車窓を求めて旅をする⑬ 年末年始の旅が沁みる理由 ~伊豆急行・常磐線~
年末年始の旅が沁みる理由 ~伊豆急行・常磐線~
伊豆急行
えきねっとというサービスがある。JR東日本が提供しているインターネット予約サービスである。鉄道旅を愛する私も当然ながら会員になっている。2019年の年末、日帰りでどこか行こうと思い、えきねっとのページを開いて思案する。11月に沖縄に行ったばかりだし、年が明けて2月には台湾を鉄道で一周する旅を計画しているので、泊まりではなく日帰りの旅をしたい。
関東地方は未乗線区が少なくなった。ケーブルカーが二路線と、群馬県の上信(じょうしん)電鉄が残っている。日帰り圏内では静岡県の伊豆急行もあった。
JR東日本の特急「スーパービュー踊り子号」が近々廃止されると知った。前面展望の二階建てと観光特急にふさわしい仕様の楽しい車両だが、実はまだ乗ったことがない。私は伊豆に行こうと決意した。年末だから伊豆は混んでいそうだ。えきねっとでスーパービュー踊り子の指定券を購入した。
12月28日土曜日。天気は晴れ。青春18きっぷを握りしめ、大船(おおぶな)で乗り換えた東海道本線快速アクティは9時50分に熱海(あたみ)に到着した。15両編成が停まれる長いホームの中程にしかない連絡階段を急いで下り、伊東線のホームに向かう。乗り換え時間は3分。乗るのは前述の特急スーパービュー踊り子の1号。前面展望の大きなガラスの顔を持つ電車がゆったりと入線してきた。
熱海で降りる人が結構多かった。指定された二階席の乗車率は50パーセントほどといったところだ。進行方向左側の席に腰を下ろす。海が見えるのは左だ。えきねっとは座席を選択できるので左側を選んだ。
伊東線は熱海を出て東海道本線と少し並行し、来宮(きのみや)を過ぎたあたりで離れ、熱海の市街地を回り込むように左に曲がっていく。線路は高台に敷かれているので眺望はよい。
山中をトンネルで抜けたりしていた列車は伊豆多賀(いずたが)を通過したあたりで海岸に出る。この車両は窓がとても大きく眺めが利く。この先、伊豆急行線内は海沿いを走る区間も多く、乗って楽しい列車だ。私は伊東で降りるので、車内の雰囲気を短い時間で堪能しようと、車窓の眺望の良さを楽しみながら座席の座わり心地の確認ど忙しい。特急券の分だけ楽しもうという貧乏人根性ともいえる。
網代(あじろ)の付近は温泉街と浜が広がり、これぞ観光地という景色だ。伊豆は海岸のそばまで山が迫っているから、車窓は目まぐるしく変化していく。山を抜ければ宇佐美(うさみ)の鄙びた味わい深い町と海岸風景に変わり、更に山を抜けると伊東の市街が近づいてくる。スーパービュー踊り子、熱海~伊東23分、運賃と特急券千八百二十円の旅であった。
伊東駅で伊豆満喫きっぷというフリーきっぷを購入した。千九百円で伊豆急行全線乗り放題で、特急に関しても、全席指定のスーパービュー踊り子は乗れないが、踊り子の自由席は乗れる。これから乗るのも特急踊り子号である。
10時46分、東京駅から走ってきた特急踊り子105号が入線してきた。伊東でそれなりに降りたが、車内は混んでいる。デッキ付近の席に空いている席を見つけて座る。進行方向左側である。
踊り子号に使われている車両は昭和五十六年(1981)に登場した。普通列車にも使用することを目的に設計されたために窓が開く特急車両という珍しい内装で、座席の寸法もやや狭い。今や古参といえる車両だから仕方がないが、その古びた造りがローカル線では味わいに変わる。
伊東からはJR伊東線から私鉄の伊豆急行の線内に変わり、私にとって初めての乗車区間だから現れる景色すべてが新鮮である。伊東からしばらくは内陸部を走るが、やがて列車は高台から海岸を見下ろす眺めを展開していく。
