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車窓を求めて旅をする④ 赤い電車に会いにいく ~名鉄蒲郡線・近鉄生駒鋼索線~

赤い電車に会いにいく ~名鉄蒲郡線・近鉄生駒鋼索線~

     名鉄蒲郡線

 快速ムーンライトながらは夜の延長上にあるプラットホームに滑り込んでいった。時計を見ると5時19分。春の早朝は肌寒かった。今日は2017年3月23日。天気はおそらく晴れ。
 名古屋で降りた乗客は少なかった。ほとんどの人は終点の大垣まで乗り、更に西を目指すのだろう。普段は東京と伊豆を結ぶ特急として走っている白と緑の国鉄型車両が、先を急ぐように名古屋駅を離れていった。
 寝不足気味の頭で静まり返った構内を歩く。夜行列車に乗り、こんな早朝から活動しているのは、二泊三日で愛知県から大阪府にかけての未乗路線に乗るためである。
 外に出て、名鉄(めいてつ)百貨店の脇に向かう。歩行者はほぼいない。灯りが駅の入口があることを示している。地下に下りた。
 三千百円の一日乗車券を買う。名鉄こと名古屋鉄道は路線の規模、つまり営業キロ数が日本の私鉄第三位の444・2キロを誇るのだから、この価格は破格値といってよいだろう。
 改札を抜け地下ホームに向かった。名鉄名古屋駅は一日三十万人以上の乗降客が利用する大ターミナルで、複雑な名鉄の路線網の各方面から次々と電車がやってくる駅だ。電車が発車するとすぐに次の電車がやってくる。そんな忙しい駅だが、ホームは三面二線しかない。線路の間に降車用および特急乗車用のホームが一面と、線路の両脇に一面ずつ。これで一時間に片側三十本ほどの電車を捌いている。
 ホームが一面ずつしかないのに行先も種別も複雑であるため、停止位置を少しずつずらして、行先と種別に分けた乗車位置を用意している。ホーム上には岐阜やら犬山やらと行先が書かれて色分けされた行燈(あんどん)があり、乗客はそこに並ぶ。次にやってくる電車の行燈が点灯する仕組みとなっている。
 複雑な運用で、しかもやってくる電車の種類もバラエティに富んでいる。ホームで電車を眺めていても飽きない駅だが、今は早朝なので運転間隔も開いていて、そこまでの複雑さはない。待つほどなくやってきた普通列車名鉄岐阜行きに乗り込む。車内は早起きの通勤客が少し乗っていた。
 乗り込んだ電車の車体は赤一色に塗られている。スカーレットといって炎の色だという。名鉄といえば、この赤い電車と沿線民に認識されてきたが、近年はアルミ車体の銀色地に赤帯の電車が量産されて、赤の面積は減ってしまった。個性を感じる外装の電車が多い鉄道だったが、製造コスト、整備性の良さなどが重視された結果の今なのかもしれない。
 個性的なのは色だけでなく車内も同様だった。名鉄は伝統的に転換式のクロスシートを採用してきた。向きが変えられる二人掛け座席である。これも今や少なくなり、通勤型のロングシートが主流になっている。今、乗っているのはその中間のような車両で、向きが変えられない二人座席とロングシートが混在している。
 名鉄には二十もの路線がある。今日は、まだ未乗の七路線に乗る予定だ。電車は地上に出て名古屋市の郊外に向かい、11分で須ケ口(すかぐち)に着いた。ここで津島(つしま)線に乗り換える。未乗路線のひとつめである。
 ようやく空は明るくなってきた。津島で尾西(びさい)線に乗り換えて南に向かい、海抜マイナス地帯に位置する弥富(やとみ)で折り返し、再び津島を過ぎて名鉄一宮(めいてついちのみや)にやってきた。名古屋本線と接する大きな高架駅で、ここで朝食のおにぎりを買って、また尾西線に乗る。尾西線は名鉄一宮を境に系統が分かれていて、この先も北西に向かって玉ノ井(たまのい)という所まで延びている。玉ノ井と聞くと永井荷風ながいかふう)の小説の舞台になった東京下町の私娼窟(ししょうくつ)を連想するが、こちらは田園地帯ののどかな終着駅だった。
 名鉄一宮に戻り、本線の電車に乗って競馬場で知られる笠松に向かう。木曽川(きそがわ)を渡り岐阜県に入った。笠松からは竹鼻(たけはな)線に乗り換える。目指すは竹鼻線の末端にある未乗路線の羽島(はしま)線であるが、羽島線は途中駅のないわずか1・3キロの路線で、終点の新羽島は東海道新幹線岐阜羽島駅の駅前という素っ気のない路線だ。岐阜羽島は開業から五十年を過ぎた駅だが、駅前にはさほどの賑わいはない。一日三千人に満たない利用者数の駅で、岐阜市から新幹線に乗る人の多くが、便利な名古屋に出てしまう結果だろう。せっかくの新幹線連絡線羽島線も四両編成を持て余した乗車率だった。

