台湾鉄路紀行 第六日前半(花蓮~猴硐)
第六日 (花蓮~基隆)
北廻線
ホテルを出ると、爽やかな風が町に吹いていた。空は青い。部屋の窓から山が見える町に泊まったのは、今回の旅で初めてだった。市街地の東はすぐ海だが、線路の向こう、西の方は山地。そういう町である。
花蓮(ファーリエン)駅に行くためにバス停に向かった。昨夜、ホテルの近くにバス停があることを確認済みである。昨日降り立ったバス停からホテルの近くまでは徒歩で13分かかった。これは駅からのバスの乗車時間と同じだったから、近くにバス停があったことは有り難い。台湾の市街地の道路は歩道が分離されているのはいいが、店先で段差になっていることが多いので、キャリーケースを牽きながら歩くのは難儀でもある。
バス停の名は中興站といった。時刻も昨夜確認済みである。乗るのは8時37分の花蓮火車站(ファーリエンホーチャージャン)行きだ。火車站とは鉄道駅という意味である。
こういう商店街になっている歩道にはスクーターが駐車してあることが多い。客だったり店員の物なのだろう。台湾の人は酒を飲む人が少ないから、飲食店にもスクーターで来る人が少なくないのだ。バス停のポールの脇にピンクメタリックのスクーターが駐車してあった。あまりバス停から離れていると運転手が見過ごすことになりかねないので、私はスクーターの隣に立ってバスを待っていた。ほどなくして、持ち主がやってきた。どこかで買い物をしていたらしい。手に買い物袋を提げたおじさんである。
私はニイハオと挨拶してから、バスを待っているのだと、バス停を指し示してスクーターから離れた。盗難か或いは悪戯(いたずら)でもしようとしていたのではと誤解されたくないからだ。
ジェット型ヘルメットを被ったおじさんは笑顔で何やら語りかけてきた。
「ファーリエンステーション」
私は花蓮駅に行きたいのだと意思表示してみせた。おじさんはなるほどと頷いている。そして、更に何やら話してくるのだが、私は意味がわからないまま聞き続けた。どこから来たのか? 花蓮ではどこに行ったのか? そんなことを聞いているのだろう。残念ながら会話が出来ないまま私は聞き続けた。通じていないなりに、自分が日本から来たこと、花蓮はいい町だと思ったことを伝えようと思ったとき、オレンジ色の車体のバスが私達の傍をゆっくりと走り去っていった。突然のことなので系統番号は見ていない。乗るべきバスの番号は1145番である。車道に出て手を振ろうとしたが、バスは減速せずに去っていく。車道側に立っていたおじさんが身を乗り出してバスの後方にある行先表示板を見てくれた。
おじさんは手を横に振り、あれは違うバスだと身振りで教えてくれた。時計を見ると8時34分だから、確かにまだ到着時刻ではない。
おじさんは再び何やら私に話しかけるとスクーターを始動させ、笑顔で手を挙げて駅とは反対方向に走り去っていった。
バス停の時刻表を眺める。8時34分などというバスはない。そもそも行先のほとんどが花蓮火車站である。私はスマートフォンを取り出した。台湾全土のバス路線の運行状況がわかるアプリを入れてあるのだ。地域を選択し、系統番号で検索する。私が乗ろうとしているバスは、私が昨日降りたバス停を出たあたりの位置にいた。
台湾のバスの時刻は起点のバス停しかあてにならないと聞いていた。道路渋滞で遅れることが多いからだが、早着することもあるのだ。もちろん、そういう事態に備えて少し早めにバス停に来ていたのだが。
気を取り直して次のバスの時刻を確認する。いくつかの系統が走っている場所なので運転間隔は不規則で、一時間以上待たされることもあれば、すぐに次のバスが来る時間帯もある。幸いに、次のバスは8時46分だった。これを逃すと次は10時40分だから、今度はアプリと道路を交互に睨みながらバスを待つ。
