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台湾鉄路紀行 第三日後半(嘉義~台南)

   嘉義

 二水(アーショイ)を出て約一時間、16時18分に嘉義(ジャーイー)に到着した。大きな地方都市の駅の風格がある。プラットホームは二面四線だが幅があり、乗客の数も多くて活気を感じる駅だからであるが、駅舎の風格がそう感じさせてくれるのだろう。天井の高い駅舎の壁には五枚の大きなアーチ窓がはめ込まれている。外に出て眺めると、白い洋館のような外見は歴史と気風を感じるものであった。
 嘉義というと思い浮かべることが二つある。
 1931(昭和六)年の全国中等学校優勝野球大会、いわゆる夏の甲子園に台湾代表として、ここ嘉義の学校が出場した。嘉義(かぎ)農林学校である。
 松山商業で監督を務めた経歴を持つ近藤兵太郎監督の指導のもと、選手たちは力をつけて、遂に甲子園出場を勝ち取ったのである。チームには日本人もいれば、台湾人ももちろんいる。そして、日本人から高砂族と呼ばれた原住民族のひとつであるアミ族の選手もいた。当時、日本人以外は野球が上手ではないという風潮と差別があった中で、チームは民族の垣根を越えて団結し、大会を勝ち進んでいく。そして、遂には決勝戦にまで進出したのである。決勝は中京商業に敗れたが、台湾勢初の準優勝という快挙は地元を熱狂させ、日本の野球ファンも大いに沸いたという。
 私が嘉義という地名を知ったのは、子供の頃に読んだ甲子園の歴史を綴った高校野球の本である。そこに嘉義農林の快挙が載っていたのだ。時代を超え、私が書物でこの昭和初期の劇的な出来事を知ったように、物語は更に多くの人に知られることになる。2014年に台湾映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」が公開されたのだ。公開記念でイベントも開催され、台湾でも日本でも嘉義農林(ユニフォームの胸のロゴがKANOであった)が話題となったのだった。この映画には、台湾の治水工事において多大な功績を残した技術者八田與一(はったよいち)が、台湾大会で優勝して甲子園出場を決めたチームと会う場面も盛り込まれている。
 嘉義の駅前は想像よりも、ずっと賑わいのあるものだった。少し古びではいるが商業ビルが建ち並び、道路には多くのスクーターと車が行き交っている。活気に溢れる地方都市であった。
 嘉義でもうひとつ思い浮かべるのは阿里山鉄道こと阿里山森林鉄路(アーリーシャンセンリンティエルー)である。台湾中央山地にある台湾最高峰玉山(標高3952メートル)に隣接する18の高山からなる阿里山地方に向かって走るローカル線であり、独立山(ドゥーリーシャン)駅周辺の三重ループや連続スイッチバックなど、海抜30メートルの嘉義駅から2216メートルの阿里山駅まで登っていく阿里山線を始めとし、阿里山地区に支線も持つ総延長85キロほどの本格登山鉄道である。
 駅前の案内板を見ると、駅から少し歩いたところに阿里山鉄道の車両を展示している車庫があるようだ。私は嘉義の町を歩いてみることにした。
 阿里山鉄道の線路横に細い道がある。しばらく歩くと行き止まりとなり、私は駅前通りに出た。交通量の多いこの道路は右に曲がっていく。私は道路を横断し、商店街の間の路地に入っていった。そこも二階建て三階建ての住居兼商店が並んでおり、何かわからないが食品を作っている作業所や、バイクの修理屋などもあった。店と店の間に更に細い路地があり、そこでは子供が声を上げて路上で遊んでいる。どこか懐かしさをおぼえる光景が路地に存在していた。
 歩いているうちに阿里山鉄道の車庫の位置が不確かになっていったが、敢えてスマートフォンの地図アプリで確認はせずに、私は嘉義の路地と商店街を歩きまわった。ここには20世紀の風景がほどよいバランスで現在に存在している。ほどよいバランスというのは要するに、スマートフォンショップや今風のドラッグストアも点在する中で、建物の造りであるとか、路地の家や店の玄関先の開放感などが懐古的な眺めを見せてくれるているということなのだ。
