車窓を求めて旅をする② 思い出に再訪する ~若桜鉄道・一畑電車~
思い出に再訪する ~若桜鉄道・一畑電車~
若桜鉄道
深夜、都会のネオンに照らされて東京駅を出た夜行列車の窓は、朝になると田園地帯を薄明かりに映し出していた。
今や寝台列車は絶滅危惧種となった日本で孤軍奮闘している存在なのが、今乗っているサンライズ号という特急である。
サンライズ号は東京と出雲市(いずもし)を結ぶ「サンライズ出雲」と東京と高松を結ぶ「サンライズ瀬戸」からなる編成で、A寝台もB寝台も一人ないし二人用の個室仕様となっている。その内装は近代的で、かつて「ブルートレイン」と呼ばれた、機関車が牽く青い寝台客車の内装が金属感溢れる造りであったのと比べると、どこかプラスチッキーではあるが、ビジネスホテルの内装を手がけているデザイナーによるという客室デザインの居心地は悪くはない。
今回私が乗っているのは個室寝台車ではなく「ノビノビ座席」という二段式スペースを持つザコ寝席である。ザコ寝とは言っても、寝る場所は区画番号で指定されているし、頭部の辺りには仕切りがあるし、枕や毛布も備えられている。これに運賃と特急券だけで乗れる。つまり寝台券が要らないので約六千円以上の節約になり、お得な席といえる。
それだけなら特に感慨はないのだが、隣客とは最低限の仕切りだけで構成されたこの車両には、快適性とは相反した位置にある構成ゆえに旅情が感じられるのも事実であった。その旅情の正体は古きよきものへの憧れという感情なのかもしれない。個室寝台など主流ではなかった時代の夜行列車を想像する。私は昭和の鉄道旅への憧れを持つ世代である。
まだ寝ている乗客も少なくない夜行列車は、ゆっくりと岡山駅のホームに滑り込んでいった。
サンライズ号は岡山で出雲市行きと高松行きに分割される。乗り換え列車まで少し時間があるので、その作業をホーム上から見学してから、本線用ホームよりずっと短い津山線ホームに向かった。
今回の旅には同行者がいる。Tさんという二十代女性で、寝台列車に乗るのは初めてだった。初めてでありながら割と眠れたようである。昨夜、ラウンジカーで交わしたビールのおかげかもしれない。
2013年秋にJR全路線に乗り終わった私だったが、残る私鉄路線への訪問は疎かになっていた。達成感に包まれて行動力が減退した訳でもなく、鉄道旅自体は続けている。今回もこうして中国地方にやってきている。だが、今回これから乗りに行く路線の全てが私にとっては乗車済みの区間であった。中国地方を初めて旅するTさんのための旅と言ってもよかった。しかし、旅というものは未訪の場所に行くばかりが楽しさの素とは限らない。それを確認したくもあった。
津山線は地味な路線である。こう言ってしまうと沿線の人には申し訳ないが、津山線に限らず、中国山地を走るローカル線は地味であり、特筆すべき事項も少ない。人に勧めにくいと言い換えてもよい。
津山線に乗るのは二回目だった。前回は急行列車で岡山から津山に一気に向かってしまったが、今回は各駅停車でのんびり往く。一駅ずつ景色がしっかりと眺められるから、印象は前回よりも残りそうだ。車窓は郊外の住宅地を抜けると、少しずつ山間に近づいていく。私達の乗る一両の列車はさして混んでいないが、窓外に現れるどの駅も岡山方面のホームはラッシュアワーの様相を呈していた。
岡山を7時ちょうどに出た津山線のローカル列車は一時間二十三分で美作(みまさか)地方の中心地津山に到着した。山に囲まれた城下町である。
今日から暦は九月となった。八戸(はちのへ)で友人二人にJR全路線乗車の祝福を受けてから、もうすぐ二年が経過しようとしていた。わずか二年という年月の間にも鉄道を巡る状況は大きく変化を遂げている。北海道新幹線や北陸新幹線が開業し、北海道のローカル線やローカル駅に廃止の噂が聞こえ始めている。この中国山地のローカル線も厳しい状況にあるという。
津山を訪れるのは十一年ぶりだった。前回は駅前のホテルに泊まり、商店街を歩いた。記憶にある風景とあまり変化はないように思えたが、それでも地方は少しずつ変わり始めている。人口が減っていけば町の建物の並びにも影響はあるのだ。
前回は行かなかった津山城を訪れ、旧出雲街道に面してなまこ壁や格子戸の家並みが並ぶ城東町の通りを歩き、駅前通りに戻ってきた。饅頭屋の店先から湯気が立ち上っている。もうすぐ焼き上がると声を掛けられ、ひとつ百円の饅頭を買って頬張った。