高く切り立った崖が海に迫り、小さな漁港や集落が通り過ぎていく。帰りは特急が停車しない小駅で途中下車してみようと思う。
温泉で知られる伊豆熱川(いずあたがわ)に停車した。駅前に並ぶ建物の間から湯気が立っている。このあたりからは、海岸の向こうに伊豆大島が見え始めた。いい眺めだったが、伊豆稲取(いずいなとり)のあたりから空は曇ってきた。天気を心配しながら11時47分、終点の伊豆急下田(いずきゅうしもだ)に降り立った。
下田市の玄関駅で観光地である駅だから駅前広場があり、旅館の案内所もある。駅前には商店も並んでいる。大きくはないが商店街もある。
下田にはいくつもの観光地があるが、私の目的地は下田城だった。30分ほど歩く距離なので、のんびり歩く。駅前通りから裏道に入って南に進んでいく。裏道も商店街になっていて、年末の後片付けや年始の飾り付けに忙しい雰囲気が漂っている。このそわそわした空気に触れると、年末旅に来たことを実感する。
駅前もどこか古びた佇まいの町並みだったが、裏道はもう何十年も変わっていないような風景だった。今時の地方では珍しく中型規模の書店がある。各種商店が通りに揃っていて、店先で年末の挨拶が交わされていたりする。
道はまっすぐではなく、時折小さな四つ角で僅かに左に折れて延びている。色街によくある道の敷き方で、外の道から町中を覗きにくくする構造だが、そういう店も跡もない。のどかな通りである。
道はやがて町はずれとなり、小さな川べりに出た。川幅の狭い川に小さな橋が架かり、古い家並みが風情を添える眺めで、川沿いに飲食店が並び、観光客の姿も増えた。その先に下田湾と小山が見える。下田城はこの小山のことだ。
下田城は戦国時代の北条(ほうじょう)家が水軍の拠点として建造した城で、湾を見下ろす小山に空堀(からぼり)や曲輪(くるわ)を複雑に配置しつつ、下田湾に船を停留させておくための設備を設けていた。
城跡は公園として整備され、舗装された通路を登っていくと説明版が現れ、土を掘って切り立った空堀も現れた。私はこういう戦国時代の土の城が好きで、戦いを想定して複雑な仕掛けを施してあるのを見ると胸が高鳴るのだが、ほとんどの観光客はここを海を見下ろすハイキングコースとして捉えているようで、城の遺構にはさして関心も示さず歩いていく。
下田城が歴史の表舞台に登場するのは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が関東制圧に乗り出し攻め寄せた小田原合戦である。下田城主の清水康英(しみずやすひで)が少ない兵力で多勢の水軍を迎え撃った。海側から攻め寄せる豊臣軍の攻撃を防ぎ、やがて陸地に戦機を求めた豊臣軍の猛撃にも耐え抜き、二カ月近くを奮闘したのち、小田原が囲まれたことを受けて城を開けて降伏に至った。そのような堅城である。山上からは海岸線が入り組んだ下田の海が見渡せた。地形と造りが奮闘につながったのかもしれない。
13時44分、伊豆急下田を出た特急踊り子110号は空いていた。ひとつめの停車駅河津(かわづ)で降りた私は、駅からほど近い海岸まで歩いて海を眺めたあと、14時25分発の下り普通列車に乗り込み一駅戻ってみた。元東急のステンレス通勤電車をクロスシートに改造した電車は、6分で山中の小駅稲梓(いなずさ)に到着した。
稲梓は伊豆急行線でもっとも乗降客の少ない駅で、島式ホームは斜面の中腹に立っている。無人駅だが掃除の係員が駅舎にいる。駅舎からは斜面の下に向かって道が延びていた。その先は山に挟まれた小さな里がある。私と共に降りた帰省客らしき家族連れが楽しげに道を下っていった。
短い滞在時間を利用して駅舎を眺めたあと、14時48分の上り普通列車に乗り込んだ。やってきたのは「リゾート21」の愛称を持つ観光仕様車両だった。
