車窓を求めて旅をする⑥ 晴れのち雨のハローグッバイ ~可部線・三江線~
晴れのち雨のハローグッバイ ~可部線・三江線~
可部線
旅の始まりは黒い機体の航空機だった。国内線でありながらシートに液晶ディスプレイを備えた、内装まで黒に統一されたスターフライヤーは海のそばにぽつんと立つ山口宇部空港に着陸した。
今夜は久しぶりに宇部に泊まる。その前に、昼間は福岡県まで足を延ばそうと思う。私は宇部線と山陽本線を乗り継いで小倉(こくら)を目指した。2018年3月17日、土曜日のことである。
空港の近くにひっそりと片面ホームを横たえる無人駅草江(くさえ)を出たのは9時52分。三本の普通列車を乗り継いで小倉には11時46分に到着した。小倉駅前は南口が栄えている。JRの駅ビルから高架が延びていくモノレールが発着しているのも南口だ。私は北口に向かっている。小倉駅の北口に出たのは多分初めてだった。南口と比べるとビルは少ないが、一応店は点在している。
ペデストリアンデッキを歩き、港に向かう。家族連れの姿が目立つ。J3といえども意外と人気があるのだなと思いながら歩いている。私が向かっているのは昨年完成したミクニワールドスタジアム北九州だった。
私と同じくサッカー観戦かと思われた家族連れの列は、スタジアムの手前に立つ展示場に向かっていった。ここでイベントが開催されているようだった。
スタジアムはとても良い環境だった。バックスタンドの後ろが、狭い道路を挟んですぐ海となっていて風景が素晴らしい。ゴール裏の二階席に上がると、港と対岸の門司(もじ)の小山の山並みが視界に広がっていた。
客席とピッチが近い見やすい環境の中、私はタコの入ったハンバーガーや門司港ビールを楽しみながら、よく晴れた空の下でサッカー観戦を楽しみ、夕方は未乗の門司港レトロラインという貨物線の跡を使用して運行されている観光列車に乗り、黄昏の港や海峡に架かる関門(かんもん)橋を眺めてきたのだった。
宇部の朝は晴れていた。宇部の町の中心は山陽本線宇部駅ではなく、宇部線の宇部新川(うべしんかわ)が最寄りである。昨夜は宇部新川からホテルまで数キロを歩いてきた。十三年ぶりに訪れた宇部の繁華街は十三年前から更に寂れてしまったようだった。アーケードは只のシャッター通りの姿から、灯りのないゴーストタウンを思わせる夜景に変貌し、市街地に延びる寿橋通りの沿道は商店の姿が乏しいものとなっていた。
泊まった宿は住宅地の中にあった。地図で確認すると、宇部新川に向かうより琴芝という駅の方がずっと近い。私は琴芝に向かった。
狭い道に入り、現れた線路に沿って歩く。琴芝は駅前にスナックなどが立ち、広場のない住宅地の駅前だ。
宇部線はローカル線ではあるが、宇部市街地では駅間距離も短く、駅も家々に囲まれて立っていて、大都市圏郊外の私鉄駅のような雰囲気がある。ただ、駅舎は小ぶりで、ホームも短い。無人駅であった。
やってきたのはクモハ123という国鉄時代の荷物電車を改造した車両で、編成は一両だ。こういう古い車両が現役なのが、中国地方の鉄道旅が楽しい理由のひとつだろう。
新山口で宇部線から山陽本線に乗り換え、広島方面を目指す。沿線は中規模都市が並び、コンビナートの工業地帯もあるが、瀬戸内海に沿う区間もあるので景色は良い。
海の対岸に長く横たわる宮島が見えてきた。宮島が見えてくると広島県にやってきた実感が湧いてくる。今日は広島県に誕生したJRの新規開業区間に乗る。
乗りつぶしの後はサッカーを観に行く。昨日はJ3のギラヴァンツ北九州の試合を観たが、今日はJ1のサンフレッチェ広島。リーグ優勝経験もある強豪だ。
スタジアムまではアストラムラインという新交通システムに乗り、終点の広域公園前(こういきこうえんまえ)で降りる。アストラムラインは初乗りなので乗りつぶしも兼ねたサッカー観戦である。
以前は山陽本線とアストラムラインの交差地点には駅はなく、乗り換えは不便なものだった。2015年3月にそこに開業した駅が新白島(しんはくしま)で、私はその新駅の高架ホームに降り立った。
