車窓を求めて旅をする⑧ 史跡を求めて歩いてみる ~釜石線・IGRいわて銀河鉄道~
史跡を求めて歩いてみる ~釜石線・IGRいわて銀河鉄道~
釜石線
前回の話の続きである。前編後編としていないのは、後篇にあたる今回は列車に乗っている時間が短いからで、前後で性質の異なる紀行文となるからだ。車窓や駅の話よりも、降りてからの話が長くなる。
さて、秋田内陸縦貫鉄道を乗り終わり、角館(かくのだて)駅前でのんびり過ごした私とTさんは、角館を3分遅れの13時53分に発車した秋田新幹線こまち24号に乗り込んだ。
新幹線と名前は付いているが在来線であり、田沢湖線の線路上を走る。在来線の線路幅を新幹線と同じ1435ミリに改軌し、高速運転のための設備改良を実施して開業したもので、同様の区間は奥羽(おうう)本線の福島~新庄の山形新幹線があり、そちらが元祖である。
在来線だから踏切もあるし、小さな無人駅を通過していったりもする。速度は普通の特急と大差はない。
最大深度423・4メートルと日本で最も深い湖である田沢湖の最寄り駅田沢湖を過ぎたあたりから車窓には玉川の渓谷が展開し、列車は何度か川を鉄橋で越えながら右に左に岩肌の斜面を見せてくれる。
県境が近づき、奥羽山脈の険しさが増してきた頃、秋田県仙北(せんぼく)市と岩手県雫石(しずくいし)町を結ぶ全長391・5メートルの仙岩トンネルに入る。
雫石は高原の地だ。このあたりは下車したことはないので降りてみたくもある。今回の旅のルートを決めるにあたって、当初の予定では雫石か隣の小岩井(こいわい)で降りて観光をしてみようと考えていた。だが、私の行きたい史跡とTさんが乗りたいローカル線とをルートに融合させて整合したルートを作ろうとすると、この区間は走り抜けるしかなくなった。
こまち号が小岩井駅を通過していく。白い木造駅舎が窓の向こうから誘惑している。またの機会に訪れたい。
14時48分、盛岡に着いた。こまち号はここから、新函館北斗からやってきたはやぶさ24号と連結して東北新幹線の線路上を走る。私たちは在来線である東北本線のホームに向かった。
15時01分の普通列車に乗り36分、花巻(はなまき)に着いた。コインロッカーに荷物を入れ、売店で買ったクリーム味のどら焼きを手に、15時54分の釜石(かまいし)線に乗り込んだ。
二両編成の車内は空いていた。高校生の帰宅時間とはズレたらしい。
釜石線は全長90・2キロのローカル線で、花巻の郊外から遠野(とおの)や仙人峠を経て釜石に至っている。今日は遠野や釜石までは行かず、新幹線との乗り換え駅である新花巻から三駅、花巻からは15・9キロ所要24分の晴山(はるやま)で降りる。
西日を浴びた一面一線のホームには人の気配はなかった。駅舎はなく、駅名が書かれた小さなアーチが出入口に架かっているだけだ。
簡素な駅で、ホーム上から眺める景色は田園だが、駅を出ると民家が密集した小集落となっている。目的地へはタクシーを使うことになるのだが、駅前広場などというものはなく、駅の外は砂利の私道めいた道しかない。
タクシー会社の電話番号は調べてきてある。一駅隣の土沢にあるタクシー会社に連絡をすると、10分ほどで車がやってきた。
「丹内山(たんないさん)神社の二ノ鳥居までお願いします」
私の依頼に中年の運転手は首を捻った。地元のタクシーだから通じるだろうと高をくくっていた私は困惑したが、タクシーが捕まらずに徒歩移動となった時に備えて、出発前に周辺の地図をじっくりと眺めてきていたから地理は頭に入っていた。
「近くに公民館らしきものがある筈です」
運転手は得心したようだった。どうやら、神社の所在は知っているが、二ノ鳥居というものについての予備知識がなかったらしい。
道路は小さな住宅地を抜け、低い丘陵を越え、広々とした農村に出た。赤い鳥居が現れる。これは一ノ鳥居である。ほどなく目的地に到着した。料金は千六百円だった。