 西日を方角の頼りとして商店街を歩き回っているうちに嘉義駅前に帰ってきた。駅舎内にある指定券券売機で次に乗る自強号(ツーチャンハオ)の切符を買う。今夜の宿泊地である台南(タイナン)まで139元。台南までは自強号なら一時間とかからない距離である。
 駅舎の中に阿里山鉄道の切符販売窓口があり、その上には大きな観光宣伝写真が掲げられている。しかし、窓口はすべて閉まっている。本日の嘉義発の列車はもうない。
 今回の旅の計画を練るにあたって、阿里山鉄道に乗るかどうかは大いに悩んだ。阿里山鉄道そのものは鉄道ファンならば、いや、鉄道ファンでなくとも楽しめるローカル線である。軽便鉄道の小型客車が標高2000メートル級の山地へ登っていくのだ。景色もよいであろう。だが、現在阿里山鉄道は災害不通区間が存在しており、全線に乗ることは出来ない。阿里山鉄道に乗るとなると、その所要時間的に阿里山に泊まる必要もあった。私は、阿里山鉄道が全線復旧を遂げてから嘉義を再訪して乗ろうと決め、今回の乗車は見送った。だが、阿里山鉄道のホームは見ておきたかった。
 阿里山鉄道の嘉義駅ホームは台鉄のホームを間借りしているような存在感の薄さであった。駅舎に面した台鉄の第一月台(デイイーユエタイ)(1番線ホーム)のはずれに、切欠き式で阿里山鉄道のホームが用意されている。手前には待合用の個席が並び、乗り場の入口にはささやかながら飾り付けもしてあった。
 ホーム上から線路を覗きこむと、軽便鉄道ならではの幅の狭い二本のレールが延びている。軌間は762ミリであるから、台鉄の1067ミリ、高鉄や台北MRTの1435ミリよりずっと狭い。この狭い線路の上を機関車に牽引された小ぶりな客車が走っていくのだ。起点と終点の標高差2000メートル以上の山間を走っていくのだ。次こそは乗ってみたいと思う。

 太陽はかなり傾いてきた。ホームの上の屋根に丸い黄昏の光が重なり始めている。ホーム上には列車を待つ人が多い。区間車(チュージェンチャー)からは学生が次々と降り立った。私が乗るのは特急に相当する自強号だから学生客はいないだろうとは思うが、ホームで待つ人は大学生くらいの若者が多い。
 17時26分、自強号129次が嘉義駅の第一月台に入線してきた。昨日の朝、台北駅から乗った自強号と同じプッシュプルトレインタイプである。前後に配置した機関車が客車を牽引する方式の列車だ。この自強号は台南までの途中停車駅は新営(シンイン)のみとなる。
 車内は思いのほか混んでいた。座席指定券を購入しておいてよかったと胸をなでおろしながら、私は5号車9番の席に座っている。窓際である。
 嘉義の町は自強号が南に向かうほどに少しずつ農村へ景色を変えていく。北回帰線公園はどのあたりだろうか? と私は窓外に視線を凝らした。嘉義は北回帰線が通っている町で、以前は公園の近くに台鉄の北回帰線駅が存在した。この北回帰線の鉄道駅は将来形を変えて復活するようである。観光需要を当て込んでのものらしい。北回帰線という実体を持たない存在がどこまで観光資源となっているのかは不明だが、走り始めて10分も経過した頃、車窓はにわかに農村風景の度合いが強まってきた。
 嘉義地方はサトウキビの産地である。そのため、この地方では各地に製糖会社が設けられ、製糖鉄道が造られた。それらの製糖鉄道は軽便鉄道規格ながら、貨物輸送だけでなく旅客列車を走らせる路線も少なからずあった。貨物輸送の主役が鉄道からトラックに代わってしまった現代においても製糖鉄道は存在し、観光鉄道としてトロッコ客車風の旅客列車を走らせている鉄道もいくつかある。
