台湾鉄路紀行 第七日後半(淡水~桃園)
淡海軽軌
淡水(タンシュイ)駅前は賑わっている。高架ホームには台北(タイペイ)方面の電車を待つ人が大勢いる。淡水を出た時点で多くの座席が埋まってしまいそうな人混みに思えた。
14時42分に淡水を出る電車に乗り込むとセミクロスシート車だった。すべての車両が通勤型のロングシートという訳ではなく、一部の車両がこうなっているらしい。私は次の駅で降りるつもりだが、クロスシートの方が景色が眺めやすいのでそちらに座ってみることにした。席の配置は台鉄のセミクロスシートと同様に、二人掛けのクロスシートに座るとその前にロングシートがあり、そこに座る人の横顔と向き合う造りである。そこに随分と色白の女性が座った。人形のような造形に感じられる顔立ちで、そういうメイクなのだろう。素顔がまったく想像できないほどの作り込みであるし、この人がどんな仕事をしているのかも想像できないが、もしかすると台北市内で夜の仕事をしている人なのかもしれない。
電車は3分で隣駅の紅樹林(ホンシューリン)に着いた。紅樹林とはマングローブのことで、MRTの線路と淡水河の間にはマングローブが群生する保護区域もある。
台北方面のホームからエスカレーターで二階の改札に上がると、出口と共にライトレールの乗り場を示す案内板が現れた。ライトレールとは新世代路面電車のことで、高雄(カオション)で乗ったライトレールも同様である。案内板に使用されている路線のカラーは鮮やかな朱色で、駅番号の頭にはVが付けられている。MRT淡水信義線(タンシュイシンイーシェン)は赤で駅番号はRだった。RはRedの頭文字であるように、VはVermilionの頭文字である。
このライトレールの名は淡海軽軌(ダンハイチンクイ)という。全線が新北(シンペイ)市内を走り、新北捷(ジエ)運(ユン)が運営している。電車の編成は短い車両を五両繋げたもので、一般投票により「行武者号」という名が付けられたこの電車は、沿線の印象に沿って、外装色と座席がライトブルーとなっている。
私は交通系ICカード悠遊卡(ヨウヨウカー)を100元チャージした。このライトレールは初乗り20元で終点まで乗っても25元だが、残高に余裕が欲しかった。案ずることなく、残高は93元で、これで合計193元となった。
ライトレールのホームは地上三階にある。エスカレーターを上がっていくと島式ホームが見えた。改札はなく、ホームの端にある券売機で切符を買ったり悠遊卡をチャージしたり出来る。悠遊卡はホームの入口にある機械にタッチする方式で、こういう乗車方法は信用方式という。高雄ライトレールも同様だった。
ホームは結構な賑わいで、眺めた感じでは沿線住民というよりも観光客の方が圧倒的に多い。若い男女やグループが特に多かった。ほどなくライトブルーの車体に大きな窓を持つ電車が入線してくると、私の周りにいた女性たちが一斉にスマートフォンを向けて撮影を始めた。若い女性が電車を撮るなどという光景は日本では滅多に見られないことだろう。この淡海ライトレールは乗ること自体が観光なのかもしれない。
電車の側面はパステルタッチのイラストが描かれている。ホームにも、花を持って木に寄り添う女の子のオブジェがあった。このライトレールは人気絵本作家のデザインにより、絵本の世界を演出しているのだと後で知る。淡海ライトレールには三編成のラッピング電車があり、それぞれ「動物楽園」「奇幻森林」「漂浮城市」と名付けられている。やってきた電車は雲のような模様に女の子や帽子が描かれているから「漂浮城市」だろうか。
清掃担当のおばさんが短い折り返し時間の合間に、まめまめしく車内を吹き掃除している。2018年の年末に開業したばかりのこの新しい鉄道には、若々しい活気と青々とした若葉のような新鮮さが漲(みなぎ)っている。
