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虐待親に絶対ならずに踏みとどまれる人とは己の不完全さを見つめられる人それは自分の我が子への愛も不完全なのだと知っており、不完全な己を疑いつつも踏み出す行動と決意、愛とはそんな不確実な「過程」に過ぎない事を知ってそして踏み出している人だけ

「親は 必ず 子供の事を愛して命がけで守ってくれる存在だから敬え」と説教する人は、虐待死させられたこどものことはことはなんだと思ってるんでしょうね。 

虐待死させられた子の延長線上に、虐待が精神面だったりして死なずに生き残った子が居るのに。  

でも多くの人はその事実をどうしても理解したくない。それを理解すると、

自分自身の醜い心の闇を覗いてしまうから。 

つまり、認められないのは、その人の心の問題なんですよ。  

怖ろしくて恐ろしくて、そんなこと考えるのもこわいから、この世には虐待された子供が存在する事を否定してしまう。

そして虐待された子供に「君の勘違いだよ親がこどもを愛さないわけないよ、だから家に帰りなさい」と言って死なせてしまう。

多くのふつうの親にだって子に対して醜い気持ちになることもある。

どんな善良な人間にも犯罪者的な部分はある。

しょうがないよ、誰だってそうだよ、いいじゃんそれで。

それをヒステリックに無理やり「ないこと」にせず、素直に認めれば、認めるからこそ踏み止まれる。

そして醜い部分を認めるからこそ、愛している部分のことも認められる。


そうすると世界をクリアに見つめられる。

そうすると物事をクリアに判断できる。


愛せないはずはないとヒステリックになるんじゃなくて、

子供を大切にすることができないとき、

血を分けた子供をゴミのように扱うヒトが隣のアパートに居ると気づいたとき、

その時どうするか、だ。

たとえばただものすごく疲れているだけかもしれない。

だったら、いったん誰かに託して、自分が休息する、そのほうが子供にとっても幸せかもよ。  

もっと言うと「孤児院に捨ててくれた方がどれだけ幸せだったろうか」という状況に置かれて運よく生き残った「元」子供もこの世にはたくさんいる。そして死んでしまった子供もたくさんいる。悲しい話だけど。

たとえこどもでも、あれは指導じゃなくていじめかな?と思ったらわが子に謝ろう。そうやって親子で成長していけばいいだけだと思う。

(ペットにだって無理やり抱っこしすぎた時などにはカーミングシグナルで謝ろう、ペットにだってココロはあるのだから。コミュニケーションが明らかに良くなるよ)

「わたしは24時間100%こどもを愛してる親だ!」と無条件に思い込みたいというのはちょっとずるい気持ちだ。

そういう気持ちでいると

自分の子どもを教育するつもりで自殺させてしまったり、

何気ない一言で近所の不幸なこどもにを死に追いやったり、

近所の虐待死を見ながら見過ごしてしてしまうかもよ。

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↓この人の文章痺れた…

キレキレのピュルンピュルンにありがとうございます‼