台湾鉄路紀行 第七日前半(基隆~台北)
第七日 (基隆~桃園)
平渓線
今日は早起きである。五時台から動き出している。この一週間ほど、宿の部屋に用意されたペットボトルの水で歯を磨き、顔を洗ってきた。それも今日までである。
朝食を済ませ、身支度しているうちに起き抜けには暗かった外の空が白んできた。宿を出て早朝の基隆(キールン)の裏通りを歩く。人通りは少ない。路上に少なからずゴミが散らばっている。台湾に来て以来、路上が割と綺麗であると思っていたが、基隆のそれは日本の地方都市の繁華街を彷彿させた。魚を扱っている店が早くも支度を始めている。基隆は港町である。
宿から20分ほどで駅に到着した。予定していたより一本早い列車に乗れそうである。この列車は予定便より14分早く基隆を発車する。
券売機で瑞芳(ルイファン)までの区間車(チュージエンチャー)の切符を購入する。18元。車内は空いている。昨日も通ったルートで瑞芳に向かう。
6時58分、列車番号1129次は基隆を発車した。空は少しずつ明るくなってきたが雲が厚い。太陽が雲に遮られた中で眺める基隆の古びた集合住宅群は不思議と静かな活力を感じさせた。これで列車が客車列車だったら20世紀の鉄道旅の気分だが、あいにく乗っている区間車は台北方面に向かう通勤型電車であるし、客車列車による各駅停車はもう西部幹線には走っていない。基隆駅は、台湾の主要都市を結ぶ西部幹線の起点駅である。
7時05分、二駅めの八堵(パードゥー)で降りる。ここは西部幹線と東部幹線の合流する駅だ。私は東部幹線の宜蘭線(イーランシェン)の発着するホームに向かった。ホームへは地下通路を使って乗り換える。エレベーターに乗り込むと、弁当を摘んだワゴンを引いたおばさんと乗り合せた。優等列車における車内販売用の弁当だろうか。
ホームは少し変わった構造になっていて、駅の南側にある片面ホームの第一月台(ユエタイ)と島式ホームの第二月台が宜蘭線のホームで、北側の島式ホームの第三月台が西部幹線用となっている。私がやってきた第二月台は島式ホームでありながら線路は片方にしかない。第一月台の一本の線路と合わせて二本分の線路を確保している造りなのである。第一月台を廃止して第二月台に二本の線路を用意すればいいのにと思うが、第一月台を残すための理由がおそらくあるのだろう。よく見ると第一月台には駅舎が併設されていた。その第一月台の向こうにある低い台地の上に、朝の太陽が雲間から顔を見せ始めた。
第二月台に7時26分発の区間車4144次が2分遅れでやってきた。昨日の夕方に下車した暖暖(ヌワンヌワン)を過ぎ、瑞芳には1分遅れまで回復して7時40分に到着した。この駅は改札は二カ所ある。駅舎が大きい方は南口で、人気観光地九份(ジユウフェン)に向かうバスは南口の方から出ているので表玄関はこちらだが、私は北口に向かった。北口はこれから乗る平渓線(ピンシーシェン)の列車が発着するホームと隣接しているからである。
改札を出た私は窓口で平渓線・深澳線(シェンアオシェン)の一日乗車券を購入する。値段は80元(約300円)と安い。この切符でこれから両線に乗る。
8時02分、瑞芳駅の第一月台に平渓線の気動車が入線してきた。台鉄のローカル線で使われているDR1000型で、正面が黄色にオレンジのライン、側面はステンレスにオレンジと黄色のラインが入っている。
今日私が早起きしたのは、土曜日の観光路線ということで平渓線の混雑を想定してのものだった。だが、二つドアのロングシートの車内は予想に反して空いていた。この列車は私が先ほど佇んでいた八堵が始発で、台北方面から観光でやってきた人たちが乗り込んでいるのではないかと思っていたのだ。