 17時41分に到着した新営にも製糖鉄道が保存されている。新営駅を起点として、台湾糖業鉄道八翁線(バーウォンシェン)に観光トロッコ列車が走っている。旅の計画時に、こういった製糖鉄道にもいくつか乗ってみたいと考えていた。新営の製糖鉄道も候補のひとつだった。だが、こういった製糖鉄道の類は観光鉄道に変化しているため、土休日のみ運転であったり、平日は団体客のみであったりと行程に組み入れるのが難しかった。阿里山鉄道と同様、次回の訪台で機会を作るしかない。
 製糖鉄道は軽便鉄道なので客車も貨車も小型である。台湾では軽便鉄道の車両を五分車と呼んでいる。台湾語で「ゴーフンチア」と呼ぶそうである。標準軌(1435ミリ)の約半分である軌間762ミリの鉄道の車両ということで名付けられたようである。
 サトウキビの名産地の農村地帯を自強号は快走する。陽は沈み、空は青みを増してきた。だが、完全な日没までには台南に着けそうである。空の色が濃くなるにつれて車窓は少しずつ町の眺めとなり、マンションが目立ち始めると台南が近いことを知らせた。

   台南

 台南(タイナン)駅の月台(ユエタイ)(プラットホーム)は大勢の乗客でごった返していた。私を含め、多数の乗客が自強号から下車したが、車内は満員となって高雄(カオション)方面へ向かっていった。グレー地にオレンジと赤のラインが入った特急車両は暮れる町のホームから、ゆっくりと発車していった。
 台南は、台北(タイペイ)とその都市圏、高雄、台中(タイジョン)に次ぐ規模を誇る都市である。駅舎もそんな都市の玄関口にふさわしく重厚な古い駅なのだが、改札を出た頃には空はだいぶ夜に近くなっていた。駅舎と駅前の見物は明日の朝にするとして、私は予約したホテルに向かって歩き始めた。ホテルは駅から少し歩いた、繁華街に近い所に位置している。
 駅前はバス乗り場があり、ロータリーから駅前通りが三方向に延びている。人通りも多く、駅前通りを越えるには横断歩道ではなく地下道を使うようになっていたりと、想像以上に賑わいを感じる駅前である。
 エレベーターも備えた地下道を通って、左斜めに延びる道に入り、駅前通り商店街を歩いていく。少し歩いたところに二階建ての書店を見つけた。台湾に来てから書店を見かけたのは初めてだった。私は台湾の地図帳があれば欲しいと思っている。入店してみることにした。
 店内は昔ながらの…という言葉が似合う内装だったが来店客も多く、在庫もそれなりに豊富である。さっそく地図コーナーに向かったが、折り畳み式の地図などはあっても地図帳形式の地図はなかった。地図が置かれている棚には観光ガイドブックも置かれている。台湾のものは勿論、日本のガイドブックがとても多い。台湾の鉄道について紹介した書籍もある。
 観光として鉄道に乗るという行為は、台湾でも少しずつ広まりつつあるらしい。確かに昨日乗った内湾線(ネイワンシェン)も、今日乗った集集線(ジージーシェン)も、乗客の多くは観光客であった。週末ともなれば、この両線も観光客で賑わうようであるし、製糖鉄道を観光トロッコ列車として保存していることも、鉄道を観光資源として活用しようという発想が窺える。観光客を鉄道で楽しませようということに関しては、日本以上に積極的かもしれない。
 書店をひととおり見て回ってみた。雑誌コーナーの面積が日本より狭く、その代わり、小説や参考書のコーナーが広い。歴史小説と書かれた棚の近くに「軽小説」という棚がある。何かと思ってよく見れば、いわゆる「ライトノベル」のことであった。台湾でも「萌え」は人気である。そういえば、先ほど嘉義(ジャーイー)のホーム売店でも萌え系コミックが売られているのを見かけた。
 台湾の商店街の歩道の部分には屋根が架かっている。これは台北でも台中でもそうであったし、ここ台南でもそうである。店舗の数は驚くほど多い。店が途切れることなく並んでいる。それも道一本だけが発展している訳ではなく、表通りの道という道に店が並んでいるのだ。駅からホテルまでは2キロ弱といった距離だが、そこに至るまでに百軒どころの数ではない店先を見ることになりそうだ。