15時00分、電車は走り出した。線路は高架のまま北に向かっている。沿線は丘と森が東に広がる中、手前にライトレールの線路と並行する道路沿いにマンションが建ち並ぶ様子が見えてきた。現れる駅はいずれもガラス張りの壁に、駅ごとに異なるオブジェがホーム上に置かれている。きのこに腰掛ける少年、遊ぶ少女、虫や魚。オブジェは、自然の中に建てられた近代都市の景観と不思議な調和を果たしている。電車が地下鉄や郊外電車ではなく、路面電車の新時代型であるライトレールというのがまたいい。ライトレールの小ぶりな電車が、丘と森の町に延びる高架を駆け抜ける。
駅番号V07、つまり紅樹林を出て6駅めの淡水行政中心(タンシュイシンジョンジョンシン)を出ると、線路は高架から地平となり、次の浜海義山(ビンハイイーシャン)は地平駅となった。海岸が近いからか辺りは平地となり、そこにマンションと公園がいくつも造られている。このニュータウンの足としてライトレールが造られたのだ。そして、今後さらに路線は拡大していく計画である。
線路は道路に合わせて直角に右折し、開発中といった様子の更地の中を走っていき、駅番号V11の崁頂(カンディン)に15時25分に着いた。
崁頂のホームはそのまま先が歩道と繋がっており、手前にICカードをタッチする機械が設置されている。機械の横に案内のおじさんが数名立ち、乗客にタッチを呼びかけていた。
ホームの端には人工の小さな木があり、如雨露(じょうろ)を持って木に水を与えようとしている少女のオブジェがあった。通りがかる乗客の多くが、そのオブジェを撮影していく。駅ごとに撮影名所を用意してある趣向なのだった。
現在はここが終点であるが、線路は先まで延びていた。今後、沿線の階発と共に路線が拡がっていくのだろう。将来は淡水の方にも延びていく計画である。
小雨が降ってきた。周囲は開発途上といった様子であるし、私は乗ってきた電車で折り返すことにして駅に戻った。車内は空いている。乗客があまりいない間にセミクロスシートの内装を見て回る。淡海ライトレールは自転車の持ち込みが出来るようになっているのだが、その自転車用スペースの脇にある二人掛けの短いロングシートの一席に、本を読む子熊のオブジェが座っている。席をオブジェで一つ塞いでしまうなど大胆な演出であるが、苦情などはないのだろうと予想できる。子熊が被っている帽子には小鳥が佇んでいた。自然と都市。共存がテーマな鉄道であり、町なのだろう。
15時30分発の電車で紅樹林を目指して引き返す。二人掛けのクロスシートの車窓に再びマンション群が現れ、丘と森が広あり始めた。15時55分、紅樹林に着いて高架ホームに立つと、空を包んでいた雲はいつしか切れ、その間から陽光が射しこんできた。ホーム上からだと淡水河対岸の八里(バーリー)の町の後方にそびえる山並みがよく見える。淡水河はようやく降り注いだ午後の陽光を受けて銀色に輝いていた。
二二八和平公園
紅樹林(ホンシューリン)16時06分発のMRT淡水信義線(タンシュイシンイーシェン)に乗って台北車站(タイペイチャージャン)に着いたのは16時39分であった。外に出てみれば、まだ初夏を思わせる太陽は空の上にある。天気はすっかり晴れとなっていた。
台鉄の台北駅の東側に出て中山南路(ジョンシャンナンルー)を歩く。ターミナル駅のすぐ傍なのに緑が多い。途中で歩いている道が違うことに気づき、スマートフォンの地図アプリを起動した。このスマホは台湾のメーカーASUS(エイスース)製で、買ってから間もないのだが使いやすくて気に入っている。通信するためのSIMカードは出発前に購入し、自宅でセットしてきたタイのメーカーのもので、アジア諸国でローミング通信できるタイプの8日版を購入した。ちょうど先週の土曜に自宅でセットしたので、使えるのは今日までである。
目的地は二二八和平公園(アーアーバーフーピンコンユェン)。台北駅の南にある。最寄り駅は台北車站の次の台大医院(タイダーイーユェン)なのだが、台北駅前の風景を眺めたくて台北駅から歩いている。
道を間違えたついでに、近くに広がる国立台湾大学を塀越しに眺めることにした。台湾大学は日本統治時代の1928年に台北帝国大学として開校した。東京、京都、東北、九州、北海道、京城、に次ぐ七番目の帝国大学として設立されたものである。戦後、現在の名に改められて今に至る。