農村のそばに連なる丘に向かって参道が設けられ、石の鳥居がそびえている。脇に宮沢賢治((みやざわけんじ)が丹内山神社の祭りの賑わいを歌った文語詩「祭日(一)」の詩碑が立っている。
参道を登ると、やがて森の中に入っていき、森の中を横切る小道が現れた。そこに小さな駐車場があり、参道には赤い鳥居が立っている。
鳥居を二つくぐると、その先に門があり、境内に入っていくと、文化七年(1810)に造営されたという本殿が現れた。
夕方の境内には参拝客も関係者もおらず、ひっそりと静まり返っている。木々の間からこぼれる西日に照らされながら、ゆっくりと境内を回っていくと、本殿の横の石段を上がった先、本殿の裏に、森に包まれるように巨岩が鎮座していた。アラハバキの大神の巨石と呼ばれる御神体である。私たちは、御神体の前にやってきて手を合わせた。
古代より東北には巨石信仰が存在した。アラハバキという石の神様は東北をはじめ、東日本各地に見られる信仰だが、こうして今も巨石を祀っている神社は貴重な存在といえる。
前回に紹介した大河ドラマであり小説である「炎(ほむら)立つ」でも、アラハバキの神様に祈願する場面が登場する。東北の歴史と文化を考える上で重要な信仰といえた。
周囲はうっそうとした森だが、柔らかな西日が射してくることもあり、気持ちは穏やかである。ゆっくりと参道を下りていき、先ほどタクシーを降りた場所に向かった。下車時に時間を決めて、迎えに来てもらうことにしてある。
晴山駅を囲む田畑が夕陽に包まれていた。列車は陽が沈む方角を目指して走る。17時39分にやってきた花巻行き列車は一両ではあったが座席のほとんどが埋まるほど混んでいた。
花巻駅に着いた私たちは売店で酒を買い込んだ。今夜泊まる宿は素泊まりで、近くに商店が一軒だけあるものの、夜には閉まってしまいそうな雰囲気がする小さな店のようだった。居酒屋がない代わりに部屋で酒を飲みたい。そういう訳である。
岩手の地酒、岩手のビール、ワインを買い込んだあとは夕食だ。待合室に駅そばがあるので、そちらに向かう。待合室にテーブルが並んでいる。ほとんどのテーブルを宿題に取り組む女子高生が使っている中を、そばを持って席に着き、山菜と玉子が入った賢治そばというメニューを食べる。花巻は宮沢賢治の出身地である。
駅前はすっかり夜の色となっていた。駅前はさほど栄えていないのか、灯りが乏しい。そんな駅前にバスがやってきた。行先は今夜の宿泊地である台(だい)温泉だが、車内には観光客は私たちだけだった。
18時41分に花巻駅東口を出た岩手県交通バスは花巻駅の西に出ると、灯りの乏しい農村を走り、一人二人と乗客を降ろしていき、やがて他の乗客はいなくなった。
夜景の中を走っているが、山麓を走っているのは雰囲気で理解できる。ほどなく、鉄筋の大きな建物が現れ出した。ここは花巻温泉で、宿泊候補にも入れていた。一泊二食つき。館内にカラオケもあるというホテルが割とリーズナブルな料金で案内されていたが、私が選んだのはもう少し山に近づいた場所である。
山の入口のような場所でバスは停車した。周囲は車を回転させられるくらいの広さがあり、待合用のベンチもある。ただし、周囲は真っ暗だ。
バスを降りた所から坂を上っていく。細い道の両側に木造の古い旅館が並び始めた。ここは台温泉。古き良き湯治場の面影を残す温泉である。バスを降りたのは19時03分。一軒だけあったなんでも屋のような商店はやはり営業時間が過ぎていた。
宿泊サイトに「湯治場の雰囲気を残す宿」とあった旅館に入る。玄関も壁も古い木のぬくもりに満ちている。私たちは源泉だという湯に浸かったあと、部屋でビールを飲み、日本酒を飲んだ。部屋も必要最低限の設備だから、気が散るものは何もない。話を交わし、酒を味わう。余計な演出のない贅沢なひとときだろう。
夜空が見たくなった。コップとワインの瓶を持って、私たちは外に出た。
古びた旅館の並ぶ細い道はすぐに尽き、山の斜面が迫っている。そこで折り返して、先ほど降りたバス停の所に行く。座れる場所を探している。
