車窓を求めて旅をする⑫ 最南端の鉄道紀行 ~ゆいレール・肥薩おれんじ鉄道~
最南端の鉄道紀行 ~ゆいレール・肥薩おれんじ鉄道~
ゆいレール
私は神戸にいる。2019年11月9日のことである。日本の私鉄全路線乗車のゴールが少しずつ見えてきた。近畿地方は各府県にケーブル路線が存在するケーブルカー天国だが、今日は朝から飛行機で神戸空港にやってきて神戸市内のケーブルカー二路線に乗ってきた。想像以上に景色がよく、特に摩耶(まや)ケーブルの山上からは海と淡路島(あわじしま)がよく見えた。
六甲(ろっこう)ケーブルに乗り終わり、阪急電車とポートライナーを乗り継いで神戸空港に帰ってきた。神戸空港は埋立地の空港で、ターミナルビルの規模自体はさして大きくない。搭乗時間まで一時間を切っているのだが、あっという間に手続きは終わり、ロビーにいる。陽はだいぶ傾いてきた。夕陽を浴びた黄緑と白のソラシドエアの機体が眼前に佇んでいる。これから乗る16時50分発の那覇(なは)空港行きである。
私は鉄道旅を始めてから五年ほどで四十七ある日本の都道府県のうち四十六を訪問した。しかし、残りひとつ沖縄県は長らく足が向かわなかった。理由は単純で鉄道が存在しなかったからだ。だが、今は違う。沖縄には鉄道がある。
空はすぐに夜になっていった。夜闇に包まれた那覇空港の滑走路はごつごつした感触で私を迎えてくれた。那覇空港は発着便の多い賑やかな空港だ。ターミナルビルもとても広かった。
ターミナルビルを抜けた所に連絡橋がある。その先にモノレールの駅があった。沖縄県唯一の鉄道ゆいレールである。私の乗りつぶしルールでは日没後の乗車はカウントしないことにしているので、今夜は宿の最寄り駅までの移動というだけだ。
駅の券売機で沖縄県内の公共交通機関で使えるICカード「OKICA(オキカ)」を購入する。明日からは専らバス移動が主となるので、このカードが活躍することになる。五千円チャージしておいた。
ゆいレールは小ぶりな車体の二両編成で、車内はロングシートである。駅到着を告げる案内放送では琉球音楽が流れる。旋律は駅ごとに違うものが用意されている。
空港の周囲は真っ暗だったが、少しずつ車窓に街灯が増え始め、宿の最寄りである美栄橋(みえばし)は町中の駅だった。
今夜はゲストハウスである。雑居ビルが並ぶ市街地の一角に立つ細い建物で、小さなフロントに立つ気さくなお兄さんの笑顔に迎えられた。
個室部屋に荷物を置き、那覇の繁華街国際通りに向かう。徒歩二十分ほどで着いた国際通りはきらびやかなネオンが輝き、外国語も聞こえてくる繁華街だったが、人の波に気疲れした私は、ひととおり歩いたあと美栄橋に向かって戻ることにした。途中によさげな沖縄そばの店があったのだ。
歩道から一段低い位置に立つその店は、おばさんが一人で営んでいた。先客の東南アジア系の女性が食べ終わると、客は私一人となった。沖縄のビール会社であるオリオンビールを飲みながら沖縄そばを食べる私に、カウンター越しにおばさんが尋ねる。
「沖縄は初めて?」
どこか落ち着きがなかったのだろう。気持ち的にも、本州あたりを旅するのとは明らかに違う空気を感じとっている。私は三カ月後に台湾に行き、台湾鉄路局の全路線を乗って来ようと思っていた。沖縄に感じるエスニックな匂いに圧倒されているようでは台湾では歩けまい。
私は明日コザに行くと言った。コザは基地の歓楽街であり、音楽の町でもある。時間を見繕ってライブも観てみたいと思っている。
「どんな音楽が好きなの?」
「色々聴きますが、昔のイギリスのロックとか」
おばさんは興味ありげに、どんな歌手が好きかと訊いてきた。私は答えに悩んだが、頭にまず浮かんだ名前を挙げた。
「ローリングストーンズか好きですね」
「ああ、ストーンズはいいよね」
狭い店だった。ビールを傾けて庶民の味を楽しむのが似合いそうな、そんな店だった。このような店でロックの話ができる。私は早くも沖縄に魅せられていた。