 やってきたホテルは台南の繁華街の表通りから少しはずれた道に面して立っていたが、通りに案内看板を出しているほどの宿なので、構えは小さいながらも玄関は立派な造りであった。建物は古めかしい内装だが、宿泊費が日本円で三千円台なのはそれが理由だろう。昨夜の台中で泊まったホテルは名前が英語だったが、ここは英語と台湾国語の併記であり、「大飯店」を名乗っている。
 フロントには女性が二人立っていた。一人はピンクと白の制服を着ているが、もう一人の子は黄色いTシャツ姿だ。予約サイトでは「日本語対応可」となっていたが、私のパスポートを見て前に出てきたのはTシャツの子の方であった。
 正社員らしき制服の子は日本語はまったく解さないらしく、無言のまま笑顔で私のキャリーケースをエレベーターの前まで運んでくれた。台湾はチップの習慣はないとガイドブックにあったが、どうすべきかと考えているうちに乗り込む状態となった。
 部屋はとても広かった。今回の旅で予約した宿の部屋はすべてダブルベッドを一人で使用するという内容だが、この宿はダブルベッドの周囲にも充分な空間がある。三千円台でこの広さなら多少造りが古くても大満足だ。建物は古くても室内は清潔に保たれている。
 少しくつろいでこれからの計画を練ってから、私は部屋を出た。
 一階に下りると、エレベーター脇に町の地図が貼り出されてある事に気づいた。なんとはなしに眺めていると、ピンクと白の制服を着た方のスタッフがやってきて「どうぞ」と手招きする。招かれるままにフロントに向かうと、黄色Tシャツを着た方のスタッフが台南の中心街の地図を私に見せ、「ドコニイクノデスカ?」と尋ねてきた。
 はっきりと決めている行先は実はない。なんとなく行ってみたいのは神農街という老街(ラオジェ)だ。老街とは古い商店街のような意味で、台南には老街がいくつもある。だから、中心街をあてなく彷徨(さまよ)うのも悪くないと考えていた。だが、何か目的地は伝えた方が話も早いだろう。私は神農街という古い店が並ぶ通りを検討していた。だから、その旨を伝えようと思う。
「しんのうがいに行きたいんですが」
 日本語を話せる黄色Tシャツの子は首を捻った。台湾の地名は現地の読みで覚えている。なるべく地名は日本語読みはしたくない。理由は自分が地理好きであるからだが、肝心の神農街をなんと読むのかを忘れてしまっていた。私はスマートフォンを取り出し、先ほど部屋で検索していた時の画面を表示してみせた。
 黄色Tシャツの子はしばらく考えこむ仕草をしたあと、何やら独り言をつぶやき、手元の地図を示しながらカウンターに身を乗り出しながら、マーカーで線を引き始めた。
「ココガコノホテル」
 ホテルから線を引いて神農街までの道を説明してくれた。それほどの距離ではない。このホテルを予約した理由も、料金の安さと各繁華街へのアクセスのよさであった。
 彼女は単に線を引くだけではなく、親切丁寧に道順を説明してくれた。純朴そうな外見で、チェックインの時には高校生のアルバイトがスタッフをやっているのか? と内心驚いたが、対応はこれまでのホテルのスタッフの中で一番プロフェッショナルである。制服を着ていないので、実際のところもアルバイトなのかもしれないが、真摯な対応だ。

   台南市街

 女性スタッフ二人に見送られ、夜の台南(タイナン)を歩き始めた。時計の針は七時半を回ったくらいのところである。台南はとにかく店が多い。そして、いずれの店も古めかしい。台南は17世紀のオランダ統治時代に町が築かれた古都であり、寺院も多いことから「台湾の京都」と日本では紹介されることも多い。
 ホテルからまっすぐ神農街(シェンノンジェ)へは行かず、駅の方角に戻るようにホテルの周囲をぐるりと回ってみた。店が並ぶ一角に北極殿という廟(びょう)がある。主神に北極玄天上帝を祀っているという事は後から調べて知った。朱塗りではなく黒を基調とした門の廟である。この廟に参拝し、神農街を目指して更に町歩きをしているうちに、南沙宮という看板と中華提灯の下がった参道に出た。細い道で、夜の今は暗く静かだ。その道のすぐ傍に、これもまた細い道の商店街があった。街灯は薄暗く、並ぶ店はいずれもとにかく古い。奥に向かって店が並ぶ小さな市場まである。