台湾全土から頭脳優秀な若者が集まるこの大学は、煉瓦造りの重厚な建物であった。一等地でありながら台北駅前の景色にどこか落ち着いた雰囲気が漂っているのは、駅前に国立大学があるからなのだろう。道路の交通量こそ多いが、街の空気にターミナルの繁華街に付き物な乱雑さはない。
道を間違えてしまったので時間はかかってしまったが、二二八和平公園が見えてきた。台北駅の南側は巨大なビルが建ち並ぶという訳でもなく、大学と商店街と公園の街並みである。時刻はすでに17時を回っている。電車を降りてから30分以上が経過していた。
二二八和平公園は街中に突然広がる緑のオアシスのような場所であった。1908年に台湾初の近代都市公園として「台北新公園」の名で開園したこの公園は1935年に開催された台湾博覧会の主会場のひとつにもなった。
陽はだいぶ沈んできたが、多くの人々が園内を歩いている。奥に向かって歩いていくと池があり、そしてモニュメントが現れた。1947年2月28日、中華民国国民党による統治に反抗の意を示した本省人(旧来からの台湾在住者)が蜂起し、公園内にあるラジオ放送局を占拠してラジオ放送を通じて本省人に蜂起を呼びかけた。のちに「二・二八事件」と呼ばれる抗争である。
この蜂起は台湾全土に広がっていき、やがて国民党政府は大陸から軍隊を投入して弾圧した。この抗争で多くの人々が命を落とし、より一層本省人たちは窮屈な暮らしを強いられるようになる。
年月が過ぎ、1996年2月28日。のちに民主進歩党からの初の台湾総統となった陳水扁(チェンシュイピェン)台北市長が、二・二八事件で犠牲となった人達を追悼する二二八和平記念碑を園内に建て、公園の名を二二八和平公園に改めた。
私の前を歩いていた若者がモニュメントに向かっていった。私もそっと手を合わせた。
台北駅に向かって歩いている。通りは屋根付き歩道となっている。道路の下にMRT淡水信義線が走っている。あとは北の方角に歩いていけば台北駅南口だ。
台北駅南口は安宿が多い地区と聞いていた。歩道に面して並んでいるのは飲食店が多く、宿は横道に入ったところなのかもしれない。飲食店はこの旅の道中でよく見かけた、歩道に向かって仕切りのない造りのもので、店内を見ると早くも夕食の賑わいとなっている雰囲気はある。空は少しずつ暗くなってきた。開放的な造りだから食欲を誘う匂いも歩道まで漂ってくる。台湾式煮込み料理滷味(ルーウェイ)の店がある。自分で具材を選び、それを店員が煮込んでくれる。滷味を食べてみたいと思いながら、結局この旅では未だ実行できていなかった。いい機会だと思ったのだが、歩き疲れが出て気持ちは消極的となっている。台北駅前で食事をせずに桃園(タオユェン)空港まで行ってしまいそうなくらい、足に制動が掛かり始めている。
ぼんやりと歩いているうちに巨大な台北駅舎の前までやってきた。台北駅南口に何軒か書店があることをスマートフォンの地図アプリで確認している。台湾全土の地図帳があれば買って帰りたいと思っている。私は書店に向かった。
大きくも小さくもないその書店は、隅に地図コーナーがあった。台南の書店もそうだったように、地図と並んで旅行ガイドブックが売られている。台湾のものと同数かそれ以上に日本のガイドブックが置かれている。地図コーナーの隣はなぜかコンピューターソフトウェアの書籍のコーナーで、大学生らしき女性がExcelの本を手に取っている。地図やガイドブックを手に取る人は私以外にはおらず、結局地図帳もなかった。
台北駅は夜空の下にあった。時刻は18時を既に過ぎている。地下街に下りて改めて書店で地図帳を探して空振りとなった私は、食事をすることにした。疲れはあるが、空腹であった。この旅における最後の夕食である。思えば訪台前に台湾の料理に関しての色々を予習してきたつもりであったし、それなりに予習の効果はあった。しかし、振り返ってみれば食べてきた料理の種類は決して多くはないように思われた。四泊めの高雄(カオション)以降は宿に朝食が付かなかったので、前日にコンビニエンスストアでパンなどを手軽に調達してしまったことも一因だ。