翌日は快晴の日曜日となった。ゆいレールの旭橋(あさひばし)駅を降りると目の前に巨大な建物が見えた。那覇バスターミナルである。ここは戦前、沖縄県営鉄道の那覇駅だった地で、ターミナルの改修工事の際に駅の遺構が出てきたという。歩道にはモニュメントも立っている。
これからバスに乗って沖縄県営鉄道の駅跡に行く。9時10分発の39番南城(なんじょう)市役所行きに乗り込んだ。
窓外は那覇の住宅地だ。那覇は平地の町という訳でもなく、あちこちに低い台地が存在する。内地の都市部のように台地の斜面まで家が建ち並ぶ訳ではないが、那覇は相当人口密度が高い町で、家並みがずっと続いている。
所要33分で与那原(よなばる)町役場前に着いた。この近くに沖縄県営鉄道与那原線の終点であった与那原駅跡がある。バス停の近くにおばあさんがいたので所在を尋ねた。「あっち」だと大雑把に方向を指す。
沖縄県営鉄道は大正三年(1914)に那覇~与那原が開業し、その後、嘉手納(かでな)線、糸満(いとまん)線と、更に一本の貨物線を開業させた。規格が軽便鉄道であったことから、県民からは「けーびん」と親しまれたという。だが、戦争の激化により戦火に晒され、戦後、昭和二十年(1945)9月に運行休止となり、廃線となった。
米国の影響下にあって、モータリゼーション社会が築かれていった戦後の沖縄に鉄道が復活するまでには時間がかかった。那覇市内の交通渋滞緩和を目的に、ゆいレールこと沖縄都市モノレールが開業したのは2003年のことである。
与那原駅跡は国道から少し住宅地に入ったところにあった。白いコンクリート駅舎は開業百周年を記念して2014年に復元されたもので、駅舎内は記念館として鉄道資料が展示されている。入館料は百円。年表、模型、当時の写真などが展示されている。人々の足として、貨物輸送の動脈として活躍していた車両たちの姿が写真に収められている。だが、それらの車両は戦災で過去のものとなってしまった。鉄道ファンの懐古というだけでなく、平和というものについても考えさせられる写真である。
地元の小学生たちが入ってきた。明るく賑やかだ。この駅が現存していたら、こうやって明るい笑顔を乗せて、沖縄の空の下を走っていたのだろう。
那覇バスターミナルに帰ってきた。ここから27番のバスに乗り36分、第二真栄原(だいにまえはら)で降りる。風景は郊外に変わっていたが、真栄原の辺りは住宅地だった。
ここには近年まで真栄原社交街という色街があった。その残骸ともいうべき建物群を見に行く。
道路を渡り、細い住宅路に入っていく。箱を並べたようなコンクリート建築の小さな建物が並ぶ。家ではないのは雰囲気でわかる。看板の跡が残っている建物もある。空き地になっている箇所もあるので、狭い路地に店の跡が密集している訳でもなく、路面は明るい。空も晴れている。
人が住んでいる建物もあり、カメラ片手に長い時間うろついていると目立つので、頃合いを見て引き返した。ここから沖縄市方面に向かってバスで向かう予定になっている。だが、バス停の位置を確認している間にバスは行ってしまった。
食堂のような店先に一台タクシーが停まっていた。声を掛けると大丈夫だとのことなので、私はタクシーに乗り、バス乗り継ぎ地点の予定にしていた普天間(ふてんま)に向かった。
「沖縄は初めてなんですよ」
そんな私に、運転手はなんでも聞いてくださいと明るく答えた。旅行鞄を持って基地の町に行く客だ。不審がられるかと思った私は、自分から事の顛末を説明していたのだった。
運転手は車窓に現れる色々を説明してくれた。バス代の数倍の出費になったが、嬉しい出会いだったと思う。のどかな郊外風景だった車窓は、やがて古びた町並みの中に入っていった。
14時37分に普天間を出た61番のバスは15分で県総合運動公園北口バス停に到着した。公園の入口といった景色で、広々とした公園に入っていくと、目指すスタジアムが見えてきた。午後はJ2のFC琉球対京都サンガの試合を観戦する。
当日券を購入して入場口まで行くと、学生風の女の子が私の鞄を見て「預かりましょうか」と声を掛けてくれた。キャスター付の鞄なので少し大きめではある。その厚意を有り難く受け取った。