 神農街へ行きたいと思った理由は、こういう古い建物が並ぶ風景を見たいからだった。台南は古都である。こういう風景がもっとあるに違いない。勢いづいた私は、スマートフォンの地図アプリは使わずに、この台南の繁華街をあてなく歩いてみることにした。
 歩いてみれば様々である。大きな通りに出ればファストフードやカフェもあるし、惣菜屋のような店もある。赤い派手な装飾の店がある。近づいてみれば「結婚禮品館」という看板を出した店であり、つまりが婚礼品の店である。古都らしく仏像を売る店もいくつかあった。民芸品の店もある。
 店先を眺めながら歩いているだけでも楽しい。台南は楽しいところだなと足取りも軽くなる。だが、食堂のような形式の店が見当たらない。
 一泊めの台北は夜市(イエシー)に行き、ホテルの前の居酒屋で少し飲んだ、二泊めの台中はファストフード風の店でカレーライスを食べた。三泊めの台南では食堂に入ってみたかった。相変わらず台湾国語による店員とのやりとりは覚束ないが、台湾の食堂は品名が書かれた注文票によって注文を行う形式が一般的だという。昼に集集(ジージー)で牛肉麺(ニュウロウミェン)を食べた際もそうだった。
 このまま目ぼしい店が見つからなければ今夜もファストフード風の店にでも行くしかない。そんな事を考え始めると焦りも生じてきた。通りに美味しそうなフルーツデザートの店やアイスクリームの店がある。だが、今はデザートよりディナーである。

 歩いているうちに八時半を回り、いつしか繁華街のはずれのような所に出てきた。店よりも家の方が多い。引き返そうとした私は一軒の灯りを見つけた。すがる気持ちで店に吸い込まれた。
 小さな店だった。店員はおばさんだけだ。そのおばさんが私に歩み寄った。
「ニイハオ」
「你好(ニイハオ)」
 おばさんはここに座れと壁際の席を案内し、台湾国語で何やら言いながら壁に貼られた紙を指差ししている。そこには「牛肉鍋」と「豚肉鍋」と書かれてあるから、どうやら私は火鍋の店に入ったらしい。
「牛肉は昼に食べたから、豚肉かな」
 私は独り言を呟きながら「豚肉鍋」と書かれてある方を指差した。だが、おばさんは尚も何か尋ねてくる。鍋と書かれた下にも色々と単語が縦に並んでいるから、味付けやトッピングを尋ねているのだろう。だが、そこに書かれてある単語は私の台湾国語の知識の外にある単語であった。
「日本人の方ですか?」
 困り果てている二人の背中に男性の声が届いた。振り返ると、店内に唯一いる先客である男女二人組のテーブルに座る男性が、にこやかに語りかけているのが見えた。流暢な日本語だが地元の人らしい。
「はい。日本から来ました」
「私が説明します」
 男性はこちらにやってきて、壁に貼られた品目を説明してくれた。肉につけるタレについての解説も受け、私は豚肉鍋一人前に特製の辛くないタレ、トッピングとして春雨(はるさめ)を追加し、空腹であることを告げてご飯もお願いした。彼がそれを台湾国語に訳しておばさんに伝える。
「OK」
 おばさんはようやく笑顔を見せて厨房に入っていく。
「飲み物はここにあります」
 男性は冷蔵庫の扉を開けて、これが緑茶、これは麦茶だが台湾の麦茶は甘いのだと説明してくれた。小皿の類もここから自由に取る。会計の時にまとめて精算だと教わる。ビールが飲みたい。暑くて喉も乾いたし、鍋を食べながら飲むものといえばビールだろうと思う。だが、残念ながら酒類はない。台湾の人はあまり酒を飲まないことは知っている。
「日本のどこから来ました?」
 席に座ったタイミングで男性が尋ねてきた。テーブルは反対側の壁際にある。二組しか客がいないので、おばさんが離したのだろう。