だから、この夕食はまだ食べていなかった料理を食べよう。そう決心して地下街を歩いてみたのだが、昼に歩いた通りと同様に、今歩いている地下街も食べたい料理に有りつけなかった。観光客向けという訳でもないのだろう。私は空腹の誘惑に負け、日本のカツ丼チェーンの店に吸い込まれた。看板は日本語である。昨夜、基隆(キールン)でもこの看板を見かけた。
カウンターに座ると、歩き疲れが一気に出てきた気がした。注文した豚カツ丼には豚汁とヤクルトがセットで付いてきた。女性店員はヤクルトを指して「どうぞ」と笑顔で言った。カツ丼の味はとてもいい。日本のチェーン店であることはどうでもよくなり、美味しく食べ、美味しくヤクルトを頂いた。
空港電車
食事をしたことで元気を回復した私だったが、散策はやめてMRTに乗ることにした。空港に向かう前に夜市(イエシー)にでも行こうかと考えていたが、それも止めた。一泊めに訪れた日本人店長の居酒屋で、店長に「帰る時にでもまた寄って」と言われていたが、顔を出したら飲み過ぎてしまいそうな気もした。名残り惜しいくらいでちょうどいい。次回の旅に楽しみはとっておく。そう決意した。
コインロッカーからキャリーケースを取り出した。これでもうどこかに行く気はしないだろう。20元の小サイズを利用したが、午後の五時間ほどの利用で追加料金も20元だった。3時間ごとに20元加算らしい。それでも日本円にすれば40元は約150円ほどだから安い。
桃園機場捷運(タオユェンジーチャンジェユン)(桃園MRT)の台北車站(タイペイチャージャン)にやってきた。悠遊卡(ヨウヨウカー)の残額は114元。台北から桃園空港までは160元(約590円)なので、100元をチャージする。桃園MRTの運賃は台湾の鉄道運賃の相場に照らすと割高に感じるが、最大金額が160元で、つまりが台北から乗った場合は空港で降りても、終点まで乗っても160元となっている。もっとも、台北から空港まで快速に乗っても40分弱の距離だから、日本の鉄道運賃と比べれば決して高い訳でもない。
ホームに停車しているのは、その快速に相当する列車である直達車だった。各駅停車である普通車はロングシートだが、直達車はクロスシートである。車内は空いていて、冷房がよく効いている。19時14分に台北車站を発車した電車は、やがて地下から高架に出て、夜の郊外を快走した。
19時50分、機場第一航廈(ジーチャンディイーハンシァ)に到着した。今回の鉄道旅のラストを飾る電車は、さして多くない乗客を降ろすと、隣の第二ターミナル駅を目指して、夜の空港駅を静かに発車していった。
桃園空港のロビーに向かう通路を歩いている。旅の初日に悠遊卡を買ったデスクは今日は設置されていなかった。あの頃は、言葉が通じない所に来たことを痛感し、どこか心を後ろ向きにしながらMRTに乗り込んだものだった。だが、今は違う。帰りたくないという感情が胸の中で渦巻いている。今から台湾一周を改めて開始したら、更に色々なことに出会えそうだと思いながら、通路を歩く。「台湾で大人気の牛肉麺」などと日本語で書かれた大きな広告が壁に掲示されている。牛肉麺(ニョウロウミエン)を食べたのは集集線(ジージーシェン)の集集駅前の老街(ラオジエ)だった。駅前で日本の歌謡曲を歌っていたおじさんは今日も歌っていただろうか。
MRTの通路にはちょっとしたフードコーナーがあるが、カツ丼を食べてきたから、もう何か食べる気はしない。エスカレーターを上がって空港ロビーに向かった。
空港ロビーは空いていた。私が搭乗する便のチェックイン開始は21時30分なので、まだ一時間半ほど余裕がある。とりあえず座りたいのでベンチを探す。出発ロビーよりも到着ロビーの方がベンチが空いていた。
今日は天候がはっきりしない一日であったが蒸し暑くはあった。シャワーを浴びることができないものかと、スマートフォンで検索してみると、制限エリア内にあることがわかった。あとで行ってみることにする。