 名鉄岐阜から乗った電車は転換クロスシートだった。窓は固定式で横引きカーテンだから、ちょっとした旅行気分に浸れる内装である。田園と遠くに広がる美濃の山地を眺めているうちに犬山遊園駅に着き、徒歩で犬山城まで往復したあとに犬山に出た。ここからは小牧(こまき)線に乗る。
 犬山には何度も来ている。初めて味噌カツを食べたのは犬山の店だった。だが、小牧線に乗る機会はなかった。理由は名古屋市内側の駅が孤立した駅で乗り換えが不便だったことにある。だが、今は地下鉄と繋がった。それに合わせて電車も一新され、乗り込んだ電車もロングシートと転換クロスシートが混在した名鉄らしさが残る真新しい電車だった。景色を眺めたいので当然クロスシートに座る。
 小牧線は平野に広がる新興住宅地を走る路線だった。線名になっている小牧は高架駅で多少の町らしさがあったが、車窓に変化の乏しい路線だ。その小牧からは桃花台(とうかだい)交通という路線がかつて延びていた。いわゆる新交通システムというタイヤで走る電車で、名が示すとおりニュータウン路線だったのだが、開業からわずか十五年の平成十八年(2006)に廃線となってしまった。
小牧線に沿って、使われていない高架が立っている。乗らずじまいだったニュータウン路線の車窓風景を想像しながら町を見つめた。

