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平成旅情列車⑦ 無人駅の駅弁売り

無人駅の駅弁売り
※写真は磐越西線の車内から見た阿賀野川

     喜多方

 元新聞記者で、鉄道旅行の指南や紀行、鉄道への提言などの著書を数多く発表し、自身をレイルウェイライターと称して70年代から90年代にかけて精力的に活動されていた種村直樹さんの鉄道紀行「郷愁の鈍行列車」に、磐越西線(ばんえつさいせん)の話が載っている。磐越西線は福島県の郡山と新潟県の新津を結ぶ全長175・6キロのローカル線だ。途中、会津若松や喜多方(きたかた)といった観光地を通り、猪苗代(いなわしろ)湖や磐梯(ばんだい)山が車窓に展開する風光明媚な路線である。
 磐越西線には私も春夏冬に何度か乗ったが、思い出深い駅がある。

 平成六年(1994)7月の暑い日。青春18きっぷを持った私は、福島県の郡山から12時35分発の磐越西線の快速ばんだい7号に乗り込んだ。ばんだいは元急行用の電車を使用していた。急行用車両とは、車体両端に設けられたドアにデッキ部が設けられ、車内は四人掛けの向い合わせクロスシートが並んでいるのが標準的な仕様となる。そんな車内は観光客で混雑し、私は猪苗代まで座れなかった。
 13時29分、終点の会津若松のホームに降りると、開いたドアから高原の涼しさが感じられた猪苗代付近と異なり、体感気温は数度上がっていた。会津若松のある会津盆地は盆地特有の気候で風が生暖かく、じっとしていても汗が流れていく。
 ここからはローカル鈍行に乗り継ぐ。13時47分発の列車は国鉄型気動車の二両編成で、快速の混雑が幻であったかのように空いている車内は地元の人ばかりだった。盆地の農村の中を走っていった列車は喜多方に14時07分に着いた。昼食がまだだった私は喜多方で途中下車をすることにして、明る過ぎるくらいに真っ青な空の下に立つ喜多方駅の駅前に出た。
 さして広くないロータリーに、派手さのない構えが好ましい土産物屋などが並ぶ駅前は歩いている人が少ない。山を遠景に見る町並みは建物が低く、のどかな田舎町の風情が心に沁みる。
 喜多方は蔵とラーメンが有名な町だから、どこかの店に入ってみようと考えた。駅前を歩いていくと早速ラーメン店がある。暑いので歩き回って店を決めるつもりもなく、明るい構えの店だったので入ってみた。
 店内には来店した有名人のサインがたくさん飾られている。私の足は半歩下がりかけたが、とりあえず空いているテーブルに着いた。しかし、いつまでたっても店員がやってこない。混んでいて忙しいという風でもない。何分経っただろうか、面倒になってきた私は店を出た。立腹したというより、こういう対応をしてくる店に味の期待ができなかったからだ。
 気を取り直して、駅飴通りをもう少し歩く。私はそれほど汗かきでもないが、歩くにつれて汗が止まらなくなってくる。涼しげな街路樹の脇に小さな店を見つけ、そこを選んでみる。
 店内に入ると、学生さんは割引などと品書きに書いてある、町の食堂風な店だ。店員も明るく、注文してほどなくしてラーメンが運ばれてきた。鶏ガラのダシが効いたつゆが旨く、麺のコシもあるラーメンを食べると、美味さに再び汗が止まらない。

     日出谷

 喜多方から磐越西線は非電化区間となる。つまり架線がなく電車は走れないため、喜多方から新津の間は気動車が使用されている。14時56分発の列車はクロスシートにロングシートが混在した内装を持つ近郊形気動車だった。
 ディーゼルエンジンをうならせながら列車は盆地から山間へと入っていく。喜多方駅前の土産物店でワンカップの地酒を買ってきていた。「会津ほまれ 姫さゆり」とラベルにある。そんな優雅な名前の酒を飲み、窓を開けて風を受ける。冷房の付いていない車両なのだ。そういえば、先述の種村直樹さんの紀行にも、酒を飲みながらローカル列車に揺られている描写がよく登場する。この組み合わせ、相性がいいのだろう。
 車内は会津若松か喜多方で買い物をしてきた風な中高生が明るい声を弾ませている。夏休みの昼下がりの明るい車内は、農村の小駅に停まる度に乗客が減っていき、福島県から新潟県に入った頃には、すっかり閑散とした車内となっていった。
 新潟県に入って二駅目の日出谷(ひでや)で降りる。時刻は15時53分。山に囲まれた狭い平地に立つ駅には島式ホームが一面あり、長さもそれなりに長い。
 日出谷は大正三年(1914)十一月に、磐越西線(当時は岩越線)の延伸開業によって誕生した駅で、この開業によって会津側と線路がつながって全線開業となった。
 日出谷は当時寒村だったが、周辺の駅と比べて平地面積がとれる地であったため、ここに蒸気機関車用の各設備が設置された。このため、蒸気機関車に牽引されてやってきた列車は、この日出谷で機関車の給水作業を行い、停車時間は長く設定された。それを受けて、駅開業で誕生した駅前旅館が駅弁の販売を開始した。山間の小駅で駅弁が売られるのは珍しいが、長い停車時間もあってよく売れたという。
 やがて蒸気機関車の時代は終わり、気動車によって列車が運行されるようになり、木炭の積み出しで栄えたという日出谷の貨物の取扱いも昭和四十八年(1973)に終了すると、静かな村の小駅となっていき、平成五年(1993)に駅は無人駅となった。この旅の前年のことである。
 この駅で駅弁が売られていることは時刻表の記載で知っていた私は、観光地でもなく大きな町の駅でもないこの駅で駅弁が売られている事実が以前から気になっていた。地図で確認しても、駅周辺に集落があるくらいで、阿賀野川流域の小さな農村といった印象だった。
 列車から降りてホームに立つと、駅弁やジュースやお菓子の入ったケースを提げた売り子のお兄さんがいた。しかし、列車は私を含めてわすがな乗客を降ろすと、そそくさと発車していき、結局誰も何も買わずじまいで、駅前にある店へ帰っていくお兄さんの後ろ姿は、どこか寂しげだった。
 向かい合わせの一面二線のホームから線路横を見れば、そこは雑草の茂る空き地となっている。かつて、蒸気機関車の転車台や給水塔があった跡地だろう。機関車の時代が終わり、列車の停車時間が短くなっても、機関車時代の名残りのごとく駅弁売りが続けられているのだった。