リゾート21は窓が大きく設けられ、海側の座席が窓に向かって設置されている。今日は東海道から伊豆に向かってくる観光客が多いのか上り列車は空いていて、私は海側の座席に腰を落ち着けた。山側はごく普通の二人掛け座席である。
陽は傾き始めている。昼頃から曇っていた天気は伊豆熱川付近だけ少し晴れ間が見えたが再び曇り始め、私は温泉を求めて伊豆大川(いずおおかわ)で降りた。時刻は15時20分になっている。
伊豆大川も無人駅で、駅舎を出ると狭い道が延び、坂道に突き当たる。駅周辺は店は少なく、構えからすると仕出しが主な感じに思える寿司屋がある他は目立つ建物もない。坂道の周囲に集落が形成されており、私は左折して海岸に向かって下っていった。
駅から10分ほどで海岸に出た。国道の下をくぐると浜に出た。ここに温泉がある。小屋のような構えの建物に声を掛けて料金五百円を払う。今ちょうどグループ客が帰るところだから少し待つようにとおばさんに言われ、待った後に中に入った。
狭い更衣室を出ると、そこは浴室と露天の岩風呂だ。板塀の向こうは浜であり磯だった。波の音が随分と近くで聞こえる。こんなに海に近い温泉に入るのは初めてだ。空は少しずつ暗くなりかけているが、気持ちのいい温泉だった。
湯上がりにベンチで涼んでいるうちに空は青くなっていた。海岸近くにある三島神社に参拝して、坂を上がって駅に向かう。薄暮れの中にぼんやりと待合室の灯りが見えた。
先ほどは素通りしてしまったが、待合室は住民の贈呈による書籍が本棚に並んでいる。駅前は静まり返り、人の気配もしない。缶コーヒーを飲んでいると、駅に通じる細い道を電車に乗る人が一人歩いてきた。その向こうにそびえる山はもう夜になっていた。
物音のしない暮れの山腹の小駅に、踏切の警告音が鳴り響き始めた。16時50分、伊豆大川にやってきた列車は元東急の通勤型だった。通路を挟んでクロスシートとロングシートが混在する内装だが、クロスシートは塞がっていた。車内は中国語が飛び交っている。
夜になって黒の車窓となっている伊豆高原を抜け、少しばかり華やかな灯りを見せる伊東も過ぎ、17時45分、熱海駅の伊東線ホームに到着した。駅には年末を温泉で過ごそうとやってきた人たちの賑わいがあった。静かな町で軽く一杯という気分でいたが、その当てが外れ、町に出ることなく駅ビルで夕食にする。旅先の駅ビルに入って店選びをするのは、それはそれで楽しくもある。
常磐線
旅の記録を確認すると、最近は年始に常磐(じょうばん)線に乗りに行っていた。前年(2019)は茨城(いばらき)県の関東鉄道竜ヶ崎線に、一昨年は福島県の磐越東(ばんえつとう)線に行っている。いずれも常磐線に乗って出かけている。一昨年は常磐線の高萩で途中下車して町歩きしているし、昨年も竜ヶ崎線の乗り換え駅佐貫(2020年3月から常磐線の佐貫駅は龍ヶ崎市駅に改称)から牛久沼(うしくぬま)を見に行ったりしている。
冬の旅というと北国の雪の旅が連想されるが、稲の刈り入れが終わった農村風景を眺めながら冬晴れの下を旅するのは気持ちが引き締まる趣きがある。ぴりっと澄んだ冷たい空気の中、冬枯れの草木を眺める。終わりと始まりは繋がっていることを実感するひとときである。
一昨年の磐越東線の旅では未練が残っていた。常磐線でいわき駅までやってきた私は、その先まで行くつもりだった。2011年の大震災以来、常磐線は分断された状態になっている。私は現在の常磐線の終点に行くつもりだった。しかし、いわき駅から先は強風のため運転中止となってしまった。そこで、行先を変更して磐越東線に乗って郡山に向かったのだった。
2020年1月5日、天気は晴れである。三年連続で新年早々の常磐線の旅をしているが、三年連続で晴れとなっている。青春18きっぷを持って9時34分品川発の水戸行きに乗り込んだ。常磐線の中距離電車は上野始発だが、一部は品川から出ている。