案ずることなく、次のバスは定刻に到着し、私は9時02分に花蓮駅前に着くことが出来た。そこは、昨日の夕方、バスの時刻を教えてもらった花蓮客運のバス乗り場の前であった。
予定より9分遅いバスになったので時間の余裕はない。駅構内の広い跨線橋は、大きなガラス窓の向こうに緑の山々を見せてくれているが、ゆっくり眺めたりしている暇はない。私は急いで自販機で自強号(ツーチャンハオ)の切符を買った。座席指定している余裕はない。普通の自販機で購入したので自願無座である。今日は金曜日だからそこまで混んでいないであろう。
急いでホームに降りると、ほどなくして9時15発の列車番号407次自強号が入線してきた。台東(タイトン)を6時30分に出た早起き列車である。正面は黄色にオレンジのラインが入り、そのラインが側面に延びている。ステンレス車体なので側面は銀色地である。
この自強号はディーゼルエンジンで走る気動車だから、構内には乾いたエンジン音が響いている。私は自販機で紙パックの15元の麦茶を買って乗りこんだ。
車内は割と混んでいた。私が座ったのは山側である進行方向左側で、右側の窓際の席は全て埋まっていた。海の眺めがいいからだろうか。
花蓮の町を出ると自強号はエンジン音を唸らせ速度を上げていく。左から山が迫ってきて、平地の狭い景色の中を走っていく。自強号が今走っている区間は北廻線(ベイフイシェン)という。台鉄の路線の中でももっとも地形の険しい線で、79・2キロの全区間の途中に16のトンネルと91の橋梁がある。地図を眺めても、山稜が海岸線まで迫っているのがわかる。線路は僅かな平地を求めて敷かれ、山崖に行く手を阻まれればトンネルで抜ける。そういう線形となっている。
ホームで買った麦茶を飲んでみた。麦茶のパッケージは黄色とオレンジと二種類あった。黄色の方を買ってみたが、これがなんとミルク入り麦茶であった。台南(タイナン)で飲んだ甘い麦茶を思い出し、オレンジは砂糖入りだろうと見当をつけて黄色を選んだのだが、ミルクが入っているから色が薄いパッケージになるというのは理にかなってはいる。
自強号は花蓮を出て最初の停車駅新城(太魯閣)(シンチェンタロコ)駅に到着した。カッコ書きで太魯閣と加えられているのは、ここが太魯閣渓谷への入口であることを意味しているが、1975年に北廻線が花蓮とこの駅の間で部分開業した当初は新城駅であった。地元の要望を受けて2007年に太魯閣(Taroko)駅に改称されたのだが、なぜか旧駅名の方ではなく新駅名がカッコ書きされている。
太魯閣渓谷へは花蓮駅前からバスが出ているが、市街地の渋滞を嫌い、ここから向かう人も結構いるようで、降車客がそれなりにあったが、乗車してくる人も割といたので車内の混み具合は変わらない。
新城を出ると随分と広い河原に出た。太魯閣から流れる立霧渓(リーウーシー)という川で、かつて河口は砂金の産地として知られていたという。高さ1000メートルの切り立った渓谷から流れてくる川だけあって河原は広いが、水量は少ない。
川の名の由来は、流域にタッキリというタロコ族の集落があったことに因み、またその集落の北にある山を「霧が立ち込める」山という意味で「立霧山」と日本人が名付けたことによる。つまり現地の読みに日本語読みで漢字を当てて、戦後も漢字は残って台湾国語読みになったというケースで、ターカウが高雄になったのと似ている。
川幅が広いから列車はなかなか鉄橋を渡りきらない。上流側に視線を転じると、深い山地がそびえ立っている。この奥に太魯閣渓谷があるのだ。
立霧渓を渡ると、山の斜面が線路脇に迫ってきた。ここからは海岸線に沿うように、険しい崖下を走る。