空いていることは車窓を眺めるという行動が気楽になる。ロングシートで車窓を眺めるには、体をよじって窓に顔を近づけて眺めるのが見やすい姿勢だが、混んでいる車内ではそれが容易ではないからだ。私は線路と並行する基隆河(キールンホー)がよく見えるように座り、デジタルカメラを手に持って発車を待った。
8時08分、瑞芳を出た4712次は基隆河の作り出した谷に寄り添って走りながら、瑞芳から二つめの三貂嶺(サンディアオリン)の先で、左カーブしながら基隆河を渡っていく東部幹線と分かれた。瑞芳を出た頃は東に向かっていた列車は山間に入ると南に向きを変え、平渓線に入ると西に変わる。
車窓は、より渓谷の中に入っていった。濃緑の川面を湛(たた)えながら蛇行する基隆河を鉄橋で越え、右岸の段丘上を走っていく。平渓線に入って最初の停車駅大華(ダーファ)を出て少し行くと右窓に吊り橋が見えた。平渓線は観光客に人気の路瀬だが、この車窓が人気の要因となっているのだろう。大きく左右に向きを変えながら流れる基隆河の作り出す複雑な地形は、そのまま車窓の美しさに繋がっている。しかし、そんな複雑な流れの川には付き合いきれないとばかりに、列車は再び鉄橋で基隆河を越えると、狭い家並みに入り込んでいった。十分(シーフェン)の町である。
町に入っていくと線路の両側に細い道が寄り添い始めた。線路と道の境界は曖昧で、道路上にいる人との距離が近い。まるで路面電車に乗っているような車窓である。この道は十分老街(シーフェンラオジエ)で、古い家並みと店が並ぶ。十分はランタン上げで知られる町なのでランタンの店が多いようだが、カフェらしき店も多い。ここまで渓谷に沿って山間を走ってきたので、小さな町でありながら活気を感じる眺めだ。もっとも、本当の活気が訪れるのは、もう少しあとの時間だろう。まだ観光客の姿は少ない。日中はランタンを上げにやってきた観光客が線路沿いに溢れ、列車は人とすれすれの距離を走ることになるのだ。
十分駅は列車交換が可能な駅で、反対方向の列車とすれ違いを行った。十分で宿泊してきたと思われる観光客の姿がホームにちらほら居る。
十分を出ると列車は再び川と道路を見下ろすように段丘上を走り始める。道路も線路も川に付き合い緩やかに蛇行する。沿線に民家は少ないが、駅は存在する。望古(ワングー)は斜面上に片面ホームがある駅だった。駅周辺に建物は少ない。駅を出ると朽ちた吊り橋が線路の上に架かっている。線路より更に一段高い所から線路下を通る道路の方に出るための橋だったのだろうか。
斜面にとりつくように走っていた列車は小さな集落の中に入っていった。嶺脚(リンジアオ)という駅で、駅が周囲の店と同化しているくらい、狭い平地に建物が寄り添って立っている。
やがて列車は山間に小さく開けた集落の中に入っていった。線名にもなっている平渓(ピンシー)である。線路は一本だがホームが二つある。列車の両側をホームが挟んでいるのだが、ドアは駅舎のある左側のみ開いた。次は終点の菁桐(チントン)である。
8時58分に着いた菁桐は狭い駅前に広い構内を持つ駅だった。ホーム脇には椰子の木がそびえ、駅舎はあるがホームの端には柵のない箇所がありフリーアクセス可能となっていた。
車一台分くらいの幅しかない駅前の道には、食堂など数軒の店が古い構えを寄せ合い並んでいる。線路を挟んで駅舎と反対側は貨物用の線路跡らしく、その敷地の向こうは斜面で少し高くなっていて、その上に家などがあるようだ。斜面の手前に巨大なコンクリート建造物が立っている。ホッパーという石炭の積み込み場の跡で、かつてこの地が炭山で賑わっていた頃に使われていたものだ。ここで石炭を貨車に積み込んでいたのだろう。構内もそれに合わせて広い。ホッパーはリノベーションされて飲食店になっているらしく、線路上から見て四階相当の位置に窓が並んでいる。斜面の上の道から店にアクセスするのだろう。