連絡通路を歩くと、駅の下を南北に通る国道の両車線の間に白いシェルターのような建物が見えた。シェルターには何カ所も丸い穴が開いている。これがアストラムラインの新白島駅だ。
シェルターの中は半地下構造のコンコースとなっており、そこから地下ホームに至る。アストラムラインは市内の中心部は地下線なのである。
乗りつぶしをしなくてはならないので、広域公園前にまっすぐに向かわずに、まずは起点の本通(ほんどおり)駅に向かう。広島城の脇を地下で抜け、三駅で本通に到着した。
時刻は13時になろうとしていた。少し遅い昼食はコンビニエンスストアで買って済ませて折り返す。本通は繁華街で、日曜の昼だから人通りがとても多い。
本通を13時25分に出発した。アストラムラインはどんな景色の中を走るのか。地図を見るかぎり、スタジアムの所在地は山の麓のような場所だ。列車は地上に出た。車窓はまだ市街地だ。前方にはなだらかな山地が広がっている。道路の傍には郊外型店舗の姿が目立ち始め、マンションの数も増えてきた。どうやら広島のニュータウンのようだ。
本通から18分、列車は大町(おおまち)に着いた。ここでJRの可部(かべ)線に乗り換える。この可部線の末端が新規開業区間だった。
可部線は広島の郊外を走る都市路線の装いだが、かつては太田川に沿ってジグザグに山間を往く区間が存在した。その可部~三段峡(さんだんきょう)46・2キロは2003年12月に廃止された。廃止区間には廃止の二年前に乗ったことがあるが、ひたすら川に寄り添ってゆっくりと気動車が走る区間という記憶が残っている。
当時、可部線は可部を境に広島寄りが電化され本数も多かったが、可部から先は非電化で本数も少なかった。地元は非電化区間をひとまとめに廃止するのではなく、利用者が見込める可部~河戸(こうど)は残し、電化区間を河戸まで延ばすよう提案したが、それは実現しなかった。
時は流れた。その間も地元の熱意で運動は続き、廃止された後も路盤が残された。結果、広島の都市開発によって需要が見込めるとされ、河戸から300メートルほど先に新駅を設置して、そこまで復活電化開業が実現したのだった。それが一年前のことである。
可部を過ぎると山が迫り、都市郊外から農村の風景となっていくが、新しい建物も多い。これから開発がされていくのだろう。
新駅である河戸帆待川(こうどほまちがわ)を過ぎると、左窓に梅林が現れ、終点のあき亀山となった。駅名に冠せられた旧国名が平仮名なのは、廃止区間にかつて安芸亀山という駅が存在したからで、安芸亀山駅跡とは3キロ以上離れているため、混同を避ける目的でそうなったという。
あき亀山駅は山麓の梅林の脇に立つ、引き込み線の中のような駅だった。鉄筋平屋の小さな駅舎を出ると、真新しい舗装路が農村に向かって延びていた。ハイキング帰りの人たちが駅にやってきた。都市から田舎に移っていく入口のような駅に、これから少しずつ開発という名の発展が訪れるのだろうか。
こうして、JR線で初の廃止復活区間を乗り終わった。距離にしてみれば可部~あき亀山1・6キロ。小さな数字だが、すっきりした気分である。
再び大町駅にやってきた。ここからアストラムラインの旅を再開する。14時23分にあき亀山を出て20分で大町に着き、9分の乗り換えとなった。サッカーの試合時間が迫っているので車内は観戦に向かう人ばかりだ。大学生くらいの男女が案外多い。
15時12分、広域公園前に着いた。これでアストラムラインも乗り終わった。中国地方の未乗路線は広島県にあるスカイレールという新交通システムだけとなった。
駅からスタジアムは緩い坂となっていた。駅構内の壁や柱から沿道まで、紫のサンフレッチェ色に彩られている。前を歩く中年男性グループが広島カープの話題で盛り上がっている。広島の人は郷土愛が強く、ジャンルを超えて「広島代表」を応援する文化があると聞く。のちにサッカー新スタジアム建設が正式決定した際、民間募金の目標額に募集後すぐに達し、予想を超える金額が集まった。スポーツへの熱がある地域なのである。