昨日、東部台湾は平地が西部台湾に比べてとても少なく、そのためか人口が少ないことを車窓から見える地形から実感したが、北廻線の車窓は一段と険しく、人口のとても少ない地域を走っている。北廻線の建設自体は日本統治時代に始まっていたが、全通したのは1980年まで待たなくてはならなかった。それは、地形の険しさゆえに建設が容易ではなかったことと、この沿線人口の少なさが理由だろう。この自強号も9時29分に新城を出たあとは10時01分発の南澳(ナンアオ)まで駅に停車しない。
だからだろうか、車掌が車内検札にやってきた。私は指定券を持たない自願無座だが、花蓮でも新城でもこの席の指定券を持った人は現れていない。現れないかぎり、ここに座っていることは何も問題はないので、車掌に切符を見せて検札は終わる。
漢本(ハンベン)を通過したあたりから線路は海岸線いっぱいに走りながら、やがて長いトンネルに入っていった。2003年に複線電化工事完成と共に開通した新観音トンネルで、全長10307メートルは台湾の鉄道の山岳トンネルで最長の長さを誇る。そのトンネルを最高速度130キロで列車は駈けていく。
新観音トンネルの開通をもって、それまで使っていた観音トンネルなど三つのトンネルは廃止された。開通後、わずか二十年ほどで廃止となったわけで、運行効率向上のためとはいえ、随分と思い切った事をするものだと思う。台湾は古い建物を大切に保存し、文化財クラスはもとより、民間レベルでも古い建物が多く残るが、新しいものへの思い切った切り替えも早い。そんな印象を旅の道中で受けている。
北廻線は漢本の辺りで花蓮県から宜蘭県に入った。新観音トンネルを抜けても、景色は変わらず険しい山地の麓を走っている。やがて列車は内陸部へ入っていき、それと共に雨が窓を濡らし始めた。自強号は2分遅れの10時18分に蘇澳新(スーアオシン)駅に到着した。花蓮から蘇澳新までの自強号の運賃は180元(約670円)であった。
宜蘭線
蘇澳新(スーアオシン)は低い山間に位置する駅だった。駅の周囲は家も少ない。本線上の優等列車停車駅だけあって跨線橋はなかなか立派で、改札は跨線橋から続く短い通路にある造りとなっていた。いわゆる橋上(きょうじょう)駅という造りである。
駅の横には大きなセメント工場がある。雨も降っているし、降りてもすることのなさそうな駅だが、手にしている切符はこの駅までのものだから、改札を出ようと思う。気温が下がって寒いので、その前にトイレに行きたい。改札は自動改札ではなく、若い女性と中年男性の二人の駅員が立っていた。あたりを見回していた私に、女性駅員が近づいてきたので、私は「トイレは?」と思わず英語と日本語を交えて訊ねた。駅員は改札を出た所たと指差してくれたので、私は自強号の切符を見せて、そのまま改札を抜けてトイレに向かった。「切符を持ち帰りたい」という意思表示をしないまま、切符は手元に残った。
蘇澳の町までは本線と分かれた別区間が延びている。接続は若干よくないので、予定では蘇澳新からタクシーに乗って蘇澳の町に出ようと考えていた。だが、この雨で気が変わり、私は台鉄で蘇澳(スーアオ)駅に向かうことにした。蘇澳新と蘇澳の間は区間車(チュージエンチャー)が一時間に一本程度走るダイヤだから、自販機で区間車を選択して切符を買う。蘇澳までは15元だった。
ホームに出て列車を待つ。蘇澳新は北廻線(ベイフイシェン)と蘇澳からの宜蘭線(イーランシェン)が接続する駅で、線形は「人」の字のようになっている。右に分岐するのが蘇澳方面で左が花蓮(ファーリエン)方面である。1980年の北廻線の全通によって蘇澳駅が本線上から分かれた位置となったため、二年後の1982年、それまでの駅名である南聖湖から蘇澳新に改称して主要駅となった。そこに町があるから優等列車が停車する訳ではなく、町に向かう人のための乗換駅だから、駅前は栄えていなくてもホームは二面四線あり、構えはそれなりである。