津山から更に山間に行こうと思う。津山は四方向に鉄道が延びている町で、東西には姫新(きしん)線。南には先ほど乗ってきた津山線。北に向かって因美(いんび)線が位置する。因美とは旧国名因幡(いなば)と美作、つまり鳥取と津山を結ぶ路線という意味である。
津山の町を歩いているうちに三時間が過ぎていた。鉄道旅に興味があるとはいえ長旅は初めてのTさんに、夜行列車明けから強行軍はさせられない。私なりに気を遣った日程である。もっとも、因美線の列車本数は少なく、私達が津山の町を歩いている間に鳥取方面の列車はなかった。そのような路線である。
銀色の車体の気動車はわずかな乗客を乗せて田畑の中を走り始めた。低い山並みの麓に農家が点在する。駅はいずれも立派な瓦屋根を乗せた古めかしい駅舎で、旧家めいた駅舎の重厚さとローカル線ホームの細さとの対比が良い鉄道風景となっている。Tさんが「この列車の風景好き」と呟いた。
津山からちょうど一時間の12時35分の智頭(ちず)で降り、駅の近くのスーパーで智頭巻きと名付けられた海苔巻を買い、12時56分発の因美線列車に乗り継いだ。車両はJRのものではなく、第三セクター鉄道の智頭急行の車両だ。智頭急行は関西と鳥取の短絡を目的に平成六年(1994)に開業した路線で、山陽本線の上郡(かみごおり)から智頭までを走り、大阪から特急も乗り入れる。つまり、因美線は智頭からは特急が走るローカル線に変貌する。
智頭の二駅手前からすでに鳥取県となっている。風景は大きく変わることなく、山を背景にした農村を走りながら、智頭から三十分で郡家(こおげ)に到着した。小さいながらも観光センターなどを併設した三角屋根の綺麗な駅舎が立っている。以前来た時と印象が違った。どうやら半年前に新駅舎に切り替わったばかりらしい。
郡家からは若桜(わかさ)鉄道という第三セクター鉄道が出ている。接続はよくなく、次の列車まで一時間ほどあるので駅前に出た。勾配の緩やかな駅前通りには店が点在しているが、五分も歩くと町はずれとなり国道に突き当たった。ここまで来ると寄る所もなさそうである。交差点には警官の姿をした縫製の大きな人形が立っている。速度抑制効果を狙ってのものだろうか。
雨が降ってきたので駅に戻ることにした。しかし、すぐに雨は強くなり、私達は電器屋の隣のガレージで雨宿りをする結果となった。雨はなかなか止みそうにない。十五分ほど経過し、少し弱まったタイミングで駅まで駈けた。
郡家駅のベンチで服を乾かしているうちに雨は上がっていた。青空も見え始めた山間を二両編成の列車は走る。車体横にイラストの入った「さくら3号」と宝くじ号と書かれた「さくらⅠ号」という名の小ぶりな二両の気動車を繋いだ編成だ。
郡家では若桜鉄道の切符を売っていなかった。車内で買うということらしい。走り始めて間もなく車掌がやってきた。若桜まで往復する旨を伝えると、フリー切符の方がお得だと勧められて七百六十円の切符を買った。普通に往復するより八十円安いのだという。想定外の値段設定である。驚きながら、車両の写真が印刷された長い切符を手にした。
郡家は花御所柿の産地なのだという。沿線には柿の木が多く、畑も多い。若桜鉄道に乗るのは二回目だが、前回は年末だった。冬枯れの山を眺めての旅だったが、今日は九月一日、感覚としては晩夏だ。緑がまだまだ眩い。明るい車窓に感じられる。車両は窓が開く造りだった。Tさんは窓を開けて、吹き込む風で濡れた髪を乾かしている。
郡家を出てちょうど三十分、15時09分に若桜に到着した。途中駅もそうだったが、若桜も相当に古い駅舎だ。国鉄から第三セクター鉄道に転換された路線は大抵が施設のリニューアルを施して綺麗になるが、若桜鉄道は敢えて古色蒼然さを維持しているように思えた。その印象は前回の乗車時と変わらない。
一時間ほど時間の余裕がある。駅の周辺を散策することにした。若桜の町を歩くのは初めてである。
駅の近くに寺院が集まっている寺通りという路地があった。住宅地の中にお寺が建っているのだ。夕方の色になってきた空の光を受けて、町の路地が穏やかな輝きに染まっている。寺通りと並行する本通りに出ると、そこは格子戸の店が並ぶ商店街で、その景観は観光要素を含むものに思えたが、そういう人は見かけない。静かな時間が流れる町角に少女の縫製人形が佇んでいる。それは何かを抑制するのではなく、郷愁を増幅させるような趣きがあった。