スタジアムはアジア大会が広島で開催された際に造られた巨大陸上競技場で、客席からピッチまでは遠く、見やすさにおいては前日訪れた北九州とは比較にならないほど臨場感に欠けた。しかし、幅広い年齢層が座る客席は熱さがあり、サンフレッチェ広島のチャンスとなると老若男女問わず手拍子が響き、コーナーキックともなるとタオルマフラーが振られた。
いい光景を見ることができた。そう思いながら私は、日が暮れ始めたアストラムラインの大町駅にやってきた。
今夜の宿は三次(みよし)である。三次は山間の盆地の町で、広島から芸備(げいび)線が通じている。広島から乗ってもよかったが、近道をしようと思った私は大町駅前からタクシーに乗り込んだ。目指すは芸備線安芸矢口(あきやぐち)駅。
大町駅前を出た時は芸備線の発車時刻まで20分ほど。タクシーは郊外の街並みを快走している。遠くに山並みが見えるが沿道は家や店が建て込んでいる。車の通行量も多く、川が現れて橋を渡る時など渋滞しないかと気を揉んだが、約10分ほどで安芸矢口駅に到着した。
安芸矢口は太田川の土手のそばにある小駅だが、近くにマンションが立つような市街地にある駅だから、思いっていたよりも乗客がいた。何人かいたその乗客は広島方面に向かうようで、やってきた三次行きに乗る人は少なかった。ホーム上から三次方面に視線を移すと、ここからは山間に入っていくようだった。
朱色の国鉄気動車郊外色に塗られた国鉄型気動車三両編成は18時20分、安芸矢口を発車した。すでに空は夜となり始めている。三次に着くのは1時間9分後だ。
三江線
空はまだ暗かった。駅まで徒歩数分の宿を取ったが、それでも起床は四時半となった。ひっそりと寝静まった三次駅前通りを歩きながら、さすがにこんな早朝に歩いている人はいないだろうと思っていたが、前方に男性数人が歩いている。目指す先は一緒だろう。
駅の待合室に寄せ書きがされた横断幕が机の上に置かれてある。三江(さんこう)線への惜別メッセージを書くコーナーだった。
三路線四方向の列車が発着する三次駅の発車案内板には、5時15分の福塩(ふくえん)線一番列車の下に5時38分の浜田行きが表示されている。今からこちらに乗る。案内板には福塩線は一両だが、三江線は二両だと表示されている。それが意外だった。
ホームには大勢の人が列を作っていた。案内放送が間もなくの乗車開始と整列乗車を呼びかけている。まだ夜のような空の下の細いホームのローカル駅が、まるで都会のラッシュ時のような騒々しさに包まれている。すべての理由は、三江線の廃止が近づいているからなのだ。
三江線は広島県の三次から島根県の江津(ごうつ)を結ぶ全長108・1キロのローカル線である。国鉄時代から過疎路線だったが、全長が長く、沿線道路の整備の遅れも考慮されて存続してきた。だが、十二日後の4月1日に廃止となる。
三江線に乗るのは二回目である。前回は江津から乗ったが、やはり江津駅前の宿に泊まり、早朝の一番列車で出発した。過疎路線ゆえに本数が少ないのである。
キハ120というJR西日本のローカル線用気動車が三江線の車両だ。普通の気動車より短い車両で、ホームに溢れる乗客を捌くために一両増結して二両編成となっていた。
ドアが開いてすぐに座席はすべて埋まり、立客まで発生した。いつものつもりでのんびりとやってきた地元の人が数名いる。困惑している人。連日のことだからと諦観した表情の人は定期利用客なのだろう。
車内はロングシートなので旅情には欠けるが、もはや車窓を楽しむような雰囲気ではなかった。暗闇の中を定刻に発車した列車の中で、私は鉄道ファンの姿をぼんやりと眺めながら鉄道の存在意義についてを思う。
空は少しずつ明るくなってきたが、明るくなると天気が雨であることが知れた。6時35分、口羽(くちば)に着く。ここで28分の停車。ほとんどの鉄道ファンが席を立つ。降りるのではない。駅を見学するためだ。私も続いた。
口羽はかつて終着駅だった。三江線は山間の地形の険しい所に敷かれたので建設は一気に進まず、北は江津から浜原までが戦前に開通し、南は三次から口羽までが戦後開通。全線がつながったのは昭和五十年(1975)のことだった。