さて、宜蘭線は遅延が発生しているらしい。次の蘇澳行き区間車は2‐B月台(ユエタイ)(ホーム)から発車することになっていたが、同じホームのお隣の2‐A月台に変更された。ホームの屋根を支える御影石のような四角い柱が二本立っていて、その間に短いベンチがある。私はそこに座って雨に煙る線路を眺めた。黒い無蓋(むがい)貨車が側線に留置されている。その向こうに見えるセメント工場の銀色のタンクとの対比が、モノクロフィルムの世界のような映像を見せてくれている。
10分遅れでやってきた区間車4148次は、10時43分に蘇澳新を出て、低い山の裾を走りながら町に入り込み、10時48分に蘇澳に到着した。時刻表を見てみれば、この区間車は早朝の5時10分に苗栗(ミャオリー)を出発して台北(タイペイ)を通り、ここまでやってきた。苗栗は山線の駅で、新竹(シンジュー)より南にある。随分と長距離を走る鈍行列車だ。遅れるのも仕方がないと思われた。
蘇澳駅は自動改札ではなかった。ここ二日間は自動改札の駅ばかりだったので、駅員に「要帶走(ヤオダイゾウ)」(持って行きたい)と尋ねる機会がなかった。これまでは有人改札を通る際に、この方法を紹介しているサイトの画面をスクリーンショットしたものを駅員に見せていた。だが、いちいちスマートフォンを出して尋ねるのが面倒に感じられてもいたので、思い切って口頭で尋ねることにした。初めての台湾の旅といえど、そろそろ積極的に台湾国語を使うべきだろう。片言でいいから使わなくてはいけないと感じてもいた。
「ヤオダイゾウ」
私は切符を示して駅員に尋ねた。
「オオ、要帶走」
駅員は証明印はあそこだと手で示した。これを捺して改札を出れば切符を持っていくことが出来る。私は無事、切符を持ち帰ることが出来た。そして、自分の発する言葉でやり取り出来たことに手応えを感じ、次からは画面を見せるよりも言葉で伝えようと決めた。
蘇澳の駅舎は二階部まで吹き抜け天井となっていた。外から眺めると横に長い駅舎で、外壁はピンクとグレーのツートーンという珍しい配色である。
駅前広場を挟んで細い駅前通りが東西を横切っており、まずは左折して通りを歩いてみた。雨は上がっていた。町はそれほど大きくないようだが、車の行き来は多く、沿道にも店が隙間なく並んでいる。高さは三階くらいまでのものが多いが、賑わいのある商店街という感じはある。
歩道が狭く歩きにくいので、横道に入ってみた。小山を背景に個人商店が並び、その先に小さな市場があった。通りに面してテーブルが並べられている市場の中は一仕事を終えた静けさに包まれ、微かに魚介類の匂いが道に漂っている。テーブルには白菜などの野菜が並べられ販売されていた。
その先は小川に突き当たり、右に曲がって小道を歩いていくと、先に公園が現れた。蘇澳冷泉公園と看板が出ている。ここは台湾で唯一の炭酸カルシウム泉で、代金を払って入園すると足湯を楽しめるようになっている。山から湧き出るこの冷泉は、かつては魚も寄りつかない有毒な水とされてきた。日本統治時代に、日本の輸送船の指揮官がこの湧き水を飲んだ結果、身体に無害であることが証明されて、研究の末に炭酸泉であることがわかったという。
冷泉はラムネ製造に活用され、蘇澳名物となり今に至っている。水温は20度強で、温泉としては冷たいが、浸かっていると徐々に身体が暖まってくるのだという。冷泉には足湯だけでなく家族風呂もあるそうで、ここは蘇澳の観光スポットとなっていた。
冷泉から駅まではすぐであった。古びた住宅街の小道を歩いていくとピンクとグレーの駅舎が見えてきた。雨がまた降ってきた。私は駅舎に戻り、次の列車に乗って宜蘭(イーラン)を目指すことにした。
