平成旅情列車⑤ 黄昏と小さな雲と赤い電車
黄昏と小さな雲と赤い電車
鮎川
昭和五十年代の時刻表路線図の頁を開き、茨城県のあたりを見ると今よりローカル私鉄が多いことに気づく。
現存する茨城県内の私鉄は、関東鉄道常総線に竜ヶ崎線。つくばエクスプレス(平成に開業した新しい路線)。この二社だけである。他に第三セクター鉄道が三社ある。
だが、昭和五十年代はもっと多かった。今は廃止されてしまった私鉄路線は、土浦から岩瀬を走る筑波鉄道。石岡と鉾田を結ぶ鹿島鉄道。廃止ではないが現在は第三セクター化された勝田から阿字ヶ浦の茨城交通。そして、日立電鉄。今回はその日立電鉄に乗った話である。
日立電鉄は日立市の海寄りにある鮎川から常磐線との接続駅である大甕(おおみか)を経て常北太田(じょうほくおおた)に至る全長18・1キロのローカル私鉄で、社名の日立は茨城県日立市を走ることを意味する。
この日立電鉄に初めて乗ったのは平成六年(1994)の四月で、青春18きっぷを使って日帰り旅をした。
この日、私は上野10時40分発の常磐線で出発している。出発時間が遅めなのは、この列車が一日に一本だけ設定されていた二階建て車両連結の列車だからだ。まだ東海道本線に二階建てグリーン車が登場する前で、試験的な意味合いを持つ車両だったのだろう。車内は向かい合わせのクロスシートが並ぶ以外は、後の二階建てグリーン車の造りと似ていたように記憶している。
この二階建て車両の二階に座り、終点の土浦で乗り換えたりしながら、12時ちょうどに日立電鉄の接続駅である大甕に着いた。
大甕から乗ったのは12時19分発の鮎川行きだ。日立電鉄の路線はこの大甕を底に見立てたV字のようになっていて、鮎川はV字の右先端に位置する駅となる。
車両は一両の単行運転で、営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線で走っていた車両を改造した3000形電車が使用されていた。赤い車体の下部に白とグレーの帯をまとい、その帯は車体側面の両端部で乗降扉を斜めに横切るデザインとなっている。
休日の昼下がりの車内は空いていた。電車は家と家の間を抜けていくように走っていき、やがて畑に包まれながら郊外に出ていった。沿線は思っていたより家は多い。日立市は日立製作所の工場があり、景気がいい町だ。
12時30分、電車はのどかな町並みに包まれた小さな駅に着いた。そこが終点の鮎川だった。家と家の間に遠慮気味に立つ小さな駅舎を出て、右に歩いていくと、ほどなくして海岸に出た。広々とした青い海だ。波は少し高いが、騒々しさのない落ち着ける風景がそこにあった。
位置的に海が近いかもしれないという予想はしていたが、思っていたより駅が海がそばにあったことに私は嬉しさを感じて海に見入った。地図を見ていないからこその感想だろう。旅というものは、調べ過ぎはよくないものだ。
鮎川からは常北太田までの運賃が六百二十円。その切符を買って一気にV字を乗り切った。大甕から常北太田までは農村風景の中を走る。
再訪
平成十六年(2004)、日立電鉄はダイヤ改正を実施、列車はそれまでの四十分間隔程度の本数から一時間に一本となった。そして、路線の廃止が発表された。
その年の九月、地元高校生が廃止撤回を求める署名運動を起こし、それがちょっとしたニュースになった。鉄道がなくなると通学が不便になるという理由だ。
存続に向けて自治体も手は尽くしたようだ。別の会社に路線を売却する案もあったが話はまとまらず、平成十七年(2005)三月三十一日をもって廃止が決まった。
私が再び日立電鉄を訪れたのは、こうして廃止の日が迫っていた平成十七年の一月のことである。
その日、青春18きっぷを握った私は茨城県に乗った。まず向かったのは水郡線(すいぐんせん)で、線名が示すとおり水戸と郡山を結ぶローカル線だ。この路線は既に全区間乗っているのだが、途中駅に降りてみたかった。常陸大宮(ひたちおおみや)、山方宿(やまがたじゅく)といった小さな町を歩いた。集落は冬の澄んだ空気に包まれ、田畑は人影なく、低い山に包まれて景色が広がっていた。
水郡線には支線が存在する。上菅谷(かみすがや)から常陸太田までを走るもので、全長は9・5キロ。本線区間が150キロを超す長さであるから、全体で見るとほんの少し突き出たかわいい支線である。