駅の周囲はわずかな農家。このような駅に28分も停車するのは、過疎路線ゆえに行き違いのできる駅が少ないためである。降りて散策する乗客を当て込んでか、車でやってきて三江線グッズの販売を行っている人がいた。
小雨の下、構内踏切を渡って赤い瓦屋根の駅舎に入ると、待合室に三江線の写真が飾られ、玄関には電飾が施されていた。
7時03分、列車はゆっくりと発車した。昭和五十年開業の区間に入ると直線的な線路構造となり、いくつかのトンネルを抜けると、山と山の間に敷かれた高い高架の上に出て停車した。7時11分、宇都井(うづい)駅。何人かの鉄道ファンが降りていった。
宇都井は「山中のふところ」を意味する宇津井が語源とされる。それも納得できる眺めだった。地上高20メートルの位置にホームがあり、周囲は山であり、金網越しに見る駅の下にわずかな集落が並んでいた。
これだけの高さのホームだが、エスカレーターは勿論、エレベーターもない。百十六段の階段を下りていかなければならない。短いホームを端まで往復したあと、私は階段を下りた。
階段の踊り場には残りの段数が書かれた紙が貼られてある。コンクリートの無機質な階段を微かに彩るこの演出が、特異な構造の駅が鉄道観光地となっている証左とも思えた。
三江線は一日五往復しか列車が走らない。次の江津方面の列車は約四時間後だ。宇都井で降りた鉄道ファンは十人に満たなかったが、全員が8時14分の三次行きに乗るのだろう。ちなみに、三次行きのその次の便は15時08分である。
階段を下り終わり、駅の下を通る道路に出て宇都井駅を見上げる。コンクリート橋に鉄塔が交差したようなT字型の構造で、のどかで小さな農村の中では随分と異彩を放つ建物だが、周辺の景色との相違ぶりが面白い建造物でもある。
この時点で下までやってきたのは私と一人旅の女性だけだった。私は四時間もこの山間で過ごせる自信はないから、徒歩で先の駅に向かう。三次まで列車で戻って次の江津方面に乗るにしても、次の列車は先ほどの列車以上の混雑が予想された。せっかくのローカル線旅だ。静かに過ごしたい。三江線に乗るのが初めてではないので、徒歩移動の区間が発生してしまうことに抵抗もなかった。
道路は三江線から離れると、すぐに左に向かい、視界から線路は消えた。道はここから江の川(ごうのかわ)に沿う。
折り畳み傘を開いた。結局徒歩移動は私だけのようだ。雨模様の川沿いの山道を歩くのは尻込みする人が大半だろう。
道幅は狭いが車の通行はほとんどない。川幅は20メートル以上はありそうで、周囲は山と樹木に覆われた人家のない風景だ。
景色に変化がなく、ひたすら木と山肌を眺めながら雨の中を歩く移動だ。何をやっているのだろうという思いが少々頭をかすめる。
風景に若干の飽きを感じ始めた頃、三江線の鉄橋が現れた。高々と山峡を越えるその地上高は、先ほど降りた宇都井駅のそれに匹敵した。
腕時計を見た。そろそろ三次行きの列車が通過する頃だ。列車の走行写真を撮影してみようと思った。持参している機材は、いわゆる高級コンデジというジャンルのカメラで動きものを撮るには向いていなさそうだが、雨に煙る渓谷に架かる大きなトラス橋は、それが過疎ローカル線とは思えないほどの威圧感があり、とても絵になる風景でもあった。
じっくり待つこと10分ほど。低く大きな走行音を山間に響かせながら列車はゆっくりと鉄橋を通過していった。
宇都井を出て一時間が経過しようとしていた。雨は一段と強くなってきた。一時間では目的地に到達できないと予想はしていたが、天候不順もあってか距離感を想像以上に感じている。
八時半になろうかという頃、ようやく小さな集落が現れた。左に山肌、右は川という景色がついに開け、家と畑が広がり始めた。だが、江の川に架かる橋はまだ先だ。これからバスに乗る。バスは対岸の道路を走っていた。
集落の出現に合わせたかのように川幅が広がってきた。橋が現れ、渡り始める頃に風雨が強くなってきたが、なんとか渡りきり、橋のそばにある都賀大橋(つがおおはし)バス停に着いた。嬉しいことにバス停には屋根付きの待合室があり、横には小さいながらもトイレがあった。想像とは違い、トイレはきれいであった。