スタジアムは陸上競技場で、大きなメインスタンドに比べるとバックスタンドは低く、周囲の風景がよく見渡せた。傾き始めた西日を受けた場内は穏やかな陽気に包まれている。のどかな気分だ。こういう環境でサッカーを観るのは楽しい。
スタンドを出ると、太陽が地平に吸い込まれようとしていた。出口に立っていたスタッフに荷物を預けていると声を掛けようとすると、先ほどの女の子が駆け寄ってきた。
「もうお帰りですか?」
私はバスの時刻が気になり、申し訳ないと思いつつ、少しだけ早めに出てきていた。正直にそれを伝える。女の子の手には私の鞄が握られていた。
入場時、来場者プレゼントでチームマスコットの小さなぬいぐるみを貰っていた。青いジンベイザメである。おもてなしのスタジアムを温かい気持ちで後にし、私はバス停に向かった。
運動公園からコザはバスで10分だった。コザは沖縄市の中心部といっていい繁華街で、基地の繁華街でもある。空はすっかり夜になった。降りたバス停はコザのはずれにあったので、近くにいた人に道を尋ねてから歩き始めた。
スタジアムで買ったさんぴん茶を片手に、暗い坂道を歩く。道路のある場所が台地の上で、建物の間から麓が見えた。こんな風景の先に繁華街があるのかとも思う。先ほど降りたバス停近くには廃墟同然の小さなアーケードがあった。
20分ほど歩き、今夜の宿に着いた。コザでは老舗のホテルで、ロビーも廊下も室内も昭和レトロという言葉が浮かぶ時代がかった造りだが、内装のセンスがどこか洋風モダンで、内地の古びたホテルとはそこが違う。広い部屋に荷物を置き、夜のコザに出た。
先ほど歩いてきた県道に一旦出てみると、その先に居酒屋があった。よさげな店構えだったので入る。オリオンビールを頼み、お通しのポテトコロッケと注文したカンパチの刺身を味わっていると、更に注文したスーチカーという豚肉の塩漬け焼きと、皿にたくさん盛られたゴーヤチャンプルーがやってきた。
ビールを一瓶飲んだだけだったが、満腹で歩く気力が失せてきた私を待ち受けるかのように、店を出たすぐ先にソファが置かれてあった。雑貨屋か何かの商店の前だったがシャッターは下りている。私は遠慮なくソファに腰を下ろし、夜空を見上げた。街灯で星はあまり見えない筈だが、コザの夜空は澄んでいた。
少し落ち着いてから歩き出すと国道の交差点に出た。ミュージックタウンという観光施設が立っているが閑散として灯りだけが眩い。
右に折れて国道を歩き始めると、沿道にバーやライブハウスが現れた。看板はすべて英語である。嘉手納基地のそばに位置するコザは基地の町として歴史を刻んできた。
昔のロックを演奏するライブハウスがあるとインターネットの情報で知っていたが、残念ながら休みであった。仕方なく、あてもないまま町を歩く。アーケードがある。開いている店は少なく、路地に数軒の飲食店が灯りを点けているだけだ。侘しい気持ちになりながら再び国道に出た。コザは衰退していると聞いていた。買い物客は郊外のショッピングモールに向かってしまう。時代の流れというには、気の毒な風景がここに存在していた。
沖縄に着いてから三日め、私はようやく乗りつぶしを開始した。昨夜飲んだ店の近くにある胡屋(ごや)バス停から21番の那覇バスターミナル行きに乗った私は、おもろまち駅前で下車した。沖縄市から那覇市は距離があり、50分を要した。
おもろまち駅の西側はビルやマンションが並ぶ区域で、周辺は米軍基地返還後に開発が進行している地域だという。そんな綺麗な区画を横目に、ゆいレールの改札に向かう。
コインロッカーに荷物を入れ、まず向かったのは首里(しゅり)である。モノレールは半径の小さいカーブを曲がっていきながら町を抜けていく。窓外は台地が点在し、緑が増えてきた。7分で首里に着く。
首里に行ったら首里城に行こうと考えていた。しかし、十一日前に火災が発生していた。本丸には入れないようだが、周辺は歩けるようなので行ってみることにした。
駅の周辺は住宅地だが、那覇中心部のようにビルやマンションが林立している訳ではなく、首里城のある丘の麓に家並みが静かに所在している。大きな石垣が見えてきた。復元された建物もいいが、やはり石垣である。その高さに琉球王国の往時の権力を想う。