空は青い。利根川(とねがわ)を渡り茨城県に入ると広大な農地が目立ち始める。絶景と呼べる箇所はないが、常磐線のこの車窓が好きだ。黄色と白の中間のような色の地面が広がる中、高い鉄塔が風に打たれながら立っている。地形は平地ばかりかと思いきや、低い丘が現れ、小さな森が点在している。日本の原風景を感じる景色の中を、通勤型電車は快走して抜けていく。
11時59分に着いた水戸から11分の接続でいわき行きに乗り換える。電車の形式は同じだが、先に進んでいくほどに編成は短くなっていく。品川では十五両だった電車は途中土浦で切り離しがあって十両になり、水戸からの電車は五両となった。車内はそこそこ乗っている。
茨城県の北端まで来ると駅の造りが都市近郊のような鉄筋橋上駅舎ではなくなり、地平の平屋の駅舎に変わっていく。そのままの景色で、電車はいつしか福島県に入った。街道の関所で知られた勿来(なこそ)の辺りからは家並みが増えてきた。いわき市に入ったのだ。いわき市は福島県で一番人口の多い市である。
13時7分、いわきに着いた。ここは1994年まで平(たいら)駅といった。駅の北側に平城があるので行ってみることにする。
駅の北側は台地になっていて、改札を出た所にある南北自由通路はそのまま台地の中腹に達している。案内に従って城への坂道を登っていく。道からは広々としたいわき駅構内が見渡せた。
歩いていくうちに住宅地となり、目立つ遺構もないまま、城門のような所に出た。だが、あいにく年始休みで中には入れなかった。仕方なく駅に戻る。
いわき駅は南口が栄えており、ビルが林立している。改札の前から何本もの赤い長旗が通路になびいている。改札前に「いわきFC JFL昇格おめでとう」と赤い横断幕が掲げられていた。赤い長旗はサッカーいわきFCの応援フラッグだった。2019シーズンに東北リーグ1部で優勝し、全国地域リーグ上位チームとの大会を勝ち抜き、今年からプロアマ混在の全国リーグJFL(ジャパン・フットボール・リーグ)に昇格を決めたのだった。JFLの上はJ3で、いわきFCはJリーグ入りを目指している。
いわき市は昭和四十一年(1966)に5市3町6村が合併して誕生した市で、平成の大合併の時代までは日本でもっとも面積の広い市だった。Jリーグを目指すサッカークラブができた経緯も、複数の自治体が合併した歴史を持つ市に、共通の話題と一体感を期待しての側面がある。関所、城、炭鉱、港、いろいろな顔を持つ町がひとつになっている市である。
いわき14時22分の電車に乗り込んだ。途中の広野止まりだから車内は空いている。市街地は農村に変わり、かつて炭鉱町だった四ッ倉(よつくら)を過ぎたあたりから海岸線が近づいてきた。福島県には三つの地方がある。山間部の会津(あいづ)、東北本線沿線の郡山や福島の中通り、そして常磐線沿線は浜通りという。その名の通り、線路は海岸線の近くを走る。
14時43分、斜面の中程に対抗式ホームを並べる末続(すえつぎ)に到着した。降りた人はとても少ない。小集落の小駅である。
末続は赤茶の瓦屋根を乗せた白壁の木造駅舎で、無人駅だった。待合室には駅ノートが置かれてあり、旅人がこの古い駅舎に旅情を掻き立てられ、思い思いの言葉を綴っている。末続駅をプロ級のイラストで描いたページもあった。
駅前から延びる細い道は下りになっていて、やがて線路をくぐる。そこからは海に向かって平地となるが家は非常に少ない。やがて川が現れる。河口には広大な空き地が広がり、海岸は護岸されて浜には出られないようになっているのが橋の上から窺えた。その橋も、そこから続く川の土手の道も真新しい。ここ数年に造成されたものだろう。