蘇澳駅の券売機は紙幣が使えないものであった。近距離の切符を買うためのものといった割り切りを感じるが、次の目的地の宜蘭までは22・3キロなので問題はない。
さて、切符を買う時点で私は少し迷った。乗るのは蘇澳11時26分発の区間車(チュージエンチャー)なのだが、蘇澳新で降りて40分ほど待つと、花蓮発の復興号(フーシンハオ)という列車に乗ることが出来る。復興号は停車駅は多いものの通過運転をする列車だから普通列車相当の区間車より格上の列車で、強いていうならば準急に相当するような列車である。かつては台湾のあちこちを走っていた列車だが、今は東部幹線に僅かに残るのみとなっている。復興号は上下を水色の濃淡に塗り分けた専用の客車が使用されるのが特徴で、車内の内装こそ急行相当の莒光号(ジュークアンハオ)と大差ないが、台鉄全線乗車を目指す上で全ての種別にも乗っておきたい気もする。
思案の末、私は券売機の列車種別のボタンは「復興号」を押した。
日本のローカル駅でもそうであるように、蘇澳駅の改札は発車時間が近づくまで開かない。発車5分前にようやく改札が開放され、改札と続いているホームに停車中の区間車4171次に乗り込んだ。私の手に握られた復興号の名が印刷された切符は33元(約120円)である。
区間車は4分で蘇澳新に到着した。ここで43分待てば、12時13分発の復興号宜蘭行きに乗ることが出来る。ロングシートから腰を浮かしかけた私だったが、窓の向こうに見える雨景色に冷気を覚え、そのまま席に落ち着いた。
古い町並みを再現した煉瓦造りの通りがあるという羅東(ラオドン)のあたりからは水田が沿線に広がり始めた。今日は花蓮を出てから山の斜面に沿うような車窓が続いていたので、平地の景色が広々と見える。
二結(アーユエ)駅では貨物列車とすれ違う。無蓋貨車を連ねた編成に、先ほどの蘇澳新駅の横に立っていたセメント工場を思い出す。復興号はまだ蘇澳新に到着していない時間だ。乗ればよかったかなと一瞬思いながらも、寒々とした駅で43分も待つことを思うと、これでよかったとは思う。
11時53分、宜蘭に着いた。雨は止んでいた。このあたりの地域ではもっとも大きな町であり、線名にもなっているくらいだから、駅前は賑わっていた。改札機も自動改札である。その自動改札が私の往く手を遮った。理由はすぐに思い当たった。復興号の切符で乗ってきたのである。今乗ってきたのは区間車だ。金額は問題ないので、横に立っていた黄色いジャンバーを着た改札係員に切符を見せ、自動改札機の横の通路を通してもらった。
青銅色の駅舎はアーチ状の柱を持ち、玄関の屋根の上に麒麟が乗っていた。駅前に公園があるのが見える。私はそこに向かった。
宜蘭は城郭都市であった。町中は城郭に沿って九芎樹(シマサルスベリ)が植えられている。駅前にあった案内地図を見ても、町中に円を描くように敷かれた道路があり、通り名に城の字が当てられている。
公園は「丟丟當森林」という名で、やはりサルスベリの木が植えられ、駅舎と同じ青銅色の屋根に蒸気機関車と客車を模した模型がぶら下がっている。
時刻は正午を回っている。疲れのせいか、それほど空腹は感じない。疲れるようなこともしていないから、単に気分の問題かもしれない。公園の近くの駅前通りにセブンイレブンがあったので、そこで緑茶とおにぎり二つを買って店内で食べた。緑茶にストローが付いていなかったので店員に頼んだ。学生風の見た目の女性店員は難儀そうな表情を隠さす、ストローを引き出しから取り出した。これまで買った紙パックの飲料はストローが付属していたが、この商品は封を開けてコップに注いで飲む仕様なのかもしれない。無意識に選んだのだが、その緑茶は甘かった。どうも今朝から飲み物の選択がうまくいかない。おにぎりは甘いそぼろ入りのものと、シーチキンが入ったもので、こちらは普通の味であった。