1922年に開業した当時のものだという木造駅舎は、白い壁で小ぶりで好ましい存在感であった。もう少しゆっくりしたい風景だが、私は9時12分発の4713次で折り返した。
平渓老街
わずかな乗客を乗せた列車は、明るい日差しを受ける山間をゆっくりと走っていった。菁桐(チントン)を出て6分、9時18分に平渓(ピンシー)に着く。私は立ち上がってドアの前で立った。平渓駅は一本の線路の両側にホームがある。先ほどは駅舎側のホームだけドアが開いた。反対方向のこの列車は逆側が開くのだろうと予想し、進行方向左側のドアの前で立っていると、そばにいたおばあさんが声を掛けてきた。もちろん台湾国語である。意味はわからない。顔はにこやかだから、何か私が失礼をした訳ではないようだ。
列車は駅構内に差し掛かり、静かに減速していく。そこで私は気づいた。この列車も駅舎側のドアが開くのだ。おばあさんは進行方向右側に向いて立っている。どうやら、私に「そこのドアは開かない」と教えてくれたのだと気づいた頃、ドアは開き、山草の薫りの中、おばあさんは改札の方へ去っていった。
平渓駅のホームの壁に、ひと節ずつ短く切った竹稈(ちくかん)が吊るされている。近づいてみると稈に色々と言葉が綴られている。それは日本における絵馬のようなものではないかと感じられた。なぜ竹なのだろうか? 竹が群生しているのだろうか。竹という植物は静かな場所に生えるという。
石造りの二階建ての駅舎には茶色い駅名標が掛けられ、筆字書体で「平渓車站」と書かれている。駅は斜面に立ち、階段で駅前通りに下りると、道は緩やかな坂となって基(キー)隆(ルン)河(ホー)のほとりに向かっている。橋を渡り対岸に出ると小さな商店街があり、青年が店の奥で何かを煮込んでいるのが見えた。
歩いてすぐに商店街は尽き、民家が並ぶ道となる。道より一段低い場所に鶏を飼う農家がある。基隆河の段丘上に造られた小さな集落はやがて山の景色に変わった。初夏のようなおだやかな湿気を含んだ風と陽気に足を止め、私は今来た道を引き返した。
橋のところまで戻り、川を眺めることにした。ちょうどいい具合に屋根の付いた展望ベンチがある。そこに腰掛け、基隆河を眺める。濃緑の川面はゆったりとした流れで、斜面の緑と溶け込んでいる。家や店があるのは橋から100メートル程度の範囲くらいまでだろうか。急峻ではないが、山の中の渓谷の村という趣きである。
私のそばで地元の老人が談笑している。やがてもう一人現れた。ベンチはそれほど長くないので、私は立ち上がって今いた場所を譲った。温厚な笑みを浮かべたおじいさんが「そのまま座っていなさい」と手で制するが、私も笑顔で手で招いた。
屋根の外のベンチに座って道路を眺める。カフェなどがあり、ベンチが設置されるほど幅の広い歩道に物干し台が置かれて色鮮やかなTシャツが干されている。この店の人のものだろうか。山から吹く初夏のような風が優しくTシャツを揺らしていた。
駅に帰ってきた。駅には土産物屋が併設されており、入口に熊本のゆるキャラ「くまモン」の立て看板が置かれている。この地のお土産だけでなく日本のグッズも売っているということだろうか。
駅舎の左の小道を歩いていくと、線路に沿って店が並んでいた。土産物屋だけでなく、ランタンの店もある。平渓線沿線の十分(シーフェン)では願い事をランタンに書いて上空に飛ばすのが観光客に人気だが、ここ平渓でも行われているのだろう。「五尺大天燈600元」「八色天燈400元」「四色天燈200元」「単色祈福天燈150元」などと書かれてある。色についても説明書きが添えられ、各色ごとに意味があるようだった。色は全部で九色用意され、たとえば黄色には「金」や「財」という字が、ピンクには「美」という字が添えられているから、祈願する項目によって色が決められているようだった。