 午後になり、中部国際空港駅に向かう特急に乗って空港線を乗り終えて、更に知多(ちた)半島の南に向かった。常滑(とこなめ)線・空港線は太田川(おおたがわ)で河和(こうわ)線と分岐している。河和線は知多半島を縦断する路線で、こちらは以前乗ったことがあった。河和の少し手前から知多新線という路線が分岐していて、こちらは未乗だった。こういう中途半端な乗り方をしているのは「またいつでも乗れる」という意識が働いていたからに違いないが、そのような楽観が先述の桃花台交通のような結果となってもいる。
 知多新線は緑に包まれた路線だった。早朝から濃尾(のうび)平野の眺めにずっと付き合って、田園風景に少し飽きが来ていた。低い山地に沿って単線を走る銀と赤の最新通勤型電車。その車内は、まるで旅情が湧かない造りだが、窓外は充分過ぎるほどローカル線ののどかさがあり、終点の内海(うつみ)はどこかうらぶれた観光駅の佇まいを見せる静かな高架駅だった。
 内海は海岸が近いことを連想させる駅名だが、少しだけ歩くようだ。柔らかい日差しに包まれて駅の床でくつろぐ猫の姿を見ていると、歩くよりもベンチに座ってコーヒーでも飲みたくなった。駅の周囲はさほど店がなく、歩く人も少ない。
 名古屋本線の神宮前駅にやってきた頃には16時が近かった。内海からここまでは急行でも一時間近くかかる距離だった。空は早くも黄昏の色に染まり始めている。名古屋での買い物帰りの人で混雑する本線急行に乗り換えて、今日七路線めとなる未乗路線西尾線に向かう。乗った急行は西尾線直通である。
 新安城(しんあんじょう)で本線から分かれ、広々とした田んぼの中を走り始めた電車は変わらず混んでいた。だが、神宮前から42分、16時40分に到着した西尾でほとんどの乗客は下車した。私もここで一旦降りる。
 ここまでは農村地帯だったが、西尾は駅前広場もあり、駅前に大きなショッピングモールも立つ、賑わいを感じる町だった。30分ほどショッピングモールを散策し、17時13分の電車に乗り込んだ。電車は今朝一番最初に乗った電車と同じ系式で懐かしさがあったが、こちらはロングシートの通勤型の車内に改装されていた。
 再び農村風景を眺め、12分で西尾線の終点吉良吉田(きらよしだ)に到着した。ここからは蒲郡(がまごおり)線に乗り換える。乗客のほとんどはまっすぐに改札を出ていく。右に折れて蒲郡線への通路に向かうと中間改札があり、この線が無人駅ばかりであることを実感させられると、その先に一面の短いホームが現れた。日の沈みかけた青い空の下に、赤い電車が二両でひっそりと停車している。
 電車は固定窓に横引きカーテンという特急列車風の造りだが、座席はロングシートだった。座席は通勤型ではあるが、車内はわずかな乗客しか居ない。
 17時31分、電車はゆっくりと吉良吉田を離れていった。
 蒲郡線は懐かしい路線である。名鉄の乗りつぶしの旅を初めて実行した時に、最初に乗った路線が蒲郡線であった。車窓に海が見えたことが意外で、その思いがけないローカル線らしさが記憶に残っていた。
 そして、初めて乗った時も今も同じ系式の電車だと気づく。6000系という車齢四十年ほどの車両だ。
 電車は車掌が乗務しないワンマン運転で単線の上を走っていく。現れる駅はいずれもホームが細く駅舎は小さい。その小ぶりな駅に着く度に乗客は減っていく。海沿いの温泉地である西浦を過ぎた頃には車内は空気を運んでいるような状態となった。
夜が近い海は蒼々とした波を浜に打ちつけ、線路のそばには瓦屋根を乗せた民家が閑(しずか)に並んでいる。それは、私が初めて乗った時と同じ風景であるように思われた。
 18時01分、高架駅の蒲郡に着く。薄暗く狭いホームの隣に、きらびやかなJR線のホームが見えた。名鉄の未乗路線はあと豊川線だけとなった。

     近鉄生駒鋼索線

 四日市(よっかいち)市は三重県最大の都市である。近鉄四日市(きんてつよっかいち)駅の高架に向かって、足早に仕事に向かう通勤客が歩いていく。今日は金曜日だ。
 高架を抜け、海の方向に歩いていくと次第に商店の数は減り、やがて町はずれとなって広場に達した。JR関西本線の四日市駅だった。そこは、町と工場地帯の境のような場所であった。
 やってきた8時22分発の亀山行きは空いていた。三重県のこの辺りはJRより近鉄の利用者が圧倒的に多い。列車本数も近鉄が圧倒している。ただ、近鉄は亀山には向かわない。
 昨日名鉄の未乗路線に乗ってきた私は、今日は近鉄の未乗路線に乗る。とは言っても、近鉄に残っている路線は三路線だけだから、今日は多少観光散策をしようとは思っている。
 関西本線は亀山から先は鈴鹿(すずか)山脈の南麓を抜け、深い杉林の山間を往く。四日市から亀山までは転換クロスシートの電車だったが、亀山からは小型気動車が一両という短い編成になる。一両だから席はほぼ埋まっている。山に囲まれた盆地の町上野(うえの)市の玄関口である伊賀上野を出て京都府に入ると、車窓は山深くなり、月ヶ瀬口(つきがせくち)の辺りからは木津川(きづかわ)の渓谷に沿う。関西本線屈指のローカル区間だから沿線は草木に包まれた緑の世界となる。
 景色が開け、10時28分着の加茂(かも)で気動車から電車に乗り換える。もうここからは関西都市圏である。電車は奈良県に入った。私は郡山(こおりやま)で下車し、木造三階建ての建物もある遊郭の跡を眺め、細い用水路が小道に通る古い町並みを歩き、豊臣秀長(とよとみひでなが)の居城だった大和郡山城を見学し、近鉄郡山駅にやってきた。
 近鉄郡山駅は近鉄京都線の駅で、この線は既に全線乗っている。京都線は大和郡山城の水堀の脇を通っているので、先ほど歩いている時に何度も電車を見かけている。近鉄電車はマルーンという赤と茶の間のような色で塗られている。この落ち着いた色調が古都に似合っている。今夜は奈良に泊まる予定である。
 近鉄こと近畿日本(きんきにっぽん)鉄道は営業キロ501・1キロ。二十三路線に駅数二百八十六駅。日本一の規模を誇る私鉄である。この巨大な私鉄をもう少しで完乗するところまで辿り着いた。
 近鉄京都線と近鉄奈良線が交差する大和西大寺(やまとさいだいじ)で近鉄奈良線の快速急行に乗り換える。「三宮」という行先に少し戸惑うが、これは神戸市の阪神三宮(はんしんさんのみや)駅のことである。近鉄と阪神が直通運転をしている。
 車窓に生駒(いこま)山地が近づいてきて生駒駅に着いた。生駒からは未乗路線が二つ延びている。まずは、近鉄けいはんな線に乗る。
 やってきた電車は銀色に緑帯の大阪市営地下鉄の電車で、こちらの路線は近鉄と地下鉄が直通運転をしている。関西は関東と比べて複数会社による直通運転は少ないが、生駒ではこの貴重な例が二つ存在している。
 電車は丘陵地帯を10分走って終点の学研奈良登美ヶ丘(がっけんならとみがおか)という長い駅名の駅に着いた。駅周辺は山麓のニュータウンといった風情で、散策することなく駅前広場だけ歩いて生駒に引き返した。

