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新田次郎 武田勝頼

新田次郎の本は特に山岳小説をよく読むが、新田次郎は武田信玄と武田勝頼の伝記小説を書いている。武田信玄に関しては、大河ドラマの原作にもなっていて、20年くらい前に読んだことがある。

武田信玄における書き様から、新田次郎は武田勝頼に対しては好意的な印象を持っていることが伺えた。武田勝頼は武田家を滅亡に導いた愚将と言うイメージが私にはあったので、これは意外だった。勿論、小説が史実と全て一致していることなどは無いが、読んでいて印象が変わったのは確かである。

新田次郎の武田勝頼に叙述されていたのは、武田家滅亡の元凶は御親類衆のダメさ加減だったが、元凶中の元凶は御親類衆筆頭の穴山梅雪であった。細かいところがどこまで本当かはさておき、穴山梅雪が武田を裏切ったのは史実である。

物語中では真田昌幸の言う正しいことが悉く他の家来衆に否定されるものの、真田昌幸の懸念したとおりに事態が発生・進んでしまい、武田家がみるみる後退していくと言う感じであった。こんな風に坂を転げ落ちるように凋落していくと言うのは、読んでいて結構辛いものがあった。信玄死後の武田勝頼は、その戦の上手さから信長や家康を恐懼させるセンスに溢れており、「本当に勝頼の代で武田が滅亡するんだろうか?」と言うほどで、晩年に掛けての急速な凋落が際だった。

武田勝頼終焉の地は、山梨県の日川渓谷沿いにある天目山である。紅葉がきれいな時、一度行ったことがある。武田勝頼夫妻と長男の墓があるが、斜面上に寺院があり、追っ手がガチャガチャ音を立てながら斜面を駆け上ってきて、勝頼の首をめがけて殺到し、壮絶な戦いをしたと言うのが想像できた。

武田勝頼は、この後日川を遡上し、秩父往還経由で秩父へ落ち延びようとしていた。笹子峠を越え、大月の岩殿城に入り、北条と連合を組む予定だったが、岩殿城城主の小山田信茂が最後の最後で裏切り(北条も武田勝頼を見限ったとも書いてある)、笹子峠を越えずに、進路を北にするしか無かったのであろう。中央道とか中央本線に乗っていれば分かるが、ここは北方面しか谷が切れていない。

ただ、日川から秩父往還に行くのは、やや危険な気もしないでもない。秩父往還に行くには、現在の大菩薩湖のあたりでやや西進する必要があり、充満している織田・徳川連合軍、並びに完全に武田を見限ってしまっている甲斐の民衆との接触が増える。と言うことで、地図を見る限り、個人的には大菩薩峠を越えて奥多摩方面に落ち延びる方がまだマシだったんじゃないか、と思ったりもする。

登山装束でもない中で、そもそも日川渓谷を歩いて上るのはしんどいが、大菩薩峠は登山口から峠までは何てことのない坂道である。私も数回登山で行ったが、日川渓谷側からの登山は面白くも何とも無いほど緩い登山で、大菩薩峠まで軽自動車が入れるのである。勿論、秩父往還の方が標高も低くて、山越えの難度は低いが、こんな敵と裏切り者で充満している土地に戻るように進むのは微妙である。

だから、私は大菩薩嶺を登った後、大菩薩峠まで来たとき、勝頼主従はここを越えていくべきだと思ったし、この方向に勝頼が落ち延びたら、その後どうなっていただろうか、とも思ったりした。

ただ、実際はこんなところまで到達する前に、勝頼は追い付かれていたし、そして天目山で最期を迎えるということになった。仮に私が考えるように大菩薩峠を越えて奥多摩に落ち延びたり、または秩父往還を経由して秩父に到達したとは言え、織田・徳川との関係を重視する方向に決まった北条領である。恐らく捕まって似たような結末になったように思う。因みに、天目山で、武田は二度滅びているらしい。勝頼は二度目の滅亡だが、勝頼が最期を迎える7代前の13代武田信満と言う当主が自害して、一時断絶したと言うのである。これは知らなかったが、天目山は武田にとってはかなりの土地である。

結局、真田昌幸が主張した、西上野の吾妻城への落ち延びが、生き残る唯一の道だったのだろうが、そうはならなかった。吾妻城で当時同盟関係にあった上杉と合流しても、その後はあまり変わらない「後世」になったように思う。ただ、武田嫡流は残ったかも知れない。

甲州に対して何の因縁のない私であるが、武田嫡流が消滅したというのは、何とも残念なものを感じる。武田信玄の全国的な人気と言うこともあるが、新田次郎を通じた武田勝頼評は何となく当たっているように感じるからだ。長く続いた家柄と言うのは、それだけで社会の財産のような気もしていて、まあ武田信玄だってそんな長年続いた名家(諏訪氏等)を潰しながら成長した事実はあるが、武田の名は重い。

勝頼が死んだ後、勝頼を見限った家臣団は、悉く見つけ出され、次々に首を刎ねられた。穴山梅雪は本能寺の変時、徳川家康と一緒に堺見物をしていたが、家康と違う道を駿河に向けて帰る途中、土寇にやられて死んだらしい。新田次郎は家康の陰謀による暗殺と書いているが、その方がしっくり来るほど、穴山梅雪の本作中に描かれた行状は酷かった。同様に逃げ惑っている家康に暗殺指示を出す余裕があったのかは知らないのだが、新田次郎は「恐らくその通りであっただろう」と断じてる。穴山梅雪は武田の相続を受けていたが、梅雪が死んだちょっと後に嫡男も死んでおり、結局穴山家は武田家を後世に伝えることはなかった。

もう一人、勝頼と同年にまさかの死を遂げたのは何と言っても信長である。織田家はその後天下を取ること能わず、最期に勝頼を見限った北条も8年後に殆ど滅亡に近い形で小田原で散った。最終的に天下を平定したのは家康で、この人が将軍として開いた幕府は200年以上も安定して存続し、将軍は15代も続いたと勝頼が知ったら、どう思うだろうか。

勝頼の死後わずか3ヶ月で梅雪と信長が死んだことは、勝頼が呪い殺したと言っても良いくらいの急さ加減であるが、この急展開が史実だと言うのが空恐ろしい。既述の家臣団見つけ出されて皆殺しほど明らかじゃないにしても、結果だけ見ると信長も梅雪も因果応報の呪縛から逃れられていないように感じる(特に穴山梅雪)。

尚、天目山で散った武田家であるが、武田家伝来の家宝で、現時点で「日本最古の日の丸」である御旗をはじめ、風林火山の幟なども含め、大菩薩嶺麓の雲峰寺と言う寺に保管されている。この日の丸は、1056年に、当時の後冷泉天皇から源頼義に下賜され、これが頼義三男で甲斐武田氏の祖である新羅三郎義光に渡ったものであるらしい。日の丸を持った武田家家臣が、天目山からこの寺まで命からがら辿り着き、保管を依頼したとのこと。天目山から雲峰寺は、今でこそ車なら1時間位かと思うが、徒歩なら少なくとも二日は掛かったのでは無いだろうか。私は大菩薩嶺登山から下山したとき、これらを見に行ったことがある。

ここに預けられた武田の旗幟は、以降二度と戦場に翻ることは無かったが、未だに保管されているというのは、奇跡的なことのように思う。


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