その支線の乗換駅である上菅谷にやってきた。常陸大宮や山方宿では曇っていた空が、上菅谷に来ると青空になり、私は約一時間の待ち時間を利用して駅の周辺を散策した。位置的には県庁所在地水戸への通勤圏ではあるのだが、民家の密集感はなく、ほどよく家と農地が混在している。畑のそばに並ぶ落葉樹の細い枝が見事なまでに冬の寒々しさを演出してくれている。新緑の頃の田園風景も美しいが、冬の農地の色落ちた佇まいも侘びの美しさがある。
15時44分、上菅谷を出た常陸太田行きの気動車は水戸市内から帰宅の高校生で混んでいた。
常陸太田は水戸黄門こと徳川光圀の暮らした西山荘がある町で、現在は水戸都市圏にある郊外の町といった佇まいの風景が広がる。平地に戸建ての家が点在する眺めで、車窓も格別なものでもないが、夕日に照らされ始めた、のどかな家並みを見るのは悪くない。
列車は15時58分に常陸太田に着いた。ホーム一面だけの終着駅だが、駅前は路線バスが回転できるくらいの広さのロータリーもあり、白い壁の駅舎も割と綺麗である。ホームには高校生が大勢待ち受けている。折り返しの水戸行きは私が乗ってきた下り列車より更に混雑を見せながら水戸へ走っていった。
駅前広場に出てみると、下り列車から降りた高校生で賑わっている。それほど商店がある訳でもなく、低い建物ばかりなこじんまりとした駅前だが、賑わいのあるローカル駅の風情もよい。水郡線の営業状況は今後も安泰かもしれない。
高校生で賑わうJRの常陸太田駅から駅前広場を挟んで斜め右にある日立電鉄の常北太田駅に向かった。常北太田駅の駅舎は田舎のバスの営業所を連想させる簡素な構えで立っていた。
その駅舎に入っていくと左手に券売機があり、右手に木製のベンチを並べた待合室がある。やや薄暗い待合室には孫らしき子供を連れたおばあさんと女子高校生が一人だけ座っている。
静まり返った駅に電車の到着時間が迫ってきた。ホームに入ることにして改札に向かう。丸スチールの枠で作られた簡素な改札は狭く、そこを数人の乗客が抜けていく。
片面の狭いホームの向かいには、古びた細いホームを挟んで電車の車庫があり、古びた電車が留置されている。ホームの背後には夕日が輝き、その夕日が背丈の高い木に遮られて駅は薄暮れの様相となっている。そんな薄暮れのホームに元丸ノ内線の赤い電車が二両でやってきた。電車の赤は経年の日焼けで色落ちているが、赤い車体に夕日がよく似合っている。
電車は16時33分に常北太田をゆっくりと発車した。発車時間になってもさほど乗客は増えず、車内は十人に満たない。そんな乗客数を乗せながら電車は冬の畑の中を走っていく。それは、水郡線の車窓風景とは大きく違わない筈なのに、どことなく畑が多く感じられる眺めだった。ドアの窓の向こうに、オレンジ色に染まった小さな雲が浮かんでいるのが見える。
途中に現れる小駅からも乗ってくる人は少なく、ほとんど常北太田を出た時と変わらないままの車内は、少しずつ暮れてきた窓外に合わせるかのように侘しさが漂っている。
それでも駅に着く度に運転士はドアの開閉を丹念に行い、きびきびと業務を遂行している。今でこそこのように運転士が車掌の業務を兼ねるワンマン運転はローカル線ではよく見かけるようになったが、路面電車のような軌道線以外でワンマン列車の運転を始めたのは日立電鉄が二番目に古く、昭和四十六年(1971)に開始されている。それだけ利用者が多くなく、人件費を節約していかなければならなかったという事情もあるのだろう。
途中から乗ってくる人は少なかったが、私の向かいに女の子がやってきた。東京にコンサートでも観に行くのか、ロック風味なTシャツを着た童顔なその女の子は、この寂れた車内に無所属な空気感を漂わせている。このローカル線は二回乗り換えただけで東京都内に通じている鉄道だった。
夕日に照らされる畑をゆっくりと走り抜けてきた電車は、空に夜が近づいてきた16時54分に大甕に着いた。幅が広く長いホームを持つ隣の常磐線は、異次元なほど都会的で近代的な設備に見えるが、日立電鉄の細く短いホームにも少しばかりの明るさが宿っていた。それは、黄昏の空を明かりにしていた常北太田に対して、夜が近づいてきた大甕では構内灯が点いたことが理由ではない。ホームで待つ乗客の数が常北太田よりは少しだけ多かったからだろう。
日立電鉄日立電鉄線は、この二カ月後に廃線となった。廃止決定に至るまでは地元の反対運動などもあったが、私が乗った頃はもう終わりに向かっている寂しい雰囲気に包まれていて、切なさばかりが胸に迫ってきたのだった。
その後、路線バスに転換されてからは鉄道時代よりも本数は増えて利便性が増したという。それでも、鉄道は一度地図から消えたら、もう還ってはこないのが現実である。