 生駒は山に囲まれた町で、駅前は賑わいがあった。ペデストリアンデッキを歩き、すぐの所にケーブルカーの鳥居前駅がある。ここが近鉄生駒鋼索(こうさく)線、通称生駒ケーブルの駅だ。
 生駒ケーブルは少し変わった運行方式となっていて、山頂まで二つの路線を乗り継いでいく路線構成となっている。まずは鳥居前から宝山寺(ほうざんじ)までの宝山寺線に乗る。
 ホームに、ブルドッグの姿を模した形をした「ブル号」という車両が停車していた。顔も犬型となっている。そんな観光客向けキャラクター車両とは裏腹に、沿線は宅地化されていた。15時00分に鳥居前を出たケーブルカーは、斜面に建てられた住宅地の中を走り始めた。宝山寺線が運ぶのは観光客だけでなく、通勤通学客もいるようだった。
 きれいな戸建てやマンションを横目にブル号は坂を登っていく。車両は観光客向けに派手な装飾が施されているが、沿線は随分と生活感に溢れたケーブルカーだ。家々の間から延びる山腹の車道が踏切となってケーブルカーの線路を横切っていく。山中を走るというイメージが強いケーブルカーの常識からは一線を画す車窓が続き、15時05分に宝山寺に到着した。
 大正七年(1918)に日本初の営業用ケーブルカーとして開業した長い歴史を持つ宝山寺線の宝山寺駅はコンクリートの小さな駅舎を持つ駅だった。宝山寺線のホームの先に山上(さんじょう)線のホームがある。二つの行き止まり式ホームを繋げた構造で乗り換えを行っている訳だ。
 山上線の車両はスイート号というフルーツが描かれたピンク色の車体だった。15時09分発という時間帯なので車内は貸切状態である。車両は内装もスイート仕様で壁がピンクとなっている。こういう演出の車両に、ぽつんと座って案内放送を聴いていると、気恥ずかしさと申し訳なさをおぼえる。
 山上線は中間駅が二つある。車窓は一転して山中の景色となった。現れた中間駅はいずれも木々に囲まれた小駅で、乗車はないままに7分で終点の生駒山上に着いた。鳥居前から生駒山上までは三百六十円。
 駅を出ると、そこは遊園地の入口だった。平日の夕方だから歩いている人はとても少ない。少し散策してみることにした。
 昭和四年(1929)開園という歴史を持つ遊園地内の施設は古めかしさのあるもので、それを明るい色に塗って装飾している。私は古い建物が好きで、だから大和郡山では古い町並みと城を歩いてきたのだが、こういうレトロ感のある遊園地も好きである。こういう施設が賑わうことを願ってもいる。ただ、今日は客は少なかった。西日の空は明るい。その陽を受けて、様々な乗り物が退屈そうに佇んでいた。
 少し肌寒い風が吹く山上だが、空気が澄んでいるのか麓の眺めがとても良い。ゆったりとした時間が流れる遊園地だった。
 三十分ほどで山上を後にして宝山寺に向かう。帰りの車両もスイート号だった。
 宝山寺駅を降りると細い尾根道が延びていた。駅横に旅館の看板が見える。道からは麓が見渡せ、すぐ直下にマンションが見える。道なりに歩いていくと旅館街になった。
 旅館は生駒の町を見渡せるように並んでいる。案内看板が立っていた。数えると十四軒の旅館が駅から宝山寺の近くまで並んでいる。
 道は上りで、途中に何カ所か短い階段がある。旅館は瓦屋根を乗せた重厚な構えで、古びた石塀と共に落ち着いた風景を作り出している。
 麓から延びている参道の階段が交差した。参道にも旅館らしき建物が連なっていた。ここの旅館街には私娼宿もあるらしいが、どの旅館がそうなのか、今でもあるのかは歩いているだけではわからない。
 そのまままっすぐに奥に向かって歩いていくと、更に旅館が現れる。ここまで眺めてきたかぎり、十四軒どころではない数に思えるが、案内看板は主な旅館しか掲載していないのだろう。
 参道の方に戻ってきた。細い石段を上がっていく。並ぶ建物はどれもかなり古く、板壁の塗装が剥げていたり、石塀に苔が生えていたりする。「十八歳未満の方は入店をお断りします」と入口に小さく掲げている宿もある。そういうことかと、古びた玄関を眺める。
 石段に面して並ぶ小さな宿の脇に薬局のくたびれた看板があり、お湯で溶かして飲むエキスというものの効用についてが筆書きで記されていたりもした。
 いつしか旅館街は過ぎ、「観光生駒」と書かれたアーチの先に参道の石段が現れた。上がった先に石の鳥居が立ち、その先に門があった。ここが「生駒聖天」と呼ばれ多くの参拝客が訪れる宝山寺である。
 不動明王を祀っている本堂を参拝して、更に境内を歩く。斜面を上がっていくとお堂がいくつもあり、道の両側にはお地蔵さんがずらりと並んでいる。木々に囲まれて穏やかな気持ちになりながら奥の院まで向かった。

