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Pop rubbishではないー999の80年代『FACE TO FACE』

 本稿は前作『13TH FLOOR MADNESS』から1年4か月振りの1985年3月に発表された999のアルバム『フェイス・トュ・フェイスFACE TO FACE』についての、例によって私の勝手な所感である。今のメディア、パンクのファン、いや999のファンですら、『13TH FLOOR MADNESS』と並んで省みることの少ないアルバムなのではないか。全く省みられないわけではない。YouTubeでは全曲分の音源をアップしておられる海外ユーザーが、少なくとも一人はおられるのだから。だがSNSを覗くと、見事なまでに引っ掛からない。そもそも999の情報が、他のパンクの大御所であるピストルズやクラッシュと比して、さらにはダムドやバズコックスと比しても極端に少ないうえに、『フェイス・トュ・フェイス』を話題にしようとする動きがまるっきり見られないのである。あのドアーズも駄作とされる『ソフト・パレード』―私は好きである―の発表日である7月18日―正確には1969年7月18日である―になると、必ず世界のどこかでXにその旨をポストするユーザーが現れる。それなのに『フェイス・トュ・フェイス』でそのようなことをする人を、私は知らない。999の作品でまるっきりそういう動きがないわけではない。シングル「エマージェンシー」の発売日1月13日―正確には1978年1月13日である―にはちゃんとXでポストする人が出てくる。私自身はめったにXを覗かないから見過ごしているんじゃないかと訝しむ向きもあるに違いない。ではアマゾンではどうか。驚いたことに『フェイス・トュ・フェイス』は配信サービスが受けられることになっている。ただ画面がスリーヴ・アートワークではなくバンドの初期写真で、なんだかうさんくさい。本当に使えるのであろうか。私は配信サービスを普段利用しないのでこの辺のところは強くは弁じられないからここまでにしておくが、同じアマゾン内で、フィジカルで販売された形跡は出てこない。一般ユーザーの投稿文もない。少なくとも現在は、アマゾンでも『フェイス・トゥ・フェイス』に対する需要はないようである。『13TH FLOOR MADNESS』は曲がりなりにも一般ユーザーの投稿文が削除されずに残っているのに、『フェイス・トゥ・フェイス』はさらに片隅に追いやられている形である。
 ニック・キャッシュも“FEELIN’ ALRIGHT WITH THE CREW:UNOFFICIAL 999 SITE”掲載のインタビュー‛Full Story by Nick Cash’の中で『フェイス・トゥ・フェイス』には触れてはいるが内容についてではなく、自主制作で出したということのみに触れている。[1]この頃になるとバンド内の人間関係はぎくしゃくしていたようで、本作を最後に、ベースのジョン・ワトスンが脱退する。そのこともあって『フェイス・トゥ・フェイス』のことは語りたがらないのかもしれない。[2]
 かくのごとく冷遇されている作品ではあるけれども、そのまま捨て去られていいわけはあるまい。『フェイス・トゥ・フェイス』は前作『13TH FLOOR MADNESS』の失敗を踏まえて、前作のような時代のトレンドであったエレポップ~ニュー・ロマンティクスへの追随を、2作前の『コンクリート』のようなアメリカ・ツアー生活の影響から発したカントリー・ミュージックという、いわばアメリカ音楽の不変的トレンドへの沈潜を改め、自らのルーツである1950年代~60年代のポップ・ミュージックを基にしたソング・ライティング、音作り―ギター主体の音―というバンド本来の姿に立ち戻ろうとしたという意味でも注目すべきアルバムである。加えて本作は、他のどのアルバムにもみられない内省的かつダウナーな、沈んだトーンが支配する点で異彩を放っている。それは当時のバンドの足跡を一瞥しただけで察することができよう。