 農協の事務所が入っているコンクリートの駅舎は、無人駅となって一年ほどとあって、狭い待合室に面した窓口の跡にまだ現役の雰囲気があった。駅前に出ると、わずかながらの商店を連ねて道がまっすぐ延びている。道はゆるい下り勾配となって阿賀野川の川岸につながっている。
 集落は山に囲まれ、平地上に農地が開けた農村という風景だが、山が低いので夕方が近い太陽はまだ山並みに隠れず、辺りを柔らかく照らしている。だから「日出谷」という地名なのだろうと想像する。
 川岸に着くと、阿賀野川は護岸されておらず、自然の姿を残してゆったりと豊富な水が流れている。人影はなく、河原もない。水流と樹木が同化したような緑色の景色がそこにある。
 のんびりと佇むには座ってくつろぐ場所もなく、川を眺められる飲食店などという観光地めいたものがあるような所でもない。だが、自然なままの姿で流れる川はひたすら圧巻だった。水深はどれほどあるのだろうか。山中だから実際は深すぎない程度なのかもしれないが、河原がないためか深く感じられる。
 駅に戻ってきた。日出谷の景色は落ち着くが、腰を落ち着けられる店などがないので移動を考える。新津および新潟方面の列車にはまだ時間があるので、喜多方方面に一駅戻ってみることにした。ホームで列車を待っていると、再び駅弁売りのお兄さんが現れたので駅弁「とりめし」を買う。六百円。
 日出谷16時50分発の列車で八分。日出谷より更に小さな農村風景を見せる豊実(とよみ)に着く。ホームから細い地下通路を通って、とても小さいコンクリート駅舎を出た。
 豊実は福島県境のそばの駅で、日出谷と同様に阿賀野川が近くを流れているが、新津方面の列車は二十分後にやってくるので、川までは行かずに駅の周辺集落を少し歩くだけにした。線路と阿賀野川との間に国道が通り、家がそこに集中している。後で知ったことだが旅館もあるという。
 新津方面の列車は定刻から五分遅れの17時15分にやってきた。二両編成の近郊形気動車は空いている。列車は日出谷駅に到着した。ホームには今回も駅弁売りのお兄さんが立っている。駅弁の売上が気になる私は、その様子を注視した。結果、前の席の人がお菓子や飲み物を買い、支払いが終わるのを待っていたかのように、列車は静かに発車した。結局、駅弁は買われなかった。
 後方に去っていく日出谷駅のホームを見送り、なんとも言えない気分で、先ほど買った日出谷の駅弁を開けた。かわいい雌鶏の絵が描かれた包み紙、へぎでできた容器。炒り卵とかしわのそぼろご飯。あまりに素朴な駅弁のその見た目どおりに、味も素朴で、どこか懐かしい味がした。ローカル線によく合う素朴な駅弁だった。窓外に視線を移せば、ひたすら山を見上げながら阿賀野川の悠々とした流れに列車は寄り添っている。
 列車は温泉町鹿瀬(かのせ)や津川を過ぎ、やがて越後平野に入っていく。平野に出た頃には空にも夜が近づき始めた。車窓は田園と家並みに変わっていき、山間の無人駅の風景は遠くなっていった。私は沈む陽に、明日はもっと駅弁が売れることを祈りながら、町が近づき乗客が増えてきた車内で午後を振り返っている。
 18時40分、列車は新津に着いた。新津からは二十分ほどの距離にある新潟に出て、今夜は夜行快速ムーンライト新宿行きで帰路に就く。

 日出谷駅での駅弁販売は平成二十二年(2010)に廃止となった。ただし、磐越西線にSL列車が運転される日は日出谷にSL列車が停車し、臨時の駅弁販売もされるという。

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