 宝山寺駅から再びブル号に乗って鳥居前駅に着いた。生駒駅前を歩いてみる。商店街があり、夕方の活気に満ちていた。生駒は大阪への通勤圏として宅地化された町で、山に囲まれた風景の割に市街が大きい。
 生駒から近鉄奈良に着く頃には日は暮れていた。時計は18時を回ったところだった。今夜泊まる宿は個室のゲストハウスだ。そこに向かう。
 近鉄奈良駅周辺は繁華街となっていて、多くの店が並ぶ。裏道に入ると、やがて池が現れた。繁華街に池があるという意外性に風情を感じる。そういう立地だから周辺にいくつか宿が立っていた。
 明日は近鉄最後の未乗路線である道明寺(どうみょうじ)線に乗る。道明寺線は近鉄南大阪線とJR関西本線とを結ぶわずか2・2キロの路線だが、これで近鉄の全線に乗り終わるのだという達成感があった。
 そして、夕方には豊橋まで出て、名鉄に残る最後の未乗路線である豊川線に乗って豊川稲荷に参拝する予定だ。私鉄第一位の規模を誇る近鉄に第三位の名鉄。近鉄と同じように達成感が湧いてきそうなものだが、こちらは不思議と寂しさのような気分が頭の中を支配している。もう乗るべき赤い電車はないのだ。
 この気分の違いは、名鉄の方がローカル線が多いから、そこから生まれる旅情の結晶の差なのだろうか。気持ちがよく整理できていないまま、私は夜の奈良の町をさまよっている。

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