土手を歩き海岸まで到達すると行き止まりとなり、そこから海が見渡せた。青い冬の海が荒々しく波を畝らせている。見下ろす砂浜には砕けた岩がいくつも転がっている。
河口の周囲に広がるささやかな浜を囲むように低い崖が立ち、誰もいない海岸を見つめている。そこだけが九年前を知っている景色なのかもしれない。
海を眺めてから駅に戻ってきた。下り電車まで少しあるので、15時18分の上り電車で一駅戻ってみることにした。上りホームは海側にある。そこからは先ほど見てきた海岸が見渡せた。ふとホームの柵を見ると、そこに標語が書かれてある。「末ながく花と緑と青き海が続く駅」とあった。
末続から3分で着いた久ノ浜(ひさのはま)は黄色の壁を持つきれいな駅舎の駅で、小ぶりながら駅前広場もあり、そこから海に向かって通りが延びていた。海岸には海水浴場があるという。
日が傾いて、地面が陰ってきた。立っているだけで寒い。自販機に麻婆スープという品があり、物珍しさと寒さ凌ぎに購入して待合室に入る。
駅はたそがれてきた。次にやってくる下り電車は現時点での常磐線の終点である富岡行きだ。いわき以北のここまでの二本の電車は空いていたから次も空いているだろう。そう思いながら15時34分の電車に乗り込む。車内は意外に混んでいて、私は空いている席を求めて歩き回る結果となった。
農村と造成中の空き地が混在する中を走ってきた電車が小さな町に入っていった。広野である。ホテルだろうか数階建ての建物もある。乗客の何割かもここで降りていった。
広野を出て緑の中を走っていた電車が駅を通過した。2019年に開業したJヴィレッジ駅で、同名のサッカーのナショナルセンターの最寄りとなる臨時駅である(その後、2020年3月に常設駅となる)。Jヴィレッジサッカー場は震災後、作業拠点として使われたため一般開放を中断していたが、営業再開に伴って駅が設けられた。
電車は畑が点在する海沿いの低い丘陵を走る。2014年の運転再開から2017年まで終点だった竜田(たつた)に着いた。終着駅時代、ここから原ノ町駅までを常磐線代行バスが結んでいた。バスは今も富岡駅始発で運転されているが、常磐線が再び一本に繋がる日は近づいている。
終点の富岡が近づいてきた。電車が減速を開始し、富岡駅が迫ると、進行方向右側に土砂の山と造成中の空き地が現れた。空き地の先は海岸だ。海の上の東の空は夜が近づき始めている。
15時58分、終点の富岡に到着した。大きなバッグを抱えた人が多かった乗客は改札へ向かっていった。この先は代行バスとなる。富岡駅は改築され、被災したホームも造り直されているようだった。その真新しい駅舎に次々と乗客が吸い込まれていく。まだ駅周辺は再開発中といった様相だから、多くは原ノ町方面に向かうのだろう。
富岡以北はまだ帰宅困難地域が広がっている。だが、一部地域の避難指示が解除されるのを受けて、二カ月後に運転区間が延びる。常磐線が九年ぶりに繋がる日は近い。
5分の折り返し時間で富岡を後にする。下り電車と違い、上り電車は空いていた。行きは海側の景色を眺めていたので、帰りは山側を眺める。
窓の向こうに山があって、小さな川があり、畑があって家がある。そんなごく当たり前の風景が存在し、所々、何かを工事している姿も現れる。当たり前が当たり前になったことが第一歩なのだろう。駅から海側は造成中の土砂の山の風景だった富岡をもう一度思い出し、常磐線に新しい日常が訪れている実感と、これからを想った。
乗った電車は水戸行きだった。いわきに着く頃には夜が始まり、茨城県は夜景となっていた。窓の外が黒いのは、そこが田畑だからだろう。富岡を出て140分、18時23分に水戸の一つ手前の勝田で降りると、冬の夜風が幅の広いホームを吹き抜けていった。平日ならば学校帰りや仕事帰りの人で賑わう勝田駅もひっそりとしている。年始旅ならではの静寂な風景だった。