 1978年に、999は自己のキャリア中最大のヒット・シングル「ホムサイド」を放つが、タイトルとその歌詞内容がBBCの検閲に引っ掛かり、イギリス本国でのテレビ・ラジオ出演禁止、放送禁止の処分となってしまう。所属のレコード会社であったユナイテッド・アーティスツともギクシャクし、翌年には契約破棄となる。その打開のためといっていいであろうアメリカ進出も決して芳しい成果はあげられず、[3]ようやくイギリスでのメディア出演禁止が解かれたとき[4]にはパンク人気が沈静化しており、ニュー・ロマンティクスの台頭で、999には苦しい時代が続いていた。なんとかシーンの趨勢に拮抗しようとして『13TH FLOOR MADNESS』を創り上げたが、評価も売り上げもさっぱりで、やがてはレコード兼マネージメント会社とも袂を分かつことになってしまう。当時の999は音楽的にも経済的にも崖っぷち状態であったに違いない。ずっと後の時代だが、ラーカーズのアウトロ・ベーシックが999に加入したいきさつとして、たまたま火葬場で働いていたニック・キャッシュと出くわしたベーシックが、その場でバンド参加を要請されたというエピソードがある。[5]バンドではとても食っていける状態ではなかったこと、バンドそのものが機能しなくなっていたことの二つを知らしめる。物心ともに行き詰ったからこその原点回帰とも言えるシンプル指向、そしてダウナーな味のアルバムづくりとなったのは、至極当然であったろう。
 ダウナーな雰囲気は、歌詞にもよく現れている。「そこが、俺の行くべきところ/受けるべき試練さ」(「ハレルヤ」)「取り繕ってるが/お前の目つき、きつすぎだよ/災いは、一掃しないとな/見えるのは、真っ暗闇(「ブラック・サンシャイン」)こうしたペシミスティックな心情が最も濃厚に現れたのが、「20イヤーズ」であろう。「誰もいない所へ、戻しておくれよ/もうたくさんだ、新しい世界も、世界の難問も、右顧左眄も」
 悲観と、ある種の虚無感は、ひょっとしたらニック・キャッシュが火葬場で働いていた体験も相まっているのかもしれない。「おまえのいる病室に/最後の別れに訪れる/明日また、だって?もうないさ」(「ルーシー・デッド」)
 これまでの彼らのアルバムや曲は、常に向日性が感じられた。「ホムサイド」のような苛烈な人間関係を歌った歌詞を持つ曲でも、どこか軽みやぬくもりを感じさせた。だが『フェイス・トュ・フェイス』はどこまでもモノトーンで、聴く者を突き放す。古くからのファンは、そうであるがゆえに、このアルバムを遠ざけようとしたのかもしれない。
 だが、当時の999の八方ふさがり感を思いつつ聴いてみると、ああ、どことなくわかる気がするなとも思える。何をやっても上手くいかないそんなときに、元気いっぱい明るいポップスなんて普通は創れないだろう。まあ時には創れてしまう天才もいる。バズコックスのピート・シェリーとかポール・マッカートニーなんていうのはそうであろう。けれど大体の人間はそうはいかない。そんな苦悩が吹きこぼれてくる『フェイス・トュ・フェイス』は、確かにパンク史上に残るアルバムではないであろうが、捨て置くにも惜しい、シンパシーを抱かせる作品である。