バス停は変わらず真っ暗で、人も車もない今は待合ベンチも暗い。ここで飲む気はせず、私たちは宿の方へ戻った。手前にあるちょっとした駐車場に向かい、縁石に腰を下ろした。停まっている車は少ない。
ワインを飲みながら人の繁栄についてを想う。便利は人の行動を助長し、私もインターネットという便利によって情報を得て、この地に足を運んだ。だが、便利な世の中というものは、楽で快適な方へ導く作用も果たしている。この湯治場の風景がいつまで存在し続けるかはわからなかった。
静かすぎる夜。誰とも会わないまま温泉の端から端までを歩き、こうして車の少ない駐車場で飲んでいる。
ふと空を見上げたTさんが、星がたくさん見えると言った。都会では絶対見られない夜景が空に展開されていた。
IGRいわて銀河鉄道
昨夜、星を眺めながらワインを飲んだ駐車場を抜け、昨夜は真っ暗だったバス停にやってきた。7時42分発のバスに乗る。
花巻温泉と花巻駅の間には、かつて花巻電鉄という私鉄が走っていた。昭和四十七年(1972)に全廃されたこの私鉄には鉄道線と軌道線があり、前者が今乗っているバスの区間に相当する。距離は約8キロほどだ。
花巻電鉄には、馬面電車という愛称を持つ車幅の狭い電車が走っていたという。鉄道が走っていた地域だから、朝の明るさの下で風景を眺めると田園の中、沿道には家がそれなりに点在している。バスで十分な輸送量なので、こうして今はバス路線になってしまったのだが、山麓の温泉地を背景にした、こののどかな農村風景を電車が走っていた時代は絵になる眺めだっただろうなとは思う。
花巻駅の売店でおにぎりやパンを買って食べていると、東北本線の盛岡行き電車がやってきた。盛岡着が9時03分なので通学ラッシュにはなっていないが、大学生風の若者の姿が多い。
盛岡は大きい駅である。八戸(はちのへ)まで延伸されるまで、二十年ほど東北新幹線の終着駅でもあったから、ターミナルの風格という点では、東北地方では仙台に次ぐ規模だ。
盛岡からはJR線ではなく、IGRいわて銀河鉄道という第三セクター鉄道に乗る。第三セクターというのは簡単に言えば官民共同運営ということになるが、鉄道に於いては大雑把に言って二種類の第三セクター鉄道がある。
ひとつは、国鉄時代に赤字ローカル線として廃線候補に挙がった路線を地元自治体や企業が出資した会社で運営を引き継いだケース。一般的にはこれが多い。この旅の前半で乗った由利(ゆり)高原鉄道や秋田内陸縦貫鉄道がこのケースだ。
もうひとつは、新幹線の新規開業により需要の落ちた並行在来線を自治体と企業で引き取って運営するケースで、これは平成九年(1997)に長野新幹線開業に合わせてJR線から分離された信越本線の軽井沢~篠ノ井を、しなの鉄道という第三セクター鉄道が引き受け運行開始したことが始まりで、その後は新幹線開業と付随して第三セクター鉄道の発足が報じられるのが常となりっつある。
今から乗るIGRいわて銀河鉄道も東北新幹線の盛岡~八戸開業で誕生した鉄道で、盛岡から目時(めとき)までの82キロを所有する。目時という駅名はあまり知られていない名前だが、県境を越えた所にある駅で、その先の目時から青森までは青い森鉄道という第三セクター鉄道が運営している。
こうして歴史ある東北本線は分断されてしまった訳だが、電車は目時駅を境に運行が分かれている訳ではなく、盛岡から八戸ないし青森方面に電車は直通しているし、使用されている車両もJRの電車をベースにしたものなので、運賃以外ではさほど分断された感じはない。
銀に紫だった盛岡までの電車の色が、盛岡から先は銀に青となった。車内はどちらも通勤型のロングシートである。
車窓は左手に岩手山を遠望し、沿線は住宅が並ぶ。しばらくはそんな風景が続いていたが、八幡平方面に向かって延びるJR花輪(はなわ)線が分岐する好摩(こうま)を過ぎたあたりからは、少しずつ山中を走る眺めに変化していく。駅は小ぶりな造りが増え、小鳥谷(こずや)、一戸(いちのへ)のあたりは深い谷の中を走る。