宜蘭からも区間車の旅となる。次に向かうのは「猫の村」で、運賃は84元(約310円)となる。駅の売店であるファミリーマートで18元(約67円)の天然水を買う。台湾で売られているペットボトルの水には礦泉水(天然水)と自來水(濾過した水道水)の二種類がある。後者が当然安く、5元から10元くらいで買えるそうだが、駅の売店で売っているような水は前者のようである。
猴硐
宜蘭(イーラン)12時53分発の区間車(チュージエンチャー)4173次はセミクロスシートで、私は車端部の二人掛けクロスシートに落ち着いた。進行方向と逆向きに座る席だったが、固定座席であるので向きは変えられない。
雨は止んだが、空は相変わらず曇っている。ぼんやりと窓外を眺めていると、亀山(グイシャン)から右窓に海が現れた。線路は海岸沿いに敷かれ、次の駅大渓(ダーシー)はホームから広々とした海が眺められる駅であった。線路は海岸線より一段高い所を通り、その下に浜に沿うように道路が敷かれている。宜蘭線で海をじっくり眺めることが出来る区間があるとは予想していなかったので、私は曇った空の下に広がる紺色の海を見つめ続けた。
そんな車窓も、大渓から7・4キロの石城(シーチォン)からは山間部に変わっていく。空は少しずつ明るくなり、牡丹(ムーダン)からは晴れ間がのぞく空模様と変わっていった。それにつれて、窓外は山深くなっていき、山間を流れる牡丹渓(ムーダンシー)が渓谷の景色を作り出す眺めとなった。基隆河(キールンホー)を鉄橋で越え、14時02分に到着した三貂嶺(サンディアオリン)は斜面にへばりつくように位置し、落石覆いに包まれたホームが昼なお暗く、野趣に富んだ駅であった。ここからは平渓線(ピンシーシェン)というローカル線が分岐しているが、こちらは明日乗る予定である。
三貂嶺の次が猫の村こと猴硐(ホウトン)である。車内は窓際の席がさらりと埋まっている状態で、多くは台湾人観光客であるように思われた。
列車は基隆河に沿うように山間を走り、14時07分に猴硐に到着した。猴硐は二面四線のホームを持ち、自強号(ツーチャンハオ)は通過するが一部の莒光号(ジュークアンハオ)は停車する駅である。だが、駅の周囲は建物は少ない。かつて炭鉱からの石炭積み出し駅として賑わい、駅に隣接して選炭場もあった猴硐だが、今この地に賑わいをもたらしているのは石炭ではなく猫である。
跨線橋を上がると通路に猫のオブジェが現れた。窓の下に設けられた台に猫が乗っている。柱や壁には猫の写真が飾られている。駅構内からすでに猫づくしだ。ここは猫村として親しまれているのだ。
改札まで来ると、制服を着た猫のイラストの立て看板がある。注意書きのようだ。そして、大きな猫のオブジェが改札で出迎えてくれる。改札に立つ駅員は女性であった。切符を見せながらの私の「ヤオダイゾウ」に、どうぞとにこやかに手で改札外を示してくれた。
基隆河の作る河岸段丘の上にある猴硐駅は、ホームや駅舎から一階分低い場所に駅前広場が形成されていた。炭鉱が閉山されてからは廃れてしまった地だからか、広場というには駅前は狭い。そこに土産物屋が所狭しと並んでいる。コンビニエンスストアまであった。今日は金曜日だが予想以上に猴硐は混んでいた。この狭い空間をぶらついて基隆河のほとりまで歩くのも悪くはないが、私はホームを跨ぐ連絡通路に向かい、駅前の反対側に行くことにした。
連絡通路の階段は狭い。狭いから一方通行にして二つの階段を使って観光客を誘導している。壁には猫のイラストが添えられた猫村案内地図が掲げられ、通路にはやはり猫のオブジェが置かれている。猫の顔が描かれた大きな鈴など、これをそのまま小さくしてグッズとして売っていそうなくらいに出来上がったデザインだ。とにかく至る所に猫のイラストが存在している。
