そこに屋台が並んでいるという。
蔵本通りに出ると、雰囲気でそれとなく屋台村となっている区域がわかった。近づいていくと、車が行き交う道路の歩道に屋台が並んでいて、食欲をくすぐるいい匂いが漂っている。
呉の屋台村は市の協力で屋台に水道を通していて、衛生面にも気を遣っているという。店のジャンルも様々で、煮込みやおでんの店、ラーメン、中華料理、洋食系まで、様々な店が並んでいる。どの店に入るか悩んだ末、気さくな雰囲気の主人のいるラーメン屋に入って「テールラーメン」を注文する。牛テールスープのラーメンで、濃厚な味で美味しかった。お値段八百円。生ビールは五百円。
夜の呉は港町だけあって飲み屋が目につく。川沿いには、屋形船風に川を眺めながら飲める店があったり、色々な店が建ち並んでいる。歩いているうちに、街角に立つ一軒の地鶏屋が気になって入ってみた。
その店は小さな店内に所狭しとテーブルが並んだ店で、元気な主人と店員の活気で明るい店だった。壁には軽く百品目を超える焼酎の瓶が並んでいる。
地鶏盛り合わせを頼むと、店員のお姉さんは親切に、タレの味わい方を教えてくれた。味は大変美味で、一緒に注文した瓶ビールとよく合った。他に冷奴も頼んで、合計千五百円でお釣りがくる、財布に優しい店だった。
繁華街が明るく賑わっている町はいいものだ。夜風が心地よい呉の夜。いい所だと思いながら宿に帰った。
翌朝、早起きして呉駅まで歩いた。本日は佐賀県の鳥栖市にある鳥栖スタジアムでJリーグのサガン鳥栖の試合を観て佐賀市に宿泊する。試合は夜なので急ぐ旅ではなく、鳥栖までは在来線の普通列車を乗り継ぎながら向かうつもりだ。
朝の呉市街は早起きな通学の高校生や通勤の人で、それなりに通行がある。山を背景に港と海岸沿いに広がる市街には、どこか懐かしい雰囲気が漂い、夜に歩いた時とは違う眺めに、もう少し歩いてみたい気持ちにさせてくれる。二日目の予定が確定していなければ呉でのんびりしてみたかった。
呉7時29分発の広島方面に向かう電車は国鉄時代の標準型通勤電車103系で、座席がロングシートだから車窓を眺めるには不向きだが、少しくたびれた外観と内装に懐かしさを覚える。昔は関東でもこの型の電車がたくさん走っていた。通勤電車の代名詞だった時代があった。この電車も以前はどこかの通勤路線で活躍していた車両だろう。
昨夜、呉の駅前通りで買ったレンズ付きフィルムで、この古い通勤電車を撮影する。壊れてしまったコンパクトカメラと比べたら画質は落ちるだろうが、この古い電車を写すには、くっきりと鮮明なものよりも、少し柔らかいくらいがちょうどいいように思いながらレンズを向けた。
電車の床下から油の匂いが漂っている。その機械感溢れる佇まいを好ましく思いながら、親指でフィルム巻き上げダイヤルを回している。そんな手作業が妙に心に馴染む朝のホームである。