小鳥谷も一戸も私には馴染み深い地名である。今から向かう二戸(にのへ)の訪問理由と結びついている。私は深い谷を眺めながら、この山中を上方(かみがた)の武士たちが行軍したのだなと、しみじみ眺めた。京の都やその周辺で暮らしていた武士たちは、この山々を見てどんな思いに駆られたであろうか。苦戦を予感させる風景だったのだろうか。そんなことを考える。
盛岡を出て1時間8分、10時20分に二両編成の電車は二戸に到着した。山に囲まれた平地に築かれた町である。
二戸は懐かしい町だった。私の初めての東北旅で最初に途中下車した駅だった。盛岡で新幹線から東北本線の特急に乗り換えた私は、青森県の三沢から出ていた十和田観光電鉄や野辺地(のへじ)から出ていた南部縦貫鉄道に乗りに行く前に、この二戸で降りたのだった。三月の上旬で、市内を流れる馬淵川(まべちがわ)まで歩き、雪化粧を施した山並みを眺めて駅に戻った。
二戸を訪れるのはそれ以来だ。再訪した理由は言うまでもなく、私が歴史好きになったからであった。
改札を出ると、身長大の立て看板があった。戦国武将九戸政実(くのへまさざね)をゲーム風のイラストにした立て看板である。二戸市内には九戸城という城跡がある。九戸政実はその九戸城を築城した武将で、その九戸城で上方から襲来した六万人以上とも言われる大軍を一万に満たない軍勢で迎え撃った「九戸合戦」の指揮者である。
バスの時間まで一時間ほどあるので駅を見学する。二戸駅の一階にはきれいで大きな物産コーナーがあった。私たちは昼食用のパンなどと一緒にクラフトビールを買い、バスを待つ間にビールを飲んだ。気温は高い。快晴である。
駅前のバス待合所から11時25分発の岩手県北バスに乗った。車内はほどよく乗っている。二戸への所用の帰りといった人が多い。
バスは九戸城の北を通って上り道に入り、低い峠を越えると盆地に出た。九戸村である。11時51分、長興寺(ちょうこうじ)で下車。運賃は五百三十円だった。
道は細いが、家が集まっている。村の中心の地らしい。お寺は道から曲がった所にあるようで、道路工事をしていた人に尋ねて、その方向に向かうと門があった。道から曲がった所に小丘を背景に本堂が立っている。
山門の脇に九戸政実が植えたと説明書きがされた銀杏の木がある。本堂の窓には九戸家の九曜の家紋が刷られている。山門も本堂の柱も年月を刻んだ深趣があった。
九戸合戦時、長興寺の薩天(さつてん)和尚が和議の使者として城に入ったと伝わる。薩天和尚は九戸政実の師匠のような存在であったので、和尚の説得で開城を決意したのだという。長興寺は九戸家の菩提寺でもある。
参拝を済ませた私たちは、更に先に向かった。民家が減り、田畑の風景となったあたりで道を曲がる。小丘を登るような緩い坂があり、そこを歩いていくと石の鳥居が現れた。ここが九戸神社だ。
九戸政実が戦に向かう前に戦勝祈願をしたと言われるこの神社は、天正三年(1575)に山火事で社殿を焼失したが、寛文三年(1663)に再建されたと説明版にあった。
周囲は山腹で木が茂り、静かな所である。九戸家の武士たちを想い、そっと手を合わせた。
道を下り、再び集落の道に出てきた。13時ちょうどに九戸神社前を出るバスに乗り二戸市内に戻る。次の目的地は九戸城である。
九戸城は商店が点在する集落に面して位置する。バスが通っている道から脇に入ると道は上りになり、左に広い丘が現れる。そこが九戸城だ。
城歩きの前に、九戸城についてを書いておきたい。
天正十九年(1591)、南部家当主の後継争いに端を発する南部宗家と一族九戸家の争いが激化し、南部家当主南部信直(なんぶのぶなお)が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の指示によって北上していた奥州(おうしゅう)仕置き軍に援軍を求めた。これを受けて、蒲生氏郷(がもううじさと)の軍勢が九戸城を目指して進軍し、追って、他の名だたる武将たちが率いる軍勢が駆けつけて九戸城を囲む戦いとなった。時期は八月から九月とされている。
