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この先、何も残せなくても

NHKで放送されている「団地のふたり」というドラマを見ている。

色々あった末、育った団地に戻って暮らす「ノエチ」と「なっちゃん」二人の50代女性のお話だ。

ノエチはバツイチ、なっちゃんは長年パートナーと暮らすも破局した。
二人とも独身で子なし。

先々週(だったかな?)は、小泉今日子さん演じるノエチが、乳がん検診の「要精密検査」という結果を受けて不安になり、先走って、身辺整理やらを始めるというお話だった。

その中で、ノエチが、離婚後20年ぶりに連絡をよこしてきた出版社勤務の元旦那から、エッセイ執筆の話を持ちかけられる。

20年も連絡してこなかったくせに自分の最愛の母親がなくなった途端、寂しくなったのかヨリを戻そうとしてきた元旦那に腹を立てつつも、
まんまと仕事を受けてしまい、そんな自分に腹を立てる、というシーンがあった。

旦那さんいわく、そのエッセイの書籍化も考えている、と。

ノエチはなっちゃんに、仕事を引き受けた理由を、

「私、何も残せてないなーと思って」

と打ち明けた。

これめっちゃわかるなー。

たしかに、子供を産んでいるわけでもなく、
なにか形として残るような仕事もしていないと、こういう気持ちになることがある。

実際、私もこのセリフそのまんま

「私、何も残せてないなー」

と思った日もある。


でも、このドラマを見た日の夜、

「何も残せてないなー」

と言う台詞と

「たしかになー」

という自分の想いとをしばし反芻していたら、

「あれ?そういや、私の仕事って人の経歴として残るぞ」

ということに気がついた。

私がスカウトしなければ、
この企業と出会わなかった人達

私が面接の設定や内定の調整をしなければ、
この企業に入社しなかった人達がいる。

有形のものは残せてないけれど、私の仕事って、数百人の歴史に存在するじゃんー

と。

そうすると、

目の前にある自分の取り組んだことが、一粒の光の粒子となって、自分の手から相手に届き、その人の中に小さな光として残るようなイメージが浮かび、

「それってめっちゃ素敵やん」

と思えたりした。

有形のものは何も残せなくても
誰かの歴史の中に自分の存在は残せていて

それは何も特別大きなことではなくても、
大なり小なりそうで、

例えば、レジを打つにしても
自分がレジを打たなければ
その人はその晩、カレーを食べられなかったかもしれないし、

宅配してくれなきゃ
そのお洋服は着れなかったわけだし、

電車を運転してくれたから、旅行に行ったことが思い出として残ってるわけで。

そうやって、自分のやったことと、その先の影響にまで思いを馳せてみると、

意外とみんなそれなりに、大なり小なり影響してて、誰かに何かを残せてたりするのよね。

有形のものだけにとらわれると

「何も残せてない!あわわわわ!」

と焦る気持ちにもなるけれど、何かを残すって、きっと有形のものだけじゃないのよね。

そう考えると実は何も残せてないって人、ほとんどいないんじゃないかしら?


と、ここまで書いて

ピンポーン!

と玄関の呼び鈴が鳴った。

デリバリーのハンバーガーが届いたのだ。

マク◯ナルドの店員さん、デリバリーのお兄さん、あなた方がしてくれたお仕事、しっかり届いてるよ!ありがとう!

お陰で、今日の午後ゆっくりした時間を持てるし、その思い出として残るよ。

あ、あと、脂肪としてもね(笑)

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