時間を持て余しているうちに、周囲は徐々に閑散としてきた。夜も更けてきて、到着便も少なくなってきたのだろう。暇を持て余した私は空港内を散策することを始めた。初日にキャッシングをしたATMを懐かしく眺めたり、売店を眺めたりしているうちに、片隅に掲げられた案内板に視線が向かった。案内板にはこう書かれてあった。
往第二航廈電車 Skytrain to Terminal 2
電車という単語に首を捻る。案内板が示す矢印はMRT乗り場とは違うものだ。そもそも、スカイトレインという名は何か? 気になるままに私はエレベーターに乗り、通路を歩き、ホームドアが設置されている小さな乗り場に到着した。ガラスで乗り継ぎ旅客用通路とこちらが仕切られており、乗り場も分けられていた。
もう乗る列車がないと思われたこの台湾鉄道旅は、意外なところで続きが用意されていたのだ。
運賃は無料で、運転間隔は6時から22時までは2分から4分。22時から24時は4分から8分となっている。深夜はボタンで呼び出す仕組みなようだ。
列車がやってきた。短い車両の二両編成だ。後ろの車両が乗り継ぎ旅客用で、前の車両とは往来は出来ない。ドアは各車両の両端に付き、ドア間に四人掛けの青いプラスチック製座席がある。ドアの付近には握り棒が立ち、MRTの電車を縮めたようなデザインであった。
20時40分に第一ターミナルを発車すると、空港敷地内に延びる高架上を走り始めた。乗り味は東京のゆりかもめなどの新交通システムに似て、低速で細かい振動を伴って走る。大きな窓の向こうに、誘導灯が点在する夜の空港の景色が広がる。思いがけず鉄道に乗ることが出来た私は感無量で夜景を見つめた。
1分で第二ターミナルに到着した。番号こそ2を名乗っているが、第二ターミナルは新しい施設ゆえに主要航空会社が発着するターミナルとなっている。カウンターの脇に台湾の主要航空会社であるエバー航空専用のハローキティチェックイン機のコーナーがある。機械も壁も床もピンクに彩られ、ピンク字でHAVE A NICE TRIPと書かれてあった。
台湾鉄路管理局の全線に乗る旅。振り返ってみれば、それは良い旅であった。僅かな遅延こそあれど、概ね順調に各線各列車に乗ることが出来た。そして、また乗りたいという気持ちに溢れている。それが大切なことだろう。
時間が遅いせいか、充実している筈の売店も既に閉まっているところが多く、土産にしようと考えていたパイナップルケーキの有名店も同様だった。
先ほどは私以外に台湾人の女性が一人しか乗っていなかったスカイトレインだったが、帰りは私の他に白人カップルが居た。列車の接近音がピーポーピーポーとサイレンを思い起こさせる音で鳴り響く。その音だけが静かな夜の空港の小さな空間に高らかに響いている。21時10分、第二ターミナルを離れ、1分で第一ターミナルに帰ってきた。
チェックインの開始時間までまだ少しある。自販機で30元の紙パックのコーヒーを買い、到着ロビーのベンチに座ってぼんやりと過ごす。あと3時間もしたら台湾から離れているのだ。
私が乗るのはタイガーエア台湾の羽田空港行きである。タイガーエアは格安航空会社、つまりLCC(Low-cost carrier)だが、羽田行きという利便性のよさと、深夜に出発することで時間をたっぷり使えるということで選択した。だが、こうして時間を持て余している。出発は0時10分だ。
カウンターは空いていた。チェックインも簡単なもので、受付の女性係員にパスポートを渡してスマートフォンに表示させた予約画面を見せると、「ドコヘイキマスカ?」と訊かれ、「Haneda Airport」と答えたら、係員はスマートフォンの画面を注視せずに端末を叩いてチケットを発券した。
「コノジカン、オッケー?」
係員はチケットに記載された搭乗開始のゲート集合時間を指して訊ねた。私は「OK」と答え、受け取ったチケットを持って出国審査に向かった。空いているので、こちらも簡単に済み、制限エリア内に入ることが出来た。制限エリアの入口に女性スタッフが立っている。
「これで割引になります」