通路を抜けて駅の横の斜面の上に出た。周囲はなだらかな山間で、観光客が帰ってしまえば、人の数より猫の数の方が多そうな村である。斜面上に造られた通路を歩いていると、さっそく猫が戯れていた。陽が射してきて気温が上がってきたので、猫は日陰に隠れてしまっているのだろう。期待よりは猫は見かけない。姿を見せようものなら、たちまち周囲は撮影会の様相を呈する。
猴硐の猫在住地域は坂にある。ここの猫はボランティアスタッフや地元民によって、猫が平穏に過ごせるように管理されている。管理というと窮屈な印象となってしまうが、去勢であったり、餌のルールであったり、猫と人間が共生し、猫を愛する人がこの地で楽しく過ごせ、猫も穏やかに過ごせるための活動をしている人達がいるという事である。
歩いている人は皆笑顔だ。猫が好きな人が訪れ、そこに猫たちがいるのだから当たり前であるが、その当たり前を守るために尽くしている人達がいることに感謝しながら坂を歩く。
坂の途中にも家がいくつも立っている。廃屋なのかどうか定かではないほど傷んでいる建物もあるが、リノベーションしてカフェや土産物屋となっている建物もある。店で売られているものも当然猫関連であり、メニューも猫にちなんだものだ。店先の立て看板も猫のイラストがあしらわれている。
坂を上がるほどに、ちょっとした隙間で猫を見かけるようになった。庭先の芝の上、店のバルコニー、廃屋らしき建物の脇。猫たちは日陰を見つけて、そこに静かに佇んでいた。
キャリーケースを持ち上げながら坂を上がっていくうちに、ある程度の高さの場所まで到達した。そこから先は建物もないので、引き返すことにする。眺めはよい。周辺の山々が見渡せる。ここは旧炭鉱村である。猫が多く棲みついてしまった理由を惣蔵すると、少しだけ感傷的な気分になるのである。
猴硐を歩いている人はカップルだったり、家族連れだったり、友人グループだったり、ようするに一人歩きしている人は少ない。暑いし、坂を上って疲れも感じているので、カフェに入って一休みも考えたが、どこもそれなりに賑わっていて気軽に入ることに躊躇した。私は歩道にあるベンチで少し休憩したあと、駅に戻ってきた。
さて、このあとどこに行こう。今夜は基隆(キールン)に泊まることになっている。それ以外に予定はない。隣駅の瑞芳(ルイファン)に行けば、そこからバスで15分ほどで日本人に人気の観光地九份(ジュウフェン)に行ける。九份はかつて金山があった山間の村で、日本統治時代に造られた町並みが残っている。石段上に店や提灯が並ぶ老街(ラオジエ)は情緒があり、積極的に有名観光地に行くことはしない私でも、その景色はちょっと見てみたい。
瑞芳駅にコインロッカーがあること、台鉄の荷物預かりサービスである行李房があることも調べておいた。荷物を預けて夕方散歩をしてみようかと考えてみたが、微妙に疲労感を身体に感じるのでやめることにした。暑い中で坂を歩いたから疲れたのか、旅も六日目となり気の緩みが疲労に繋がっているのか、原因は定かではないまま私は券売機に向かった。
基隆は港町である。海でも眺めて過ごし、宿に荷物を置いてから町を歩いてみようかと思う。大きな港がある町は店も多い。基隆もそういう町だろうと思う。
基隆までは近いので、乗るのは区間車でいいだろう。券売機で基隆までの区間車の切符を買った。17元である。
ホームに下りて列車を待っていると空が再び曇ってきた。暑くはあったが、晴れている時に猴硐を散策できてよかったと思う。ほどなく列車はやってきた。手前の三貂嶺からやってきた平渓線の列車だ。