店先に白い猫が佇んでいる。店先の歩道と線路の間には柵などないが、線路脇にスクーターが停められていたりもする。大らかな土地だと感心していると、近くの踏切の警報器が鳴り始め、やがて平渓駅を発車した菁桐行きの列車がスクーターの横をかすめるように走っていく。小路と線路が並行している区間は十分駅周辺だけかと思っていたが、ここ平渓もなかなかのものであった。十分は線路の両側に小路があるから十分に比べると迫力は落ちるが、目の前を列車が走っていくのは圧巻だ。
踏切の向こうに去っていく列車を見送り、私はその脇にある下り坂に視線を移した。
今いる場所もそうなのだが、この先も古い造りの商店が並ぶ小路のようで、つまり平渓(ピンシー)老(ラオ)街(ジエ)である。老街というのは台湾のあちこちに存在していて、ここ平渓線沿線にも観光客で賑わう十分老街などがある訳だが、共通しているのは築何十年の古い建物の外見を活かし、現役の商店として活用している姿勢である。古い建物に対する愛着という点に関して、台湾は相当なものがあるように思われる。先ほど降りた菁桐駅の築98年の木造駅舎がそうであるように、古い建物を現役で使い続けていることがまさに老街の真骨頂で、それが台湾の町歩きに彩りを加えているように思われた。
更に言えば、新しい駅舎を作ったとしても、古い方の駅舎も文化施設として残したりする例が少なくない。駅舎に限らず、訳あって現役から退(しりぞ)いた建物を別な方向で活用する例も少なくない。飲食店になった内湾(ネイワン)の映画館、芸術村となった高雄(カオション)の港の倉庫街など、この旅でも幾つもそういった場所を見てきた。私が台湾に心惹かれる理由のひとつが、その古い建物を大切にする心意気にある事は確かであるように思われる。それがたとえ「商売のため」という切実な理由を伴ってのものであったとしても、形として古いものを残していることはとても尊い。建物というものは壊したら最後、もう元には戻らないからだ。
坂の道は随分と古びた建物が並んでいた。導くように、先ほどランタン屋で見かけた白い猫が坂を歩いていく。建物は二階建てのものが多いが、三階建て以上のものもある。建物の造りからすると旅館のように思われた。或いは旅館だった建物かもしれない。
三抗渓(サンコンシー)という基隆河の細い支流が老街を横切っている。その小川に沿うように旅館めいた建物が並び、その奥に平渓線の小さな鉄橋が高い位置で架かっている。煤けたような色合いの鉄橋の橋桁と、壁の色がくすんだ古い四階建て三階建ての建物が似た色で肩を並べている。
その先は土産物屋や甘いものを売る飲食店が並び、それにふさわしく観光客がのんびりと歩く景色となった。建物の古さだけは駅前もここも変わらない。
深澳線
平渓(ピンシー)10時18分発の4715次に乗る。駅の自販機で買った12元の紙パックの林檎ジュースを飲んでいる。暑いからなのだが、天気は快晴という訳ではない。平渓の集落を歩いていたときはそれなりに晴天だったのだが、空は少しずつ曇り始めた。観光日和とは言い難い空模様になってきた。だが今日は土曜日だ。時間の経過と共に沿線には観光客が増えてきた。観光地十分(シーフェン)では反対方向の列車から多くの観光客が降り、大華(ダーファ)では線路脇に大勢のハイキングの人達の姿を見かけた。
列車は11時06分、瑞芳(ルイファン)駅の北口に接した片面ホームの第三月台(ユエタイ)に到着した。幹線列車の発着しないローカル線用ホームである。4715次はここで2分停車する。乗客の多くは瑞芳で降りたが、それ以上の数の人が乗り込んできた。午前に平渓線沿線から瑞芳に向かう人よりも、瑞芳からどこかへ向かう人が多いのは当然で、ホームには次の平渓線の発車を待つ人の姿も多数ある。