ゆいレールは首里から先が一カ月ほど前に開業したばかりだった。その区間に乗る。首里から終点のてだこ蒲西(うらにし)までは10分。車窓は低い山の横を走り始め、山麓の開発中の空き地のような所で終着となった。
てだこは「太陽の子」という意味で、琉球王国の英祖(えいそ)王の神号「英祖日子(えそのてだこ)」にちなんだという。
11時52分発で折り返した私は、隣の浦添前田(うらそえまえだ)で降りた。ここは浦添城があり、城内には「浦添ようどれ」という琉球王国の陵墓がある。そこには英祖王と尚(しょう)寧(ねい)王の一族が葬られているという。駅を出ると低い山がそばに広がっている。ここが浦添城だった。暑い陽気の中、遊歩道を登り、城跡を見学して浦添ようどれに向かう。石垣の門をくぐると、そこに石壁が斜面にそびえている。陵墓は厳かに立っていた。
首里で途中下車して昼食を済ませ、13時28分のゆいレールに乗り13時55分、日本最南端の駅赤嶺(あかみね)に着いた。レールはこの先那覇空港に向かって北西に曲がっていくので、この駅が最南端となる訳だ。周囲は住宅地で、私はここからマイクロバスに乗り換えて瀬長島(せながじま)に向かった。
赤嶺駅から10分、マイクロバスは瀬長島の頂に到着した。瀬長島は那覇中心部から一番近い離島で、小さい島だが頂にホテルがあり、そこから階段で下りていくと斜面にレストランやカフェが並んでいる。こういう観光地らしさに溢れる場所はあまり好きではないが、下に広がるエメラルドグリーンの海は綺麗だ。私は売店でオリオンビールを買って浜まで下りると、観光地の喧騒から離れて裏の浜に向かった。そこは人も少なく、何より、那覇空港を離着陸する飛行機を間近で眺められる場所であった。時間を忘れてオリオンビール片手に浜で佇む。
肥薩おれんじ鉄道
沖縄三日めは糸満市の西崎という埋立地の漁港町に泊まった。スナックビルが何棟が立っている町で、泊まった安宿はスナックビルを改装してゲストハウスにしたような宿だった。私が泊まった個室の和室はテレビすらなく、窓が大きく部屋だけが広かった。
周辺を散策して、よさげな居酒屋に入り、先客の二人の常連とカウンターで盛り上がり、特製の泡盛(あわもり)を飲んでいい気分になって宿に帰った。部屋の外は廊下ではなくロビーのような空間で、かつてスナック店内だったと思われる内装だ。その隅にシャワールームが造られてある。シャワーを浴びたあと、スナックの残骸めいたソファに座り、酔い醒ましにさんぴん茶を飲んだ。この三日間、オリオンビールとさんぴん茶ばかり飲んでいる。シャワールームにやってくる宿泊客は外国人だけだった。
戦前、日本最南端の駅は沖縄県営鉄道の糸満駅だった。与那原と異なり、こちらはもう跡形もないようだ。静かな夜だった。
西崎入口を6時50分に出た89番の那覇バスターミナル行きは、7時09分に赤嶺に着いた。ここからゆいレールで那覇空港までは4分である。
沖縄入りした時と同じソラシドエアで那覇空港を発つ。9時ちょうどに出発した飛行機の窓から沖縄本島の陸地が遠ざかり、青く広い海を挟んで緑の陸地が飛行機を迎えた。10時20分、鹿児島空港に着いた。
40分バスに乗って到着した鹿児島中央駅は随分と賑わっていた。駅舎に観覧車が同居している。ここは新幹線が発着するターミナルである。
新幹線は鹿児島中央から博多に向かう九州新幹線で、九州新幹線は更に山陽新幹線に乗り入れて新大阪と結ばれている。今から乗るのは、その新幹線と並行する在来線である。
鹿児島中央11時30分発の鹿児島本線の普通列車は二両編成だったが、車内は空いていた。走り始めてほどなく山中に分け入っていった列車は、やがて有明海(ありあけかい)沿岸に出る。12時19分、川内(せんだい)に到着した。ここは新幹線の乗り換え駅であり、ここから先は鹿児島本線ではなく第三セクター鉄道の肥薩(ひさつ)おれんじ鉄道となる。この会社は、新幹線の開業でJRの鹿児島本線から分離された在来線区間を運営している。日本最南端の第三セクター鉄道だ。
