中島敦 李陵

数日前から岩波文庫の中島敦を読み始めた。昨日は「李陵」を読み終えた。

「李陵」自体はたかだか50ページほどの短編であるし、読み終えるのも二晩くらいの時間だったが、読後感は短編のそれとは異なるものだった。と言うのも、長編を読み終えたような感じを持ったのである。長大な時間軸、多彩な登場人物、様々な事件、広大な舞台に関して、各々記述が省略されているとは思えない描き方で書かれているにも関わらず、短い中にきれいに収まっていたことがその印象の理由かと思われる。

これだけの内容だったので、恐らく読む時の精神状態や精神年齢によって、感情を揺さぶられる箇所も変わると思う。今現在の私が感じたことに関して言えば、恐らくオーソドックスな感想の一つと思うが、蘇武の漢人としての生粋さの前に沈黙する、李陵の心中が印象に残った。

李陵も蘇武も、匈奴に捕らえられた漢人であるが、李陵が結局匈奴に降って匈奴で重用されたのに対し、蘇武は匈奴に降ることを潔しとせず、バイカル湖のほとりに流刑のような形で抑留されていたと言う違いがある。

李陵自身、最初は匈奴に降る素振りを見せていたに過ぎず、つまり匈奴の構造の中に組み込まれるのを心中では拒んでいたため、蘇武とあまり変わらない立場を保っていたと思うが、母国における武帝の誤解に起因する家族の悲劇を聞いて、匈奴への心根からの同化が一気に進むと言う展開があり、後年のお互いの違いが出た。勿論、そこに至るまでに緩やかな匈奴への転回は進んでいたが、李陵の匈奴への完全な転身は、家族の悲劇と言う「至極真っ当な言い訳」によって正当化、と言うと何だが、とにかくそんな形で殆ど完成してしまったと思う。

李陵の変わり身には従って、仕方ない、無理もないと言う印象は持つことが出来る。ただ、漢人としての立場を捨てず、北辺で呻吟しながら尚も匈奴へ属するのを拒み続ける蘇武を目の前にして、自らの成り果てについて思う李陵の苦しさは、非常に際立っている。至極真っ当だった筈の言い訳が口から衝いて出ず、久し振りに再会した蘇武を前に、曖昧な沈黙を守らざるを得ないような態度は、何とも苦々しく辛い李陵の境遇を表現している。

但し、さらなる衝撃は、武帝の崩御によって引き起こされることになっている。

李陵は蘇武の姿勢を「生来の頑固さ」から理解し、そこまで頑固を通せる蘇武に尊敬までしていた節がある。しかし、武帝の崩御を李陵から聞かされた蘇武はその場で泣き崩れ、あまりの悲嘆に吐血までしてしまうことで、頑固さのみならず蘇武の漢人としての自覚が摩耗していないことを表すことになり、さらに李陵はショックを受けている。蘇武にしても武帝から親族を処刑されたりした厳しい制裁を加えられており、武帝その人への全面的な尊敬を持っていたとは言い難い状況だったので、武帝への慟哭は母国の象徴としての武帝の死に対する慟哭であり、これは母国への慟哭と同値であり、従って蘇武は全くの漢人であり続けていることを示していると言う。

対して李陵は武帝崩御の報に接しても涙の一筋も最早出ず、従って蘇武の激しい動揺を見るにつけ今の自分の境涯を強く自覚せざるを得ない妙な「強い淋しさ」が描かれている。李陵は、恐らく自身が匈奴に住む漢人であると、その時点まで思っていたのかも知れない。それは、自分は漢の人間であって、匈奴の人間にはなり切っていないと言う認識であると思う。ただ、武帝の死に対する驚くほどの無感動は、自分が最早漢の人間では無いと言う自覚をさせられ、一方で匈奴の人間でも無いような認識も放棄出来ないと言う、最も不可解な「恐らく、そのどちらでもない」という状況に陥っている、と言うように感じる。

国や民族と言った共同体だけでなく、都市や村に関しても、上記感じることがあるのではないだろうか。要は、生まれ育った街から違う街に移り住んで数年経った時、果たしてその人は、生まれ育った街の人間と言えるのか、それとも今住んでいる街の人間と言えるのか、その両方なのか、もしくは、結局そのどちらでも無いのか。

上記は、現在の私が最も印象に残ったところだったが、数年経って、齢を重ねて読み返した時、違うところがガツンと来ると思われる。仕事から引退した時は、司馬遷の史記完成のシーンに、強い揺さぶりを受けるのだろうか、とか。

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