列車は瑞芳から先も幹線ではなく、深澳線(シェンアオシェン)というローカル線に入る。深澳線は全長4・7キロの短い路線で、途中駅もひとつしかないが、終点の八斗子(パードウズィー)が海に面した駅で知られているから、乗り込んできた人の多くは終点まで行く人だろう。
列車はゆったりとした速度で瑞芳の市街の外周を右カーブしながら走っていくと、やがて台地の上に築かれたニュータウンの下を往く景色となる。真新しいマンションが並ぶ脇を抜ける線路だが駅はない。台地と台地の間を右に急カーブしながら抜けていくと、唯一の中間駅である海科館(ハイケグアン)に着いた。駅名になった国立海洋科技博物館の最寄り駅だが、緑多い公園のはずれにぽつんと立つ片面ホームだけの無人駅で、降りる人もとても少ない。
私のそばにいた中年女性が突然立ち上がり、こちらに向かって台湾国語で何やら尋ねてきた。言葉の末尾が「ツァイナアリー」と聞こえたので、「ここはどこですか?」ということを尋ねているらしい。海科館駅だと教えようと思ったが、この時はこの駅名の台湾国語読みがわからなかった。八斗子駅なら次だし、おそらく目的地はそうであろう。どう説明すべきかと思っているうちにドアは閉まった。次が終点八斗子である。
会話が通じていないと見るや、女性は諦めて前の車両に移っていった。こういうことが発生するのは、自動放送が流れる幹線の列車とは異なり、ローカル線の列車は車内放送が基本的にないからでもある。落ち着かない気分のまま、列車は速度を落とした状態で海岸線に出た。八斗子までの駅間距離は0・5キロと短い。
左窓に海岸が現れたが、あいにく先ほどから曇り空になってしまっているので、海の色も鮮やかさに欠けていた。それでも、海のそばを走るというのは景色がいいものだ。終点八斗子はブロック組みの幅の狭いホームであった。その幅、2メートル強といったところか。いかにも後付けで設けたようなホームだが、実際この駅自体は新しいものである。
深澳線は元々軽便鉄道だった区間が起源である。日本統治時代に金瓜石鉱山と港を結ぶ金瓜石(きんかせき)線として建設された。標高800メートルほどの山である金瓜石鉱山はゴールドラッシュで栄え、町も賑わったが、今は閉山されている。
深澳線となったのは、戦後しばらく経過してからで、台鉄の貨物線となり、深澳火力発電所の石炭輸送のために瑞芳まで線路が延びてから、地元からの要望を受けて旅客化したものであった。
その後、軽便鉄道である金瓜石線を廃止して深澳線は現在の八斗子より8キロ弱先にある濂洞(リアンドン)まで走っていたが、1989年に旅客営業が終了し、深澳火力発電所への石炭輸送も発電所の改築のために2007年に廃止となった。
八斗子駅のホームには駅舎はない。ホームの端に階段があり、そこから一段下を通る道路に下りることが出来た。道路の向こうは海岸だ。浜の長さはさほどでもなく、両端を短く突き出た鼻に浜が挟まれている。素朴でいい景色だ。先ほどの女性もやはり八斗子が目的地だったらしく、海岸の方へ向かっていった。
ホーム上は大学生くらいのグループで賑わっている。スマートフォンのカメラを向けて、駅名標と海を背景に記念写真を撮っているグループが多いが、何組かのグループは線路脇に下りて、廃線跡を辿りながら、その先を目指して歩いている。ここから隣の廃駅である深澳までの1・3キロのレール上を、レールバイクという足漕ぎ式の乗り物で走ることが出来るのだ。それに乗る人達だろう。
