ロンドンの宿命―ザ・クラッシュ
クラッシュか。高校・大学時代はしょっちゅう聴いていたのに、だんだんと遠ざかっていった。理由は一つだけではない。それをいちいち挙げていってもつまらない。
「もう、ラヴソングなんか歌っている場合ではない」
たしか、ジョー・ストラマーはこんなことを言っていたと思う。10代20代のときは何とも思っていなかった発言であった。それがいつしか、こう思うようになってしまった。
(なんでだ?パンクがラヴソング歌ってはいけないのか?歌ったってかまいやしないじゃないか。それが歌いたいことなら、やったっていい。やりたいことをやる。これがパンクの理念じゃないのか?)
もう一つ。これはもっと有名なセリフだろう。
「1977年にはエルヴィスもビートルズも、ローリング・ストーンズもいらない」
これも、最初に知ったときは、フーん、と思っただけだったが、やはり、自分の考えとは違うよな、と思うようになってきたのである。
(いいじゃねえか。俺ビートルズ好きだし。そういや『ロンドン・コーリング』のスリーヴって、エルヴィスのファーストとおんなじ構図だな。なんだかんだいって、あんたらも好きなんじゃないのか、とひねくれものの私は心の中でほざいたのであった)
私はクラッシュを聴かなくなっていった。最後に聴いたのは1年余り前。その前はいつだったか。かつて全オリジナル・アルバムを持っていたのに、『サンディニスタ!』も、『カット・ザ・クラップ』も、今は手元にない。去年発売40年とかで盛り上がった『コンバット・ロック』は、全く聴く気になれないでいる。世間で言われているほどの傑作ではないというのが私の意見である(クラッシュ・ファンに殴られるであろうか)。
今、手元にあるクラッシュのレコードは、セカンドに『ロンドン・コーリング』、『コンバット・ロック』だけである。一番有名な?ファーストは、学生時代にさんざ聴いて潰してしまい、CDを買い直した。もう20年近く前だが。そのCD、買ってからはほとんど数えるほどしか聴いていない。
矛盾しているようだが、アルバムを通して好きだと言えるものはないけれど、曲としてなら未だに好きなものは何曲かある。では一番好きなのは?と聞かれたら「ポリスとコソ泥」を挙げる。オリジナルではないと突っ込まれるだろう。でも仕方ないのだ。正直な意見だからだ。
「ポリスとコソ泥」は私にとって重要な曲ではある。この曲を知ったことで私はレゲエを聴くようになった。レゲエというジャンルがあるのは知っていたが、真剣に聴いたことはそれまでなかったのである。いわば私のレゲエ入門曲が「ポリスとコソ泥」なのである。
1987年の夏、クラッシュ主演の映画『ルード・ボーイ』が日本で公開された。当時の私は70年代パンクから80年代のハードコアまで、パンクと名の付くバンドはたいしてアタマも使わずにやみくもに?聴こうとしていた粗忽ものであったから、喜び勇んで新宿の映画館までわざわざ2回観に行った。映画の、冒頭からさほど経っていなかったろう、いきなり飛び出してきたのが「ポリスとコソ泥」であった
この映像。殆んどジョー・ストラマーのアップのみで、つまらんという向きもあるかもしれぬ。しかし私は今まで見た全クラッシュの映像で、これが一番好きである。曲がというのもあるが、ここでのストラマーは、イデオロギーとか信条とか関係なしに、汗と涎でべたべたになりながら、ギターをかきむしり、ひたすらがむしゃらに歌う。このがむしゃらさ。しょっちゅう見るのは辛いけれども、美しいと思う。そして、この姿勢こそロックであり、パンクだと思う。
さて、こう聞かれたら、何と答えようか。「お前の一番好きな、クラッシュのオリジナルは?」こうなると、ちょっと困る。末期の「ディス・イズ・イングランド」か。いや、違うな。好きではあるが、そんなに思い入れはない。「トミー・ガン」は?ああかっこいいね。けど、ときに暑苦しくて聴くのがしんどくなる。で、「ロンドン・コーリング」を挙げることにした。
クラッシュの歌詞の中で、一番今の私の心性―マンタリテと言った方がいいのか―に近い曲である。ここでのクラッシュは勇ましく銃を持ってどうこうしろとも、お前ら地獄に行っちまえとも、召集令状が来たぞとも歌わない。どうしようもなく糞な、自分たちの街ロンドンの日常を、どうしようもない日常を歌うだけである。その日常を、ロンドンに課せられた宿命として受け入れるしかないのだと歌うのである。calling. 高校生の時にこの曲を初めて聴いた時には、「ロンドンが呼んでるのか?なんでだ?」などど、間抜けなことをぼんやり思っていたのだが、大学に入ってマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、なるほどと思った。「コーリング」には、神から与えられた宿命とか使命とか、天職とかいう意味がある。よく召命とも訳される。曲の最後、ストラマーは「俺に笑いをくれないか」と歌う。これを皮肉ととるか。ストラマーの厭世ととるか。私は素直にとりたい。笑いがなければしんどくってたまらないではないか。ここでの笑いはふっとしたときに出る心がほぐれる瞬間であり、ほのかな温もりをくれる笑いである。馬鹿笑いだって大事だが、神経を切り刻むような日々の中での人は、そういう何気ない、さりげない笑いを必要とするものではなかろうか。ストラマーの「笑い」は、そんな笑いへの希求なのだと、私はとりたいのである。
しかし・・・・と複雑な心性は、素直でいることを回避する。「ロンドン・コーリング」はロンドンの心性を歌っているのであって、私のいる日本でのそれではない。どうしてもそこには距離という名の溝が生まれる。いや単にロンドンー東京という物理的な距離だけではない。そこから派生する、別の隔たりを、私は感じる。この曲でのクラッシュの、ストラマーのメッセンジャーとしての力量は一級だと思うが、かつて大塚久雄が小さきものと呼んだものへのまなざしが希薄なのである。少なくとも私にはそうである。簡単に、乱暴に言い直してしまうと、歌詞に出てくる語り手は、困難があってもそれを黙って決然と迷うことなく受け入れるのさ、お前らもそうしろ、そうすれば最後には笑顔が待っているのだと語っている(ように聴こえる)。しかし、人たるもの、そう簡単に割り切れるわけではないし、強くはなれない。受け入れることは受け入れるけれど、うだうだ嫌味、愚痴を言いたくなるし、言ってしまうものである。人は迷うのである。うろたえるのである。私はそういう心性を感じ取れる曲を愛してしまうのである。そして「ロンドン・コーリング」を素直に、手放しで楽しむことができないでいる。
「ロンドン・コーリング」の映像を少し探したが、気に入ったものが見つからないので有名なプロモ映像を貼り付ける。まだヴィデオが一般家庭に根付くか根付かないかという時期に、クラッシュの映像集が発売されて、そこにも入っていた。私は発売から数年経って、中古レコード店で500円でたたき売りされていたのを買って観た。このヴィデオはいつの間にか紛失してしまった(厳密にいえば、捨てられたのである)。
今、私は『ロンドン・コーリング』のアルバムを聴いている。今年初めて聴く。高校・大学と、さんざ聴いてノイズまみれになったレコードから聞こえてくる音。ノイズは否応なく「あの時から遠く隔たった今の私」を知らしめる。人の心は変わる。高校・大学時代に聴いた『ロンドン・コーリング』は今でもあるが、それを聴く私は、あの時の私ではないのだ。