「神奈川から来ました」
「ああ、神奈川ですか」
 彼の日本語はとてもきれいである。発音もアクセントも違和感がない。耳を澄ましているだけだと日本人が喋っているようだ。日本に留学経験があるのか、それとも日本で働いていた経験があるのか。年齢はまだ二十代後半くらいだろうか。色々と尋ねてみたかったが、連れの女性との会話を遮るのは無粋である。私は聞かれたことだけ答えて、あとはすぐに出てきた鍋と向き合った。
 鍋の汁はあっさりめで、それでいて確かな味わいがあった。豚肉もレバーも白菜も春雨も美味い。ペットボトルの甘い麦茶を飲みながら、熱い肉と野菜を食しているうちに、私の救世主となってくれた男性も帰っていった。立ち上がって礼を言い、テーブルに戻る。鍋の量は結構あり、煮立って汁が減ってくると良い頃合いにおばさんが継ぎ足しにやってくる。大喰らいという訳もなく猫舌でもある私は随分と時間をかけて完食した。麦茶は半分ほど残っている。会計のため席を立った。
 おばさんは私のテーブルを見ながら精算をして、紙に370元と書くと、一品ずつの値段を書き示しながら説明してくれ、麦茶は持ち帰っていいとゼスチャーで教えてくれた。日本円で約1390円。安い。
「シエシエ」
 おばさんも明るい顔を向ける。
「謝謝(シエシエ)」
 台湾の人は日本人と比べ、愛想笑いは基本ない。言葉の通じない日本人相手に、料理を商いとする者として誠実に接してくれた。特に何か会話した訳でもなく、笑顔を向けられた訳でもない。だが、温かい気持ちになって、この下町食堂の風情を持った店を名残り惜しく出た。

 店を出た時は九時半くらいになっていた。ホテルに帰ったあともやるべき事があった。洗濯である。
 今夜のホテルは予約サイトの概要欄によると、ランドリー有(あり)ということになっていた。先ほど出かける際にエレベーターなどを確認したかぎりでは、ランドリーは無いように思えた。台湾国語でコインランドリーの事は自助洗という事は予め調べておいた。スマートフォンの画面に「自助洗」と書きホテルに戻ると、フロントには例の日本語の話せる黄色Tシャツの女の子がいた。だが、質問の意図がわからなかったのか少しの間(ま)が発生した。コインランドリーという単語は通じなかった。私が服を指して手を回す仕草をすると理解してくれ、9階にあると教えてくれた。
 三日分の洗濯ものを持って9階に向かう。館内は静まりかえっている。私以外に泊まっている人はいるのだろうか。そんな事を思わせてくれる静けさである。
 エレベーターで最上階まで上がり、客室の廊下を抜けて階段を上がる。先ほど黄色Tシャツの子が教えてくれた通りに歩くと、薄暗い階段が現れ、上がっていくと屋上に出た。
 屋上といっても頭上に簡素な屋根が架かっている。非常灯のような頼りない灯りだけが光っている中を歩くと、ビアガーデンだったのか脇にテーブルがいくつか並んだままになっていた。狭い屋上なので10メートルと歩かないうちに突き当たりとなり、その横に一台だけ古めかしい洗濯機が置かれてあった。そこに洗濯機があるとわかったのは、手前に物干し用ロープが吊るしてあるからである。従業員用の洗濯機を希望者に使用させているのだろうと想像した。
 洗濯機の脇はトイレとなっているが使用禁止となっている。コイン投入口はないので無料らしいが、洗剤が見当たらない。近くのコンビニエンスストアで買ってくるしかないようだ。
 その時、黄色Tシャツの子が現れた。無事に辿りつけたか様子を見に来たらしい。やり方が今一つ不明瞭な洗濯機であるが、スイッチ類に番号が振られてある。彼女も操作に関しては今ひとつ理解していないようだったが、書かれてある台湾国語を読み、数字の順番に押していけば大丈夫だと教えてくれた。
 洗剤について尋ねてみた。洗剤は物干しスペースの脇に、容器に入って置かれてあった。


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