旅客も貨物も廃止されて完全に廃線となっていた深澳線は、2008年に開館した国立海洋科技博物館へのアクセス路線として生まれ変わることになり、2014年に瑞芳から海科館駅までの運転が始まった。だが、海科館駅の周辺住民からの苦情で、騒音などを避けるために列車の折り返しを今の八斗子駅の地点に決め、2016年にこの新しい八斗子駅が誕生した。海と反対側に使われていないホームがあるが、これが旧駅なようである。
駅の周囲はそれほど建物がある訳でもなく、レールバイクに乗ってみたい気もしたが、カップルが乗り込む車両に挟まれて一人でペダルを漕ぐのは無粋にも思えて、私は乗ってきた列車で折り返した。
20分間停車して折り返した列車に乗り込む人はとても少なく、ほとんどの人はそのまま八斗子に残った。11時40分、4722次はガラガラで八斗子を出発した。私は行きに乗ってきたロングシートの車両ではなく、回転クロスシートの座席が並ぶ車両に移動した。ローカル線用車両であるこのDR1000型は登場当初はこの回転クロスシートであったようだが、各ローカル線が観光客で賑わうようになってきてロングシートに改装されたそうである。車窓を眺めるには当然クロスシートの方がいい。座席の横の下にある回転用のロックレバーを踏み、座席の向きを進行方向に直して、数十分前に体を捻って眺めた窓外を見つめる。
海科館と瑞芳の間にあるニュータウンのマンション群の脇に、随分とくたびれた古い集合住宅があることに気づいた。こういう対比に気づけたのは、クロスシートで窓外をじっくりと眺めているからだろうか。
11時56分、瑞芳の第三月台に到着した。この列車はこのまま平渓線に向かっていく。ホームは平渓線沿線の観光地に向かう人で賑わっていた。ホームに降りて振り返ると、空気を運んでいたような列車は瞬く間に満員となっていた。
淡水信義線
瑞芳(ルイファン)駅の券売機で台北(タイペイ)までの切符を買う。台湾鉄路局の全線に乗る旅も、いよいよ完遂が近づいてきた。実感はまだ湧かない。ようやくという気持ちより、もう終わりかという気持ちの方が強い。
次の列車を待つホームに台湾全土の路線図が掲示されていた。この島を一周してきたのだ。もうすぐ旅の起点である台北駅なのだ。
切符は49元の区間車(チュージエンチャー)を選択したが、これから乗る列車は各駅停車ではなく快速に相当する列車で、その名も区間快車(チュージエンカイチャー)という。12時15分に瑞芳を出る4021次区間快車は10時52分に昨日降りた蘇澳新(スーアオシン)を出て宜蘭線(イーランシェン)を快走してきた。快速といっても結構な高速列車で、特急に相当する自強号(ツーチャンハオ)と遜色ない走りっぷりなのである。例えば、この列車の前に瑞芳を11時49分に出る自強号は台北まで39分かかるが、4021次区間快車は34分と自強号より速い。自強号の中でも停車駅が少ない普悠瑪号(プーユーマーハオ)(プユマ号)や太魯閣号(タイルーガーハオ)(タロコ号)には速度の面では劣るが、安い切符で乗れる速い列車なのでお得である。もっとも、本数は多く設定されておらず、宜蘭線から台北方面に向かう区間快車は朝と昼と午後しかない。
この旅で色々な台鉄の列車に乗ってきた。今や一日一往復しかない旧型客車列車である普快車(プークワイチャー)にも乗った。だが、まだ太魯閣号には乗っていない。台鉄の看板列車のひとつで、日本のJR九州の特急車両885系をベースにした車両が使われている。この列車に乗らないまま台鉄全線完乗を果たすのは何か片手落ちな感も否めないが、次回の訪台の時の楽しみにとっておこうと思う。
区間快車は特別な車両があてがわれている訳ではなく、やってきたのはこの旅で乗り慣れたステンレス車体に青と黄色のラインの入った区間車の電車だ。車内はロングシートと二人掛けクロスシートの混在するセミクロスシートなので、私はクロスシートに座って車窓を眺めた。今朝、乗り換えで降りた八堵(パードゥー)を通過していく。ここで宜蘭線から縦貫(ゾングワン)線(シェン)となる。次駅の七堵(チードゥー)から台北までを乗れば全線完乗だ。区間快車は、駅舎に覆われてホームが日陰に包まれている七堵も通過し、少しずつ台北市内に近づいていく。