 内容について、『13TH FLOOR MADNESS』との絡みでもう一言、費やさせていただきたい。『13TH FLOOR MADNESS』は999のアルバムでおそらく、最もベースの表情が豊かな1枚であると思うが、それは999加入以前にソウル~ファンク系バンドに参加していたジョン・ワトスンの力量あってのことである。アルバム・クレジットにわざわざリズム・アレンジャーという文言が記されているのも、彼のアルバムへの貢献がわかるし、様々な音楽的素材を消化・整理できずに投げ出されてしまった感のあるアルバムを、聴くに堪えるものにしたのはワトスンのベースにあると思う。一方、『フェイス・トュ・フェイス』での彼のベースは一転しておとなしい。アルバム全体のトーンに対応するかのようにそのフレーズは全体的にシンプル、といっては聞こえがいいいが、表情に乏しい。サウンドメイクも10曲目の「メイビー・サムデイ」のような初期のスピード・ナンバーを思い起こさせる曲で歪んだ音を聴かせる程度である。これまた想像の域を出ないが、ワトスンの脱退はアルバムのレコーディングのときにはすでに避けられないものとなっていたのではないか。いや『13TH FLOOR MADNESS』ですでに、999の音楽性に見切りをつけていた彼は、バンドを辞めようとした、他のメンバーに翻意を促され、ならばバンドのマネージメントを買って出てバンドの舵取りをさせろと要求した、バンド内での立場を強くしたうえで、音楽性も自分の指向性に合うように変えていこうとした―場合によってはメンバーを自分の一存で変えることまで辞さないつもりで―のではないか。史料的な裏付けは全くないが、ワトスンがバンドのマネージメントをしようとしていたと語るニック・キャッシュのインタビューを読んだときから、そんな思考が私の中を離れないのである。[6]だが、彼は結局『フェイス・トュ・フェイス』を最後に、バンドを辞めてしまうのである。
 今回、プレス関係で『フェイス・トュ・フェイス』について語っているところはないか、ネットで探してみたが、まるっきり見つからなかった。歌詞に合わせたかのような地味な音、リスナーの耳を捉えるメロディー展開も乏しいアルバムは、プレス関係者の関心も引かなかったのであろうか。
 オリジナル版のスリーヴも、いかにも愛想のない、二人の人物を描いたイラストが置かれただけである。最初、私は余りに素っ気ないデザインに、これは自主製作だからカネをかけられなかったんだなと思っていたが、よく見ると、バンド名の箇所がエンボス加工されているという、意外に(?)凝った作りになっていて、少々驚いた。[7]目立たない所に凝るという姿勢は江戸っ子の美意識にも通じ、個人的には大好きだが、これにそそられたイギリス人が、85年当時どれくらいいたのであろうか。
 ファンからもプレスからも真っ当に相手にされないままイギリスで(そしておそらく他国でも)忘れ去られた感のあった『フェイス・トュ・フェイス』は、1993年にジャングル・レコーズから、ついで1999年にレシーバー・レコーズからライヴ・トラックを追加され、タイトルを『DANCING IN THE WRONG SHOES』に変更されてリイシューされた。1993年版にも1999年版にもスリーヴにバンドのごく初期の写真が使われ、それが大いなる違和感を感じさせ、まともにバンドを扱う気はあるのかと不信の念に駆られた。1993年版のスリーヴ表には、どうやら職質をする警官と容疑者と思しき男の対面する図が使われ、アルバム・タイトルに即していると言ったら即しているがなあと、いまだに興趣を感じられないままである。


