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平成旅情列車④ 下北半島の夏の花火

※記事写真は別の旅で撮影したものです(撮影地・陸奥横浜)

下北半島の夏の花火

     大湊線

 平成十二年(2000)7月、下北半島を旅した。当時、旅カメラとして愛用していたのはミノルタのマックテレというコンパクトカメラで、旅によく出かけるようになった頃に新宿のカメラ店で三万円くらいで買ったものだった。付いているレンズはズームではなく38ミリと80ミリをレバーで切り替える二焦点レンズで、開放絞り値が明るいこともあって写りがとても良かった。
 下北半島に向かう前日、準備をしていた私はいつものようにこのミノルタを鞄に入れるためにフィルム装填をしようとした。しかし、カメラは動かない。電池が切れているのかと思ったがそうではない。今でこそ私はカメラをたくさん所有しているが、当時は代わりとなるカメラの選択肢は限られていて、重いと思いながらも一眼レフのキヤノンEOS630というカメラを持ち出すこととなった。
 余談だが、ミノルタマックテレは既にカタログ落ちしていた機種でもあるため、故障したまま修理を諦めて放置していた。2006年にミノルタ(当時の社名はコニカミノルタ)のカメラ事業撤退が決まった時、サービス停止前にダメ元でサービスセンターに持ち込んでみたところ、無事に修理が施されて今も手元にある。
 今回の旅の目的は、廃止が決定していた下北(しもきた)交通大畑(おおはた)線に乗ることだ。大畑線は本州最北端の鉄道で、JR大湊線の下北駅から大畑までの全長18・0キロのローカル線である。元は国鉄線だったが、赤字ローカル線廃止問題に直面し、第一次特定地方交通線に指定され、他事業体による鉄道運営継続かバス転換を迫られ、地元バス会社である下北バスが鉄道での運営を引き受けた。そうして昭和六十年(1985)7月に国鉄大畑線から下北交通大畑線に生まれ変わった。廃止候補となった国鉄ローカル線をバス会社が引き受けて鉄道として事業継続したケースは大畑線が唯一だという。
 つまり、私が訪問した時は下北交通となってちょうど十五年という時だった。

 東北新幹線は当時、盛岡までだった。私は盛岡で在来線である東北本線の特急はつかりに駅弁を抱えて乗り継いだ。いくらあなご弁当という盛岡駅の駅弁だ。この駅弁の値段についてはわからない。私は旅の際に手帳に記録をつけているが、この旅では乗った列車の時刻なども未記載箇所が多く、このあとも乗車列車の時刻を省略して話を進行していく。
 盛岡から約二時間ほどで、下北半島の付け根にある港町野辺地(のへじ)に着いた。空は曇ってどんよりとしている。狭い跨線橋を上って、大湊線の気動車に乗り換えた。大湊線は下北半島を縦に砂丘地帯を進みながら北上していく路線で、全長58・4キロとなる。
 ローカル線は起点となる本線との乗換駅が一番栄えていて、終点に行くほど沿線は寂れていくことが多いが、大湊線は起点の野辺地が市ではなく郡部で、途中は人口の少ない砂丘を通り、終点の大湊は市制を敷いている「むつ市」に属している。つまり終点が賑わっているという構造となっている。
 列車は左に陸奥(むつ)湾を見ながら、ひたすら砂丘地帯を走る。まとまった集落は途中の陸奥横浜くらいであり、地形が複雑な所を走らないので線路は直線的で、ローカル列車にしては速い。あまり乗客の入れ替わりがないまま、列車は終点のひとつ手前にある下北に着いた。