戦は先述のとおり、使者薩天和尚の言を受けて九戸軍は降伏。豊臣側は城方に、降伏すれば城に籠もる家臣や住民は保護すると約束していたが、九戸政実が城から投降した頃合いに、城に総攻めを掛けて焼き払ったという。
戦の期間や犠牲者の規模などは不明な点もあり、それを以って攻城側が苦戦したという説がある。それを裏付けるように城の堀は大きく、また、城の西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫淵川に囲まれた天然の要害でもあるから、城攻めへの苦戦は納得できる地形だ。
広い敷地を曲輪(くるわ)をひとつずつ辿りながら歩いていく。草刈りの作業をしている人たちがいる。城内は草と土の城だが手入れが行き届いている。本丸に来ると、その広さと眺めに圧倒された。
本丸からは南北西の三方が見渡せた。この麓に六万を超える軍勢が集まったのだ。迎え撃つ九戸軍には九戸家の武士だけでなく、周辺の郡の武将も兵を引き連れ参戦したと言われる。太閤検地を始めとした中央のやり方に納得できない奥州の人たちの怒りが結集した戦いだったのだ。
城を下りていくと管理事務所があった。そこにはブックレットも置かれている。二冊あり、九戸合戦についてを漫画で描いた一冊、九戸家にちなんだ史跡を紹介した一冊。無料でありながらカラーでクオリティも高い。
九戸城の下、川に面して岩の中に立つ岩屋観音堂を参拝したあと、バスで二戸駅に帰ってきた。時刻は14時55分。このあとは再びIGRいわて銀河鉄道に乗る。
二戸駅にやってきた二両編成の電車に乗り、二戸から7分、15時24分に県境の駅金田一温泉(きんだいちおんせん)に着いた。
鉄筋駅舎は無人でひっそりとしていたが、待合室に八戸市出身の作家三浦哲郎(みうらてつお)さんの作品などの展示がある。私が九戸政実に興味を持ったきっかけが三浦さんの書いた九戸合戦を舞台にした短編であるから、興味深く展示を拝見する。
駅名にあるように、この地には温泉がある。駅前には歓迎アーチもそびえている。しかし、温泉街という華やかさはなく、山に囲まれた小さな盆地にわずかな集落。横切る国道四号線の交通量だけが賑やかであった。
駅から温泉は1・4キロと案内にある。馬淵川に沿った脇道を歩き、探していると、小さな集落の間に目指すホテルが見つかった。
受付のおばさんに声を掛け、館内に入っていく。入浴料は四百円と安い。長い廊下を歩いた奥に大浴場はあった。
ロッカーはない。棚に荷物や衣服を置く。先客が一人いたが、すぐに出ていったので貸切状態となった。
壁のタイルはいかにも古めかしく、蛇口を捻っても湯の出は悪く、景色を見ようにも窓は埃で曇っている。廊下では誰にも会わなかったし、廃墟寸前のような趣きの温泉だが、源泉だという浴槽に入ってみると柔らかく心地よい湯だった。改めて曇った窓から外を眺める。山並みが美しい。黄昏の空が薄い青で広がっている。
いい気分になってフロントに戻ってきた。フロントの横に売店コーナーがあり、おばさんに声を掛けてビールを買った。この時間帯だけかもしれないが、全ての対応をこのおばさん一人でやっている。おばさんに勧められてロビーのソファにくつろぎ、私たちはビールで乾杯した。
黄昏の金田一温泉駅から二戸に帰ってくると17時44分であった。帰りは二戸から新幹線に乗る。時間の余裕をとってあるので、私たちは駅前の居酒屋で飲むことにした。低いビルの二階にある昭和の喫茶店を思わせる構えだったが、二戸の酒南部美人の吟醸は美味しく、勢いづいて大吟醸まで味わい、名残り惜しく店を出た。
「泊まっていきたいな」
Tさんの言葉は実感である。駅の物産店を再訪して土産を買いに行くと、九戸政実にちなんだ土産品のコーナーがあった。「天を衝く」とプリントされたTシャツが売られている。九戸合戦を描いた高橋克彦(たかはしかつひこ)さんの長編で、私はこの作品を一年ほど前に読んでいる。九戸城を思い浮かべながら、私ももう少し二戸に居たい気持ちになっている。