広い七堵の操車場が過ぎ、いったん線路沿いから離れた基隆河(キールンホー)がヘアピンカーブを繰り返して再び流域を縦貫線に沿わせていく。周囲は次第に広い平地となり、それに合わせて建物の数が増えて都市景観に近づいてきた。
線路は高架となり、沿線にはマンションや商業施設が並び始めた。町の風景である。そんな風景を見せてくれる汐止(シージィー)を区間快車は通過していく。基隆から汐止までは13・1キロという近さだが、もう景色は大都市のものとなりつつある。昨夜の港町基隆の庶民的な賑わいがすでに懐かしい。
線路は高架から地下に入り、汐止から6キロ地点に位置し、瑞芳を出て最初の停車駅である南港(ナンガン)に到着した。時刻は12時37分。あと12分で台鉄全線を乗り終わる。だが、地下に入ってしまったので車窓の楽しみが失せてしまったこともあり、気持ち的にはすでに達成感があった。
南港は2016年に高鉄(カオティエ)が台北から延びてきた。高鉄の起点駅となっている。台北MRT(地下鉄)の駅もあり、近代的なターミナル駅となっている。乗客も増えてきた。空港のある松山(ソンシャン)に連続停車した区間快車は続いて12時49分、台北に到着した。
月曜の朝に自強号に乗るためにやってきて以来の台北駅は、土曜とあって買い物客や行楽客で賑わっていた。台鉄全線に乗ってしまったので、ここから先は特に予定は決めていない。ただ、淡水(タンシュイ)には行ってみたいと思っている。台北は大都会であり、観光名所も多い。日本からやってきた観光客の多くが台北で観光する。そういう町だが、今回は台北市内観光はせずに、もう少し鉄道の旅を続けようと思う。
淡水に行くにはMRTの淡水信義線(タンシュイシンイーシェン)に乗ることになる。淡水信義線は台北駅に乗り入れているがら、乗り換えなしで台北駅から淡水まで行けるのだが、まずは昼食に向かうことにした。
駅の地下にある中山地下街という地下街に、ちょっとした飲食店コーナーを見つけた。コインロッカーに20元を投入して身軽になった私は、その飲食店スペースを眺めてみた。だが、フードコートのような施設で、今一つ食指が動かない。駅構内の施設なので地元の人達向けということだろうか。私は小綺麗なパン屋を見つけ、そこで焼き立てのパンを三つ買った。値段は合計80元だから割と安く感じられる。店を出てから店名が日本の会社のものだと気づいた。
空腹である。時刻はすでに13時を回っている。淡水までは少し距離があるので今食べたい。だが、ひとつ問題があった。
MRTの車内は飲食が禁じられている。ガムや飴を嘗めることも禁止である。これは車内にとどまらず、駅構内にも適用されている。つまり、ホームのベンチに座ってパンを食べることも出来ない。MRTの電車に乗る前にパンを食べておきたいのであれば、改札に入る前に食べておく必要があった。
どこか座れる場所はないか。MRTの駅の方に向かいながらベンチを探した。なければ入場券を買って台鉄のホームで食べるしかないかもしれない。台鉄の駅は飲食できる。そんなことを思い始めたが、MRT駅に向かう途中に人工の泉のようなものがあり、その淵に腰掛けることが出来た。
パンは青菜が入ったパン、ポテトが入ったパン、日式紅豆の三つで、日式紅豆はあんぱんのことであった。どれも味がほどよく濃く、パンの生地も香りがよく美味しかった。