     大畑線

 下北駅の周囲は町はずれの郊外といった景色で、駅はそれほど大きくはない。ここから下北交通大畑線に乗り換える。大畑線の開業は昭和十四年(1939)で歴史のある路線ではあるが、ホームなどの設備も相応に古い。国鉄から転換された第三セクター鉄道の場合は転換助成金などで駅を改装する場合が多いが、ここは飾り付けが地味だった。
 そんな装いのとおりに大畑線は民間移行後も営業成績は芳しくなく、平成十三年(2001)に廃止が決まった。それもあってか、下北駅のホームにはカメラを持った鉄道ファンの姿が多く、乗客の多くも彼らが占めた。
 私もさっそくカメラを取り出した。一眼レフカメラを持ってきたから、カメラを構える私の姿も周囲と同化していることだろう。
 車両は国鉄時代のもので、車体こそ上下を赤に窓回りを白に塗ってリニューアルしてあるが、さすがに国鉄から移管されて十五年、元々が新しい車両ではなかったこともあって、内外ともにくたびれた雰囲気が漂っている。
 駅についても同様で、走り始めて現れた途中駅はいずれも国鉄時代のままと思われる古びた駅舎だった。それは同時に旅情を誘う眺めでもあるが、地元民からすれば快適性の点で今一つという評価を下されても仕方がなさそうな設備ともいえた。
 車窓は、むつ市の市街を抜けると低い丘陵に入る。下北半島の先端は斧の形をしているが、線路は刃の付け根のあたりを移動している。下北駅は陸奥湾に近い場所にあったが、終点の大畑駅は津軽海峡に面している。
 大畑は漁港の町で、この町のために鉄道を敷いたというほど大きな町でもない。結局は完成しなかったが、鉄道はこの先にあるマグロ漁業で知られる大間(おおま)まで延びる計画だった。大間まで達していれば、もう少し利用者の多い路線だったかもしれない。
 大畑駅の外に出た。駅から漁港は近い。風は夏にしては爽やかで涼しい。海というよりも山から吹いてくる感触があった。昼下がりの津軽海峡が広がる港には人もいなくて静かで、青々とした波だけが音を立てていた。。
 大畑の駅舎の隣にはバス乗り場がある。下北バスが鉄道も運営するようになって下北交通と社名変更したが、バスが本業といった趣きがこの構図に滲み出ている。この駅前では鉄道は脇役で、バスの方が人の動きがある。ここから大間までのバスも出ている。
 その大間を舞台にしたNHK朝のドラマ「私の青空」がちょうど放映中の時期で、駅の待合室にも主演の田畑智子さんを使った番組宣伝ポスターが貼られていた。

     田名部

 大畑からの帰り、下北ではなく、そのひとつ手前の田名部(たなぶ)で降りた。むつ市の中心地のような所で、大湊線の終点である大湊と並ぶむつ市の市街地である。
 田名部の駅を出ると、細い道が駅前から延びているだけで淋しい風景だったが、しばらく歩くと右手に新しめの綺麗なビジネスホテルが現れたので、ここに泊まることに決めた。少し休んでいるうちに空は西日となっていた。
 夕食前に町歩きをしようとホテルを出て、ホテルの先をさらに歩いていくと商店街と交差した。商店街といっても、細い道の両側に商店が並ぶ様子が少し続くだけの小さな商店街だ。その先には、小さな川が流れていて、橋が西日のオレンジに染まって黄昏れた風景になっていた。その橋を、水色の制服を着た女子高生が通り過ぎていく。
 商店街にあったバスターミナルから17時30分発のバスに乗って下北駅に出てみた。所要十五分。下北駅の周囲に良さげな飲食店があれば入るつもりだったが、店そのものがあまりない住宅地で、ほどよい時間にあった下北交通大畑線の列車に乗って3・1キロ隣の田名部に戻る。
 すっかり日が暮れてきた。先ほど見た川の方までいくと、そこにショッピングセンターがある。私は旅先でデパートなどの大型商業施設に入るのが好きなので店内を歩いてみた。構えは大きかったが、中は案外昭和な内装だった。書店があったので、そこで本と雑誌を買う。
 外に出ると、どこからか爆発音が聞こえてきた。ふと空を見上げると、夜空に花火が広がっているのが小山の横から見えた。夕刻からこれまで静かに時が流れていた町に、活気が訪れたかのような力強い音が響き続ける。方角的に港の方で打ち上げているのだろうか。
 そんな花火の音を聞きながら商店街の裏道に入ってみる。夕方に歩いた時には気がつかなかった看板が並んでいる。いずれも「和風スナック」という看板を掲げていて、民家の玄関のような入口から入って、民家の部屋のような所で飲むスタイルのようだった。道に面して部屋の大きなガラスがあり、その向こうで卓を囲んで酒を飲んだり、歌ったりしている人の姿が見える。
 どの店もそれなりに客が入っている。定員十人はどうかという狭さだが、それ故に一見客が気軽に入れる雰囲気である筈もなく、私は普通の店構えを持つ割烹に入って、瓶ビールを飲みながらイカの丸焼きを味わって、すぐに店を出た。
 店を出ると花火は終わって、町は静まりかえっていた。花火が上がっているということは何かの祭りが開催されているのだろうが、田名部には日常の空気が流れている。歩く人も少ない商店街をさまよう気分にもなれず、私はホテルに戻った。
 ホテルの部屋は特に変わった特色もないもので、することもないままにテレビを点けると、芸能人がカラオケをする番組が流れていた。女性芸能人がタンポポの新曲「乙女、パスタに感動」を歌っている。この流行歌に特に興味もない私は、ぼんやりと画面を見ながら物足りなかった夕食を思い出している。外に出てもパスタを食べられそうな店はなかった気がする。

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