流暢な日本語を交えて手渡されたのは、免税品の土産店の割引券だった。
通路の両端に店は存在した。通路を行き来しながら先ほどのスタッフの前を通りがかり、また割引券を貰いそうになりながら、私は店を見て歩く。家族にパイナップルケーキを買って帰るつもりだったが売っていない。早く第二ターミナルに行っておくべきだった。店を見て歩いているうちに時刻は十時半を回っていた。先ほどインターネットで調べたシャワールームに向かう。
シャワールームは、店のあるフロアから階段で一階分上がったところにある。照明を落とした廊下に面してラウンジが並んでいる。私は特別なカードを持っている訳ではないので、会員専用ラウンジは使用できないから一般向けラウンジに入ったが、間接照明の室内にソファとテーブルが置かれた落ち着いた空間であった。ここに座ってくつろいでいたら快適過ぎて眠りこけてしまいそうだから、すぐにシャワールームに向かった。
シャワールームはラウンジ内にあり、もちろん鍵つき個室となっている。15分以内の使用を促す注意書きがされている。更衣所には洗面所も備えているので、色々と身支度ができる造りだ。清潔で想像以上に快適であった。
ラウンジで少し休んでから出発ゲートに向かう。時刻は23時を回った。長い一日だったという実感はない。夕方頃は感じていた疲労感もなくなっていた。LCCだからか搭乗ゲートは一階であった。バスに乗って飛行機に向かう仕組みだ。
閑散としたロビーに着き、25元のFINという飲料水を買う。水かと思って購入したが随分と甘いスポーツドリンクであった。台湾に来てから、ビール以外は甘い飲み物ばかり飲んでいたような気もする。
23時30分となり、搭乗口で受付が始まった。周囲に人は少ない。居るのはこの飛行機に乗る人とタイガーエア台湾のスタッフだけであった。
バスに乗って窓から、照明に薄く照らされた桃園空港の構内を眺める。空港の景色など台湾も日本も大きくは違わないだろう。もうこの旅は終わりを迎えている。車内に居る乗客も、聞こえてくる会話からすると、ほとんどが日本人のように思われた。
バスを降りると、タイガーエア台湾の白地に黄色と黒の機体が照明に浮かび上がるようにして眼前に現れた。帰りの飛行機を台湾の会社にしてよかったと思う。キャビンアテンダントさんも台湾の人だ。旅はまだまだ続いている。席に落ち着き、旅のことを初日から順に思い出していく。出会った町、出会った人、乗った列車、食べた料理。
夜市の活気、日本人が経営する居酒屋、客家(ハッカ)の山歌列車、高速鉄道、バナナ畑の村、街角の肉鍋食堂、親切なスタッフのいるホテル、広大な貨物駅跡公園、手動ドアの旧型客車、原住民系の美味しい屋台、猫村の猫たちと猫看板、港町の安宿、旧炭鉱路線の老街(ラオジエ)、ニュータウンの電車。そして、関わったたくさんの人達。私に会話能力がもう少しあれば、出会った人ともっと多くの思い出が残せたかもしれないが、それは次回への課題としよう。まだ台湾には乗っていない鉄道、訪れていない町がたくさんあるからだ。
定刻より10分早く桃園空港を離陸したタイガーエア台湾IT216便は、夜空に向かって夜間飛行の体勢に入った。落とされた機内照明の下、私の脳裏に現れるのは、懐古と最新がほどよく混在した台湾の風景と、素朴な顔の台湾の人達だった。
羽田空港は夜だった。定刻より5分早い3時45分に到着した飛行機を降りると、冬の冷気が肌に伝わり、もうここは日本であること、東京であることを実感させた。入国審査を済ませてロビーに向かうと、早朝に出発するLCCの便に乗る人たちがあちこちのベンチに横たわっていた。
隅の方に空いているベンチを見つけ、腰を下ろしてスマートフォンの機内モードをオフにすると、8日間の期限が切れたSIMカードは圏外表示を示した。今回の台湾鉄路の旅は事実上終了したことを示す表示に思えて、少し感傷的になりながら夜明けを待つ。私はキャリーケースの取っ手に巻かれたタイガーエア台湾のタグをそっと外し、旅から持ち帰った切符やレシートが入ったクリアファイルに仕舞い込んだ。