地下街もMRTの駅もそうだったが、エスカレーターを歩く人は非常に少ない。台北に来てみると台湾の地方よりも人の歩行速度が速く感じるが、それでも日本と比べるとのんびりしているように感じられるのだ。その速度が心地よく思える。
淡水信義線は台北MRTを代表する路線といえる存在で、開通も台北MRTでは二番目に古い1997年である。ラインカラーは赤で、沿線には観光名所が点在しているため観光客の利用も多い。台北13時25分発の淡水行きは座れないほど混んでいた。私の近くで立っているカップルは日本語を話しているから日本人だろう。彼らだけではない。耳をすませば、更に日本語が聞こえてくる。皆、どこに向かうのだろうか。淡水はこの路線の終点であり、台北からだと18駅も停車する。
初日に降りた中山(ジョンシャン)を過ぎ、台北から四駅めの圓山(ユアンシャン)からは早くも地上に出て高架上を走り始めた。駅に停車する度に乗降客の入れ替えがあり、私も座ることが出来た。座席は青いプラスチック製で長時間座ることには適していない造りだが、地下鉄だからこれでいいともいえる。もっとも、台北から淡水までは30分以上乗る距離であった。座ってしまうとロングシートだから景色は見づらい。窓は大きいので車内は明るく感じるが、人の頭越しに窓の向こうの景色を眺めることになる。電車は郊外を走り始めている。相変わらずマンションは見かけるが、緑が多くなってきた。
温泉で知られる新北投(シンベイトウ)に向かう新北投支線が分岐する北投(ペイトウ)でそれなりの降車があり、地下を走っていた頃と比べるとだいぶ空いてきた。それでも座席の七割ほどが埋まっている状態で電車は14時01分に高架駅の淡水に到着した。
淡水にはかつて台鉄淡水線が通じていた。日本統治時代の1901年に開業した淡水線は台北市内から郊外に抜けて走る路線で、需要も当然高かったが、1988年に支線である北投~新北投間と共に廃止となった。理由は私が今乗ってきたMRTの建設のためで、要するに需要が高い路線であるがゆえに、更なる輸送力増強を目指して生まれ変わるための廃線であった。MRTとして開業したのは1997年のことである。
淡水駅は茶色い煉瓦造りの駅舎で、高架の東側に商業ビルやマンションが建ち、西側に淡水河(タンシュイホー)の河口が広がっている。その幅はかなりあり、向こう岸まで渡し船が出ているくらいなのだが、その渡し船そのものが観光船として賑わっている。小高い山がそびえる向こうの岸は鉄道は通っておらず、集落も小さい。のんびりと河口の景色を眺めるには向こうの方が良さげではある。
川岸には飲食店が並んでいるが、駅前の一角には屋台も並んでいる。屋台の方が安いだろうし、屋台で買って川を眺めながら飲食したい人も多いことだろう。そんなことを思いながら駅前と淡水河を眺めていると、一軒の屋台に警官がやってきて退去命令を下しているのが見えた。屋台は普通の飲食系で、何か問題がありそうにも思えないから、無許可で営業していたのかもしれない。屋台を広げていた男はおとなしく命令に従い、退去準備を始めながら、隣で屋台を構えていたおばさんに苦笑していた。顔見知りらしい。悪びれる様子もなく、警官も声を荒げることもなく、静かに退去は進行した。
川沿いの屋台は飲食系だけではない。似顔絵を描く屋台もある。見本が並べられているが、リアルなタッチに若干ユーモアを交えたデフォルメも加えてあり、いい記念品になりそうではある。
川は涼しげな眺めだが、吹く風は暑い。南部の高雄(カオション)あたりのような湿気も混じった蒸し暑さはないが、歩いていると喉が渇く暑さではある。明日には真冬の日本に帰っているのがイメージできない。
空は曇っている。淡水は夕陽の名所なのだが、今日は期待できそうにもない。私は少しベンチで休んだあと、駅前の商業ビルに入って少し涼み、そして駅に戻ってきた。