龍徳寺という寺院があった。大きな山門をくぐり、小山を背景にした本堂に向かい参拝した。十六世紀に開山した因幡国を代表する曹洞宗の寺院だという。
龍徳寺から駅に向かって歩いていると学校帰りの子供達とすれ違った。
「みんな挨拶してくるね」
Tさんがそう粒いた。小さい町だが、歩いていて気持ちのいい町である。こういう気分に浸れるのは町歩きをしたからで、すぐに折り返した前回の訪問では味わえなかった。
駅前に着いて信号待ちをしている時に周囲を眺めていた。「挨拶を大切にする町」というスローガンが道端に掲示されていた。
一畑電車
夜行列車という今や前時代的になってしまった移動手段で出発し、国鉄の残像を映し出す駅舎を眺めてきた旅の初日は鳥取に泊まった。町の裏道に立つ小さな飲み屋で、私が山陰地方でもっとも美味い酒だと思っている諏訪泉を飲んだ。
二日目の朝も昭和を噛み締めている。国鉄時代に製造された気動車から旅は始まっていた。
鉄道ファンが「タラコ」と呼ぶタラコ色の気動車は主に学生客を大勢乗せて8時02分に鳥取を出たが、県東の鳥取から県西の米子まで二時間四十分もかけてやってきた頃には、すっかり閑散としたローカル列車になっていた。私達が向かうのは松江である。米子からは特急に乗り換えた。
乗り込んだ特急スーパーおき3号は銀色の新しめの車両だが二両編成だった。二両でありながら自由席は三割ほどの乗車率である。松江の観光案内が流れる車内放送は松江が近いことを告げている。11時10分、高架の松江駅に到着した。
私の記憶にあった松江の駅前風景はだいぶ消えていた。前回来た時は高架駅ではなかったし、駅前広場も整備されていなかった。整然と並ぶバス乗り場を眺めながら、私は初めて松江に来た時を思い浮かべていた。駅の裏にあたる南口は随分と古びた店が並んでいた。通りの入口に架かったアーチには「日本の面影松江へようこそ」と大書されてあった。
現実に帰って、市内周遊しているレトロバスに乗り込んだ。主な観光地を結んで走っているものだ。座席は木枠で内装もレトロ調だが、車体そのものは新しいものである。これが今に残る日本の面影なのかもしれない。
松江には現存天守を持つ松江城がある。現存天守は日本に十二城しかないから観光名所となっている。今までの松江訪問では宍道(しんじ)湖のほとりから眺めただけだったが、今回は山陰が初めてな同行者もいることなので五百円の見学料を払って天守に入ってみることにした。
天守は大いに賑わっていた。歴史には興味のなさそうな人達も多いのだろうが、天守からは宍道湖と松江の街並みが見渡せる。観光要素は充分すぎるほどある存在だった。
天守の賑わいとは違って、近隣の松江神社は静かだった。手を合わせると、城内の賑わいにやや疲れた身に優しい心持ちを与えてもらえた気がした。
松江城からバスで一畑(いちばた)電車の駅に向かう。この駅はかつて「松江温泉」という駅名だったが、駅の改修などと共に「松江しんじ湖温泉」と駅名も改められた。以前は学校の校舎を思わせる無骨な鉄筋の駅舎だったが、今は大きなガラス壁の明るい駅に変貌を遂げている。構内には土産物屋もあり、観光地の駅らしい佇まいといえた。売店でビールとおにぎりなどパンを買い、13時36分発の電車に乗り込んだ。
一畑電車は松江と出雲大社、出雲市を結ぶ私鉄で、松江しんじ湖温泉を出ると宍道湖の北岸を走る。小泉八雲(こいずみやくも)が夕陽が七色に輝くと絶賛した宍道湖の眺めは、黄昏時は勿論のこと、こうして青空の下でも雄大な湖である。湖面が穏やかな波を打ちながら家並みの少ない湖岸の景色と溶け込んでいる。
電車は東急で走っていた通勤型で、元は銀色に赤い帯だったものをオレンジと白帯に変えている。ローカル私鉄はワンマン運転が多いのだが、この列車は女性車掌が乗務し、ドアの開閉や観光案内、車窓の見どころなどを解説するなど多忙である。二両編成の車内は空いていた。車掌のきびきびした仕事ぶりが午後のまろやかな日差しが射し込む車内に輝いている。
14時24分の川跡(かわと)で線路は二手に分かれる。電車は出雲市に向かうが、次の目的地は出雲大社なので乗り換えとなる。2分の接続で乗り継いだ黄色い電車は大きな二枚窓の前面が印象的だが、車体のあちこちに錆が浮いている随分と古めかしい車両だった。元南海電鉄の車両である。昭和三十年代に製造された電車だから車齢は五十年ほどだろう。赤い座席や窓上に設けられた細い照明灯などが南海時代のままとなっている。