宇都井駅前を出たのは七時半くらいだったから、ここまで70分ほど歩いてきた。あとはバスを待つだけだ。バスは9時12分。出発前にインターネットで調べてきたが、不明瞭な点がいくつかあり、現地に来るまで不安要素があったが、案ずることなく定刻に美郷(みさと)町営バスはやってきた。やってきたのはバスの車体ではなく、ワンボックスタイプの自家用車型だった。
先客は一人で、カメラを抱えていたから鉄道ファンのようだった。先客は潮(うしお)温泉バス停で下車していった。私は次の潮駅で降りる。所要20分、六百円のドライブとなった。
潮駅は江の川の横に立つ駅だった。線路と駅の脇には桜並木があるが開花はしていない。土手に上がるように駅に向かう。バスの待合所のような小さなコンクリート駅舎を抜けホームに出ると、眼前に江の川がゆったりと流れていた。川に小舟がつながれている。人の気配のない風景は時間が止まっている。
駅から徒歩数分で温泉に着いた。先ほどの鉄道ファンがいたので少し会話をしてから浴室に向かった。
里の食堂、あるいは山荘のような外観とは違い、浴室はきれいだった。ガラスが大きく景色が見渡せた。空は雨で、桜の花もまだ早く、映える景色ではないかもしれない。それでも里山の湯は、雨中移動で冷えた身に癒しを与えてくれた。
11時28分、誰もいない川の駅から列車に乗り込んだ。駅から一変して車内は混雑し、私はドアの近くに立って走り去る景色を眺めた。列車はどこまでも江の川に寄り添い、川を包むように樹木が茂り、山々がそれを見守っている。
今度の列車は三両に増結されていた。江津が終点ではなく途中の石見川本(いわみかわもと)止まりである。石見川本は沿線途中で一番人口の多い町だ。12時18分に到着すると乗客のほとんどが改札を出た。次の列車は一時間半後だ。駅舎内では地元の有志が手作りの案内地図を乗客に配布しているので、私も一枚いただいた。
地図には駅周辺の商店や見どころが描かれてある。さして大きい町ではないので店も少ないが、駅前からは商店街が形成されていた。
限られた時間に限られた店で昼食を済ませようとする人たちの群れで、駅周辺の飲食店はあっという間に順番待ちとなった。雨は弱くなったので、私は町歩きをすることにした。
小さな盆地の町の通りは鉄筋の建物が連なっている。木造建築が並ぶような懐古さはないが、白い壁の個人商店が並ぶ商店街は昭和な風景に思えた。
歩いている人は少ない。だが、銀行もあるし、高校もある。小さい町なりに揃っている。いい町だ。列車の混雑に辟易しつつある私は、もっとここに滞在していたい気分になっている。だが、今夜は鳥取県の米子に宿を予約してしまっていた。
昼食ラッシュが一段落した頃、古めかしい店構えの食堂に入った。ここに限らず、他の飲食店もこの廃線バブルの只中にある筈だ。どう受け止めているのだろうか。聞きたくもあったが、聞けずに店をあとにした。
青い瓦屋根の石見川本駅に帰ってきた。昔、三江線に乗った時、私の乗った三次行きの車内から見た石見川本駅の光景はよく憶えている。駅舎に面した江津行きのホームに高校生が溢れていたのだ。
1999年には百七十八人あった乗車人員が2017年には十八人にまで減った。更にいえば、1984年には四百五十二人あった。それでも、三江線沿線では随一の町なのだ。改札に係員が立ち、ささやかでも賑わいで迎えてくれる駅はここだけだった。
ホームに停車している13時45分発の江津行きのドアの前に列ができていた。ホームに置かれた、鉄道員の制服を着た萌えキャラ看板が、廃止まで「あと12日」と教えてくれている。
なんとか席に座れた私だが、石見川本からは団体客も乗り込んできて、いよいよ賑やかさはピークを迎えた。座れた席は江の川を背にした位置だから、向かいの人の背中越しに見る車窓は山肌ばかりであった。
14時54分、山陰本線との乗り換え駅江津に着く。跨線橋を渡り、出雲市(いずもし)方面の列車に乗り換える人は少なく、多くはそのまま三江線で折り返すようだった。