昼時なので駅前の海鮮料理屋に入り、紅鮭の乗った日替わり定食を食べて、デザートのパイナップルと甘柿とみかんと黒糖飴でくつろぐ。沖縄県もずっと天気が良かったが、鹿児島県も初夏を思わせるような暖かさである。
昼下がりのホームに向かうと、そこには黒い気動車が停車していた。車体には熊本のゆるキャラ「くまモン」がラッピングされている。私がこれから乗る13時25分発の肥薩おれんじ鉄道の列車である。車内に入るとシートカバーにもくまモンのイラストが入っている。くまモンづくしの列車だが、気の毒なくらい空いている。新幹線の開通で在来線の利用者は激減したのだろう。
私は進行方向の左側の席に腰を下ろしている。九州新幹線は川内を出るとまっすぐに山中に入っていくが、肥薩おれんじ鉄道はほどなく海岸線に出る。小さな浜や漁港が現れ、海面は波も穏やかだ。車内は空いていて静かだから、聞こえてくるのはディーゼルエンジンの音と車輪がレールを叩く音ばかりだった。
少し建物が増えてきて阿久根(あくね)に着き、車内はますます閑散とする。通路を挟んで私の横のボックスに座っていた女性も阿久根で降りていった。
阿久根は鹿児島本線時代は特急停車駅だったが、新幹線は海沿いの大回りを避けて阿久根には寄らなかった。新幹線が通ると駅舎も大改装されて鉄筋の駅ビルが併設されたりするが、ここ阿久根は昔のままの空気が流れているようだった。予定のない旅であったら、こういう町を宿泊地にしていたことだろう。地方の町の個性が衰退と利便性によって少しずつ画一化されていく時代にあって、主要幹線ルートから外れた町には個性が残っていると思っている。
14時56分に水俣(みなまた)に到着した。川内で買った切符は水俣までなので降りる。この辺りの区間は鹿児島本線時代に特急で通過したことしかないので、どんな町か歩いてみたかった。
水俣というと水俣病を連想してしまうのだが、のどかな田舎町だった。小さいが真新しい駅舎を出ると、線路と並行して道が通っている。駅前通りという訳だが、店はとても少ない。市街地という雰囲気はない。駅前に大きな工場が立っていて、駅はどうやら町はずれにあるようだ。
私はカメラが好きで、特にミノルタのカメラとレンズが好きである。そのミノルタのカメラを持って、ここ水俣に長期滞在して数多くの写真を撮影し「MINAMATA」という写真集を世界に発表した写真家がいる。米国の社会写真家ユージン・スミスだ。彼が撮った水俣病の子供たちの姿が公害病への強い警笛となり、世界的に環境保全の意識が高まった。この公害病が発生する前の水俣は静かで美しい有明海に面した漁師町だった。彼の伝記を読んだことがある。美しい海が汚染されているとは信じ難い。水俣の人たちの困惑と悲嘆。スミスは苦しみ、悲しみを抱きながらシャッターを切り続けた。
今の水俣はどこにでもあるような静かな田舎町となった。その平穏に触れた私は、この町を素通りしてしまうことを悔いている。
水俣の少し手前から熊本県に入っていた。陽が傾いてきた水俣を15時48分に出た気動車は、変わらず僅かな乗客を乗せて走る。
新幹線の駅が造られている新水俣のあたりからしばらくは内陸を走っていた気動車は、肥後田浦(ひごたうら)から有明海に寄り添い始めた。海が西日を浴びて黄金色に輝いている。その向こうには天草(あまくさ)の島々が佇んでいる。海岸線すれすれに走る区間が続く。この黄昏の鄙びたローカル線が新幹線が開通するまでは特急が行き交う本線だったのだ。利便性は車窓の美しさとは縁遠いものである。そんなことをふと思う。
16時55分に着いた八代(やつしろ)は高校生がホームに溢れていた。ここからは再び鹿児島本線となる。熊本方面に行く電車は混んでいたが、私は隣の新八代までの乗車だ。新八代からは利便性の極みである新幹線の乗客となり、熊本から豊肥(ほうひ)本線で肥後(ひご)大津(おおづ)に向かい、無料送迎バスに乗って熊本空港に向かう。その先は利便性の頂点ともいえる航空機のお世話になるのだった。