川跡を出た電車は畑の中を走り、低い山中に近づいていく。丘の上に設けられた運動公園の脇を抜け、少し開けた景色となって14時37分に出雲大社前に着いた。
小さな洋館のような駅舎を出て、出雲大社への参道を歩く。名物の出雲蕎麦の店や洋菓子店などが並んでいる。大きな鳥居をくぐり境内に入ると、参拝はできたが本殿は工事中だった。厳かだが、どこか優しい空気が流れる空間で、そっと手をあわせる。
川跡で乗り換えて九分、16時26分に電鉄出雲市駅に着いた。高架駅である。以前は駅に隣接して一畑百貨店というレトロ風味なデパートが立っていたがもうない。ここからは再び山陰本線の旅となるが、次の列車まで五十八分あるので駅構内の喫茶店で一休みした。
出雲市はこの辺りでは松江に次ぐ規模を誇る町だが、ホームに上がると学生の帰宅ラッシュは一段落した様子で、タラコ色の気動車二両編成はさらりと席が埋まっている程度の混雑度だった。
空は夕暮れに向かっている。17時24分に出雲市を出ると、車窓は田園地帯から鄙びた海岸線に変わっていった。小さな集落の漁村に停まっていきながら、列車は少しずつ帰宅の若者を降ろしていく。大田市(おおだし)駅の辺りで太陽はオレンジに輝きながら海に落ちていった。やがて空は青みを増し、夜が近いことを知らせてくれる。出雲市を出て一時間と一分が過ぎた。空の暗くなった温泉津(ゆのつ)のホームには私達と数人の女子高生だけが降りた。
温泉津駅前は店も家も少なく、駅から集落や温泉は少し離れているが、バスはなく歩きとなった。少し歩いた先のT字路を右に曲がると漁港に出た。左に広がる細い入り江には少しの漁船が繋がれ、低い防潮堤の向こうに海面が見え隠れしている。入り江を包んでいる山には人工物の欠片もなく、灯りも乏しい道である。私達は黙って立ち止まり、カメラのシャッターを切った。
駅から二十分くらい歩いただろうか、日本海の海岸に至る手前で右に曲がり、ようやく温泉津温泉に着いた。細い道に古びた建物が並ぶ。空は既に夜へ変わっていたから、通りは随分と暗く感じられた。私は温泉津に来るのは三回目で、二軒ある共同浴場のどちらにも入っているが、夜に訪問するのは初めてであるから、この街灯の暗さに少々驚かされている。
今日の宿は古民家を改装したもので、チェックインは管理している近くのホテルで済ませることになっていた。鍵を受け取り、黒い木造住宅の前にやってきた。二階建てだが二階はグループ客向けらしく、今回は一階しか使用できない。
室内には必要なものは揃っていた。風呂も完備されているが、温泉を堪能したければチェックインをしたホテルの温泉に入るか、通りにある二軒の共同浴場に入るかというところである。温泉は翌朝すべて試すことにして、まずは夕食に向かった。
街灯が暗いほどだから、店も少ない。選ぶほどもなく、夜に開いている酒が飲める飲食店は一軒だけのようだった。普通の宿泊客は宿で食事をするだろうから仕方のないことだ。
居酒屋というよりはレストランといった内装のその店のメニューは和洋揃ったなかなかの充実ぶりで、様々な料理を味わえそうだ。早速いくつか注文していく。
鮫の軟骨と梅肉をあえた梅水晶や浜田の名物である赤いさつま揚げの赤天には地酒がすすみ、さざえの壺焼きやアジの塩焼きといったよくあるメニューも美味しく、大山鶏(だいせんどり)のステーキやトビウオの姿揚げに土地の風味を感じながら芋焼酎を飲む。最後は店の名物らしいはちみつピザを食べながら梅酒で締めた。
もし、この店が開いていなかったらと考えると背筋に汗が流れるが、静かすぎる温泉で出会った良質の味覚に大いに感謝し満足した。こういう発見は泊まったからこそだろう。周辺の眺めからは異空間のような輝きを放つ店を出てみれば、そこは湯治場の名残りを今に伝えるような風情を持つ小さな温泉なのである。遊びやショッピングには物足りぬ感想を抱かれかねないから人を選ぶ観光地かもしれないが、ここには何十年と不変な風景が広がっているような思いがした。
温泉津にある二軒の共同浴場はいずれも小ぶりで、建物もかなり古いものだった。明日の朝、それを確認してみたいと思う。そんなことを考えながら、私達以外に誰も歩いていない細い温泉通りを歩いた。