これが1985年のオリジナル盤。バンド名の箇所のエンボス加工がわかるであろうか。


裏。



1993年盤。これは日本盤。



裏。どうみても初期の写真だ。


折り返し。英文解説。



1999年盤。やはり初期の写真。凡庸に過ぎるアートワーク。



人気がなくても(!)こうしてYouTubeにアップされるユーザーが世界中におられる。ありがたや。レコード会社のお歴々には、簡単にアーティストの作品を廃盤にしたり配信停止には・・・・やめておこう。

 今からすると『フェイス・トュ・フェイス』のような地味な内容のアルバムが日本で出たのは、ちょっとした快挙であったと思う。ちょうど来日公演と時期を同じくしてリイシュー盤が本国で出たのが幸いしたのであろう。しかし日本ではたいして売れなかったに違いない。他のアルバムのリイシューとはならなかったのだから。1998年になって突然『ユー・アス・イット!』の日本盤が出たが、このときもそれっきりで盛り上がらなかったようである。1980年代末期から90年代半ばにかけて、テイチク―今はインペリアルという名前か―が、1960~70年代ロックのバック・カタログのリイシューを精力的に始め、そこにはダムドやリンク・レコーズの音源も大量に含まれていて、それがダムドの日本での人気上昇に間違いなく力となったのであるが、999のバック・カタログを日本で、というところまでいかなかったのは残念である。テイチクは90年代初頭、フランスのニュー・ローズと配給契約を交わしていて、ニュー・ローズから出ていたブライアン・ジェイムスやジョニー・サンダースのソロ作、ストゥージズのライヴも多く出していたから、その流れで999も、とはならなかったのであろうか。日本ではまだユナイテッド・アーティスツの原盤は東芝EMIが握っていたのであろうか。業界の人間ではないからまったくわからないが、80年代にイマイチーと、あえて言おう!―であったダムドの人気をあそこまで高めることができたのだからと、今回999のバック・カタログの扱いについて、考えてしまった。
 『フェイス・トュ・フェイス』と私との関りについて少々述べておこう。『13TH FLOOR MADNESS』を再認識した時に、あわせて『フェイス・トュ・フェイス』も視界に入ってきた。だからまだ去年(2023年)の夏と、つい最近である。YouTubeで個人ユーザーがアップされている音源を耳にしたのが最初である。覇気のない音だな、というのが最初の感想であった。『DOLL』の999来日取材号を引っぱり出してきて、日本盤も出ていたんだなと思い出し、他の、もっと元気のいい初期作品もリイシューしないと売れないわなと一人勝手に思いつつ、やがて初期作品のボックスや70年代のライヴを入手し、90年代以降の作品も聴くようになった秋から冬にかけて、『13TH FLOOR MADNESS』や『コンクリート』ともども、80年代の諸作品は70年代と90年代以降とをつなぐ重要なミッシング・リンクなのだなと思うようになってきた。本腰を入れて聴き直してみると、凡作・駄作と言われ、無視されてきたこれらアルバムも、見方によっては聴きどころがあることがわかってきたのである。人間の心は常に変わりゆく。昨日の駄作も今日の傑作・・・・とまではいかぬにしても、価値ゼロではない。それだけはここで強調しておきたい。もちろん、これは私の主観的な意見であって、他の方が「やっぱ、つまんね」という感想を持たれても一向にかまわないのである。ただ、私みたいに1年後には、いや30年後には心変わりしているかもしれない。そのことだけは覚えていただければ、と思う。
 999が『フェイス・トュ・フェイス』を発表した1985年。翌年はパンク登場10周年ということで、私の周囲でもパンクの話題がちらほら盛り上がってきたように記憶している。バップ・レコードからピストルズの初期デモ録音を収めた『ザ・ミニ・アルバム』が、徳間からザ・スターリンの解散ライヴを収めた2枚組が出た。パンク初心者であった私は、まだ999の存在を知らない。ニック・キャッシュがしんどい思いをしていたであろうなど、まるで知る由もなく毎日の学校生活を、翌年の大学受験をクソだと思うバカなガキであったのである。



[1] ‛Full Story by Nick Cash’ on“FEELIN’ ALRIGHT WITH THE CREW:UNOFFICIAL 999 SITE”
[2] 森脇美喜夫編『DOLL』、№85、(株)DOLL、1994年、69ページ、参照。
[3] ‛Full Story by Nick Cash’の中で、ニック・キャッシュとインタビュアーでもある語り手は、アメリカでのレコード売上は順調であったという意味に取れる文言を繰り返しているが、チャートの成績を見ると、成功したとはいいがたい。『ザ・ビガスト・プライズ・イン・スポート』はビルボード誌最高177位、『コンクリート』は同192位である。
[4] 999は81年6月1日、‟Cheggers Plays Pop”という番組に出演、「オブセスト」を口パクで演奏しているが、それは78年11月28日に『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』以来初の、イギリス・テレビ出演であった。
[5] Liner notes ,p.11 on “THE ALBUMS 1987-2007”.
[6] ‘Interview with Nick Cash of 999’ on “Boston Groupie News” ,April 12,2003.
[7] エンボス加工することで、経費がかさんだのではないか。なにせ自主製作盤であったのだから、とつまらぬことを考えてしまう。